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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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 千年の都から永遠の城へ Ⅳ


  今回の私のミッションともいうべき、2日間の行事を終え、ホッとひと息。
  今日は行きたい所に行って午後くらいに帰ろうかな、とゆるい予定を組んでいました。

  が、泊まった家の近くの教会の牧師さんが「車出しましょうか?」と言ってくれたので
  有り難くお言葉に甘えることにしました♪
  という訳で、今日は5人でキリシタン史跡めぐりに出発ですヾ(@⌒▽⌒@)ノ


住道大聖堂跡


最初に訪れたのが、住道(すみのどう。当時は角堂と書いた)の大聖堂跡ではないかとされる場所。

三箇城主であったサンチョ三箇頼照(さんが・よりてる)が自領内に建てた教会の、2つ目のものがここにあったのではないかといわれています。

三箇サンチョは河内キリシタンの柱で、畿内のキリシタンたちから父のように慕われた人物。本能寺の変の後明智光秀について没落しましたが、それまでは彼が三箇城主だったので、最盛期にはこの地域に信徒が3千人もいたということです。

さて、ここで早速お詫びと訂正(修正?)なのですが――、同行の人たちに「ここは昔教会があった所で、教会破却後には見せしめのためにキリシタンが処刑された場所だった」と話しましたが、実はもう一ヶ所候補地があって、2つのうちどちらであったのかよくわかっていないのです。もう一つの方も訪れたら良かったのですが、当初電車と徒歩で行くと思っていたので、予定表から抜いてしまっていて、私も失念していたので・・・。中途半端な説明になってしまいスミマセン (>_<)

私としても、殉教地だったかもしれない所に行き損ねてしまって(結構近くにあったのに;;)超残念。もう一度行くか。。いえ、行かせてください神様!

「大逆転劇」と河内キリシタン


河内のキリシタンについて話すには、世に言う「大逆転劇」から始めなければなりません。それは、ザビエルが日本を離れてまだ間もない1563年のことでした。

2日目の旅行記にも書いた三好長慶の家臣に松永久秀(家臣ではあったが嫡男と同格の扱いだった)という人物がいたのですが、この頃はこの松永久秀が実質的に京都を支配していました。

松永久秀は仏教徒で、比叡山の僧侶たちのキリシタン排斥運動に動かされて、宣教師の追放命令を出しました。そこで京都にいたヴィレラ神父と日本人修道士ロレンソは堺に撤退して来ることとなったのです。

しかしそれでも足りないと考えた松永久秀は、三好長慶のブレーンでもあり、儒学にも通じた優秀な仏教徒をキリシタンとの論客に送り出し、宗論(宗教対宗教のディベート)を行わせ、これに勝つことでキリシタン排斥に拍車をかけようとしました。

選ばれた3人の精鋭


そこで選ばれたのが、結城忠正(ゆうき・ただまさ)と清原枝賢(きよはら・しげかた)と高山図書(たかやま・ずしょ)の3人でした。結城忠正は宗論を戦う前にキリスト教の知識を得ようとして、奈良で偶然出会った一人のキリシタンと対話したのですが、相手の的を射た返答に驚嘆してしまいます。

それで誰か宣教師を送ってくれるように依頼するのです。その連絡を受けてやって来たのが盲人の元琵琶法師、日本人修道士ロレンソでした。ロレンソ修道士はまず結城忠正と清原枝賢とに会って真理を説き、彼らが洗礼を希望するまでにさせました。

高山図書も遅れて奈良に入ってキリシタンの教えを2日2晩集中して学び、結局彼もキリシタンとなりました。論争して打ち破るつもりが逆に伝道されてしまった――これを世に「大逆転劇」と言うのです。

高山図書の息子が高山右近であり、清原枝賢の娘が清原マリア(細川ガラシャ夫人に仕え、神父の代わりに夫人に洗礼を施した)であり、結城忠正の息子が結城三衛門尉なんですが・・・、長くなったので次の章で語ることにしましょうか d(゜ー゜*)ネッ


