本文へスキップ

キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

トップページ > 旅行記 > 哀歌~歴史の足あとと足おとⅢ

 哀歌~歴史の足あとと足おとⅢ


  「明日は5人みたいです」「そうなんだ。了解♪」
  などというやりとりを前夜までしていたのですが、
  朝になってみたら同行者は17人になっていました Σ('0'*)

  ほんと感謝です。一緒に行きたいと思ってくれるなんて。
  今日は天気もいいみたいです。主と共に佳い日を過ごせますように★



三河安城駅


本日はGW最終日。関東へ戻ることを考えて、新幹線の停まる三河安城駅でレンタカーを借りていたので、こちらの駅で待ち合わせ。

名古屋から来るみんなには不便だったかも (^^;;ゴメンダー
一緒に過ごすのが3日目という面々も見えて、もうずっと前からの顔見知りみたいな感じです♪

良参寺


車5台に分乗する関係で、今日も夫とはバラ売り(夫は「ソロ活動って言わない?」と言っているw)。

同じ中学出身の男性が見つかり、いつにも増して熱く話すこと1時間ちょい。良参寺につきました☆

こちらは音吉久吉(きゅうきち)岩吉らのお墓があるお寺。3人は日本人が関わった世界最初の和訳聖書の、協力者です。

乗組員の墓


音吉久吉岩吉(まとめて「三吉」とも☆)は船乗りで、漂流民。江戸に向う途中嵐に遭って、1年以上も流されてカナダに漂着しました。そこで奴隷とされ殺されそうになったのですが、文字が書けたことからイギリスの貿易会社が買い取って解放してくれ、その関係でイギリスへと渡りました。

そこからまずアジアへ行く便ということでマカオに渡り、そこでギュツラフの聖書翻訳の手伝いをしたのでした。なのでギュツラフ訳の和訳聖書には尾張三河地方の方言の影響がみられるそうです。ちょっと面白いですよね ∬´ー`∬

しかし結果的に太平洋横断してしまうほどの漂流したのですから、三吉の苦労は並大抵のものではなかったことでしょう。3人を除く乗組員全員が途中で亡くなったことがそれを物語っています。

また3人の乗った船も異国船打払い令によって砲撃され、日本に戻ることができないまま生涯を終えたので、ここにある墓は「参り墓(まいりばか。お参り用のお墓のこと。「詣で墓」ともいう)」です。

音吉らの名前が


乗組員たちのお墓があると聞いて、てっきり一人ひとりのお墓があるものだと思ってましたが、一基のお墓に乗組員14名の名前が刻まれたものでした。

音吉のことは「乙吉」と書かれています。音吉と久吉はここ小野浦の出身なので、恐らくこの良参寺で手習いをしたのではないでしょうか。いわゆる寺子屋です☆

それが奴隷から解放されるきっかけになり、後では聖書翻訳の助けにもなったでしょうから、このお寺からつながった糸がずっと切れずにあったと言えるのかもしれませんね。だからこのお寺にお墓があることは相応しいことかと。もちろん神さまも守り導いてくださったと思いますしヽ( ´ ▽ ` )ノ

三吉の漂流帰還経路


音吉らが宝順丸という船に乗って熱田の港を出たのは、1832(天保3)年10月のこと。悪天候に阻まれて一旦鳥羽港に避難し、再び江戸を目指しましたが、駿河沖で嵐に遭い潮に流され漂流することになりました。北米の西海岸にあるフラッタリー岬に着いたのが1833年末か翌年の初頭で、その時点で乗組員は3人になっていました。明日も知れない身で、船上で2度も正月を迎えた気分はどんなだったでしょうか・・・。

先住民の奴隷となっているところを発見され、イギリスの貿易会社であるハドソン湾会社が3人を買い取ってくれカナダのフォート・バンクーバーに移るのが1834年11月。日本に帰る希望を伝えますが、西に向う便がないということで、サンドイッチ諸島(ハワイ)に立ち寄りながらイーグル号でイギリスへ。

ロンドンには1835年6月に10日間ほど滞在し、そこから船を乗り換えてゼネラル・パーカー号で東へ向かいます。アフリカの喜望峰を越えてインドの沖合いを通り、マラッカ海峡を抜けてマカオへと到着したのが1835年の12月。そこからすぐに日本に行けるのかと思いきや鎖国政策の影響などがあり、1年半以上も足止めを食らいます。しかしその間にしたことが聖書和訳だったのです。

