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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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 千年の都から永遠の城へ Ⅱ


   史跡巡りツアーの下見は昨日のうちに完了したので、
   今日は自分の行きたい所へと向かいます♪

   3泊の宿泊を快く引き受けてくれた親友Aの家から
   地下鉄と京阪線を乗り継いで伏見へ。
   埋もれた歴史を掘り返してこようと思いますp(*^-^*)q


伏見港公園


京阪線「中書島駅」で下りて徒歩1分で「伏見港公園」に到着。ここが昔「伏見湊(みなと)」と呼ばれた港があった場所・・・なのかな?

運動公園ぽくなっていて、史跡的な雰囲気は漂ってきません。「伏見湊」の跡ならば解説板くらいあっても良さそうなのに。おかしいなぁ...(○ ̄ ~  ̄○;)ウーム

伏見みなと公園


公園にいても埒が明かないので、第二の目的地 京橋へと歩いて行くと、右手に「伏見みなと公園」を発見!

こちらは往時の「伏見湊」を意識した造りになっていて、それらしい風情を漂わせています。でも現在の地図と古地図を見比べると、やっぱり「伏見湊」の位置は「伏見港公園」。

こちらはより観光に便利な立地に再現されれた「伏見湊」をイメージした公園のようです。ただし昔からの商家が川沿いにあって、「伏見湊」から川を上ってここまで船は来ていたようですから、荷物の揚げ下げに用いる船着場があったんでしょうね。それらを総称する形で「伏見みなと」公園と名付けたのでしょうか☆

伏見湊に注ぐ川


伏見湊へとつながる川は、今も健在。伏見湊も淀川に面した湊であり、そこから川を経由して大坂方面に往来していたのです。

「伏見といえば龍馬!」と考える人も多いのか、公園内には龍馬とおりょうの像も設置されています。完全に観光客用ですね。

しかしキリシタン史でも重要な位置を占める「伏見」についてももう少し知ってもらえたらいいのになと、思ってしまう私がおります。伏見のキリシタンの歴史を、ざっと説明させてくださいまし ъ( ゜ー^)♪


観光マップ

向かいは長州藩邸跡

伏見みなと公園

伏見みなと公園

伏見におけるキリシタン


ミヤコにおける南蛮寺建設とキリシタンの隆盛、伴天連追放令後の教会閉鎖については昨日の旅行記で書いたとおりですが、この後伏見が歴史の表舞台に登場します☆

1587年の伴天連追放令で多くの宣教師はミヤコを追われましたが、オルガンティーノ神父だけが残って静かに信徒の司牧をしていました。

1594年になると秀吉は伏見に指月城を築いて、ここに居を移し、キリシタンに対しての弾圧を中断して、フランシスコ会やイエズス会に対して伏見城下に教会用地を与えたので、伴天連追放令は空文化したに等しい状況になりました。機を待っていた宣教師たちは伏見に移ってきて再び活動し始めます。

しかしやがて天下は徳川家康のものとなり、1614年幕府により全国にキリスト教禁令が出されると、キリシタンだというだけで死罪とされるようになりました。当然伏見においても激しい迫害があり、多くの信徒が検挙され、投獄され、処刑されました。残された記録からは、伏見がこの地方のキリシタン弾圧の中心的役割を果たしていたことがわかります。

宣教師の足を支えた2つの湊


さてミヤコへ最初に入洛した宣教師はフランシスコ・ザビエルですが、どのような経路を辿って到着したか足取りを追うと、そこにも伏見の名が出てきます。伏見にあった2つの湊、「鳥羽湊」と「伏見湊」です。

1551年1月にミヤコに至ったザビエルは、戦火のため宣教が可能な状態にないことを知り、わずか11日間でミヤコを後にします。

その時「鳥羽湊」から小船に乗って堺へと向ったと書かれており、これが伏見の下鳥羽辺りにあった湊で、現在では完全な陸地と化しています。この「鳥羽湊」をヴィレラやフロイスも利用し、天正遣欧使節の4人の少年を引き連れたヴァリニャーノ一行が上陸したのもここでした。

しかし1592年秀吉が伏見に着目し出して以降、状況は一変します。伏見城を中心とした交通路が整備され、「伏見湊」がミヤコへの新しい玄関口となったのです。伏見が天下を左右する枢軸たる地位を得たので、宣教師たちもここを訪れ、秀吉を表敬訪問するようになりました。

1594年にはフランシスコ会のバプチスタ神父、1596年にはイエズス会の3人の神父とその一行が秀吉を訪問しています。また1598年にはロドリゲス神父が臨終間際の秀吉を訪ねています。当然彼らは「伏見湊」を使ったはずですが、前年に「記録魔」ともいうべきフロイスが死去していて、詳細に記したものがありません。

いずれにせよ、信長から秀吉の時代に伏見は、多くの宣教師が様々な思いで踏んだ地であったということです。


龍馬とおりょうの像

解説碑

公園内

淀川の支流

京橋


伏見みなと公園から徒歩2分で京橋に。

昔一番人通りが多く栄えていたのはこの橋の付近だったので、西北詰めには高札場が設けられていました。

伏見口の戦いの激戦地だったことや、下に船着場があったことなどは説明板に書かれていますが、ここに高札場があり、罪人やキリシタンが晒されたとはどこにも書かれていません。

人が亡くなった所を不吉だと考えて、それを告げないことはままありますが(不動産賃貸で事故物件である場合は告知しないと処罰の対象なんですが)、戦があったことを書いているくらいなら、キリシタンとの関係を書いていいんじゃないかと思うんですが・・・。深く突っ込まないことにしましょう☆

