本文へスキップ

キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

トップページ > 旅行記 > 千年の都から永遠の城へⅠ

 千年の都から永遠の城へ Ⅰ


         京都でキリシタン史跡めぐりのツアーをすることとなり
         恥ずかしながらそのガイド役を拝命いたしました☆

         下見のために一足早く関西入りする、と称して
         自分が行きたい所にも行ってしまおうと目論んでいます♪
         心の方位磁石を主に合わせて、いざ・・・(≧∇≦)ノ


元和キリシタン殉教の地


早朝に着いた京都駅からバスに乗り、七条へ。そこで史跡めぐりツアーの企画者たちと合流しました☆

ツアーと言っても教会が主体となって行うもので、商業的なものではないのですが、やはり交通事情や休憩場所など下見が肝要だということで。

まずは「元和キリシタン殉教の地」碑へ。沿道にあるのですが、見落としやすい感じで設置されている(わざとそうしている)ので、京都在住の人も「初めて気づいた!」とびっくりしていました。こんなふうにその地ゆかりの人に知ってもらうのがうれしいんですよね (*^.^*)

正面河原


下を流れる鴨川。今日は水かさを増しているようです。この河原で1619年に52名のキリシタンが火焙りになりました。

時々殉教者の数を53名としているものがありますが、それはテクラ橋本のお腹にいた子供まで数えたもの。橋本太兵衛と妻テクラはミヤコのキリシタンの代表ともいえる人たちで、京都の大殉教の筆頭に挙げられます。

「元和の大殉教」と京都の大殉教


日本のキリスト教史では「大殉教」といわれる3つの殉教があります。京都の大殉教が1619年10月6日、長崎の大殉教が1622年9月10日、江戸の大殉教が1623年12月4日です。これらはすべて元和年間に起こったことだったので、3つをまとめて、あるいは一つ一つを「元和の大殉教」と呼んでいます。

長崎の大殉教の殉教者は51名で、そのうちの9名が司祭(=神父)で、12名が修道士でした。この殉教は広く紹介され、比較的早くすべての殉教者が列福されました。将軍家光の就任祝いに訪れた各地の大名の面前で行われた江戸の大殉教では50名が処刑されましたが、そのうち3名の宣教師(司祭2名、修道士1名)だけが先に列福され、その他の者は後に残されました。

京都の殉教者は52名で、彼らのうちには宣教師はいませんでした。詳しい記録が書かれたので史料は十分にあったのですが、誰も彼らの列福を薦めませんでした。京都の殉教者と江戸の宣教師以外の殉教者が列福されたのは2008年。一番最近になって列福されたのが彼らなのですが、宣教師と一般信徒を隔てた取扱に少しだけ疑問を感じてしまいます。。o(゜^ ゜)

京都の大殉教の特徴


この3つの(元和の)大殉教はいずれも火刑でしたが、京都の殉教にはいくつかの特徴がありました。伏見にいた将軍秀忠から直接に命じられたもので、女性も幼児も含む憐れみのない全面的な迫害で、殉教者のほとんどがミヤコに住む町民だったことです。記録には子供たちによる信仰の証もあります。これも日本の教会史として残すべきことではないかと思います。


 朝鮮出兵と耳塚

耳塚


京都の大殉教の地、正面河原から正面通りを東に向かうと、右手に見えてくるのが耳塚(鼻塚とも)です。

この道がなぜ「正面」通りかというと、この後に訪れる方広寺の大仏の「正面」から伸びている道だったから。

方広寺の大仏自体、豊臣秀吉が造ったもので、この耳塚も秀吉の朝鮮出兵と関係したものなので、この道は「秀吉ロード」と言っても過言ではありません。朝鮮出兵(侵略)で首級の代わりに持ち帰られた耳や鼻を、秀吉の命で埋めて塚としたのがここなのです。日本人としては心が痛いです。

「秀吉ロード」というより、「秀吉の罪の道」ですね。ただ歴史上の人物を批判するのは簡単だけれど、日本人として日本の罪として捉え悔い改めていくことも必要なのではないかと。過去を忘れて、単に未来へ進むということは・・・都合の良すぎる論理で、まかり通らないものだと思うから。


耳塚

耳塚解説板

豊国神社


正面通りの東の突当りにあるのが豊国(とよくに)神社。地元では「ホウコクサン」と呼ばれ親しまれているそうですが、この神社が造営されたのは明治13年のこと。

昔から神社があったのではなく、方広寺の大仏殿があった所に、縁があるからと新しく作られただけです。境内の敷地をかなりの部分持ってかれた方広寺としては、大迷惑だったかも ( ̄。 ̄)タブン...