住道大聖堂跡

住道大聖堂跡

住道大聖堂跡

三箇城跡


次に向かったのは菅原神社。こちらが昔三箇城があったとされる場所です。

ここが河内キリシタンの中心ともいうべき場所でした♪

なんと!解説板にキリシタンと三箇サンチョのことが書かれていますね☆ 大東市、ポイント高いです!(私の中でですが^^;)

さあ語ろう!三箇サンチョとキリシタン


さあ語りましょう、三箇サンチョとキリシタンについて! 三箇サンチョの本名は三箇頼照(さんが・よりてる)。洗礼名がサンチョです。三箇城の城主だった時に、三好長慶に招かれて飯盛山城に来訪したロレンソ修道士から説教を聞き、キリシタンになりました(その経緯は2日目の旅行記の「八尾城跡」参照)。

飯盛山城で洗礼を受けた73人の中に三箇頼照もいたということですね☆ その時の様子をフロイスはこう記しています。「ロレンソ修道士が飯盛(山)城に到着し、武士たちが彼を見ると、ある者はその容貌を嘲笑し、またある者はその貧しい外見を軽蔑し、さらにある者は、自分たちの霊魂の救いを願うことよりは好奇心から、彼(の話)を聞きたがった。

しかし我らの主は彼とともに在し給い、また彼は弁舌にかけては大胆不敵であったので、彼が一同に説教し始めるやいなや、彼らは(初めと)違った考えや意見を抱き、彼に対して大いなる畏敬の念を表し始めた。

数多くの質問が出され、討論はほとんど昼夜の別なく不断に行われた(中略)世界の創造主の存在、霊魂の不滅、デウスの御子による人類の救済について(説いていた)ので、三好殿幕下の七十三名の貴人たちはまったく納得して、すぐにもキリシタンになることを決心するに至った」
と。

このロレンソ修道士の飯盛山城来訪には、「大逆転劇」の結城忠正が大きく関わっていました。結城忠正は三好長慶の頭脳ともよばれる人だったのです。また息子の結城左衛門尉は砂の城主で、飯盛山城で洗礼を受けキリシタンとなったので、砂城の近くにも教会が建てられるようになりました。

ロレンソ修道士が大活躍し、キリシタン武将たちが続々と現れて、河内でキリシタンが飛躍的に伸びていった時代だったんですね d(^-^)


解説板

菅原神社

三箇城跡

境内の巨木

水月院跡


隣には水月院というお寺があったのですが、今は無く、墓石がと石碑が何基が残っているのみです。

その中の一基には歌が刻まれています。
「城は灰尽きて崩れ落ちるとも
 何を此世に思い残さん」


一見すると仏教的な無常観を詠んだものに思えますが、キリシタンの教えで考えるなら、朽ちゆくこの世よりも永遠な神の国、天国へいく希望が大きいことを詠んでいるようにも考えられなくもありません。年代も誰が建立したかも刻まれていないので、意図したところはわかりませんが・・・(*゜.゜)

三箇のイースターはすごかった!


三箇サンチョは洗礼を受けるとすぐ、自宅の横にあった社を壊して教会を建てた人で、物事を躊躇なく実践する人だったようですが、同時に行うときには思いっきり行う性質も備えていたようです。その性格はキリシタンのイベントに表れます。

今では想像がつきにくいことですが、当時この辺りには深野大池が湖のように広がっていて島が3、4個あるような状態で、三箇城はその中の一つに建てられていたのです。そこで復活祭(イースター)になると三箇サンチョは、祭用にきれいに飾った船60隻を用意して、また見学のための多数の漁船を参加させて、華麗な水上パレードを行わせました。

そして多くの人々を招いて、池で網を打たせ、獲った魚を料理して招待客に振舞って、キリストの復活を船上で祝ったということです。この光景を実際に目にしたフロイスがその豪華さに驚いて筆を走らせています。

祝うために各地から参集したすべてのキリシタンを、三箇サンチョは気前よく饗応したので、かけられた費用は相当なものだったろうと。それでキリシタンは三箇サンチョのことを父のように思っていたということです。