日本人が翻訳に関わった世界初の和訳聖書


日本人が翻訳に関わった世界初の和訳聖書として知られるギュツラフ訳のヨハネ伝ですが、現代人の目から見るとその訳は大変分かりにくいものだったと言わざるを得ません。

例えばヨハネによる福音書第1章1節「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」は、こんな感じ→「ハジマリニ カシコイモノ ゴザル。コノカシコイモノ ゴクラクトトモニゴザル。コノカシコイモノワ ゴクラク」・・・これを読んで頭にクエスチョンマークが3つ浮かぶのは私だけでしょうか ( ̄◇ ̄;)???

1803年プロイセン(今のドイツ)の小さな村に生まれたギュツラフは語学の天才。和訳の前に既に数ヶ国語の聖書翻訳を成し遂げていました。ギュツラフはプロイセン人(プロシャ人とも)でしたが、イギリスのジョン・ウェスレーの信仰復興運動の流れを汲む派に属しており、神の命ずることは如何なる困難があっても命を賭けて成すべきだという信仰に燃えていました。

マカオでの出会い


ギュツラフと音吉らの出会いは正に運命の出会いだったわけですが、もう一つ見逃せない出会いがあります。それはギュツラフにとっては甥にあたるハリー・パークスとの出会いです。音吉らがマカオに滞在しているのと同時期に、ギュツラフの姪御甥御きょうだいが、宣教の手伝いに来ていたのですが、それが後に初代駐日公使となったハリー・パークスと2人の姉だったのです。

パークスは勝海舟や岩倉具視との交流を通して明治維新を陰で支えた人物といわれ、浦上キリシタン流配事件では政府にそのことを強く抗議した人物。開国前に宣教師の元で彼らが出会っていたことは何とも摂理的ではないでしょうか。

またマカオは江戸幕府の禁教令で国外追放になったキリシタンがやって来た島で、彼らが制作に関わったとされるセント・ポール寺院のファサードがあるのですが、これを音吉らは見たはずです。ザビエルの彫刻を見上げながら何を思ったことでしょうね。日本人キリシタンのこともある程度は聞いたことでしょう。殉教したことなども・・・。


解説板

案内板

14名のお墓

墓石

三吉碑


5分ほど歩いたところには、地元の顕彰会の方々が建てた三吉碑(正確には「岩吉久吉音吉頌徳碑」)があります。

碑を建てて顕彰するというやり方はよくある方法で異議を唱えるつもりはありませんが、3人の辛苦は碑で表すことができないような気がしたりして。

帰りたかったでしょうね、日本。



道路沿いの解説板

解説板

三吉碑

銘板

幕末の漂流者たち


幕末には多くの日本人が漂流して外国によって救助されています。三吉らの他にもジョン万次郎やジョセフ彦、サム・パッチと呼ばれた青年など。漂流期間の世界最長記録もこの頃の日本人が持っています。

これは幕府が鎖国令を布いていて、大海原を渡れるような大型船の建造を禁止していたからです。近海しか航行できない小さくもろい船で沿岸部を航行し、一度嵐に巻き込まれ遠洋へ流されたら漂流するしかありませんでした。つまり漂流は不運な事故ではなく、それを起こした加害者がいるということです。

奇跡的に生き延びて助け出された者たちに注目が集まりやすいですが、彼らをそのような目に追い込んだ政策の愚も悟るべきではないかと。また無事救助された人々の多くが、日本の開国前後の時代に通訳として活躍したのですが、彼らに日本の愚、不明を正したい気持ちがあったかはわかりませんが、結果的にそうした役割を果たしたことは事実です。政策の間違いを、その犠牲となった者たちが解いていったのです。

神は見ていた?