方広寺の鐘


隣接する方広寺は、今では鐘楼だけが目立っているようなお寺さん。それでも修学旅行生とかは寄るんでしょうね。

理由はこの鐘の銘。白く囲まれて見つけやすくなっていますが、「国家安康」と「君臣豊楽」という文言が刻まれています。

「国家安康」という句は家康の名を切ったものであり、「君臣豊楽、子孫殷昌」は豊臣を君として子孫の殷昌を楽しむ、と解釈し、徳川を呪詛して豊臣の繁栄を願うものだと言いがかりをつけて・・・、結局大坂の陣が始まってしまうという訳なのです。

随分と小さな文字を、よくぞ見つけましたね!?という感じで、これを言いがかりにしようと家康に進言した人物の粘着質な性格が窺えます。進言したのは金地院崇伝という人物で、キリスト教禁令の草案もこの僧侶が作ったとされています。このような人物をブレーンが加わった時点で、キリスト教の旗色はかなり悪くなったといえるかと。

この方広寺鐘銘(ほうこうじしょうめい)事件をきっかけとして大坂の陣が起こったのが1614年。ちょうど400年前のことなんですね。今年ここに来た意味をちょっと感じたりして (*゜.゜)


豊国神社解説板

方広寺の鐘

「国家安康」「君臣豊楽」

蒲生石


方広寺の石垣は、秀吉が諸大名に命じて、各地から巨石を集めて造らせたもので、俗に「石狩り」といわれたりもしました。

今でも約300mが現存していて、そのうち最も大きな石は蒲生石と呼ばれ、蒲生氏郷が家臣と運んだ石だとされているのですが・・・、どの石かは不明でした ( ̄Д ̄;;ダッテナガインダモン

キリシタン大名蒲生氏郷の名を聞くと思わず血が騒いでしまう私ですが、やはり下見のために来てますからねー、あまり時間をかけてはいられないのです。・・・というか、体力が持つか不安なので先に参ります☆


 フランシスコの家は今・・・?

フランシスコの家があった場所


実は今回京都を訪れるにあたり、私が一番気になっていた場所はここ、「フランシスコの家」があった場所です。

「フランシスコの家」は、昔二十六聖人が活動していた教会や病院があった場所に、キリシタン文化を紹介する施設として設けられた資料館で、多数のキリシタン遺物を展示していたのです。

耐震と漏電の問題があって「フランシスコの家」の建物が閉鎖されたのが一昨年。その後建物も取り壊されましたが、今年HPで見たのは再建を期するといった内容だったので、もしかして新しい「フランシスコの家」を建設中だったりしてと微かな期待を抱いていたのですが・・・。

再建の予定は・・・?


門の隙間から見えるのは、ガランとした平地のみ。でも中庭のあった所に、見覚えのある石が残されています。

ああ、これが洗礼盤として使われたのではないかと言っていた石だよと、懐かしくも切なくなって見ておりますと、同行者の1人が門のチャイムを鳴らしました。

すると背後の家から近所の人(おばさま)が出てきて様子を話してくれました(チャイムに連動して出てきたように見えましたが無関係で、人が来ているから事情を話すために出てきてくれたようでした☆)。

おばさま曰く――。元々は友禅屋さんだった家を二十六聖人ゆかりの所だからとキリスト教系の人たちが買ってそういうのをやっていたけれど、建物の老朽化と耐震性の問題があって取り壊したんだよ。再建するという話は聞いてないねぇ、ということでした。

資料館で見せてくれたあのキリシタン遺物や魔鏡(光を当てるとキリスト像が浮かび上がる鏡。阿部首相が今の教皇に謁見した際にレプリカをお土産にした)はどこに? いつかまた陽の目を見る日が来るのかなぁ。。少々盛り下がった気分で跡地を後にしましたが、このようにして歴史は進んでいくんだなと感じました ( ̄0 ̄)/


跡地の門

門の瓦

妙満寺跡


「フランシスコの家」は今は見られないけれど、近くの碑はそのままありました。「妙満寺跡 二十六聖人発祥之地」碑です♪

1593年、フランシスコ会司祭ペトロ・バプチスタはマニラ総督の使節として入洛し、秀吉から与えられた堀川妙満寺跡の土地に、修道院と病院を建てました。

修道院横の教会は工事半ばにして祝別され、「天使の元后なるサンタ・マリア教会」と名づけられ、病院は「サンタ・アンナ病院」と命名されました。ペトロ・バプチスタ神父と5人のフランシスコ会士はここで活動していたのです。

布教の許可はあったのか? 


