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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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 哀歌~歴史の足あとと足おとⅡ


 日曜をはさんで今日は月曜祝日☆
 昨日の礼拝で「動画の部屋」にアップしている映像を見てもらったら
 巡礼に同行したいと言ってくれる人が多くいました。

 ま、そう言っても「いつか」って感じだろうなと思っていたら・・・
 なんと15人もの人が一緒に行くことに (*゜ロ゜)ノビックリ
 という訳で、今日はレンタカー3台を含む車5台でレッツゴー♪


五条橋


まずは清洲城へ。ここで他の車の人たちと待ち合わせです☆ そぼ降る雨はさびしげですが、涼しい風が気持ちを引き締めてくれるようです。

名古屋はもともと清洲の街をまるごと引っ越しさせて出来た街。だからここは名古屋の原型なのです。歴史巡礼スタートにはもってこいの場所かもしれませんね♪

清洲城

解説

石垣

石垣について

清洲城


五条橋を渡ると堂々たる天守が。清洲城です☆

信長が岐阜城に移るまでの約10年間を過ごした城で、ここから桶狭間の戦いなどに向かいました。

また信長と家康が同盟を結んだ清洲同盟も、本能寺で信長が斃れた後に行われた清洲会議もこの城が舞台となりました。信長だけでなく多くの武将や家臣が出入りしていたわけで・・・。なんかすごいなぁ (・0・。)

清洲とキリシタン


尾張でのキリスト教の歴史は、花正(現在のあま市美和町)に帰郷したコンスタンティノに始まります。コンスタンティノは600人以上に洗礼を施しましたが、彼が亡くなると信徒は花正を離れ清洲に移ってきました。ちょうど信長が清洲城に入り、街に活気があふれてきた頃で、新しい教えを奉じる者たちにとっては暮しやすい環境があったのでしょう。

1580年代初頭からは清洲城下の武士と町人にキリシタンが増え始めました。イエズス会のセスペデス神父と日本人パウロ修道士が布教活動をしていました。後に殉教し、26聖人となった者のうち5名が尾張出身なのですが、彼らは清洲の武士層、町人層ではなかったかと考えられています。

信長が宣教師と交流しキリスト教を認めていたので、その子や孫、家族には受洗した者もいるのですが、そのうちの一人織田信雄(のぶかつ)はキリシタン大名としてこの城に居城しました。

なので城内には礼拝所、城下には天主堂(教会)があったのではないかと思うのですが、どこにあったのかわかっていません。その後の禁教令で跡形もなく破却され、記憶さえも抹殺されてしまったのでしょうね。


 それでは早速殉教地めぐりへ・・・!

端正寺


同行者たちと簡単に挨拶を済ませ、配車を決めてもらいました。私は他の車に移ることに。今日は夫婦バラ売りです(その言い方やめえと夫には言われるw)。

それでは早速殉教地めぐりへ! 尾張に福音が入った経緯を熱く話しているうちに、端正寺に到着。キリシタン殉教者が最後に立ち寄った場所です。

供養塔


清洲の栄光から一転、徳川の世になると禁教令が徹底され、信徒たちは弾圧の対象となりました。

尾張藩の各地で捕らえられたキリシタンは棄教するよう責められ、しなければ処刑されました。藩では罪人を刑場に行かせる前に、御慈悲としてお寺参りをさせたのですが、それがここだったのです。

キリシタンたちは主を思い祈ったことでしょう。境内にどんと建てられた供養碑は、役人が罪人を斬った刀を洗った池の跡に建てられたもの。信徒たちの血も地下深くに染みているかもしれません。


端正寺

解説板

供養碑

由来書き

尾張藩土器野刑罰場跡


住宅街の入り組んだ路地を通って墓地に。線路脇にあるここが尾張藩の土器野(かわらけの)刑罰場跡です。

藩の刑罰場がこんなに狭かったはずがないので、ここを含む周囲全体に広がっていたと考えられます。

千本松原(現在栄国寺が建っている所)からこちらへと刑罰場の場所を移したのは藩主光友の時。1665(寛文6)年です。島原の乱も終わって30年近く経つこの頃は全国的にはもうキリシタンがほとんどいなくなり、迫害も終息しつつありましたが、尾張藩では信徒の大量検挙が発生しています。