そのような華麗なイースターやクリスマスが、15年間も三箇で行われていたことを、今では知る人は少ないでしょう。知っていても少しだけか・・・。郷土の歴史を知らないことはもったいないことだと思います。

神社横の児童公園


神社の横には児童公園があります。かつてはここも三箇城で、あるいはここに教会が建てられていたのかもしれません。

三箇を後にする前に、「三箇」の苗字を持つ2人の殉教者のことを書こうと思います。

名前はアントニオ三箇とマグダレナ三箇(マグダレナは摂津の出身)。2人は夫婦で、1622年に長崎で処刑され、1867年にカトリック教会から福者に列せられています。

アントニオ三箇夫妻


このアントニオ三箇は三箇サンチョの甥(弟の子)にあたる人物で、ここにあった教会で洗礼を受け、子供の頃にあの華麗なキリスト教の祭に参加した者でもありました。キリシタンの華やかなりし頃と衰滅せんとする時に、両方「三箇」の名が出てくるとは――まるで彼らが三箇キリシタンの代表として、キリシタン時代の終焉を見定めるために長崎に行ったようにも感じられます。

彼らが落命したのは、1622年の長崎の元和の大殉教。ここで確実に言えることは、彼らの信仰が華麗な祭に酔いしれて起こった一種の集団催眠や自己陶酔ではなく、本物だったということです。

身分ある若者が故郷を捨て、苦痛を耐え忍んで命まで捨て、何を得ようとしたのかと言えば、それは地上の光景の先にある神の国、まだ見ぬ故郷だったのですから。

キリシタン時代の信仰は


聖書の中にはこんな言葉があります。「信仰とは望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」――。誰にも見えない神とその国とを確かなものとして信じ、確かにあるのだと認めて生きることが信仰者の生き方です。

そして見えないものを確かに信じた義をもって、その国に入ることを得るのです。アントニオ三箇の生き方は正にこれを実践したものだったと言えるでしょう。

キリシタン時代には、こんなにちゃんとした聖書はありませんでしたが、現代に生きるクリスチャンと同じ信仰を持ち、同じ人間として生きていたんだなと感じます。目には見えないものを見失わない視力を、私も備えていきたいです (^-^)


水月院跡

児童公園も城跡

石灯籠

 野崎観音の謎?

野崎観音


近かったので野崎観音にもやって参りました。

実は旅行に出る2日前に、めったに見ないBS放送のテレビ番組を見たら、このお寺が映っていたのです。

いえ、正確に言うと、チャンネルを変えていたら見覚えのある人の名前が目に入ってきたので、「ん?」と思って止めて見たのです。それは地方のテレビ局が制作した旅番組で、お寺の鐘をバックに話している人のキャプションには「神田宏大」と出ていました。

「野崎観音の謎」という本


この人は野崎キリスト教会(単立教会)の牧師さんで、「野崎観音の謎」という本を書いている人なんですが、数年前に私もその本を読んだことがあったので目に留まったという訳です☆ 

テレビでその人が「このお寺はキリシタンに関係していると言われています。その証拠に鐘の中を覗いて見ますと十字架のマークがあるんです」と話しているのを見て、それでにわかに興味が沸いてきたのです。

番組ではお寺の名前は言っていなかった(番組自体ラスト5分くらいしか見てないので他のシーンで言っていたかもしれない)のですが、あの牧師さんが言っているんだから野崎観音のことなんだろうなと思って、それでここにやって来たという次第です。

説明が長ったらしくなって恐縮ですが、要するに「偶然目にしたようだけど何か意味があってのことか?」と思って来訪したということですね o(*^▽^*)oアハッ

野崎観音の鐘


本音を言うと、私は「野崎観音の謎」という本を読みはしましたが、一種のミステリー本(フリーメイソンだとかそういう類の)だと思っていたので、書かれていることの信憑性は薄いと考えていました。

野崎にキリシタンがいたとも、ここでキリシタンが殉教したとも宣教師の記録には書かれてないのに、口伝(言い伝え)を根拠としてそう主張しているのですから。

「十字がある」と言っても、そんなありふれたマークはどこにあってもおかしくないし、それだけでキリシタンと結びつけることが横行すると、逆にキリシタンの本当の姿が見えにくくなるので迷惑だなと思っていたのです。

