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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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 哀歌~歴史の足あとと足おとⅠ


   縁というのは、有り難くうれしいもので
   今回は名古屋の教会に通っている人たちと
   一緒に回ることができるようになりました♪

   初対面の人たちと殉教地とか行って大丈夫なのかという
   心配憂いは投げ捨てて、何が待っているのか期待してレッツゴー★



笠松 善光寺


名古屋に着いてまず向かったのはJR西笠松駅。そこからレンタカーで善光寺に向かいます☆

旧い町特有のくねくねした路地で迷ってしまい、すぐ近くなのに30分弱かかって到着しました(ーー;)

細い参道の先に大きな堂宇。広い境内は参拝者用の駐車スペースになっていて、やや閑散とした雰囲気です。

かつてここには美濃郡代の陣屋がおかれ、敷地内に牢屋も設けられていました。1886(明治19)年に官有地であった斬首場の払い下げを受け境内35坪を拡張したので、殉教地跡でもあると考えられます。

大臼塚にあった石碑


キリシタンが入れられた牢屋跡の所には、処刑場である大臼塚から移されてきた供養塔が建っています。

標柱には「かくれキリシタンの処刑場(木曽川の河川敷)に建ててあった石碑」と書かれています。案内標柱を建ててくれるのは有難いことなのですが、文言の間違いが気になります(>_<)

「かくれキリシタン」というのは信仰を隠して(棄教したふりをして)生き延びた信徒のこと。殉教した人たちは信仰を否まなかったからこそ処刑されたのだから、「かくれ」を付けちゃ失礼です。

もちろん亡くなった信徒たちはそんなこと気にはしないでしょうけどね。自分たちを斬る役人さえも赦して、苦しみを天への捧げ物とした人たちなのだから。


善光寺本堂

大臼塚にあった石碑

標柱

境内

大臼塚跡


木曽川の畔を行きつ戻りつし、こちらも近いのに約30分かかって到着;;

ここが大臼塚の跡です。

現在はパター・ゴルフ用の広場になっています。

のどかで平和な雰囲気。隣には小さなグランドがあって、少年野球の試合が行われていました。ここがキリシタンの処刑場だったなんて、標柱を見なければ誰も想像しないと思います。それだけに史跡として標柱を建ててくれたことには感謝・・・なのですが、やっぱり「かくれキリシタン」と書かれています。

「かくれキリシタン」という言葉が人口に膾炙していて、通りがいいってことですかねぇ。。何かミステリアスな響きがあるとか? いやいやそんなことより正しく書く方がいいと思うんですが、ね d(ー.ー )

大臼塚で殉教したキリシタン


美濃代官領に含まれていた塩村(現在の可児市塩)から大量のキリシタンが検挙されたのは、寛文年間のこと。「濃尾崩れ」とよばれる事件(「崩れ」とは信徒の組織が破壊されること)です。美濃国と尾張国の隣接地帯で千人以上の者が逮捕され牢に入れられました。

これらの人々を処刑してしまえば人口が減り、石高に響くので、牢では棄教を勧める説得と拷問が行われ、それで命を落とす者もいました。そんな状況下で、家族のために棄教した者、心の中だけで信仰を持っていこうと決心した者もいたことでしょう。

しかしそれでも棄教を拒み、主への信仰を全うした者たちがいました。彼らが殉教したのが大臼塚です。「大臼」はキリシタン時代の神の呼び名「だいうす(でうす)」に由来し、処刑された遺体が埋められたので、「塚」となったのです。

標柱には「元禄十年(1697年)には、三十人余りのかくれキリシタンがここで処刑された」とありますが、濃尾崩れの時期から換算して、それより30年ほど前に処刑が行われたと考えるのが妥当です。いずれにせよ塩村の信徒が街道を引き回されて善光寺にあった牢に至り、棄教を拒んで河原に連れて来られ、最後まで主を信じて肉体を生を終えたことだけは確かです。今は風光明媚な河川敷だけど・・・。