だからここで処刑された者たちの中には信徒も含まれていたのではないかと、私は思います。


土器野刑罰場跡

土器野刑罰場跡

観音禅寺


続いて、少し車を走らせて江南市へ。観音禅寺へとやって参りました。

この寺は、キリシタンだったけれども棄教して自刃した前野将右衛門長康ら前野家の菩提寺。

前野長康(まえの・ながやす)は秀吉が信長に仕えていた頃からの最古参の家臣。墨俣一夜城築城に協力し、聚楽第造営の奉行を務めました。

秀次事件と前野長康


しかし、秀吉に言われて秀次の家老となったのに、秀次が謀反の罪を着せられると、長康も秀次を弁護したことから連座して罪を問われて自害を命じられました。要するに後継者問題です。

秀吉に子供がなかったため、姉の子である秀次を養子に迎えて後継者としたのですが、後になって秀頼が出来たので、わが子可愛さのあまり秀次を疎んじ、罪を着せて自害に追いやったのです。

そのとばっちりを受ける形で自害することとなった前野長康ですが、自殺したのでそれまでにキリシタンはやめていたのだろうと言われています。キリスト教では自ら命を絶つことを固く禁じているからです。ただ・・・、前野長康が心の中で何を思い信じていたかは、神様だけがご存知なのだと思います。


観音禅寺

前田家の菩提寺

境内の仏像

供養塔

キリシタン道


観音禅寺の脇の道はキリシタン道と呼ばれる小道。捕縛されたキリシタンがこの道を引き立てられて行ったと伝えられています。

彼らは前野家の5名のキリシタンで、千本松原で殉教した信徒のうち、唯一名前がわかっている者たちです。

前野長康は棄教したとされており、自害もしましたが、それでも心の中ではキリスト教を信じていたのではないでしょうか。そうでなければ、どうしてその子孫が殉教するまでの信仰を持ち得たのか、説明することが難しいからです。

1名でもなく5名というのは、家族単位で信仰を持ち伝えてきた証左だと考えることができると思います。


前野家屋敷跡


少し行った所にには、前野長康とその子孫(殉教者を含む)が暮していた屋敷の跡があり、なんと現在も御子孫の方々が生活していらっしゃいます。苗字は前野さんから吉田さんに変わってますが (゜0゜*)ホー

謀反人に連座する形で自害した前野長康ですが、その後前野家は許されて、この地域の庄屋を務めることになりました。しかしキリシタンを出した家ということで監視の目は厳しかったようで、「当家ハ切支丹ニ非ズ」と書いた石が家の前に置かれていたのだとか。現在その石は置かれていませんが、そのように宣言しなくては家を存続させていくことができなかったということでしょうね。

前野家文書「武功夜話」


前野家については、もう一つ欠かせないトピックがあります。それが前野家文書(もんじょ)とも呼ばれる「武功夜話(ぶこうやわ)」。江南地方の戦国武将の動向について、他の史料にはない詳細な記述がなされています。

例えば信長には正室帰蝶(斎藤道三の娘)を迎える前に生駒屋敷に住む吉乃という妻がいた、蜂須賀小六ら川並衆が活躍して信長、秀吉の天下取りに貢献した等です。

前野長康や編者の千代(千本松原で殉教した女性)ら前野一族がキリシタンだったことから、人目につかないよう伝えられたとされ、これを偽書だとする歴史家もいますが、NHKの番組で歴史考証をしている小和田哲男氏は原本調査をした上で、「偽書ではなく有用である」と述べています。

前野家はキリスト教を信奉したことによって出世街道を外された、いわば敗者。しかし敗者側から見た生の歴史がその悔しさと共に記録されることによって、正史によって黙殺されてきた史実が照らし出されることもあるのではないでしょうか。「武功夜話」は敗者側から見たもう一つの戦国史と言うことができようかと思います。


前野家屋敷跡

前野家屋敷跡

解説碑

解説板

 小雨の中キリシタン処刑地を

柏森・専修院


「武功夜話」とその口述筆記者とされる千代(キリシタンなんですよー!)についてもう少し話したいところですが、雨足も強くなってきたので次なる目的地へ☆

柏森にある専修院です。随分立派なお寺ですね ( ̄o ̄)オー

山門は犬山城から移築されたものだそうで、風格があります。

切込地があった辺り


この寺は寛永年間および1667年のキリシタン殉教地とされています。

本堂前の広場の西端、こちらのお墓の前辺りにキリシタン切込地(きりこみち)がありました。

切込地とは大きな穴を掘り、穴の周りで信徒の首を斬って、体ごと中に落とし込んだ場所のこと。今ではきれいな平地になっていますけれど。


解説板

門の解説

本堂

石仏

斎藤・正覚寺


続いて斎藤(さいと)にある正覚寺へ。こちらも切込地があったお寺です。

境内の一隅に大きな穴を掘り、斬首して遺体を落とし込んだということですが、境内のどの場所で誰がそうされたのかはわかっていません。


斎藤・正覚寺

地蔵尊

円空仏がある

境内

折橋・薬師堂跡


そして正覚寺の隣地にあたり、現在斎藤公民館となっている所が折橋 薬師堂の跡。こちらも切込地だったと伝えられています。

殉教地だなんて大きな声で言うと近所の人にお叱りを受けそうですが・・・(ーー;)