私は何でも神さまに結び付けて考える癖があるので、ちょっと聞いてられないと思う方もあるかもしれませんが、それでも一言言わせてもらいたいことは、神の見えざる手がここにも働いていただろうということです。

荒れ狂う海で不屈の精神を見せた彼らを用いて、神さまが日本の歴史を大きく転換していくようになさったのではないかと、そんなふうに思うのです。「では亡くなった人たちはどうなのか? 神は彼らを見捨てたのか?」と問われると、人たる身には答えられない領域なのですが・・・。

海辺の十字架


誰が何の目的で建てたのか、どこにも書いてない十字架が海辺にあったそうで、夫の車の人たちが写真を撮って来ていました(→)。

ちょうどそれと同様に、「これこれこういうことはこうだからこうなったんですよ」と、史跡には書かれていないし、すべてのことを解説する完璧な歴史書もありません。歴史の中のいろいろな事件・事象の意味を納得できるよう解説してくれる本はこの世に存在しないのです。

だから歴史は流れるように流れた、と書く人もいるし、経済的な観点から等、自分の得意分野から解説する人もいます。「神のみぞ知る」ことがあるとしても、神さまが直接本を書いてくれるわけではないので、仕方ないことです。

神の沈黙と人間


しかし別の見方をするなら、神の沈黙は人がそれを自分自身の答えとして悟るための必須条件なのかもしれません。答えを求め探してこそ、答えを得られたときにも「答えらしく」受け取ることができるから。例えば、答えを求めてもがいていない人は、ひょいと答えをもらったとしても、価値が分からず「答えらしく」感じることができませんよね。

テストならそれで点が取れるかもしれませんが、人生の問題はそうはいきません。答えを「答えらしく」感じて自分のものにしてこそ、それをうまく使って生きていくことができるのです。

今回幸せなことにいろんな場所に行かせてもらっているけれど、そこで知識を披瀝して安易に歴史を解こうとするのでなく、「答えらしく」何かを見つけられるよう、心と感覚を呼び覚ましながらめぐっていきたいものです (*゜▽゜)♪


 次は豊橋へ ρ(^-^*)ノ

小一時間はかかるかな?


次は豊橋へと参ります☆ 三河地方の殉教地は昔の宿場町に点在しているので、一つの地域をじっくりとというわけにはいかなくて。次まで小一時間はかかるかな?

だけど車中とサービスエリアでたくさん話ができてうれしいです♪ 

私はこういう時にすごーく信仰の世界の豊かさを感じます。よく宗教を狭い世界だと言う人がいるけれど、こんなに年齢も性別も職業も育った環境も違う人たちが、互いに通じ、恵みを分かち合える世界が他にあるでしょうか。神さまこそが最も広く、最も強く人を結んでくれる方なのではないかと思います。

信仰の世界の高さ深さ広さ豊かさを、もっと知り伝えていける人になりたいな...o(*^▽^*)oナー

吉田城跡


さて豊橋に到着です☆

豊橋は昔「吉田」だったので、お城の名前は「吉田城」。

東海道沿いには「吉田宿」が広がっていました。

1590(天正18)年に吉田城主となった池田輝政はキリシタンに好意的でこの城の城主だったときに17名のキリシタン家臣を抱えていました。1607~1620年に4回ほど宣教師が巡回して信徒を訪問した記録が残っています。その後池田輝政は姫路へと転封し、キリシタン家臣も跋従しましたが、キリシタン住民は残っていたようですね。

吉田のキリシタン捕縛と処刑


1612(慶長17)年、吉田藩には松平忠利が3万石で入封し、1632(寛永9)年まで城主を務めました。その間の記録は「忠利日記」という史料に書かれているのですが、それによると1631(寛永8)年にキリシタン八兵衛の捕縛、1632年2月16日(寛永8年12月26日)にキリシタン丸太夫の処刑が行われています。

レオン・パジェスの「日本切支丹宗門史」には2人が処刑されたとあるので、牢にいた八兵衛が丸太夫と一緒に処刑されたのかもしれません。どこで行われたかはわかっていませんが、火焙りだったと「忠利日記」にあります。松平忠利はこの処刑から約3ヶ月半後に亡くなりました。


復元された櫓

復元された櫓

櫓より

城跡

豊橋ハリストス教会


少し歩いて日本正教会の教会、豊橋ハリストス教会へ♪

正教会の日本宣教は1875年から始まりましたが、この教会が建てられたのは1913年。

随分と早い時期に立派な教会が建てられたものだと思います。豊橋には港もあり東海道も通っていたので有望な宣教地と考えられたのでしょうね。建物は国の登録有形文化財に指定されています (゜ー゜*)キレイラ


