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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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 千年の都から永遠の城へ Ⅲ


  今日はスルッとKANSAIを使って、兵庫県を回ります☆
  姫路で黒田官兵衛ゆかりの姫路城を見て
  明石で明石城、神戸で神戸大などに寄ろうと思っています。

  旅の中日(なかび)ということで若干余裕をみて行動して
  一緒に回る人たちと対話したりする時間を持てればとヽ(*^▽゜ *)ゞ


ひめじの黒田官兵衛 大河ドラマ館


飾磨駅で同行する人たちと合流して、まず向ったのが家老屋敷跡公園。

ここで開催されている期間限定のミュージアム「ひめじの黒田官兵衛 大河ドラマ館」を見ましょうかということで♪

私にしては珍しく観光っぽい所を訪れますが、特別展だに何か珍しい展示物にでも出会えないかという期待もあり・・・。

しかし、大河ドラマで使われたセットや衣裳がメインの、ドラマのファンを当て込んだものでした。有岡城の土牢のセットは、中にも入れて興味深かったけれど。

一番勉強になったのは、官兵衛が生まれた当時の姫路城の模型。城というよりは居館といった感じで、石垣やお堀はもちろん、天守もなく、平屋建ての屋敷がいくつかあるようなものだったようです。「姫路城で生まれた」というイメージで浮かぶ様子とは随分と違いますね (*゜.゜)ホー


家老屋敷跡公園

家老屋敷跡公園

ドラマのセット

姫路城


それでは道をはさんだ所にある姫路城へ☆

「白鷺城」の別名がぴったりな白く優美なお城です。

中国攻めの前線基地として、官兵衛は姫路城を秀吉に譲り、自分は家族を連れて国府山(こうやま)城に移りました。そこで秀吉は1580年、三層の天守のある城郭に建て直し、更に関ヶ原の戦いの後、城主となった池田輝政が現在の「白鷺城」へと改築したのです。

ドン・シメオン黒田官兵衛


さて今回の旅行記でも何度も名前が出ている黒田官兵衛ですが、「秀吉に天下を獲らせた男」といわれるほどの名参謀だったことは知られていても、キリシタンだったことを知らない人が意外に多いのに驚きます。また洗礼を受けたものの、伴天連追放令が出るとすぐに棄教してしまった中途半端なキリシタンだったとする評伝や小説もよく見かけます。

しかしそれは違います。フロイスの「日本史」には、伴天連追放令が出された翌年の記述にこう書かれています。「シメアン官兵衛殿は暴君(秀吉)の政庁にあって、その側近の一人である。彼は(迫害という)現下の問題について、しばしば副管区長(コエリョ)に書状をしたためているが、彼はカトリック信仰について(我らイエズズ会員の)慎重な助言者であり、その発言は大いなる比重を有する)」

削り取られた「一旦入南蛮宗門」の文字


このように教会に真摯な態度で接していた官兵衛が棄教説まで出ているのには理由があります。その後更に酷くなったキリスト教禁令の世の中で、黒田家を守らんがため、キリシタンと無関係であることを内外に示すことは、処世の要であり必須であったからです。

先日江戸東京博物館で行われていた「軍師官兵衛展」で「黒田如水像」(円清寺所蔵の絵)を見たのですが、僧侶が書いた官兵衛についての「賛」(その人の生涯を解説し褒め称える内容の文章)の一部が意図的に削り取られているのがわかりました。

絵に添えられた解説文によると、「一旦入南蛮宗門、聴法談雖有年」とうっすらと読むことができるということでした。つまり目立たなくするようギリギリまで消したということです。また「黒田家譜」など黒田家の文書類には官兵衛がキリシタンだったとは一言も書かれていません。

これをもって歴史家の中には、官兵衛のキリスト教信仰を無視したり、軽視したりする傾向があります。しかし、官兵衛がキリシタンだったことを示すようなものを残せば、黒田家にとっては余計な災いを招くとして、ことごとく廃棄・抹消されてしまったのではないでしょうか。


姫路城


石垣

十字紋!!