伏見の殉教者ジョアン兵右衛門


伏見の殉教者ジョアン兵右衛門(兵左衛門とも)は安芸国出身の武士。若い頃は毛利家に仕えていましたが、後に駿河に来て受洗。キリシタンとなりましたが、それゆえに駿河を追われることとなり伏見にやって来ました。

1614年全国に禁教令が発布されると、近隣住民にキリシタンであると奉行所に訴えられたジョアン兵右衛門夫妻とその他のキリシタンは、衆人の晒し者にするため、俵に入れて首だけ出し、伏見で最も賑やかであったこの京橋の上に丸2日捨て置かれました。

それが終わると牢に入れられ、妻だけが釈放されましたが、ジョアンは京町通の札の辻に建てた松の柱に、裸で両手を後ろにして縛り付けられ、6日間放置されました。彼の頭上にはこれがキリシタンである故の書付が掲げられていました。6日後に役人が来て縄を解き、市中を引き回しにして牢に入れ、そこで数ヶ月間過ごすこととなりましたが、その間に3人の役人に福音を説き、洗礼を施しました。

そして1614年12月26日の晩、京橋近くの川原で斬首されました。この時1人の女性と2人の男子も処刑され、彼らの遺体は五分刻みに斬られて淀川に投げ入れられたと伝えられています。

そんなむごいこと・・・確かに解説板に書くには躊躇せざるを得ない内容ですね。しかしこういう史実を忘れてしまう、糊塗してしてしまう、まるで無かったかのように扱ってしまうことの方が、よっぽど恐ろしいのではないかと思います。


京橋の解説板

下を流れる川

伏見口の戦いの激戦地

解説板

 寺田屋に寄って教会跡へ★

寺田屋


次なる目的地に歩を進めつつ、寺田屋も外から見学しました。今も営業中なのだとか。

寺田屋騒動の場所として、訪れる人も多いのか、それらの人たちを満足させるための小公園も隣に造られています。

まだ早いので開いてませんが、ひと休みするには良さそうですね☆


寺田屋は支度中

店前の碑

寺田屋騒動について

隣の小公園

伏見の商家


淀川の支流に沿って、造り酒屋の黒壁が続いています。黄桜や月桂冠など、有名酒造メーカーの名前が見受けられます。

伏見は狭い町なのに、酒関係の建物には大型バスが停まれる広々とした駐車場が完備されていて、こういうスポットを目当てに来る観光客がいかに多いかを物語っています。

松林院陵という皇室関係者の御陵もあって、その横手に私めの目的地があるのですが・・・∬´ー`∬ウフ♪


町並み

商家

松林院陵

松林院陵

キリシタン時代の教会跡


ついに来ました、伏見南浜小学校!

この小学校の校庭が昔教会だった所なのです☆

高山右近も出入りしていたはずなんですよ、ひゃっほー。

あ、舞い上がってないでちゃんと順を追って説明しますかね♪

1600年代の伏見の教会


1601年、家康から伏見に土地を与えられたフランシスコ会士ヘロニモ・デ・ヘスス神父はそこに教会施設を建てました。また1602年にはイエズス会士のオルガンティーノ神父が伏見に教会を建設。ロドリゲス神父により初ミサが立てられ、70人が洗礼を受けました。

これは前年に家康に教会用地を懇請し、家康が快諾して与えた土地の上に建てられたものでした。しかしこの2つの教会のあった場所は、どこであったか今では全くわかりません。非常に残念なことです (>o<")

1604年にイエズス会は伏見でより広い土地を入手して、そこにも教会を建てました。それが今目の前にある南浜小学校の校庭なのです。ここにあった教会は1614年に破壊されるまで存在していました。この時教会は、為政者や周辺住民を刺激しないよう、一信徒(マルコ孫兵衛)の名義で、一見教会とはわからないよう民家風に建てられていたということです。

高山右近とマルコ孫兵衛


このマルコ孫兵衛は高山右近の従兄弟、あるいは義兄弟といわれていて、茶人でもありました。孫兵衛の息子の妻は、キリシタン大名内藤如庵(右近らと共にマニラに追放された)の娘。

なので孫兵衛は町人でありながらも特に高い身分の者(家柄町人)で、高山右近や内藤如庵と姻戚関係を結ぶほどの家柄だったと推察できます。また右近、如庵が国外追放となりマニラに赴く際、一緒に流されたのではないかと考えられています。

土地も教会も孫兵衛の名義でしたが、古地図「豊公伏見城ノ図」にはその名は見当たらず、この場所にははっきりと「高山右近」と記されています。これは高山右近がこの教会を足繁く訪れていたので、周辺の者は地図作成者も含めて、ここを右近のものであると考えていたからであろうといわれています☆


幼稚園と小学校の入口

伏見南浜小学校

伏見南浜小学校

平戸橋


さて南浜小学校は栄光の記憶の残る場所ですが、ここからは殉教路です。淀川に向う道の途中にあるこの小さな平戸橋は、処刑地へと引かれて行く殉教者が渡った橋。

もちろん今のコンクリートの橋ではなく、木橋だったでしょうが。左手に行くと伏見奉行所に至ります。京橋で俵に詰められ、札の辻で晒し者となったジョアン兵右衛門は、ここを通って命を天に捧げに行ったんですね。

伏見の殉教地


そして今も滔々と流れる淀川の河原、ここがジョアン兵右衛門らの殉教地です。

日差しがまぶしく、憎たらしいほど良い天気。

土手に傾きかけた碑が2基あったので、もしかしてキリシタンのことでも書かれていないか、せめて処刑地であったことだけでも・・・と思って見てみましたが違っていました。

1619年の殉教者イグナチオ七右衛門


ここでキリシタン殉教者をもう1人、ご紹介したいと思います。名前はイグナチオ七右衛門。近江国の人で、京都の大殉教(元和の大殉教のうちの一つ)と同じ日である1619年10月6日に、この河原で火刑になりました。殉教のとき30歳くらいだったと記録には書かれています。