ハリストス教会

ハリストス教会

ハリストス教会

ハリストス教会にて

吉田宿本陣跡


吉田宿の中心地にも来てみました。本陣の跡です☆

吉田の殉教地がどこかわからないので、それを探す目的で今回訪れてみたのですが、来たところで判明するはずもなく・・・ (-。-;)

高札場の辺りだったのかなーと目星だけつけて来ました。火焙りだったから川畔だったかもしれません。お城の櫓から見えたようだし(私は櫓に入れませんでした;;)。そこまで行く時間がないので割愛しますけども。


吉田宿本陣跡

解説標柱

高札場跡

歴史的建造物

 次は豊川の御油宿へ♪

豊川市へと向かいます♪


それでは次は豊川市へ! 同行者の中に豊橋や豊川の出身者がいるので、現地に着けば案内がいらないのが素晴らしいです☆

三河は江戸時代ずっと幕府直轄領だった地域で、幕府から任じられた三河代官が統治していました。三河地方でのキリシタン捕縛は1631(寛永8)年、御油で何人かが捕まったことに始まります。

その後御油で5人、牛久保で1人、丸山で1人のキリシタンが処刑されました。詳細は伝わっていませんが、たぶんその年か翌年だったと考えられます。

御油の松並木資料館


豊川の御油は東海道の宿場町の一つ。当時は随分賑わっていたのだと思いますが、今ではすっかり静かな住宅地へと変貌しています。

宿場町の風情がわずかに町並みに残っていますが、それを目当てに観光に訪れる人は少ないようで、御油で唯一の(?)観光施設松並木資料館にも閑古鳥が(あ、ゴメンナサイ)。

だけど三河地方で一番多くの殉教者を出しているのだから、それなりに多くのキリシタンがいたと考えてよいかと思います。今でも平和な町だから、昔もそうだったのかなと想像してみますが、そうしてみると殉教と結びつかない感じがして、何というか・・・イメージが湧いてきません。資料館のおじさんみたいに、当時の住民も素朴で親切な感じだったんだろうな(すごい手作り感あるパンフレットをくれました☆)。


解説板

巨木の根

宿場町

高札場跡


さて殉教地がどこかということですが、第一候補は高札場です。

高札場というのは、幕府の権威を知らしめるため、高く持った土台の上に布告を書いて掲示した場所。

その脇で罪人を公衆に晒したり、罪人を処刑したり、斬った首を晒したりもしていました。ここでそういったことがあったかどうか知りませんし、殉教地だという確信はありませんが、この平和な御油ではどこであっても、「ここでそんなことあったとは思えない」と言ってしまいそう。

でもあったんですよね、実際に。だから候補地として挙げるしかありません。それに殉教地ではなくても、首の晒し場だった可能性は十分あります。高札場の高札の真ん中にはキリスト教禁令の高札が掛けられており、その見せしめ的な意図で言えば、高札場の横にキリシタンの首を晒すというのは絶大な効果を見込めるでしょうから。

またいろんな地方の処刑場や晒し場の跡が今では児童公園になっているというのは、よくあることなのです。・・・こういう目星の付け方をするようになったことを私は嘆くべきなんだろうか ( ̄ヘ ̄;)ウーム


高札場跡

解説板

ベルツ花夫人ゆかりの地


高札場のある十字路の対角にあるのがコチラ(←)。「ベルツ花夫人ゆかりの地」と書かれています。

ベルツ医師は明治政府のお抱え外国人で、花さんはその日本人妻。ベルツの親友のシーボルトは日本人妻を置いて帰国してドイツで結婚してしまいましたが、ベルツは帰国する際も花夫人を連れて行き、生涯を共にしました。

ベルツが日本と日本人に敬意を持って接してくれたこともうれしいですが、このベルツによって温泉浴が推奨されて、現在の各種温泉治療に引き継がれているのも見逃せない点です。温泉好きは多少なりともベルツ効果を受けているわけで、何を隠そう私もその一人です・・・(# ̄∇ ̄#)・・・フロ♪