大臼塚跡

大臼塚跡

大臼塚跡

大臼塚跡

 今日の同行者と合流♪

大垣城跡


ちょうどお昼になったので、ランチの場所で待ち合わせをして、岐阜にいる4人のクリスチャンと合流♪ 

初対面で緊張するかと思いきや、意外と大丈夫(なのはお気楽な私だけ?)で話が弾みます。信仰は人と人とをつなぐ絆でもあるのかと☆

まずは大垣城跡へ向い散策を。天気もよくてピクニック日和ですヽ(‘ ∇‘ )ノ

大垣城


大垣城跡の公園には復元された天守と戸田氏鉄の像が。この戸田氏鉄は徳川家光の家臣で島原の乱にも参戦した人ですが、その前の城主石川康通はキリシタンでした。つまり私たちのとっては先輩! 思わずテンションが上がります♪

大垣城主 フランシスコ石川康通


石川康通は1554(天文23)年生まれ。父の跡を継ぐ形で1580(天正8)年に掛川城主(静岡県掛川市)となりました。千葉の鳴海城主を経て、1601(慶長6)年関ヶ原の戦いの論功恩賞で大垣5万石の城主として入城しました。

1607(慶長12)年に亡くなるのですが、日本の2つの史料に「晩年になってキリスト教を奉じた」と書かれています。またイエズス会年報には「大垣藩にはキリシタン家臣が多かった」とあります。

この時期は徳川幕府によるキリスト教禁令がまだ出されておらず、家康はキリスト教を嫌ってはいるけれど、交易の利を勘案して禁教に踏み切るまではしないのではないかという楽観論が広がっていました。

洗礼名フランシスコを受けた石川康通がどんな人だったのか、残る史料が少ないので知る術がありませんが、禁教令とそれに伴う迫害の嵐が吹き荒れる前のわずかな期間に、キリシタン家臣と共に天国を思うことができた幸せな城主の一人だったということができるのではないでしょうか。


戸田氏鉄像


石垣

解説板

日本基督教団大垣教会


大垣城跡から一気に可児へと向おうと車に乗って走っていると、前方に十字架を発見。

立派な教会があったのでカメラに収めて参りました☆

日本基督教団の大垣教会です。昔キリシタンがいた所に今も教会があるというのはうれしいことですねヾ(@⌒▽⌒@)ノ


大垣教会

教会学校案内

教会案内

 可児のキリシタン史跡めぐり☆

甘露寺


大垣から東にひた走り、1時間ほどで可児(かに)へと到着☆

可児市の中でも更に田舎にあるのが塩で、昔は塩村と呼ばれていました。この塩村と近くの帷子村がキリシタンが大量検挙された所です。

車道から、「入っていっていいのかな?」と不安になるような小道(たぶん私道)を進むと見えてくるのが甘露寺。ここにはキリシタン迫害時代を髣髴とさせる遺物が残されています。

硯石


それが「硯石」。境内にでん、と置かれていて見逃すことはなさそう。

可児市教育委員会が設置した解説板まであって、これを読むだけでも十分な理解が得られます。

簡単にいうと、「キリシタンを取調べる際に役人が硯代わりに使った石」です。上部に穿ったであろう穴は今ではよく確認できません。でもこの石が残されていること自体に意味があると思います。石を前にして当時を思い目をつぶると、キリシタン改めをしていた役人の物々しい様子、自分の順番を待ちながら信仰を明らかにするか逡巡する信徒の姿が浮かんできます・・・。

「さすり仏」


境内にはキリシタンが大切にしていたといわれる「さすり仏」もあります(たぶん下の写真の一番右がそれかと)。昔はかすかに十字架が浮かんでいたらしいですが、今では「よくさすられたであろう石仏」といった感じ。

しかしどことなく、そう思うからそう感じるのかもしれませんが、私の持っている信仰と通じる何かが込められているように感じます。この「さすられた」感こそが、言うに言われぬ思いを持って信徒たちが込めた願いの表れなのではないでしょうか。


硯石

解説

硯石

さすり仏

寺の東側


甘露寺の東約2反分は昔切支丹屋敷という家があった所。

「転びキリシタンの子孫で7歳以下の者を小屋掛けして養育した」とものの本には書かれているけれど、「殉教者の子孫」の間違いではないでしょうか?