そもそも京都の大殉教は伏見城にいた徳川秀忠から発せられており、キリシタンに好意的だった京都所司代の板倉勝重がやむなく行ったものですが、京都所司代は伏見奉行等を統括していたので、京都の大殉教の知らせを聞いた伏見奉行が、同日の内に伏見でもキリシタンを処刑すべしと考えて、七右衛門を牢から引き出して、火刑に処すると宣告し、刑場へと送ったのです。

あまりに急なことであり、七右衛門自身も恐れることなく粛々と処刑場へと赴いたので、伏見のキリシタンたちが後を追うこともできないほどでしたが、奉行所にとっても突然のことだったので、必要な薪がなく大変困ったようです。

役人たちが薪を取り寄せにかかっている間に七右衛門は祈り、傍らで騒ぎ立てる役人に「静かにして欲しい」と丁寧に頼みました。

やがて柱に縛り付けられ火がつけられると、七右衛門は主祷文を唱え始め、途中煙でむせましたが、祈り続け、最後の「アーメン」を唱えてから息を引き取りました。祈りで結んだ生涯だったと言えるでしょうか。


淀川の河原

淀川の河原



 現代の教会を見つつ伏見奉行所跡へ

カトリック桃山教会


殉教地を後にして、奉行所のあった方に向かいます。途中に寄ったのがカトリック桃山教会。

住宅街の只中にあり、庭のマリア像が清楚な微笑をたたえているのに比して、不釣合いかと思うのが、家の壁に直接書かれた教会名。

風情があるとは言い難いと思うんですけど、信者さんたちは気に入ってるんでしょうかね?


カトリック桃山教会

カトリック桃山教会

マリア像

教会案内

日本基督教団 世光教会


大型車がスピードを上げて通り過ぎる、歩道を歩いていても危険を感じる大通りを進んで行くと、クリニックなどの入ったビルに教会を発見。

建物には住宅もあるようで、ここに住んで教会に通うのもアリな感じ?

教会用の入口が一階にあって、モダンな印象です。


日本基督教団 世光教会

入口

伏見奉行所跡


歩道橋を渡って道の対岸へ。

そこに広がる大規模な団地の敷地が、奉行屋敷の跡地です。

駅に近い方の団地入口には「伏見奉行所跡」の碑がありました。

なるほど団地の壁も外塀も黒塗りで、奉行所っぽさを出しているみたいです。罪人を捕らえるという正義のイメージで、奉行所を捉えているのかもしれませんが、私から見たら無辜のキリシタンを逮捕して処刑までした役人がいた所。イメージとしては権威的で思考停止しているといった感じです。

ここに住んでる人たちもまた無辜の人々なのだから、あんまり激しく書くのは控えておきたいところですが・・・。ポイントは歴史の教訓ですね。得た教訓を現在に生かしていくために歴史を振り返り、学ぶという。

それをちゃんとしていかないと、「キリシタンにとって悪いことがあった場所」と断罪していくだけになってしまうので。それでは私も思考停止状態ですもんね (;-_-) =3 イカンイカン


伏見奉行所跡

解説銘板

団地の壁

外塀

高札場跡


しばらく歩いて駅から伸びる道と交差する十字路へ。こちらが京町通の札の辻。高札場のあった所です。

ここにジョアン兵右衛門は衣服を剥ぎ取られて柱に縛り付けられ、6日間晒されたんですね。

人の尊厳を奪い、衆人が眉をひそめるような醜い姿に貶められても尚、そこには人間だけが持ちうる真の輝きがあったのだと信じます。これを美しい言葉で飾ることはすまいと思います。ただ事実だけを。

6日後に再び牢に入れられた兵右衛門は、そこで信仰を説き役人3人ほどを伝道。兵右衛門が殉教するときに、このうちの1人も殉教したのです。この事実だけでも、真の輝きの意味を十分伝えてくれるのではないでしょうか。


京町通札の辻

神社に続く道

牢屋跡


では伏見で最後の目的地へと参りましょう。こちらがキリシタンが入れられた牢屋の跡・・・だと思うんだけどな。

「キリシタン牢屋だったところが、後に憲兵隊関連地となり、その後国税局の寮になったけれど、現在は空き家であり、近く解体作業が始まる(?)」みたいなことが本に書いてあったんですが。。

駐車場とコンビニがあって、コンビニは新しいからその前に寮だった可能性はあると思いますが、何しろヒントになるものがないので、到底自信を持ち得ない感じです。どうしよう。牢というだけでなく殉教地でもあるんだけど...(>_<)

牢死したキリシタンたち


場所に自信が持てないので、「牢屋跡(仮)」として話を進めますが、入牢して、牢内で亡くなったキリシタンがいます。信仰のゆえに牢獄に投げ込まれ、若いのに牢死してしまったのだから、彼らも殉教者だと考えていいかと思います。

入牢したキリシタンの名前は小左衛門、久次郎、久平。3人は家族で、小左衛門が父、久次郎と久平はそ息子たちでした。1649年、小左衛門がキリシタンであるという訴人があり、奉行所で調べてみたところ本当だったので、3人が捕らえられ牢に入れられました。

指導的役割を果たしていると考えられてか、まもなく小左衛門だけが江戸送りとなり、牢には兄弟が残されました。それから1年半余りして久平は15歳で牢死し、久次郎は18年の長きに渡りそこで暮して45歳で牢死しました。2人とも牢から出たのは死んでからですよ。これを同じクリスチャンとして書かずにいられますか。