「やっぱり十字架に見える・・・」と、思わずつぶやいてしまったほど、はっきりとした十字紋が刻まれているのは「にの門櫓」(姫路城にはいろは順に名づけられた門がある)の唐破風屋根に乗る鬼瓦。

私も城内で一番見たかったものなのですが、一般にも有名らしく、この瓦が見やすいスポットに人だまりができています。これを官兵衛がキリシタンだったことと結びつける人もいますが、そうだとするといくつかの疑問点が出てきます...( ̄へ ̄|||)

十字紋付きの鬼瓦の謎


もしこの瓦が官兵衛が城主だった頃からあったもので、建て直しや改築の時にも使いまわされて、今ここにあるとしたら、その頃官兵衛はまだキリシタンではないはずだから、十字を刻んだ意味がわからないし、そもそもそんなに何度も建築資材使いまわすものだろうかという疑問が残ります。

1580年の秀吉による築城の際にも官兵衛に城普請が任されているので、その時にも刻んで載せることはできますが、やはりまだキリシタンではありませんでした。官兵衛の受洗は1584年か1585年と考えられているのです。

池田輝政の改築は1600年代に入ったからなので、官兵衛はもう姫路にはいません。大体伴天連追放令が1587年に出されているのに、目立つほどではないにしても、人目につくことは十分予想される場所に十字紋を刻んでおいておくことを危険だと思わなかったのでしょうか?

江戸時代を通じてここにこれがあることが問題視されなかったことも不思議ですし・・・。
ふつう鬼瓦は魔除けの装飾や家紋などを刻んでいるものが多く、十字紋の魔除けというのは聞いたことがありません。長崎のキリシタン時代の教会跡からは十字紋の瓦(鬼瓦ではない)が多数出土していますが。

誰がいつ作って置いたのか?


仮にこの十字紋がキリシタンと関係があるとするなら、一番考えられるのは、官兵衛が受洗する前からキリスト教に触れていて(その可能性は十分ある)心惹かれるものを感じていたので、秀吉から築城を命じられた際に、お守りのように十字を刻んだ鬼瓦を置いた。それが池田輝政の改築の際にも美しいからと再利用された、ということです。

あるいは池田輝政の家臣にキリシタンがいて(いた可能性は高い)、その人が城普請の際に「魔除けに効果があるらしい」と周りを説得して十字紋の鬼瓦をそっと置いた、ということか。はたまたこの2つのケースが重なってこうなった可能性もあります。

いずれにせよ証拠がなくては、それ以上何とも言えないので、今の時点では「不思議だけど、ここに十字紋の鬼瓦がある」ということしか言えないと思います。少なくとも「姫路城主だった官兵衛がキリシタンだったから、鬼瓦に十字架が刻まれている!」といった史実を無視した書き方(そういう人時々います;;)はやめた方がいいかと。。d(゜ー゜*)ネッ


にの門櫓

十字紋

十字紋鬼瓦解説

写真入り説明

官兵衛ゆかりの石垣


「官兵衛ゆかりの石垣」の解説板がありました。こんなマイナーところまで紹介してくれるのは一重に大河ドラマ効果ですね☆

願わくばこの関心が今後も続いてほしいものですが、とかく流行に流されやすい昨今では無理でしょうね。

「軍師 官兵衛」ももう終盤で、大河ドラマのキャスティングは来年どころか再来年のものまで発表されています。

では大河ドラマに先がけて、官兵衛の晩年と死について振り返ってみましょうか。舞台は姫路を離れて博多へと移ります (*'ー'*)

官兵衛の最晩年と死


イエズス会宣教師マトスの回想録にはこう書かれています。「この年(1604年)の初めに、(黒田)如水は上(カミ。今でいう上方のこと)において死亡した。(中略)彼は治療のためにそこへ行っていたのである。そして臨終の際、彼は告解するために神父を呼ぶように願った。ところが、彼の側近は何故かと言って神父を呼ばなかったので、彼は死ぬ前に告解をすることができなかった。しかし彼は、自分のアニュス・デイ(イエスを表す子羊が描かれたもの)とロザリオを持ってくるように願い、自分はキリシタンとして死にたいと言いながら、それを胸の上に置いた」