殉教者の子供には育てる親がなく、キリシタン宗の影響を取り除く必要があったので、小屋掛け(子供たちを集めて一つの家に入れて養育)したのではないかと思います。彼らを仏教徒にする教育的観点から、切支丹屋敷の隣に甘露寺が移されてきたのですから。

切支丹屋敷にいた子供たち


今では甘露寺のみが残っているので、昔その隣に切支丹屋敷があったといわれると、甘露寺の隣に切支丹屋敷が造られたように勘違いしてしまいそうになりますが、実際の順序は逆で、切支丹屋敷の隣に、必要性があって甘露寺が庵之洞という所から移動してきたのです。その目的は改宗、親の影響を受けた宗教観の排除と再教育のためと考えるべきでしょう。

もし切支丹屋敷にいたのが「転びキリシタンの子孫」であるなら、親の代で転んで(棄教して)いるのだから、再教育する必要もなく、親もいるので小屋掛けして村で育てなければならない理由がありません。「殉教者の子孫」が結局「転びキリシタン」になったので、「転びキリシタンの子孫」を養育した家という風に間違って端折られてしまったのではないでしょうか。

「転びキリシタンの子孫」と「殉教者の子孫」とでは大違いなので、訂正して認識を正しくしてもらえませんかと思ってしまうのですが...「(´へ`;ウーム

殉教の村の善意と工夫


しかし殉教者が村からいなくなったので、村ではそのようにして善後策を講じたのでしょう。子供たちを憐れんで生かそうとした村人の善意と苦心、工夫がしのばれ、私が感謝するのも変かもしれませんが、有り難く思います。

当地に移ってきた甘露寺は転びキリシタンの檀那寺(信徒として登録される寺)となりました。幕府により全国に施行された寺請け制度によって、すべての国民はお寺の檀家(信徒)とならなければ、生活していくことができなくなったのです。ここは小さな村ですが、殉教の村の悲哀が濃く煮詰まっているように感じられます。


寺の東側

東側の辺り

甘露寺

近くの道路

向田河原切支丹塚


車で10分もかからずに、向田河原切支丹塚の跡に到着。カトリック名古屋教区殉教者顕彰委員会から去年出された「あかしする信仰」という本のおかげです☆

殉教地の現在のどこに当たるのかを調べ、現場に足を運んで状況を見てくるという作業は、遠隔地に住んでいる者には不可能なので、この本の情報に頼ること大なのです。

またこの本を読んだからからこそ、名古屋に巡礼に行こうという気持ちが具体的なものになっていったことも事実です。誰かが使命感を持って調べてくれたことが、他の人の心に火をつけて動かすようになるのだから、私もまたそのようにしていかなければなりませんね (・ω・)ノ

さてこちらは、キリシタンを斬刑に処して穴に埋めた所。現在は水田になっていて、トラクターが単調な低音を響かせています。当時をしのばせるものなど一つもない牧歌的な光景ですが、水田を見つめていたら、ふと心に浮かんでくるものがありました。

信徒たちは最期に主の名を呼んだのではないかという、本当に小さな霊感のようなもの。何の根拠も史料的裏付けもありませんが。


向田河原切支丹塚

向田河原切支丹塚

向田河原切支丹塚

向田河原切支丹塚

大の字処刑場跡


向田河原切支丹塚からほど近い場所にあるのが、大の字処刑場跡。現在は工場になっていて、刑場跡はこの入口付近と考えられます。

ここが昔「岡田場(おかたば)」とか「墨田」と呼ばれた坂戸の刑場跡で、甘露寺で見た硯石はこの周囲にあって、使われたはずです。

キリシタン衆徒をこの地に引き連れ、両手両足を大の字に広げさせ、竹で叩く足で蹴る等の拷問を加えた所だとされています。役人が行った「取調べ」とは、単に信徒であるかどうかを尋ねたというような紳士的なものではなく、実際は棄教させるための拷問だったということです。


大の字処刑場跡

大の字処刑場跡

大の字処刑場跡

大の字処刑場跡

 中山道みたけ館へ!