「牢屋跡(仮)」としか書けませんが、彼らのことを省略する気になれなかったので記しました。ついでに誤解なきよう書きますが、キリシタンの殉教は決して「恨みを遺して・・・」というような呪わしいものではありません。

処刑する役人さえも許してこの世を去るのが彼らの流儀ですから。また天国への望みを抱き、自分が死ぬ日を、天で主に会える日として祝うことさえありました。だから幽霊となってこの世をさまよって、悪さをするということもないと考えていいかと思います。

これも同じクリスチャンとして、十分言い切ることができることです。


牢屋跡(仮)

牢屋跡(仮)

弾痕が残る家


鳥羽伏見戦の弾痕が残る家など、幕末の舞台としての伏見も味わいつつ駅へ。

伏見は、発展→弾圧→殉教というキリシタン史のパターンを凝縮して一気に見ることができる地だなと思いました。

しかし政府機関のお膝元であったことから、日本のキリシタンの記録は徹底的に抹殺されており、研究者もあまり伏見に関心を持っていないように感じます。

京都のキリシタンゆかりの地や殉教地を紹介している本はあっても、伏見まで網羅しているものを見たことがありません。しかし歴史を紐解いてみると、見過ごせない事実に次々と遭遇します。

京阪地域のキリシタンを語る上で、伏見は欠かせない存在なのだと知りました。来てみるまではこの町の重要さがわからなかったのですが、この町を訪れるようにしてもらったことを今は感謝しています♪

私みたいな者に、こんなにすごいことをたくさん教えてくださって・・・。この感謝、行いで返していけたらいいな (^O^)/


鳥羽伏見戦の弾痕

鳥羽伏見戦の弾痕

駿河屋

京町通の解説

朝ごはん♪


なんだか一日の終わりのような心境ですが、まだ午前10時にもなっていません。早朝スタートで時間的には余裕ですが、体力面には不安がよぎります (;^_^A

ということで、ミスドで朝ごはん。何だこの白くて柔らかいものは!(おかゆです...)
ファーストフードも進化してますな。私も進化せねば♪

 大阪の史跡めぐりへヾ(´▽`*)ゝ

熊野街道


滞在地である大阪に戻ってきて、とりあえず絶対に行きたい所へと向かおう、、としたのですが方角を間違えてしまい半時ほどウロウロ (+_+)

予め考えていた順番ではなくなってしまいましたが、これも導きかと進んで行き、何気なく左手に伸びている道(熊野街道)を撮りましたが、後で調べてみたら26聖人の歩んだ道でした!

ほんとに導いてもらっているんだなと実感☆(方向音痴なおかげで、かえって導かれやすい!?)


熊野街道開設板

前島密

近代郵便の父

歴史ある建物も

高麗橋


徒歩7分ほどで高麗橋に着。26聖人が通ったと考えられている橋です。

上を高速道路が通ってしまって、しかもインター入口でもあるので、せっかく櫓を模した柱を建て、碑や解説板を整備してあるのに雰囲気が台無し (/_<。)

府や市の交通関係の部署と観光関係の部署がバラバラなのかなぁ? 利便性を先に追求してしまい、後で美の帳尻を合わせようとしたけど無理だった、という印象を受けました。こういう行政、各地で見られますよね。


高麗橋

西日本の里程基準

解説板

擬宝珠(ぎぼし)

松屋町筋


近辺に他にも史跡があると矢印で示しているものがありましたが、心を鬼にしてスルー。大阪も史跡の多い街なので、あちこち寄っていたらキリがないのです(* ̄0 ̄)/

さてこの松屋町筋、26聖人が歩んだかもしれないと思って通りましたが、後で違っていたと判明。今はこちらの道の方が広いけど、江戸時代は熊野街道の方が主要な道だったので、市中引き回し的な観点からも、そちらを通らせたと考えるのが合理的です。

しかし26聖人が大阪に足跡を残していたということを知らない人が多いので、そういうことを是非知って欲しいですね。26聖人は日本で最初に、国の最高権力者の命令によって処刑された殉教者で、カトリック教会から「聖人」の認定を受けた人たち。日本のみならず海外にも、この26聖人に捧げられた教会があるくらいです。

聖人たちの祈りを受けた街


大坂の教会で活躍していたパウロ三木もその1人なのですが、長崎で十字架にかけられて絶命するまで説教をやめなかったと伝えられています。道中でも人々に真理を説き、牢の役人を伝道しようとしていました。牢ではみんな讃美して・・・。

彼らが最後の見納めだと思ってこの街を通り過ぎて行くとき、祈らなかったはずがありません。聖人たちの祈りを受けた街だということを、この街に住んでいる人たちにこそ知ってもらいたいです☆

二十六聖人が泊まった


10分ほどで26聖人が泊まった牢があった場所に到着。現在の中大江小学校です。

26聖人は秀吉の頃の人で、その牢は焼失したのですが、江戸時代の古地図にここが牢屋だったと書かれていて、恐らく同じ場所に建てられたのではないかと考えて、ここだと推定。

熊野街道を挟んだ所にある中大江公園も牢屋敷だったかもしれません。

二十六聖人の道程


26聖人の道程は京都に始まります。1597年1月3日、小川通御池の牢屋敷(六角牢)を引き出された24名(途中で2名加わり26名になったので、この時は24名)は、一条戻り橋で左耳たぶを切り落とされ、血を流しながら京の市中を引き回されました。その晩は六角牢に戻って夜を過ごし、次の日大坂に向って歩き始めました。