官兵衛は1603年10月頃病を得、かつて有岡城から助け出された後過ごした有馬温泉で病気療養に専念しました。そして伏見の藩邸で新年を迎えましたが、2月に病気がぶり返して、3月20日にこの世を去りました。

官兵衛の葬儀と埋葬


「それから自分の死骸を博多の神父の所へ持ち運ぶように命じ、また自分の息子には、領内において神父たちに好意をよせるようにと、遺言の中で言った。そして同じ遺言の中で、イエズス会に2千エタス(約3百2十石)を与えた。すなわち、千エタスを長崎の司(管区長であるフランシスコ・パシオ)に、他の千エタスを博多において教会を建立するためにあてた」

この資金で博多には新聖堂が建てられたわけです。マトス神父の回想録では、この後官兵衛はキリスト教式の葬儀で見送られ、博多の郊外のキリシタン墓地に隣接した場所に葬られたとことがわかります。

この官兵衛の記念聖堂は、1613年に黒田長政によって破却されるまで存続していました。取り壊しには大工など十数人がかりで十七日かかったと書かれているので、いかに大きな建物だったかが分かります。

ここではっきり言えることは、官兵衛はキリシタンとして死んだということです。


石垣説明

石垣と櫓

石垣

石垣

 浦上キリシタンの流配地としての姫路

久昌庵跡


姫路城を後に、浦上(うらかみ)キリシタンの配流所へと参ります。神戸の教会に通っている方が車を出してくださったおかげで楽に回れて感謝です♪

まずは久昌庵跡へ。今は違うお寺の駐車場になっています。ここに長崎から来た浦上キリシタンが入れられていたんですね。

明治の世になってもキリシタンを迫害していた日本の愚を、悔い改めずにはいられません。

1870年1月(明治2年12月)、長崎の浦上村のキリシタン3千余人が全国の20の藩に流配となった事件については、浦川和三郎著「切支丹の復活」の中に「旅の話」としてまとめられています。

しかし姫路に流された信徒たちについては「落伍者集団」との烙印を押され、「旅の話」等のキリスト教関係の書物の中でも長く冷遇されてきました。紙幅も十分に割かれていないような冷淡な扱いだったのです。ところが近年になって詳しい研究がなされるようになって、「落伍者集団」ではなかったことが明らかになりました。


久昌庵跡

久昌庵跡

快堅院跡


こちらが快堅院の跡。今は普通の住宅街の一角ですね。ここに流刑になったキリシタンたちがいただなんて、誰も知らなさそう。

姫路に送られた浦上キリシタンは、この2つの寺院に分散して収容されました。

「旅の話」では、姫路の流刑者は4名以外は全員改心(棄教)したことになっていて、「信仰未熟な連中のみだったので、早く改心して帰国した方がましじゃないかと説き付けられて、おめおめと改心」したのだと書かれています。今では考えられないくらい、当時のカトリック教職者たちの考え方は厳格だったというか・・・。

キリシタンへの最後の迫害


当時のカトリックは「信徒発見」をしたパリ外国宣教会の方針に則っていました。表向きは仏教徒として生きていた「隠れキリシタン」は、復活してくるなり、仏壇の撤去、仏式葬式の排除を旨とする方針に従うこととなり、その結果、まだ禁教令の解かれていない日本で激しい弾圧と迫害が生じました。

福江島水の浦の信徒たちは、十手で体中殴りつけられ、水責め、算木責めで気絶し、ついに心ならずも棄教を口にしましたが、その後大浦天主堂に事態を報告に行った信徒に対して、神父は「改心した人は要りません」と剣もほろろに追い払ったといい、取りつく島がありませんでした(「切支丹の復活」より)。