だから、野崎観音に来ては見ましたが、鐘探しにも熱が入りませんでした。あるなら見ておこう、無いならそれでいいや、くらいの感じで。しかし同行者のNさんが大阪に移住してきてから関西人以上に関西人になったような方で・・・、いえそれが素晴らしいと言いたいのですが、お守り売り場にいるお坊さんに、知り合いのように鐘のことを訊いてくれました (^。^;)

お坊さんも知り合いのように「えっ、鐘? そこらにぎょうさんあるけど、どんなん言うの?」と言うので、私がおずおずと「鐘楼にあるような鐘です」と言うと本堂脇を登った所にあると教えてくれました。

そんなに熱意もなかったけれど、せっかく訊いてくれて教えてもらったのだから、成り行き上見て行くしかない状況になり向ってみると、何の変哲もない鐘(左上の写真)が。そりゃ、古くて立派ですけど・・・、フツーです。

「鐘楼の柵の中には入りにくいなー」と私が思うのと同時に、Nさんはためらいもなく柵をまたいで行き、私が「鐘の中を覗くのはどうかな?」と考えている隙に、Nさんは鐘の中に入り込んで十字紋を探し始めました。ちょっとぉ、そんなことしちゃって大丈夫ですか――?

十字紋


私がそう言いかけたところ、Nさんが
「あった!」と一言。

びっくりして私も中に入って覗いてみましたら、そこには確かに十字紋が。刻まれているのではなくて浮き出ていました。

鐘の内部の他の部分には傷は一切無いのに、そこだけ、どう考えても恣意的につけたとしか思えない形で、十字が浮き出ているのです。

誰がいつどういう意味を込めて、この印を付けたんだろう? 野崎観音の謎が私の謎になってしまった瞬間でした・・・Σ(・o・;)ナンデー?


手水屋

野崎観音


飯盛山へのハイキングコース

13世紀の九重層塔


どうみても十字に見える十字紋を見て、「もしかしてキリシタンいた?」という考えが、私の中で五分五分のところまで急浮上してきました。

とすると、キリシタン殉教地だという話も俄然信憑性が出てくる訳で、キリシタンがが処刑されたとされる八幡山(やたやま)にも向ってみることに☆

野崎観音の裏手にある山で、登って行くと墓地の横手に九重層塔と、よく目立つ新しい観音像がありました。確かに・・・、何かがあったとしてもおかしくないという感じがします。明るい陽光の下でも尚暗く感じられるようなひっそりとした冷感が漂っていて。もちろん気のせいだとも、木々から発せられる冷涼な空気のせいだとも解釈できますが。。

八幡山の来歴


八幡山は昔から罪人の処刑場だったと伝えられ、捕らえられたキリシタンもまた罪人として処刑されたと語り継がれています。また江戸末期の頃、この付近で蓮の花の上に乗ると極楽へ往生できると言って老人を集める宗教が流行り、蓮の花をかたどった台に乗せられた老人たちは下から突かれて次々と殺され、その死体が八幡山に捨てたそうです。

その場所がこの場所であるかどうかは確証のあることではありませんが、供養のためと思われる観音像があることからしても、陰惨な歴史があったかもしれないと考えずにはいられません。

飯盛山との位置関係


また、野崎観音と八幡山、飯盛山の位置関係は、思ったより近いのだということがわかりました。鐘楼の横の道は飯盛山へのハイキングコースになっていて、(今回行けませんでしたが)飯盛山城跡までは3キロほど。私の足では2~3時間かかりそうですが、昔の人なら「すぐそこ」と言うことでしょう。実際八幡山は飯盛山の登山口の一つと言ってもいいような感じなのです。

河内のキリシタン城主たちは飯盛山城で洗礼を受け、飯盛山城の支城や出城でそれぞれキリシタンを保護奨励したのですから、この近辺にも信徒が大勢住んでいたはずです。

車で10分程度の三箇に3千人いた訳ですし、その他の城域にも千人単位のキリシタンがいたとするなら、城主たちがそれぞれの事情で地域を離れていった時、信徒たちのはどうしたのでしょうか。