しかし、すでに1587年に伴天連追放令が出されているのに、秀吉が布教の許可を与えたか?という点が問題で、秀吉の言葉を誤解して、あるいは拡大解釈して布教の許可をもらったと(都合よく)考えて、フランシスコ会では教会を建ててしまった。それで後に秀吉の怒りを買い迫害、殉教の道を歩んだというのが、通説です。

前年に淀君が拾(ひろい。後の豊臣秀頼)を産んだので、その喜びで秀吉が布教の許可を与えたのだと書いているものもありますが、真相はわかりません。1595年には教会の右側にハンセン氏病の人たちを収容する聖ヨゼフ収容所を建てて、患者80人が収容されたということなので、フランシスコ会の活動は益々積極的に繰り広げられていたと考えられます。

イエズス会とフランシスコ会の軋轢


この状況を古くから京都にいるイエズス会のオルガンティーノ神父は非常に憂えていました。今は時機を待ちながら目立たぬように布教するべきであって、このようにしていては早晩秀吉の勘気に触れ、キリスト教徒が大弾圧を加えられてしまうのではないかと考えたからです。

オルガンティーノは宣教師を派遣する修道会の方で調整するよう、イエズス会総長に手紙を送っていますが、「この不幸な不和(オルガンティーノの言葉。イエズス会とフランシスコ会の軋轢を差す)」は解決しませんでした。

そして1596年の年の瀬、秀吉は京・大坂でのキリシタン捕縛を命じ、ここにあった修道院を包囲して7名を捕らえました。そして大坂でもフランシスコ会の修道院を包囲して14名を捕縛しました。

同時に大坂ではイエズス会の修道院でも信者3名が捕まりましたが、結局イエズス会では京でも大坂でも宣教師は1人も捕らえられませんでした。

その点が宣教方針の不一致による軋轢と不和、そしてその結果である訳ですが、今となってみると、もっとどうしてこうできなかったんだろう?という口惜しい気持ちが湧いてきます。それくらい人が自分の考えを措いて、一つとなることというのは難しいのだと感じさせられます。

二十六聖人発祥の地


堀川の大通りに出て少し歩くと、四条病院の壁に「二十六聖人発祥の地」と書かれたプレートがあります。

訪れた時は、ちょうど病院関係者が出入りしていて写真を撮りにくい感じでしたが(;^_^A

人も結構通っていくので、足を止めて見て行く人もいるかもしれませんね。ここにそんな人たちがいたんだって、心にも留めてくれるといいけど☆


二十六聖人発祥の地

 本能寺跡と南蛮寺跡☆

本能寺跡


さて下見も最終局面に。四条堀川から本能寺跡へと行き、横の道を進んで南蛮寺跡に向えば完了です!

本能寺はご存知信長が滅びた所。いわゆる「本能寺の変」の事件現場です。現在は堀川高校と老人福祉施設となっています。

「本能寺の変」の跡地で勉学に励むってどんな感じなんでしょ? 老人福祉施設では歴史モノが流行りそうですね。

天下統一を目前に「天下布武」のサインまでしていたのに、運命とは恐ろしいものですね。この波に飲み込まれない者はいないのだから。永遠なるものをバカにしていたことが転落のきっかけになったように、私には思えてなりません。


本能寺跡

本能寺跡

南蛮寺跡!