ベルツ花夫人ゆかり地

解説板

問屋場跡

問屋場跡

豊川の河川敷


温泉を思い出して毛穴が開きかけたところで、そろそろ引き返そうかということに。

途中豊川の河川敷に差し掛かると、前にいた女の子がもう1人を引っ張って声を上げました。「ここ、昔一緒に来た所じゃない!?」

今日一緒に来ている2人ですが、1人がクリスチャンでもう1人が未信者だった頃に、クリスチャンの子が誘って、一緒に花火を見たそうです。今は2人とも教会に通っています。でも1人は東京にいてめったに会えないのですが、今日だけ一緒に来ることになったそうで・・・。

何かすごいなと思いました。2人をずっと見つめていらした神さまの愛が。1人1人の苦しい時や悲しい時、どんな時も共にしてくださっていて・・・、やっぱ素晴らしいなと。それで河原に下りてみようということになり、讃美しようということになり♪ 

みんなで讃美できて最高でした。1人でも楽しくできるとは思うけど、共にしながら感じる喜びは比べものにならないくらい大きなもの。共に歌えば、そこが天国ですね ヾ(@⌒▽⌒@)ノ

引き上げられる人みたいな?


車を置かせてもらった松並木資料館に向かいながら空を見ると、天に引き上げられていく人みたいな雲が!(そう見えるのは私だけ?) 何かしるしのように感じました。神さまが私たちを可愛く思ってくださっているという・・・(そう思うのは私だけ!?)。

豊川の河川敷が殉教地の第二候補だということを言い忘れましたが(ごめん;;)、まあいいか(よくない;;)。いつか私たちも死ぬんだけど、殉教者たちみたいに天を真っ直ぐ見つめながら逝けるのかな。

たくさんの人が汗と血で対価を払ってくれたお陰で、信仰の自由が認められ、キリストを信じても首を斬られない時代になったのだから、今は「信じて死ぬ」時代ではなくて、「信じて生きる」時代です。

言い換えるなら、殉教の精神を持って「死ぬ」のでなく、「生きる」時代。そんな「生きた殉教」ができたらいいな。キリストのように、心と思いと命を尽くして愛する――って生き方。


 ラストは岡崎城\(o ̄∇ ̄o)/

岡崎城へ☆


殉教地だけでも全部回っておきたいという目論みは、昨日辺りから見事に崩れ、しかしそれよりもずっと大切な「みこころ」に触れる時間を過ごさせてもらったこの数日間☆

ラストに訪れることになったのは岡崎城です。時間と場所の都合でこうなりましたが、最後まで主の「みこころ」通りに過ごせますように (*^.^*)

岡崎城


岡崎城は徳川家康が生まれた城。三河の弱小豪族の息子として生まれた家康(幼名は竹千代。その後松平元信→松平元康→松平家康→徳川家康)は、人質として送られるまでこの城で暮しました。

人質になる際も、当初今川氏へ送られるはずだったのが、裏切りによって織田氏に送られてしまい(そこで信長とのファーストコンタクトが!)、数年後人質交換で今川氏に送られるという、ものすごい不運っぷり。誰がこの人が征夷大将軍となり幕府を開くと思ったでしょうか。本人だって親だって思わなかったのではないかと。

しかし忍従の日々を耐え忍んだ者を天は見放しはしませんでした。桶狭間の戦いで信長が今川義元を討ち取ると、家康は今川氏の混乱に乗じてこの城に入城し、今川氏と訣別。信長と清洲同盟を結んで、版図を広げていきました。だから家康にとってこの城は出発点ですね。誕生といい、武将としてのスタートといい。

家康とキリスト教禁令


家康という人を歴史上の人物としては大きな人だと認めますが、クリスチャンとしてはどうしても許容できない点が。キリスト教禁令を発して幕府が続く限りキリシタンが生きていけないようにしたことです。

この偉大なる祖父をリスペクトした家光によって、全国がキリシタンの血で染まりました。江戸期を通じてキリシタン殉教地のない所は、県ベースで数県しかないのです。だから・・・

「ここに今日来たのは祈るためだと思います!」

いつになく、いえ、いつにも増して熱く語り、悔い改めの祈りをしようと、みんなに言ってみました。考えてみれば、キリスト教に寛容だったけれど後に変質して自分を拝めと言った信長も、伴天連追放令を出して26聖人の処刑を命じた秀吉も、この家康も、3人とも今の愛知県出身。ゆかりある者たちで祈るべきではないかと。