京都から大坂への道は陸路を取ったか船に乗ったか、大きく2つの説があるのですが、いずれの場合も東寺口を出て伏見まで南下して(陸路なら京街道を取り、乗船したなら淀川を下って)、八軒家浜から熊野街道を経由してこの辺りにきたと考えられています。そして翌1月5日には堺に向かいます。

わざわざ堺を回らせたのは、当時の堺が日本の中心圏への玄関口ともいうべき港町であり、1551年にザビエルが来て宣教し、日比谷家や小西家(キリシタン大名小西行長の実家)が信徒となった町だったからでしょう。

堺で沙汰待ちで3泊して、もう一度26聖人は大坂に戻ってきます。それで1月9日の夜もまたここに泊まり、10日は朝早く出発して兵庫まで約42キロを歩いています。毎日随分な強行軍だったことがうかがえます。

1月の厳冬の空の下、彼らは何を見て、何を感じながら死への道程を歩んでいったのでしょうか。


中大江小学校

中大江小学校

日本聖公会 大阪聖ヨハネ教会


中大江公園の向かいに十字架を発見。日本聖公会の大阪聖ヨハネ教会です。

立派な新しい建物が建てられていますが、横手にある古い教会が元々の教会なのでしょう。

入口に当たる場所が手狭になっていますが、こちらの教会堂の方が趣を感じます☆

26聖人ゆかりの地に建っていることを、教会の信徒さんたちはご存知なんでしょうかね? さすがに知ってるかなヾ(@゜▽゜@)ノ


聖ヨハネ教会

古い教会堂

聖ヨハネ教会案内

中大江公園

 大坂の教会はどこにあった?


八軒家船着場跡


大阪城の西部をぐるっと一巡して、最初に目指そうとした所に来ることができました。八軒家船着場跡です☆

淀川を下って大坂の中心部に至る川の道は、大坂城築城の際に大いに利用されたルートでした。

イエズス会の大坂教会は天満橋の辺りにあったとされ、宣教師の記録には石の積み下ろしの声がよく聞こえていたとあります。

そうした作業が八軒家船着場では日常的にされていて、昔の地層からも普請用の石が見つかっています。つまり、ここから天満橋にかけての辺りに、イエズス会の大坂教会があったであろうと推察されるのです。

この教会で、黒田官兵衛(キリシタン大名)や牧村政貞(武将で利休七哲の1人)は洗礼を受けました。ロマンだなーと思うんですがいかがでしょ (≧∇≦)ワー♪


八軒家船着場跡

八軒家船着場跡

周辺

周辺

天満橋


淀川から枝分かれした大川は、この辺りで堂島川と名前を変え、西へと流れていきます。

川の水は濁っていますが、晴れ渡った空がビル群に映え、都会独特の美しさを作り出しています。

イエズス会の大坂教会があったのは、天満橋の辺りとしかわからないけれど、こんな晴天の日にはその教会もきっと、都会ならではの美しさに輝いたんだろうな☆

イエズス会の大坂教会


1582年、信長が本能寺に斃れたとき、河内岡山には美しい大聖堂があり、ミヤコのキリシタン寺にはペトロ・ゴメス神父ら3人がいましたが、安土から逃れて来たオルガンティーノ神父らが加わったので、修道院が手狭になり、高山右近の所領地高槻に移ったりしました。

1583年9月、信長亡き後の天下を手中に収めた秀吉は大坂に城を築き始めました。そこへオルガンティーノ神父とロレンソ修道士が秀吉を訪ね、河内岡山の聖堂を移すべく教会用地を城下にいただきたいと願い出ました。これは右近の助言を受けて申し出たものでしたが、機嫌よく秀吉は書付を渡して、教会移築を認めました。

高山右近の尽力で河内岡山から移築


右近は戦乱で教会が窮乏していることを思って、移築のための費用を出し、聖堂の材木を大坂に運ばせて建築に着手、完成させました。それで大坂教会にはオルガンテイーノ神父と2人の修道士が住み、河内岡山には修道院だけが置かれることとなりました。

1583年のクリスマス、新しい大坂の教会で最初のミサが立てられました。このミサに摂津や河内はもちろんミヤコや堺からも多くのキリシタンがやって来て参列。関西地区のキリシタン宗門の中心が大坂に移った瞬間でした。

前出の黒田官兵衛や牧村政貞が受洗したのは1585年頃。1587年の伴天連追放令まで、大坂の教会はどんどん発展して栄えていきました。そんな教会がここにあったんですねぇ。。(´▽`)


天満橋から

てんまばし

周辺地図

周辺

大坂奉行所跡


大阪城の方へ少し歩いて、今度は合同庁舎1号館へ。工事中で見えずらくなっているのですが、ここ大坂の東町奉行所が置かれていたことを表す碑が建てられています。

1615年豊臣家が滅び、幕府は1619年、大坂城を中心とした豊臣旧領を幕府直轄地とし、大坂に東西町奉行を置くようになりました。

大坂では豊臣秀頼の時代はキリシタン迫害はあまりありませんでしたが、徳川政権が確固たるものになるにつれ厳しくなり、殉教の地となっていきました。

大坂のキリシタン殉教地は?