蛸薬師通りを東へてくてくと行くと、「あれ、見逃しちゃったかな?」と不安になるところで、左手に見えるのが南蛮寺跡の碑☆

碑も解説板もあるのですが、盛業中の会社の前にあるので、自転車やらバイクやらが置かれて、ものすごく価値をわかってもらってない感が漂っています。折り悪しくも会社への搬入が行われていて、解説板を撮るのも一苦労。何とかならないものでしょうか・・・(>_<)ハゥー

ザビエルから南蛮寺まで


この際なので語ってしまいますが、京都のキリシタンについて話すならまずザビエルから書き起こさねばなりませぬ!(ここからは熱さマックスです。読み飛ばす人は最終行へお飛びください♪)

1549年、フランシスコ・ザビエルが日本に上陸したとき、具体的な計画を持っていました。この時代には京都はまだ内裏(天皇)が住む日本の首府でした。だからミヤコに上り内裏に謁見して、全日本で布教しても良いとの許可を得ることが一つ。もう一つは、首府であるミヤコで聖母に捧げる教会を建てることでした。

1551年、ザビエルは入洛しましたが、内裏との謁見も教会の建設も果たせませんでした。しかしその思いは後継者に引き継がれ、ザビエルの離日後代表となったコスメ・デ・トルレス神父は、数回に渡って宣教師をミヤコに送り、1559年、ヴィレラ神父とイルマン・ロレンソが京都で家を借りるまでになりました。

ヴィレラの後、ルイス・フロイス神父が京都の教会を受け持ち、その後オルガンティーノ神父が任命されました。そしてそのオルガンティーノ神父が1576年、ついに当地に「都の聖母教会」(=南蛮寺)を建てるに至ったのです。この時すでに五畿内に信徒は多く、ダリオとユスト高山(高山図書と高山右近)、結城弥平次などの優れた武将もいました。

南蛮寺の親柱は高山右近が自ら選んで担いで持って来たもので、教会は三層のとても華麗なものだったことがわかっています。キリシタンの面目躍如たる時代だったのでしょうね。

今跡地には追いやられ気味の碑と解説板しかないけど、感動せずにはいられませんo(*'▽'*)/☆キラキラ


南蛮寺跡解説板

 京大でランチと博物館見学ヾ(´▽`*)ゝ

学食「ルネ」


昼食場所などの実務的な下見も終えて、今度は京大へ☆
以前からメールでやりとりしている院生の女の子がいて、学食で待ち合わせをしていたのです。

大体11時から12時くらいには行けるかなと言っていたのですが、時間もぴったり。ちょっと混むけれど京都はバスが便利なんですねぇヽ(^^)(^^)ノ ヤッホー♪

ケバブ☆


「優柔不断」の4文字を知らない私は、とっととケバブランチをチョイス。ほどなくして到着した院生の女の子と語らいのひと時を持ちました♪

京都大学総合博物館は京大の敷地内にあるので、彼女に案内してもらおうと思ってましたが、行ったことがないとのことでした。やっぱりいつでも行けると逆に行かないものですね。

だけど京大生は入館無料だそうで、その特権をフルに利用してもらいたいものだと、おばちゃん考えましたよ。ふー、ご飯も食べて足も休めたのでレッツゴー p( ̄ー ̄\)

京都大学総合博物館


学食「ルネ」から道をはさんだ所にある博物館は、想像していたより真新しい建物。最近できたんでしょうかね? 中には古いものがたっくさんあるんでしょうに。

ここを是非訪れたいと思っていたのは、京都市内で見つかったキリシタン墓碑が数多く展示されていると聞いたから。

大阪の茨木市で発見されたマリア十五玄義図(重文なので特別公開時しか見られない)や大秦景教流行中国碑のレプリカなどもあるということで、一度は来てみたかったのです (o ̄∇ ̄o)/

館内は撮影していい物が限られているので、撮ってくることはできなかったのですが、キリシタン墓碑の精緻な美しさには心打たれました。数もあり質も高くて、見ごたえがあります。ガラスケースなどには入ってないので、生の息吹を感じられるような気も。お近くまで来た方は是非見てみてくださいまし☆

知恩寺


院生の彼女は研究室へと戻って行ったので、ここからは3人でめぐります!(朝から人の増減がいろいろあったので、ここまで人数等は省略しました^^;)

こちらは京大のお向かいにある知恩寺(百万遍)。このお寺の墓域に蒲生氏郷の夫人、冬姫のお墓があると本で読んで来たんですが・・・。

蒲生氏郷夫人の墓


「境内墓地、円光大師廟の横手」ということしかわからなかったので、見つかるかなと思っていたのですが、3人の連携プレーで発見できました!