近くに住宅もあるので讃美してお祈りってわけにはいきませんが、しばし瞑目してお祈り。信仰の先輩たちが命を捧げた場所なのです。

小休止♪


さて怒涛の殉教地めぐりは始まったばかりで、ここから更に突っ走ろうとしていますが、お昼になったので巨大スーパーにて昼食&休憩をば d(゜ー゜*)イオンハッケンー♪

お弁当をパクつきながら殉教の現代的な意味について考えます。過去にキリシタンが殉教したことが現在を生きる我々にどんな影響を与えるのかということです。

殉教の意味を考えながら・・・


まず一つには、「義」ということがあります。「義」とは先祖が行った良き事で、天におけるお金のようなものだと考えられています。あ、信仰の世界では、ですが。だから先祖の「義」が覚えられ、その子孫が祝福されるわけです。仏教では自分が前世や現世で行ったことの報いを、現世や来世で受けることを因果応報といいますが、それと同じ理屈です。

しかしもう一つの側面としては、「罪」があります。「罪」もまたその報いを受けるべきものとされています。聖書を見ると親や先祖が行ったことの「義」や「罪」が子孫に降りかかるのを数多く見ることができます。簡単に言うと、歴史の中での大きな因果応報です。

ならば現代に生きるクリスチャンである私たちは、信仰的には殉教者の「義」の価を受け、肉体的には迫害者の「罪」を負っているのではあるまいか。相続においてイイトコ取りできないことが法律でも定まっているように、民族や地域の歴史においてもまた、イイトコだけもらって、後は知らんぷりなんてことはできないのだろうと思います。

そういった意味で私たちは歴史の分岐点に立っているのだ――。ここでどう考え、生きていくかによって、これからの未来に何を残すかが変わっていくという分岐点に立たされているのだということができます。

だから「罪」を悔い改め、祝福を受け継ぐにふさわしい者になることが、現代的な意味であり歴史的な意義であると考えます。つまり今回巡礼することによって過去を知り、「罪」を悔い改めるなら、それによってクリアになったところに、天に蓄えられた祝福を注いでもらうことができるのではないでしょうか。

そしてそれができたなら、これほど大きなことがなく、この歴史を勝利で飾ることとなるのではないかと。ちょっと難しい書き方になってしまって恐縮ですが・・・ヾ(@⌒▽⌒@)ノアハッ


 午後も回ります!

顕宝寺


イオンのパーキングに車を置いて、道をはさんだ所にある顕宝寺へ☆

今日はここまでで帰る一家(赤ちゃん連れで参加してくれたのです♪)がいるので、気分良く帰路についてもらいところですが・・・こちらも殉教地です;;

境内南の広場がキリシタン処刑地だったはずですが、えっと南はどっちだろう?

顕宝寺境内


 ・・・!

境内の南側には言葉を失うような光景が。お墓に似た土盛りに、墓碑のような木標が建てられていて、昔ベトナムで見た無名戦死者の墓地のよう・・・。

これは私の想像なのですが、この場所から誰のものかもわからない骨が大量に出て来て、彼らを供養するためにこのようにしたのではないでしょうか。

キリシタンと所成敗


だとすればキリシタンの遺骨もこの中の一部か大部分かを占めているのだと思います。藩の刑罰場があるにも関わらず地元のお寺などでキリシタンの処刑されたのには理由があります。「見せしめのため」です。当時ご禁制キリスト教は、一家ぐるみで信仰を守ることがほとんどでした。そして信徒らは互いに助け合う便宜上、近くに住むことが多かったのです。