確かに姫路では他の藩で行われたような酷い拷問はなく、飢え死にするほどの虐待もありませんでした。それで「おめおめと改心」したと書かれているのですが、自由を奪われて牢の中にじっとしていることへの苦痛は、人によって感じ方も違うでしょう。教会に見放されたと思った信徒が悲嘆に暮れる様子が目に浮かぶようです。

明らかになった真実


この全国への流配のことを浦上キリシタンは「旅」とよんだので、長崎に帰還した信徒たちに聞き取り調査をしてまとめた記録を「旅の話」というのですが、誰がどこに送られたのか、改心したのか否か、流配地での生活はどうだったのか等が事細かく記されています。

しかし何分(なにぶん)人の記憶を聞き取ったものなので、本人たちが間違って認識していてはアウトです。詳しく見ていくと他の記録と齟齬をきたしてることが多々あり、近年精密な研究がなされて、ようやく正しく全貌が見えてくるようになったのです。

それによると、姫路への流配者は、「旅の話」では45名となっていましたが実際は41名で、死亡者は9名ではなく8名。また不改心帰還者は4名ではなく16名でした。しかも死亡者は全員不改心者だったので、全体の半分以上は棄教していなかったことがわかります。

高齢でも病弱でもなかったのに流刑地で命を落とした者たちが、全員不改心だったことは、棄教を拒む者たちに対する差別的、あるいは暴力的取り扱いがあったと考えるのが自然ではないでしょうか。

「姫路でもキリシタンが殉教したんですか?」と、心配そうに訊かれて少し逡巡しましたが、「はい」と答えました。処刑こそなかったものの、キリスト教を信じたがゆえに迫害を受けて、信仰を守ろうとして命を落としたのです。彼らがいたことを否定してはいけないと思います。


 すっかり夕方ですが明石へ ヽ( ´ ▽ ` )ノ

明石城のお堀


車を出してくださった方のお宅にお邪魔して、すっかり話し込んでしまい、ランチのつもりがお茶の時間になり、ティータイムが終わる頃になってお暇(いとま)しました♪

今日は旅のちょうど中日(なかび)で、明日以降に備えて少し調整するようにしてくださったのかもしれません o(*^▽^*)o

という訳で、すっかり夕方になって明石城に到着しました。お堀に白鳥が2羽優雅に泳いでいます。


お堀

白鳥

銅像

銅像解説板

明石城跡


明石城跡は広い公園となっていて、全部回るのは無理ですが、ちょっとだけ入城☆

伴天連追放令が出されたとき、高山右近が秀吉に返上した所領は明石ですが、右近が立ち去った城はここではありません。

電車で1、2駅行った所にある明石船上城(ふなげじょう)が右近の城でした。当時はこっちの城がなかったので、そちらを明石城と呼ぶこともあったようです。右近ファンとしてはいつか訪れてみたいです♪

実は明石城跡には船上城の遺構があった!?


ここからは後で知ったことなのですが・・・明石城跡には天守はもうなく、残っている遺構は2つの櫓なのですが、そのうちの一つ坤(ひつじさる)櫓は船上城の資材を用いて建てられたと考えられるそうです!
えーっ!?という感じですが、そうだと知らずに見たのでカメラに収められませんでした;;

もう一つの巽(たつみ)櫓は、伏見桃山城の遺構なんだとか。これらが逆だと書いてあるものもありますが、両方ちゃんと見ておけばよかったなぁ。。

これらのことは家に帰ってから調べてわかったことで、完全に見落としてました。船上城跡も明石城跡も、もう一度兵庫を訪れてちゃんと見なさいってことかなぁ。そうだといいな。いや訪れたいよ、主よ~ (*´▽`*)ノ


城内

石垣


年表

 気を取り直して神戸へ (o ̄∇ ̄o)/

構内に普通に馬!