いやー、幸先良いリスタートで感謝♪ 導きを感じます。どうかこの幸運が一日続いてくれますようにヽ(‘ ∇‘ )ノ

蒲生氏郷と正室冬姫


さてこの冬姫さん、織田信長の娘(次女)でもあります。蒲生氏郷は幼い頃人質として織田方に送られましたが、そこで信長に才能を認められ、元服の際には信長が烏帽子親を務めるなどの好待遇を受け、娘婿にまでなったのです。後に文武に優れた力を発揮する氏郷をよく見抜いたものだとも思いますが、戦国の世なので甘くない現実も多々ありました。

例えば小谷城攻めと姉川の戦い。信長は妹のお市の方が嫁いでいた浅井家を攻め滅ぼしたのです。この戦に従軍していた氏郷は何を思ったことでしょう。妹の嫁ぎ先も容赦なく攻めるなら、娘婿である自分も逆らえばこのようになると覚悟しながらの戦いではなかったでしょうか。

キリシタン大名として生きる


信長が本能寺に斃れた後、氏郷は秀吉につき大名にまでなりますが、その一方で、高山右近からの感化を受けキリスト教の洗礼を受けます。キリシタン大名蒲生氏郷の誕生です。伴天連追放令が出されると一時期信仰は冷めたようですが、右近が立ち直らせて、最期はキリシタンとして逝ったようです。

氏郷の息子秀行までは洗礼を受けたことがわかっていますが、冬姫がキリシタンとなったかどうかは不明です。しかし夫と息子がキリシタンだったことと、父の信長がキリスト教を保護していて、信長の息子や孫がキリシタンになっていることから、冬姫が入信していてもおかしくないと思います。

ただし夫が40歳で亡くなると、美貌であったため秀吉の側室にと望まれて、それを断るために出家。そこからはキリシタンの「キ」の字も出てこない無縁の人生を歩んだようです。息子の秀行が30歳、孫の忠郷までが25歳の若さで亡くなるのを見送って、81歳の生涯を閉じました。

戦国の世というのは戦いに明け暮れた時代だというけれど、結局誰が勝ち誰が負けたんでしょうか? ――そんなことを考えさせられます。


冬姫の墓

冬姫の墓

戒名は相応院

円光大師廟

 宣教師ヴィレラの居住地と教会跡へ ( ̄0 ̄)/

ヴィレラの居住地 四条烏丸


再びバスに乗り四条烏丸へ☆
ここからはミヤコに乗り込んで福音の種を蒔いたイエズス会神父ガスパル・ヴィレラの住んでいた場所を回ります。

キリスト教が南蛮渡来の珍奇な宗教だと思われていた、いえそういう知識さえ一般庶民には行き渡ってないような頃ですから、どんなに苦労したか想像に難くありません。

四条烏丸バス停


京都、四条烏丸。――これがヴィレラが1560年1月25日から4月下旬まで住んでいた所に関してわかる全情報です。

ミヤコに来てから3番目に移り住んだ場所で、この時一番実のある時間を過ごせたと推察されるのですが・・・当時を物語るものは(当然ですが)何もありませんね。

当時もこんなふうに人や車の行き交う繁華街だったのでしょうか? ミヤコは荒廃していたというから、逆に何もなかったのかな? ただ冷たい仕打ちに何度もあったと記録に書かれているので、孤独だったろうな、ヴィレラさん (´ヘ`;)

四条烏丸

四条烏丸

ヴィレラの居住地 革棚町


続いて1559年に入洛したヴィレラの最初の居住地、革棚(こうだな)町へ。現在の下京区四条新町西入る郭巨山町にあたります。おっと、ニッセンがありますねぇ (*゜。゜)

記録によると、その家は「革棚町という町の山田の後家の小屋だった」ということですが、もしそれがどこだったのか正確にわかるなら、日本のキリスト教史で記念碑的な扱いをされるでしょうに。

それでも京都での宣教を引き継いだのがあのフロイスだったおかげで(並外れた好奇心と観察眼の持ち主で、偏執的とも言えるほどの記録精神を発揮して、日本のキリスト教史「日本史」等を書き上げた)、その当時のことが他に比べて詳細にわかるのは幸いなことです☆

京都独特の住所表記━━━(゜ロ゜;)━━!!