なのでキリシタン逮捕者が出た村には他にも信徒がいる可能性が高く、彼らを大人しくさせるためにその地域で「見せしめのため」の処刑をしたわけです。

これを「所成敗(ところせいばい)」といいます。江南市と丹羽郡に10ヶ所以上見つかるこのようなキリシタン切込地は、それだけ信徒が多かったことを物語っています。

さっきやんだかと思ったら又すぐに降り始めた雨。キリシタン迫害の雨もこのように何度も何度も降りかかり、信徒の命を刈り取っていったのかもしれません。


顕宝寺

寺宝

境内

南側の広場

地蔵畑


続いて小渕の、とある畑地に参りました。ここは昔「地蔵畑」と呼ばれていた場所で、やはりキリシタン処刑地跡です。

所有者の方がいて農業をなさっているようなので、少し離れた所に車を停めて写真だけ撮りに来ました。

現在の持ち主さんがいると、なかなか気が引けるものです。処刑地だなんて聞くと嫌がる人がほとんどだから。

ただキリシタンに関しては、この世や処刑する役人を恨んで死んでいったわけではないので、本当は「愛を遺して」死んでいったと思ってほしいんですけどね。キリシタンと彼らの信仰への理解がないと、そう受け取ってもらうのは難しいかもしれませんけど…c(゜^ ゜ ;)


地蔵畑

地蔵畑

小渕・薬師寺


少しだけ走って今度は薬師寺へ。場所がわからなくなって道を尋ねたおばあさんには「もう誰もおらんよ」と怪訝そうに言われました。

今では無住となっているこの草ぼうぼうのお寺に、何台も車を連ねて来るっていうのは確かに珍しいだろうし、変に思われても仕方ないでしょうね。

ブチワリ不動


しかしここも是非とも来たかった場所の一つ。ここは殉教地ではないのですが、キリシタンに関連する遺物があるのです。

それがこの「ブチワリ不動(石割不動とも)」。キリストをかたどったものだとされ、首と胴の所で割られています。

小堂(祠)にある舟形地蔵尊(バックが舟のような形になっているお地蔵さん)は、元々先ほどの地蔵畑にあったものだとか。

それで「地蔵畑」と呼ばれていたんですね。後ろの銘まで確認しなかったのですが、キリシタン処刑直後の年号が刻まれたものもあるようで、供養塔ではないかと考えられています。やはり所成敗というのは地域の住民に大きな衝撃を与え、供養碑でも建てなければいられないような思いにさせたのではないでしょうか。


石造物

石造物

ブチワリ不動

小堂

 キリシタンの教会跡ヽ(・ o ・)ノ

長泉塚古墳


さて今度はキリシタン時代に教会があったとされる場所にゴー☆ 長泉塚古墳です。ここには昔「長泉院」と呼ばれるキリシタンの教会(伝道所のようなもの)があったと伝えられています。教会は破却され、ここでキリシタンが処刑されたとも言われていますが、古墳が発見されたおかげで遺跡として保護され、教会の名前も一部残っていることが有難いです。

小ぶりながら形の整った円墳の上に、すっくと空に伸びた木々を仰いだら、ここで祈っていた信徒たちの姿が重なって見えました。何にも遮られることのない主への思いを持って、彼らの霊魂は天に昇っていったのではないかと――。

やっぱここでは記念撮影でしょ、ということでハイチーズ♪(って、今どき言わない?)


長泉塚古墳

長泉塚古墳

長泉塚古墳

解説碑

工場の間に空き地が・・・


次も必ず行きたい所ではあるけれど、ちょっと難しそうだなと半分諦めつつ車を走らせてましたが・・・、見つかりました!

乱法(ランポウ)山と呼ばれるキリシタン屋敷跡です☆

工場と工場の隙間のような小道を、「入ってっていいのかなー」と躊躇しながら進むと急に現れる感じです。来られたこと自体に感謝しなければならない難易度ですからハレルヤですO(≧▽≦)Oアリガトー

乱法山


乱法山についても詳しいことは何もわかっていません。

キリシタンの屋敷があった所だということだけです。

3体ずつ向かい合わせになった舟形地蔵尊とその間に置かれた蓮華座みたいな台。供養のための儀式でも行うのか、それともこの配置自体が供養を表しているのか?

乱法山のキリシタン一家


大きく枝を広げたどんぐりの木が一軒の家のようで、その下で暮していたであろう家族を思い起こさせます。穏やかな日々、子供たちの笑い声・・・。だけどやっぱり悲しみの歌が聞こえてきます。一家の平和を踏みにじる役人たちの荒々しい足、庭先に引き出された家族。最初に首を斬られたのは誰――?