我らは接木された者


私たちはこの日本に生まれ育って、その肉の土台にキリストを接木(つぎき)された者。信仰的には殉教者の子孫ですが、肉的には迫害者の土台を持って生まれてきたのです。でも、だからこそ悔い改めの祈りができるし、悔い改めて完全に主のものになったのなら、私たちこそが主の栄光になるのだと考えます。

なぜなら、迫害者の根から伸びる幹をスパッと切って接木して、主の喜ばれる御霊の実を結ぶようになったのですから。こんなに痛快な、胸のすっきりすることがあるでしょうか。

また悔い改めてこそ、神さまが祝福を思う存分降り注げるようになるのではないかと思います。いくらあげたい物があっても、間違いを認めて謝らない子供には、親が何もあげることができないのと同じように・・・。

こういうことがここから始まって、日本中に広がっていくといいんだけど。ひいては世界中? あんまり欲張ってはいけないけれど、希望は持ってもいいかもしれませんね。「みこころ」ならば、と♪


公園案内図

城跡

石碑

空に

暮れゆく空と


最後のお祈りに間に合って、名古屋の教会の牧師さんが来てくれて、まとめのお祈りをしてくれました☆

時間が迫っているからと車に向うと、空が刻々と色を変えていき、バラ色に染まりました。

あまりに美しい情景に言葉を失い、ちょっと空恐ろしいような気持ちにも。神々しいとはこのことで、神さまの御座のある世界はきっと・・・、こんな神々しさにも怖気づかないほどの光を、自分の中に持っていてこそ入って行けるのかな。随分遠い世界にも思えるけど、一生かけて挑戦するには十分値しそうです。

家に着く前に一通のメールが・・・


無事新幹線に乗り込んで、もうすぐ家に着くというところで一通のメールが届きました。私たちの通っている教会から、転勤で名古屋の教会に移り、今回ずっと運転をしてくれた人からのもので、一緒に行けてよかったと書いてくれているので、そりゃよかったとうれしく読んでいると・・・。

「(旅行中)お伝えできなかったのですが、自分の先祖は織田家に仕えた武士で、我が家は今の姓になる前は『松平』だったそうです」――。えっ!?

衝撃でした。っていうか、何で今まで言わなかったの? 私がすごい勢いで話してたから? ま、確かにそうだけどね (>ε<)! 織田家に仕えていた人の子孫と清洲城に行き、(元)松平さんと家康の誕生地で祈ってきたとは。何も知らぬまま。いや、このメールをくれた本人さえも自分に向う「みこころ」に、もしかしたら気づけていなくて、それでもって今頃メールしてきたのでは?

神さまの世界の高さ深さ広さ豊かさをもっと知りたいと思ってたけど・・・、ええ、今ここにあります!

足あとと足おと


歴史の足跡(あしあと)を辿ってみようとしたら、現在進行形の神さまの御働きに気づくこととなりました。その場所で信仰を守り走っている人たちの姿は、未来へと続く足音(あしおと)でもあります。

足跡と足音がつながって、今「みこころ」という一つのメロディーを響かせていっているんですね。その歴史に傍観者ではなく、共に走る者として参加していきたいです。自分に向う「みこころ」をしっかり掴み、信じながら・・・♪



  殉教者の歩みを追って


  ごく断片的にですが殉教者の歩みを追ってみて、信仰について考える機会を与えられました。

  ちょっとの苦痛でもこたえるような、弱く柔らかい肉体しか持たないのに
  人がどうしてこのような酷く恐ろしい試練にも勝ち得たのか。
  私は人が人だけの力で勝ったのではないと感じました。

  たとい服や聖像を奪われても、心から主を、口から讃美歌を奪われなかった人たちには
  やはり神さまの加護があり、聖霊の御力が臨んでいたのだと思います。

  世間では「神に頼るなんてイヤだ」という言葉を聞くこともありますが、
  神にあって強くなりたいです。そうしてこそ勝利もまた、神さまの栄光になるだろうから。
  多くのことを感じさせ、悟らせてくださった方に、
感謝ヽ(*^∇^*)ノ*:・'゜☆




                                     旅行記一覧へ戻る >>