今も官公庁であっても普通に使っているという、京都独特の住所表記、「上(あが)る」「下(さが)る」「東入(ひがしい)る」「西入(にしい)る」等については、初めは私も当惑しましたが、少しわかってみると、キリシタン史を調べる上で大変役に建つことがわかりました☆

京都を碁盤目状に切り分ける通りと筋は、昔も今もほとんど変わっておらず、町名の変更はあっても通り名が変わることはまずないので、これを頼りに史跡地を探し当てることができるのです。

このおかげで今回ヴィレラの居住地などの場所を、ピンポイントでは無理にしても、大体のところまではサーチすることができました。こういうシステムを備えてくださったことに感謝して回りたいと思います♪


革棚町の辺り

革棚町の辺り

下京教会跡


革棚町のあった辺りから南へてくてく行くと、数分で菅大臣神社に到着。

キリシタン時代にイエズス会の下京教会があったのはこの辺りだったと考えられています。

1602年にはイエズス会の修道院が、1605年には約2000人を収容できる大聖堂が建てられたと伝えられていますから、当時の繁栄は相当なものだったでしょうね。

キリシタンは想像以上に栄えていた!


付属のアカデミアでは天文学などが講じられ、後陽成天皇もお忍びで聴講したのだとか。周辺には信徒の家が建てられ、古地図の菊屋町に記入された「だいうす町」の地名からして、この周囲はかつてキリシタンの町だったと考えられています。

上京の元誓願寺通りにあった教会は、1600年にこの教会をいわば「巣分け」する形で設けられたのですが、毎年100人を超える受洗者がいたということで、古地図には「だいうすつじ」と記されているので、そこにもキリシタンの町があったということです。

神社仏閣のひしめく現在の様子からはうかがい知ることが難しいですが、しかしミヤコにおいてキリシタンは、現代の私たちが想像する以上に、栄えていた!ということがわかります。

今や跡形も無くなっていてそれは残念なことですが、我々が史実を掘り返すこともせず記憶からも消してしまったら、先祖が浮かばないと思います。あ、クリスチャンはあまり「浮かばれる」とか言いませんが・・・、ニュアンスとして ( ̄∇ ̄*)ゞ


菅大臣神社

菅大臣神社

菅大臣神社境内

菅大臣神社解説板

だいうす町


菅大臣神社の参道の先に当たる所に、古地図では「だいうす町」と書かれているので、この先辺りがキリシタンの町だったんですね。

1614年のイエズス会の年報にこの町のことが出てきます。「ミヤコでは信者は四千人ほど住んでいます。この町は大きかったので、未信者に混じってあちこちに住んでいましたが、松原と言われる通りに住む人は一軒をのぞいて皆キリシタンでした」――と。

しかし栄光の時代のことばかり思って浸っている訳にはいきません。迫害もまたこの町を襲い、ここから引き立てられて行った信徒たちが元和の大殉教では処刑されたのです。

讃美で溢れたであろう町が引き裂かれたことを思うとき、暗澹たる気持ちが押し寄せてきます。当時の人々はどうだったでしょうか・・・。


だいうす町周辺

だいうす町周辺

だいうす町周辺

長江家住宅


キリシタンたちが称えた主の栄光と、それが途絶えたまま数百年の時が流れたミヤコの町を、心の中でどう両立したらいいのか、見当もつかなくなって道を引き返します。

行きはてくてく、帰りはとぼとぼ。それでも京都の町はやはり趣があって美しいです。時を経てこそ輝くものがちゃんと大切にされているから。

こちらのお家は明治40年の建築。400年前を考えている私には若干新しいですが、数百年どころか千年の歴史が刻まれているのがこの町です。ああ、この千年の都から、彼らはどこを目指して旅立ったんだろう。もちろんそれは天国だろうけど、それはそんなにはっきりと見えたのだろうか――?


長江家住宅解説板

 何と素敵なアートスペース (Ψ▽Ψ*)♪


京都芸術センター


重たい気持ちを引きずりながら、ヴィレラの2番目の居住地を目指していると、道の傍らに印象的な建物を発見!

元小学校だった建物を芸術センターとして再生したもののようです。何か素敵な予感がするので入ってみましょう♪

ちょっと休憩と気分転換が必要みたいですしd(^-^)


京都芸術センター

二ノ宮金次郎像!

内部

カフェ

ティータイム♪


レトロとモダンの融合したカフェがあったので、迷わず入店♪ 女子会の気分を味わいます。

なんだこの柔らかくて甘いものは!(私に食レポは無理かっ)
固まった脳がほぐされるようなひと時でした ( ̄・ ̄*)


 それでは怒涛の街歩きへ!

ヴィレラの居住地 玉蔵町


それでは元気になったところで、再び京の町へ!