夕暮れになって神戸に到着。ここで昔の友人に会いました☆ もう何年ぶりだろう。時間の経つのは早いものです。

岐阜を一緒に回ったMちゃんが運転を買って出てくれたおかげで、坂道もらくらく。感謝っす。神戸大がこんなにキツイ坂道を登った所にあるとは知りませんでした。

有名な大学だから一度来てみたかったけれど、あまりアカデミックで近寄りがたい感じではなく、私大のような自由な感じ? あと構内に普通に馬いるんですけど・・・( ̄◇ ̄;)

神戸大学のグランド


こちらが神戸大のグランド。神大を「じんだい」と読むんだと思ってました(たぶん全国的にはそう)が、こちらでは「しんだい」と呼んでいました。

地元の人と回ると、観光では行けない所に行けるからいいですね☆

暮れていく空の下で惜しむように眺めてしまいました (@⌒▽⌒@)カンシャー


グランド

坂道から

ラーメンたろう


続いて神戸ラーメンたろうへ。Mちゃんのおすすめのお店です♪

ちょうど狙っていたテーブル席が空いていて、座れました。ラーメンを頼んで待っていると、「サービスです」と一人一皿ずつ餃子が!

「これ絶対、主からのプレゼントだよっ」と言って盛り上がれるのも、同じ信仰のお蔭ですね。ハレルヤです O(≧▽≦)O

とんこつラーメン∟□∨Ε...φ( ̄▽ ̄*)ポッ


大好きなとんこつラーメンを食しながら、我が身の幸せさを噛みしめます。

今日は(今日も?)各地で合流したり、途中まで同行したり、ちょっとだけ会えたりで、誰とどのように一緒にいたかを詳しく書くのも煩雑で省いてますが、いろんな人と会って話したりする機会をもらいました。

旅をしていろんな所へ行きいろんな物を見ても、結局その土地の印象は人から受けた感動によるところが一番大きいと思います。その意味では私は、本当に恵まれているなと。お金とかには換算できないけれど、お金に換算できないもののお金持ちではないかと、そんなことを感謝と共に感じました☆

おとめ塚温泉


今日は入れずにスルーですが、おとめ塚温泉も外観だけ視察。下見の気分で♪

Mちゃんによると、元々普通の入浴施設だったのが、数年前(?)から温泉が出るようになって、温泉入浴施設になったのだとか。

かなり珍しくないですか!?
今度ゆっくり浸かってみたいです・・・って、やっぱ兵庫は再訪決定だなっ☆

教会にも・・・


私の好みを熟知しているMちゃんが、「教会見たくないですか~?」と降ろしてくれたのが、夜空に浮かび上がる教会のそば。カトリック神戸教会です。

ライトアップしていてきれいだけど、周りに人気(ひとけ)もなくて、夜はちょっと怖いかなぁ。。(・Θ・;)

神戸の夜景☆


ラストは神戸の夜景。絶対に見せてあげたいと思ってくれたらしく、かなりもがいて(どこに行くのが御心でしょうかと祈って)、連れて行ってくれました☆

その気持ちがまずうれしいですが、眼下に広がる夜景もやはりきれいでした。

カメラには残せなかったけれど、同行者たちの笑顔が一番の思い出です (*'▽'*)/



  知識は地から、知恵は天から


  一日をすっかり使い切って親友Aの家に戻り、3泊も泊めてくれたことのお礼を言いました。
  明日は朝から荷物を持って移動して、日曜日なので礼拝に出て、
  午後の集まりで日本のキリスト教史の話をする予定です。

  その後その集まりを主宰している人の家に行って、そこから2泊させてもらうのです。
  翌日は京都の史跡めぐりツアー。うまくガイドが務まるか、ドキドキですが・・・((o(б_б;)o))
  そこまで頑張ったら、ちょっと気を抜けるんですが、声がガラガラでオカマ状態なのが難点。

  しかし今日まで3日間回って感じたのは、主が感動で導いてくださって、
  その時その時に必要な知恵を下さるということ。
  知識は地上で本などから学べますが、真の知恵は天からいただくもののようです☆

  人を見ているうちに主を忘れたりしないよう、主が心に常駐してくださるようにと祈ります!




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