大阪在住の人にたまに「大坂の殉教地はどこだったんですか?」と聞かれるのですが、2つのパターンで説明しなくてはなりません。まず大阪市内で殉教したキリシタンについてなんですが、名前はわかっているのですが、殉教した場所についてははっきりとはしていません。

次に大阪府内の大阪市以外の地域での殉教につていは、「ここでキリシタンが処刑された」という伝承が残っている場所が何ヶ所かあるのですが、いつ誰がどのようにといった詳細が、ほとんどの場合不明なのです。

中には、キリシタンがいたという記録が全くない所まで「信徒がいたし、殉教地でもある!」と主張する人がいて、若干混乱を招いている状況です。

実は今回私が「大阪をしっかり歩いて、見てみよう」と思っているのも、それらを整理したいという希望を抱いてのことです。私は歴史研究ではど素人ですが、知りたい気持ちだけは強いので、もしかしたら何かの発見があり、個人レベルででも一つの答え、あるいは答えへのヒントが得られないないかな、と思いまして。。

大坂でのキリシタン処刑


現在の大阪市内でのキリシタン処刑で、わかっているのは以下の5つです。

1612年7月7日、肥後国出身のレオ嘉右衛門35歳が処刑された。彼は1602年筑前の博多で受洗した者だった。

1632年1月13日、パウロ山本彦太夫と妻マリアが火刑となり、その子供たち4名が斬首された。

1632年12月13日、フランシスコ会のヒネス・デ・クエサダ神父とホアン・デ・トレリヤ神父が高野山みちの天下茶屋周辺で火刑となった。

1636年2月25日、ディエゴ結城神父と同宿ミカエル草庵が処刑された。ディエゴ結城は室町幕府第13代将軍足利義輝の弟 足利周暠(あしかが しゅうこう)の孫で、殉教したとき62歳だった。

1644年、マンショ小西が処刑された。彼はキリシタン大名小西行長の孫にあたり、彼の死によって日本国内に正式に叙階された神父は存在しなくなり、以後明治時代まで日本人神父は誕生しなかった。

このうちの、2番目の処刑は大坂奉行所近くの淀川河川敷で、4番目5番目の殉教地は大坂奉行所の牢ではなかったかと、私は考えています。その理由についてはまた稿を改めて・・・。


合同庁舎1号館

東町奉行所跡

合同庁舎1号館

大阪城はすぐそこ

 大阪城もやっぱり一度は見てみよう (゜0゜)!

小さく見える大阪城


多少へそ曲がりなところのある私は、メジャーな観光地が苦手。人混みが嫌いだということもあり。。(^^;)

しかし、やっぱり一度はちゃんと見ておいた方がいいなと思うものもあり、その一つがコレ。大阪城です。

小さく見える大阪城。辿り着くのにも結構時間かかりそうだと、心の中でため息つきつつ・・・それでも、向ってみますか☆


お堀

石垣

京橋口

巨石解説板

大阪城


近づいてみると、その威容に圧倒されます。まだ堀を挟んでいるというのに。城というのは、特に平城(ひらじろ。平坦な所に建てられた城)は、力を見せつけて、相手が立てつかないようにさせる装置でもあったんだなと感じました。「これ攻めるの大変だな、こんな城建てちゃうような権力持ってる奴、敵に回すのどうかと思うし。とりあえず和睦結んどく?」みたいな (゜~゜)


内堀

内堀解説

石垣

京橋と城

刻印石広場


城内に入ると、「刻印石広場」と名付けられたエリアが。

城普請の際、諸大名が各地から運んできた石があるのですが、そこに付けられた目印を観賞できるようにした野外広場です。

これを見ていると、「石に十字のマークが刻まれているからキリシタンと関係があるんだ!」などという発想は、非常に短絡的なものであると考えざるを得ません。

十字は昔から日本で使われてきたマークで、キリシタン特有のものではないことがわかりますし、形自体がとてもシンプルなので、様々な印を描く場合に基本形として使われることが多いこともわかります。

つまりどこにどのように現れてきても、別段不思議はないくらいありふれたものだということです。「十字模様(変形も含めて)=キリシタン」とすることは大変危険で、研究を誤った方向に向けさせる危険性があると思います。

もちろんだからといって、すべてがキリシタンと関係がないとは言い切れません。精密に見ていくべきなんでしょうね☆


マーク解説

刻印石

マーク解説

刻印石

秀頼・淀君自刃の地


刻印石広場のすぐそばにあるのが秀頼・淀君自刃の地。

追い詰められて山里丸にあった櫓に逃げ込んで自刃したのだとか。花を手向ける人もいるのかな。

人生って、何でもすごくうまくくときがありって、それで驕っていると突然運命が逆回転していくようなときがあり・・・。

1615年だから、秀吉が死去してからたった8年ですね、豊臣家が滅びるまで。家康もその翌年にこの世を去るのだから、「誰の世」とも、ほんとは言えないのかも。


秀頼・淀君自刃の地

秀頼・淀君自刃の地

残念石

残念石解説碑

天守より


大阪城は「太閤さんのお城」とも呼ばれるほど、秀吉のイメージが強いですが、現存する櫓や石垣などは徳川時代のもの。

元々石山本願寺があった所に秀吉が築城し、それが大坂夏の陣で焼失した後、徳川秀忠が豊臣時代のものに高さ数メートルの盛り土をして縄張を改め再建しました。

しかし1665年、天守に取り付けられていた鯱に落雷が命中して炎上。たった2時間で天守は焼け落ち、以後昭和になるまで天守のない城でした。現在の天守は1928年、大阪市の再建事業で市民の寄付を募って建てられたもの。内部は資料館になっています。

2つ、いえ3つの皮肉


秀吉の大坂城は、初代築城総奉行だった黒田官兵衛が縄張を担当。官兵衛の屋敷も天満橋周辺にあったようです(正確な場所は不明。調べたいっ)。

築城し始めてから32年間しかなかった城なのに、未だに「太閤さんのお城」として認識され、館内のミュージアムも秀吉一色だなんて、10倍も長く支配した徳川家にとっては皮肉ですね。秀吉時代の城は数メートルの地下に埋もれていているのに。