所々に古い民家やお店が残る道が、今もそこかしこにあるというのがこの町の魅力ですね。

こちら(←)が六角通室町西入るの玉蔵町。ヴィレラが革棚町から引っ越した家があった辺りです。

フロイスの記録には「異教徒であるクンダノジュチョウの家」と書かれているので、誰かの家を間借りしていたんでしょうか。革棚町の方も「山田の後家の小屋だった」というから、家の敷地内の離れみたいな感じかな? 下宿スタイルではなく、一応独立した建物に住んでいたようにイメージしてますが。。

ヴィレラの住んでいた町に実際に来てみて感じるのは、人の中に飛び込んでいって宣教師しようとしていた姿勢。人々と接点の多い町中(まちなか)に暮して、隙あらば(という言い方は語弊があるかもしれないけど^^;)宣べ伝えようとしていた心意気がうかがえます。苦労はしても充実した日々だったのではないでしょうか (o゜◇゜)ネッ


玉蔵町

玉蔵町

ヴィレラ・将軍会見の地


少し進んだこちらが衣棚通押小路妙覚寺町。ヴィレラが将軍 足利義輝に拝謁した地です。

当時足利義輝は妙覚寺に逗留していたのでそこに会いに行った訳ですね。現在そのお寺はなく、町名だけが残っています。

それにしても・・・、義輝はもはや傀儡に過ぎず、実質的な権力者は信長だということを、宣教師たちはどの程度把握していたんでしょうか。

義輝を担ぎ上げて天下を手中に収めようとしていた信長が、義輝を入らせるために二条城(今の二条城ではなく、昔の二条城。旧二条城というべきか)を建築中、工事現場にいる信長に、フロイスがうまーく会いに行ってミヤコでの布教の許可を得てるので、フロイスの頃には実質的な権力者がわかっていたと推測できるのですが。

ノウハウのない国での宣教というのは、情報戦という側面もあったのでしょうね。信仰の話をすることに加えて、様々な「宣べ伝える」ための技術と戦略が必要だったんじゃないかと思います (*゜.゜)ホムー


妙覚寺町

妙覚寺町

日本基督教団 京都教会


「私、京都で仕事して何年にもなりますけど、こんなに町を練り歩いたのは初めてです」

同行者のA子ちゃんの言葉を聞きながら、ほんと今日はよく歩いてるなーと思いました。

京都は史跡が多いので、移動しながら続けて見て行くことができるからでしょうね。「練り歩く」っていうのは、たぶんお祭か何かのときに使う言い回しだと思うけど。。(^。^;)

こちらは日本基督教団の京都教会。プロテスタントの歴史でも京都は画期的なことがあった町として挙げることができます(その話はまた別の機会に・・・)。昔の歴史だけじゃないということですね☆


日本基督教団 京都教会

古い教会堂

日本基督教団 京都教会

蒲生氏郷邸跡


これまた少し歩いた所にあるのが、こちらの公園。「京都二条柳馬場通り上ル」というとこの辺りになるので・・・、たぶんここが蒲生氏郷邸跡です。

本などで「ここがそうだ!」と書いてあるものを見たことがないので、住所から類推した私の見立てに過ぎないのですが (T▽T)

樹齢何百年かになりそうな木が、その予想を裏付けているようにも見えるのですが、立派な学者さんが比定してくれないことには、何とも言えません。まあでもこの辺りだったことはほぼ確実。御所にも旧二条城にも近く、有力武将の屋敷があってもおかしくないロケーションですし☆

蒲生氏郷終焉の地


それでもしここが蒲生氏郷邸跡ならば、蒲生氏郷終焉の地でもあります。秀吉を迎えたこともありました。蒲生氏郷の亡くなるには早い死を、「秀吉が毒を盛ったせいで、そのことを悟った氏郷は辞世の句にそれを詠み込んでいる」という説を唱える人もいますが、それはなかっただろうなと私は思います。

秀吉が自分の主治医の曲直瀬道三(まなせ どうざん)が名医だからと、氏郷の元に行かせたことはあるので、薬の処方もしたでしょうが、このお医者さんはキリシタン。同じ信仰を持つ人に、毒を盛って殺すとは考えにくいです。特に曲直瀬道三は真摯な信仰の持ち主だったようですから。こういう点ではもしかしたら、世の研究者より信仰者の方がもっと気づけることがあるのかもしれませんね。

ならば高山右近も来たはず!