あるいはこの巨樹の下にキリシタン一家の何かが埋められているのではないでしょうか。信じる宗教こそ違えど一家を悪く思わなかった仏僧が、哀れに思ってこの伽藍のような空間を築いたように感じます。

その配置でいえばこの木の根元こそが供養されるべき場所に当たります。今となっては何もわからないけれど・・・。それでも土地開発の波が押し寄せたこの地域で、工場用地に囲まれながらも、この場所だけがサンクチュアリのように残されているところが、いわくありげです。

昔何かがあった場所って、無闇に触ると祟られるけど、大切にすればいいことがあるとか、よく言われたりするんですが、ここもそういう感じでしょうかね? そう言われていてもおかしくないですが、彼らが天国に行ったならこの世の苦しみはもう終わったのだから、恐がらなくてもいいと思いますd(^-^)


乱法山

乱法山

乱法山

乱法山

 小牧市へ参ります♪

岩崎山 観音寺


午後になって大分時間が経ったので、そろそろ名古屋に向かうことを考えなければなりません。

さっき乱法山に向かいながら気づいたのですが、大事な殉教地1ヵ所行き損ねました…llllll(-_-;)llllll

1667年にキリシタン95人が殉教した場所で神社になってるみたいなんですが、既に遠くなってしまっていたので言い出せませんでした。あーでも、後悔が。もう小牧に向かい始めたからもっと言い出せなくなり涙を飲みます(/_<。)アウー

そんなことを思っているうちに、小牧市にある岩崎山に到着。メインは観音寺というお寺みたいですが、山全体が信仰の山っぽく整備されています。5つの巨石がにょきっとそびえてる五枚岩やお地蔵さんやお不動さんの数々。きっと地元では有名なんでしょうね。


お堂

解説板

石仏

五枚岩

「切支丹灯籠」なるもの


ここに来たのは「切支丹灯籠」なる石造物を見るため。「切支丹灯籠」は昔はキリシタンが崇拝したものであるといわれていましたが、今ではそう主張する人は学者さんにはたぶんいません。

古田織部が考案した「織部(型)灯籠」というのが正しいのかと思います。しかし「切支丹」と聞くとつい見てみたくなるので、来ちゃいました☆

またこの灯籠に関しては、前野長康の家臣でキリシタンだった兼松正成の子の家にあったものだといわれています。兼松正成は前野長康の棄教後(そして切腹後)、キリシタン吟味を申し付けられ、岩崎村の庄屋となった人物です。

岩崎村のキリシタン


なのでこの灯籠は、キリシタンが崇拝したものではなくても、殉教した者たちのために建てられた供養塔の一種であった可能性があります。横の解説板(↓のサムネイル参照)にはそんなこと微塵も書かれていませんが・・・。しかし岩崎村にいたキリシタンが寛文年間に17人も殉教したことは記されています。やるねぇ小牧市教育委員会!

岩崎村の17名の殉教者は、善右衛門という人の一家。一家全員がキリシタンで、一家全員が信仰を否まず、一家全員が殉教しました。義人ですよ、善右衛門さん一家。有名ではないけれど。一説にはこの「切支丹灯籠」なる石造物も善右衛門さんの家から出てきたものだとも。

もうここまでくると「切支丹灯籠」だろうが「織部(型)灯籠」だろうがどっちでもよくて、その信仰にだけ目を向けたらいいんじゃないかと、そんなふうに思えてきます。うまく言えないけど。だから彼らが信仰の証をした小牧の岩崎に来られただけでも、いい所に来させてもらったと感謝したいと思いますヽ( ´ ▽ ` )ノハレルハレルヤ♪


「切支丹灯籠」

「切支丹灯籠」

解説板

カトリック小牧教会にて


今日の最後はどこにしようかと問いかけたら、夫が教会にしましょうと言ったのでみんなで向かいました☆

カトリック小牧教会は素朴で落ち着いた感じで、一日を振り返り静かに祈るには最適な場所。祈りの場まで備えてくださった主に感謝です♪

みんなが祈っている姿を、後ろから見ながらじんとくるものがありました。キリシタン時代と今とはちゃんとつながっているんだなと。途切れることなくこの歌をずっと歌っていなかくちゃ。


カトリック小牧教会

聖堂内

聖堂内


       私に信仰をくれた神さま


      私に信仰をくれた神さまを素晴らしいと思う。
      そのお陰で今日もこんなに恵みをもらえたのだから。

      悔い改めは祝福の鍵だという言葉があるけれど
      ならば今日を悔い改める日としていこう。
      明日から始まる未来という歴史を、祝福の日に変えるために。

      貴く創造し、御心を考える者になるよう導いてもらったから
      今日も同行してくださった方と永遠に同行できるよう
      ふさわしく自分を作りながら走って行きたいな。

      今日もありがとうございました!o(*'▽'*)/☆゜'・:*☆




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