徳川家の大坂城天守も皮肉です。火除けのまじないとして取り付けられた鯱に、雷が落ちて火災となったなんて。今年は大坂冬の陣からちょうど400年だということで、それを記した賑々しい幟が並んでいます。

来年は大坂夏の陣と豊臣家滅亡から400年だと書き換えるのでしょうか? 豊臣家の滅亡が、その舞台である大阪城でイベントになる。――これが3つ目の皮肉かと。


大阪城について

復元天守について

井戸

井戸解説板

秀吉の生涯


復元された天守の内部は、最初に展望台下の階までエレベーターで昇り、そこから下りながら各階の展示を見て行くという形になっています。

展示内容は古臭くなく、結構工夫してるなという印象。秀吉の生涯をわかりやすく紹介してくれています。

1階入口前には南蛮屏風のレプリカが壁一面に掲示されていました。秀吉はここに描かれた宣教師たちと確かに交流したけれど、彼らを迫害して国外追放にしちゃったんですけど・・・。どういう意図で掲げられているのか疑問だったりして。。ヽ(~~~ )ノ


大仏建立

朝鮮出兵

大坂の陣

南蛮屏風

城内から出るのも大変・・・


天守を後にして、駅に行こうと歩き始めましたが、広い城内はそこから出るのだけでも一苦労。最寄駅が全然近くありません;;

先ほど「大坂では豊臣秀頼の時代はキリシタン迫害はあまりありませんでした」と書きましたが、それはそれ以降の時代に比べてということ。また大坂では「あまり」なくても、堺では厳しい迫害がありました。

大坂城馬場でのキリシタン迫害


1614年、畿内キリシタン取締りの総奉行板倉勝重は、大坂と堺でのキリシタン捕縛を命じました。そこで大坂では片桐且元が300人のキリシタンを捕まえ、その内の転ばない58人を俵に入れ、大坂城馬場で拷問を加えました。

その中には片桐且元の主治医で、フランシスコ会のガブリエル・デ・サンタ・マリア修道士もいました。しかし片桐且元はキリシタンに好意的で処刑はさせませんでした。

キリシタンに好意的な人が、信徒58人を俵に入れて拷問するか、またこれを「あまり」迫害はなかったといえるかどうか・・・。あくまでもその後と比較しての話ですね。


重要文化財 多聞櫓

多聞櫓解説

 大阪城を後にしつつ・・・(゜o゜;)ハッ

馬場町(ばんばまち)!?


「ちょっと歩いてみたくらいでは、さすがに大坂城の馬場がどこだったかはわからないよなー」と思いつつ、多聞櫓を通って城外に出てると交差点に、「馬場町」の文字が!

えっ、馬場町ってことは、この辺りに馬場があったということ!? まさかね、偶然出た所が探し求めていた所だなんて、そんなラッキーなこと・・・ある?

先ほど通過した多聞櫓のそばに、昔馬場があってもおかしくないような空間があったけれど、そこだったのかな? でも、だとしても豊臣時代にもそこが馬場だったとは限らないよな。うーん。。わかりません!

予断を捨てて前に進みますかね☆(でもどこにあったんだろう。誰か教えてくれないかな;;ボソッ)


馬場町

舎密局

銅像

巨大なルーテル教会のビル


谷町六丁目駅に向っていると、舎密局(せいみきょく)跡の碑と銅像があり、その背後に巨大なルーテル教会のビルが。

日本福音ルーテル教会の大阪教会です。栄えてますなぁ。見上げるほどです。

今週の主題は「岩の上の教会」ですか。ペテロの話なのかな? それとも自分の信仰を確固たる土台の上に建てるべしみたいな話でしょうか。建てませんとね (o^-^o)


教会案内

教会入口

レトロなレストランで☆


オープン60年のレトロなレストランで遅めのランチを☆

実は昨日から気管支をやられて声がガラガラで、今日はそれプラス頭痛腹痛で、朝から歩き回ったせいで今や体調の悪さがピークに達してます・゜゜・(×_×)・゜゜・。

ああ、神様、今日はもう帰った方がいいでしょうか? あとちょっとだけ行きたい所があるんですけど・・・。だって大阪なんてそんなに簡単に来られないし、来ても自由に動けるかわからないですもん。。

 シメオン池田教正ゆかりの城めぐり♪

八尾城跡


神様にねだったら痛みが治まり、体力も回復したので(と思って)、ゴー☆

到着したのは、近鉄八尾駅から徒歩5分の所にある八尾神社。

ここが昔八尾城だった所で、「矢尾城址」と刻まれた碑があります。神社にあるからか、「矢尾城址」碑が祀られてるっぽくなっていて、解説板もないので、知らない人は拝んじゃうかも (^^;;

シメオン池田教正と八尾のキリシタン


八尾城は、キリシタン武将 池田丹後守教正(いけだ・たんごのかみ・のりまさ。霊名はシメオン)が住んだ城。池田教正は宣教師に地所を寄付して城下に小聖堂を2ヶ所設けたのですが、その一つが「矢尾城跡」と刻まれた石碑の所にあったのではないかとされています。

池田教正が八尾城にいたのは1579年から3年ほどでしたが、城下に800人のキリシタンがいたという報告が宣教師の手によって書かれています。1582年、池田教正は明智光秀についたので、失領しこの地を去りましたが、後に豊臣秀次の父武蔵守に仕え、尾張花正で知行を得ました。

この花正では、高山右近父子の下で洗礼を受けた後引退して故郷に戻ったコンステンティノという老人が福音を広げていたので、領主がキリシタンであることは大変助けになったことでしょう。