中山道みたけ館


続いて中山道みたけ館へ! 御嵩(みたけ)は中山道の宿場として栄えた町。みたけ館のある通りには古い商家の面影が残っています。

思っていたより新しく立派な建物のみたけ館 (*゜。゜)ホー!

1階の図書館をスルーして、2階の常設展示の大部分をスルーしまくって、キリシタン遺物のコーナーへ♪


みたけ館

宿場町の面影

宿場町の面影

みたけ館

キリシタン遺物


館内は撮影禁止なので購入したパンフの写真(←)しかないのですが、キリシタン遺物の数々がガラスケースに収められて、整然と展示されています☆

御影石に十字を陽刻した物からは真っ直ぐな信仰が伝わってきます。木のほぞ(小さな隙間)に隠されていた手彫りのマリア像は、稚拙だけれど親しみ深い印象。

信徒らが隠し持ち、祈りの際に使用していたであろう石の聖像は表面が摩滅して光っていて、今もこれを握り締めていた信徒の体温が中に残っているかのよう。なんとも美しいものを見せてもらったことだと、幸せをかみしめました (●⌒∇⌒●) ♪

キリシタン遺物のパンフレット作ってくださいまし!


惜しむらくはキリシタン遺物がすべて掲載されたパンフレット類がないこと。資料館のパンフには見開き1ページ分の物しか載ってないし;; コピー代を払って複写させてもらった解説用紙にも最低限のことしか書かれおらず、物足りなさMAX。

その上・・・書くかどうか迷いましたけど、解説文に基本的な間違いが多すぎます。「殉教者」を「殉職者」としてしまっているのとかは、ちょっと耐えられません(>_<") どなたかキリスト教関係の人に解説文の校正をしてもらってはどうでしょう? 

誰か歴史に詳しい人が調べて書いているのかもしれませんが、やはりキリスト教ならではの信仰に基づく知識があるので、それを無視して解説することは到底無理なのだと思います。

ただし、ちゃんとした解説とパンフができれば、もっと「キリシタン」をアピールして町おこしの目玉とすることは十分可能だと思います。是非ご検討をプリーズです <(_ _)>


パンフレット

キリシタンについて

キリシタン遺物

発見された遺物

キリシタン遺物

キリシタン遺物について

白黒の写真

中山道?


ではキリシタン遺物が実際に見つかった謡坂(うとうざか)に行ってみようと車を走らせましたが、行けば行くほど山の中に。

「中山道でもこれじゃあ、昔は女子供は旅なんてできなかったはずですねー」「そうだねぇ」なんて話してましたが、中山道ではなく、迷い込んだ山道でした;;

地元の人に訊いて元の道にカムバックを果たし、ひと安心。しかし素朴な田舎の風景と鳥の歌声を聴けて良かったです♪ こんな自然の美しい小さな村にキリシタンがいて、祈りながら生活をしてたんだなぁヾ(´▽`*)ゝ

謡坂


謡坂は中山道の坂道で、近年になって石畳に舗装されなおされた観光スポット。写真を撮るにはいい感じです☆

この登り口に右手にある木村家が、キリシタン遺物が発見された家で・・・と、話しながら車を降りると、もう1台の車から既に降りていた同行者が、木村家の誰かと話しているではありませんか!?

「何か訊いたの?」「はい、マリアの里の行き方訊いたんです♪」「この家、キリシタン遺物が出てきた家だと思うんだけど・・・」「ええっ?」

道を訊いた家人も家に入ってしまったということなので、とりあえずマリアの里を目指しますが、すごいなと思ったのは彼女の社交力。「こんにちはー」と言いながら、初対面の人の心を開けさせてしまう笑顔です。人にはいろんな力があり、それを互いに有益に使うよう神様は御心をおいてくださってるんだろうなと思いました (゜∇^d)