そしてここが蒲生氏郷終焉の地ならば、高山右近も来たはずです。この時右近は、信仰のゆえに大名の座を捨てて、金沢で客将として暮していたのですが、氏郷の命が消えようとするのを聞いて入洛。キリストの聖画と十字架を氏郷の手に持たせて、天国の希望を抱いて信仰を全うするよう励ましました。

氏郷の病状が悪化してから、何度も神父が氏郷邸を訪れて終油の秘蹟を受けさせようとしましたが、親族は秀吉の勘気を恐れて面会を許しませんでした。しかし右近が予め神父からそれに相当することをできるよう習って行ったので、氏郷はキリシタンとして亡くなることができたのでした。

自分が伝道してキリシタンになった友を、入信の時だけでなく、信仰が弱くなったときは助け、最期を看取るまでして支え続けたことを、本当にすごいなと思います。伝道というのは、そこまで面倒を見ることなんだと気づかされるし、私たちの信仰の先輩たちはそれをちゃんとやったんだなと☆


蒲生氏郷邸跡

蒲生氏郷邸跡

京都ハリストス正教会


蒲生氏郷邸跡(私見ですが^^;)の真横にあるのが、京都ハリストス正教会。

日本正教会の教会で、この聖堂は1901年竣工なのだとか。

一般に「ロシア十字」と呼ばれたりする八端の十字架が誇らしげに青空にそびえていますヽ(‘ ∇‘ )ノ


京都ハリストス正教会

教会の解説

教会の解説

教会の解説

 ラストは黒田如水邸跡 (o ̄∀ ̄)ノ

如水町


そろそろ夕方に差しかかってきたので、本日のラストは黒田如水邸跡にしようということに♪

バスに乗って一条戻り橋辺りで下車して、地図にマークしておいた所に向かいました・・・が、なかなか碑が見つからなくて苦戦((+_+))

通行人に聞いてみても知らないという返答ばかりで、大河ドラマ「軍師 官兵衛」の影響はそんなにも限定的なの!?と、ショックを受けるほど。官兵衛ゆかりの「如水町」や「小寺町」に今実際に住んでる人たちや学生までもが、首を横に振るばかりで。。

こんな状況とは全く予想外でした。私たち以外にも訪ねて来ている人たちが大勢いるかもと思ってたのに。この分じゃ官兵衛がキリシタンだったことを知る人も相当少ないんだろうな。

「住所が一条通猪熊西入だからぁ・・・」と、結局道と筋の名前だけを頼りにぐるぐる。そうこうしながら予期せぬ史跡も見たし、まあこの辺全部が官兵衛の屋敷だったんだよなーと思って慰めを得たりしましたが、それでもやっぱり碑があるなら碑が見たい!


小寺町

細川勝久屋敷跡

解説板

一条通猪熊西入

黒田如水邸跡!!


半時間ほど歩き回り、店じまいをしている八百屋さんに訊いて、ようやく発見。

これが黒田如水邸跡「碑」です☆

電柱や室外機と並んでいて、すっかり背景に溶け込んでしまっていたので前を通り過ぎてしまったようです...(ーー;)

でも、今私たちが歩き回った所がすべて、官兵衛も歩いた所だったんだろうと思うと、歩き回って良かったかなと思います。400年ほど時間は隔たってるけれど、同じ神様を信じ、同じ主を愛し、苦悩しながらも前へと進もうとしていた姿が瞼に浮かぶようで、夕暮れの中での感慨はひとしおです。


黒田如水邸跡

黒田如水邸跡

黒田如水邸跡


   過去は鍵のようなものだと


    過去への感謝はちょうど鍵のようなものだと
    うちの教会の牧師さんが言ってました。

    過去してもらったことに感謝する心は鍵で
    現在して欲しいことや願い事は錠前。
    錠前を開けたければ、ちゃんと鍵を使いなさいと☆

    人は大抵これからもらうものにばかり関心を払って、
    過ぎた日に大きなことをしてもらったかは忘れがち。
    でもそれを逆転させなければと思います。

    今日一日歩いてみても、歴史の中には感謝することがいっぱい。
    たくさん鍵を見つけ出して、未来の扉に向かいたいな。
    そんな旅になるよう導いてもらえますように――ヾ(●⌒∇⌒●)ノ




                                          NEXT >>