その後の池田教正


1584年、小牧長久手の戦いでは、秀吉軍の池田恒興の配下に入り、金の十字架のついた旗を押し立てて戦い、300人の兵を率いて3000人の敵の包囲から脱出したと伝えられています。その後池田恒興が美濃を与えられたため、一緒に美濃に移りました。

しかし1595年、豊臣秀次が切腹すると、その煽りを受けて知行を失い、京都に退きました。京都に退いてからもしばしば宣教師の記録に記されており、最後まで信仰を熱心に守っていたことがうかがえます。


八尾神社

境内

小聖堂跡とされる

若江城跡


八尾駅から住道行きのバスに乗って、若江バス停へ。5分ちょい歩くと若江城跡の碑がある場所に到着です☆

ここもシメオン池田教正が居城していた城。何かを祀っている小さなお堂前のスペースに、碑や石造物がややごっちゃに置かれている感じですが。。(T▽T)

マイナーな城跡には珍しく、ちゃんと字が読める解説板も建てられているのですが、キリシタンも池田教正も出てきませんね。1576年には雑賀攻めのため織田信長も入城しているんですが、それも書かれていません。全国の信長ファンのためにも一言書いてもらってもいいかも・・・?

河内キリシタンの隆盛


しかしここに来たら、シメオン池田教正のダークサイドについても書かなければなりません。単にいい話、感動的な話だけを集めても仕方がないことだと思うから。ここで池田教正は、主君を裏切って自刃に追い込んだのです。

池田教正がキリシタンとなったのは、1564年。ザビエル来日からさほど経たぬ頃に洗礼を受けることができたのには理由があります。池田教正が主君として仕えていた三好長慶が、宣教師に好意を示し布教を許可したからです。

三好長慶は1563年、自らの居城である飯盛山城にヴィレラ神父と日本人修道士ロレンソを呼び、家臣と共に話を聞きました。その結果、池田教正、三木判太夫(26聖人の一人パウロ三木の父)、三箇頼照、結城左衛門尉(結城忠正の子)ら有力な武将と三好長慶の妻や子73人が次々と洗礼を受けるようになったのです。これが河内キリシタンの全盛期を築くきっかけとなりました。

悩めるキリシタン武将


しかし三好長慶は1564年に死去。池田教正は、家督を継ぎ若江城主となった三好義継の家臣として仕えるようになったのですが、世は信長に傾いていく時代でした。松永久秀と組んでいた三好義継は、一度は信長に降り城を安堵されましたが、信長によって京都から追放された足利義昭を若江で庇護したため信長の怒りを買い、それを機に反攻に出ます。

しかしそれが滅亡への道であることを悟った池田教正は、1573年信長の命を受けた佐久間信盛率いる軍に城を攻められた際、若江三人衆と呼ばれた仲間と共に佐久間軍を城内に引き入れました。そのため三好義継は妻子と自害し果て、三好家は終焉しました。享年25歳。

その後若江三人衆が、河内国の北半分を統治したのですが、その筆頭であった池田教正が若江城を実質的に支配しました。若江城は八尾城に統合されて壊されたとも、1583年に破却され資材が大坂城築城に用いられたともいわれています。

長年の恩ある主君の家系を裏切った気持ちがいかばかりだったか、私には想像するのも難しいことですが、正しいと思ってしたことであっても、人の良心というのは痛むものではないでしょうか。その罪悪感から逃れるためにも八尾城を築くことが、池田教正にとって必要だったのかもしれません。

そして城下にキリシタンの理想郷を作ることによって、その罪悪感を昇華して、更に肯定へとつなげようとした――つまり贖罪と再生への願いがこの2つの城には込められているのかもしれませんね。今となっては誰にも訊けないことですけど...(^-^)


若江城跡解説板

若江城跡碑など

美女堂氏遺愛碑解説板

美女堂氏遺愛碑

崇禅寺


最後にもう一つ、帰るついでに寄ったお寺があります。細川ガラシャ夫人の墓があるという崇禅寺です。

時刻が夕方の5時を回ってしまったからか、それともいつもそうなのか、門は固く閉ざされています。

馬場まで備えた大寺だったようですね。県庁だったこともあると石碑が教えてくれています。しかし細川家の墓所があるとは書かれていませんねぇ。

まあ大丈夫です。中にお墓があったとしても、その下にはガラシャ夫人は眠っていないので。細川家を守るため、屋敷と共に火に包まれたガラシャ夫人の遺体は後で見つけることができなかったので、灰だけを集めてきてお葬式をしたそうです。

お墓はここ以外にも京都と熊本にありますが、いずれにも眠っているとは言えないでしょうね。「眠っているところ」を強いて言うなら、細川家の屋敷があったカトリック玉造教会周辺でしょうが、キリシタンなので、今頃は天で安らいでいると言うのがふさわしいのかも ヽ(^◇^*)


崇禅寺

県庁だったことも

崇禅寺馬場


  天国の予行演習


  旅をすると、たくさんの人の生き死にに出会う。
  だから彼らが地上の生を終えてどこにいったのかが、とても気になる。

  私はクリスチャンだから、天国に憧れる。
  天国には宝石でできた12の柱があって、都は透き通ったガラスのような黄金でできているという。
  そこには神様がいつも共にいて、人の涙をまったく拭ってくれるのだと。

  しかし天国が神様が臨在する所だというなら、
  地上でも神様と共に生きれば、そこが天国なのではないのか?
  今日私が神様と同行した一日を過ごしたなら、それも小さな天国体験なのかもしれない。

  そんな予行演習を毎日しながら、あの人たちは天国へと旅立ったのかな。
  キリシタンと殉教者、そして神様は、今日も私の心を離れない――。



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