マリアの里


ほどなく到着、マリアの里☆

道路の拡張工事の際、七御前という古い墓地からキリシタン遺物が発見されたので、それを記念してマリア像が建てられました。

地元の人たちによって、記念碑と鐘、織部灯籠が置かれ、全体を「マリアの里」としています。

記念碑もいいですが、その前で祈る女性たち(今日の同行者)の姿がもっと美しく見えました。素晴らしいですよね、信仰を持って生きているって (^_^)


マリアの里

記念碑

解説板

織部灯籠

七御前遺跡


マリアの里記念碑のちょうど裏手にあるのが、七御前遺跡。昔の墓地だそうです。

本来ならこちらがメインになるべきでしょうが、背後に控えているのがかえって心地よさそうに見えました♪

ここから発見されたキリシタン遺物――。一体誰がどんな思いで埋めていったんだろう?


 神様のプログラムヽ( ´ ▽ ` )ノ

謡坂に戻って・・・


謡坂に戻って、笑顔の素晴らしい彼女に頼んでみました。

「ねぇ、負担にならなければでいいんだけど、木村さん家の人にキリシタン遺物のこと訊いてみてくれない?」「はーい♪」

全然負担にならなかったらしく、玄関のチャイムを鳴らしリビングにいた子供に手を振る彼女。

やっぱすごい。私にはできん。人の懐にすっと入っていくことなんぞ・・・と思いながら見守っていると、子供がお祖母さんを、お祖母さんが一家の主人である自分の息子を呼んでくれ、あれよあれよという間に木村家のご当主から直接キリシタン遺物発見の経緯を聞けることになりました! ハレルヤ~\(^-^)/

キリシタン遺物が出てきた井戸端


みたけ館でキリシタン遺物を見てきたと言うと、「あれ、うちの井戸端から出てきたんだよ。(家の裏手の方を指しながら)うちの井戸は見た?」と訊かれました。見ていません・・・っていうか、人様の家の裏庭にある井戸なんて勝手に入っていって見ちゃいけませんよね?みたいな (;^_^A

「じゃあ見せてあげよう」という感動をご当主がおぼえてくれたみたいで、井戸に案内してくれました。解説板もあります。少し前にNHKが取材に来たそうで、そのため話がまとまっていてわかりやすく、井戸端も整えられたようです。つまり私たちが訪れたタイミングはとても良かったということで。自分たちでタイミングを計って行ったわけではないので、これまたハレルヤです☆

みたけ館で見た十字架陽刻された御影石は、井戸の後ろの「水神碑」のある洞穴から布にくるまれて出てきた物だということでした。あの石を飽かずに眺めた私にとっては「あ、あれが!?」って感じ。井戸に水を汲みに来るたびに、「水神碑」に向い頭を下げて、その後ろの十字架を拝んでいたのだろうということでした。

その他いろいろと半時間ほども話してくださって、この家に伝えられてきた不思議な慣わしや他のキリシタン遺物の発見の経緯なども教えてもらいました。これはどんな本にも書かれていない(たぶん)貴重なお話です。歴史は人を通して伝えられ、今も生きているのだなと感じました。

話をしてくださったご当主に、またその後ろで働きかけてくださった主に、ほんとに感謝です。今日のすべてが神様のプログラムだったような気がしてなりませんヽ(゜▽゜*)乂(*゜▽゜)ノ♪


井戸端

解説板

水神碑

井戸


         あなたがたは何を見に出てきたのか


      「あなたがたは、何を見に荒野に出てきたのか。
       風に揺らぐ葦であるか。(中略) 柔らかい着物をまとった人か。(中略)
       では、なんのために出てきたのか。預言者を見るためか。
       そうだ、あなたがたに言うが、預言者以上の者である」(マタイによる福音書)

       今回私は何を見にここに出てきたんだろう。
       移りゆく世の、形ある何かを見たくて来たんじゃない。
       癒しだのパワースポットだの、そういうご利益を求めて来たわけでもない。

       では何を――? 歴史を。歴史を見たくて来ました。
       だから今日岐阜の4人と合流して回れたことは、まことにふさわしく幸いな導きでした。
       過去から現在、未来へと続く歴史を実感する旅になりますように <(゜ー^)ノ゜☆。




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