家臣なら城主に従って町を離れたり、違う主君に仕えるために出て行ったかもしれませんが、一般の多くの民はそのままその土地に残ったことでしょう。彼らが隠れキリシタンとなって、自分たちなりに工夫して信仰を持ち続けたという仮説は、決して荒唐無稽なものではないように思えてきました。

宣教師等の記録は全くありませんが、それこそ禁制の世なので、書きたいことも書けなかったでしょうし、記録を残す手段もなかったのかもしれません。やはり来てみて感じることは、頭の中だけ考えるのとは違うんですね☆



観音像

見晴らし

隣は墓地

八幡山

専応寺(せんのうじ)


思った以上に野崎観音での収穫が大きくて、来た甲斐を感じていますが、元々はその野崎観音より来たかったのがこちらの専応寺♪

野崎観音の参道から脇に入ったような所にある古刹です。

古くからあるお寺だからか、山門は倒壊の危険があるから通行禁止だそうで、横手の道から入ります (^^;)

京極高知の寄進


この寺に来たかったのはこの手水鉢が見たかったから・・・なんですが、想像していたのと随分と違います。

あのぅ、何と言うか、言いにくいんですけど、「しょぼい」というか。。(;´д`)

キリシタン大名 京極高知(きょうごく・たかとも)の寄進だから見たかったので、その名前が記されていてうれしいんですが、「寄附」って最近の用語ではありませんかねぇ?

「京極高知寄進の手水鉢ってどれですか?」「これです」「え、ちっちゃ!」みたいな会話が何度か繰り返されて、訊かれないように名前彫っちゃったのかもしれません(いえ親切心で彫ってくれたのかもしれませんね^^;)。横には解説板も設置されていて、これもうれしいところです。キリシタンだったとは書かれてませんが・・・。

キリシタン大名 京極高知


勝手なイメージなんですが、キリシタン大名 京極高知は、私の中ではキラキラしたプリンスみたいな感じ。

母親の京極マリア(浅井長政の妹でもある)が熱心なキリシタンだったので、秀吉の側室となった竜子(松の丸殿と呼ばれた)を除く子供4人を信仰に導き(夫である京極高吉は安土でマリアと一緒に受洗)、高知も信仰を持つに至ったのです。

京極高知は次男ですが長男である京極高次よりも先に洗礼を受けており、母マリアと協力して兄の正室 初(浅井長政とお市の方との娘。淀君の妹)を伝道。そして今度は初を加えた3人が協力してついに高次が洗礼を受けるようになりました。その後京極高知の妻もキリシタンとなり、妹たちも信徒となりました。

血筋からいっても地位からいってもプリンスなんですが、家族を救おうとした心根が素敵で、そういうところが王子様的な感じにつながっているような・・・勝手なイメージなんですけども (ノ ̄▽ ̄)ノモーソーデスカー

洗礼を受けたのは大坂の教会!


京極高知が洗礼を受けたのはやはり大坂の教会☆ あの天満橋付近にあったというイエズス会の教会です。手水鉢横の解説板には京極高知が大坂城普請の石を野崎の山に切り出しに来ているとき、この寺に逗留したのだと書かれています。

後にその礼として贈られたのがこの手水鉢で、これだけではなく、太子堂の石段と石垣も積んでプレゼントしたそうです。そっか、手水鉢だけじゃないかったのね♪

高知が受洗したのは1596年。22歳の時でした。恐らく大坂城普請と秀吉に会うために大坂に来て、何度も教会へ聴聞に訪れて、城普請が終わった頃に用意が整いキリシタンとなったのかと。しかし翌年伴天連追放令が出されると、秀吉を憚ってなかなか教会に足を運べなかったとフロイスは書いています。

二十代の一人の若者ですが、一国の藩主でもあったので、行動の自由は限られていたのでしょうね。地位が上がるとその分好きなことができそうですが、意外とそうでもない面があるようです。それでもこの時代に生を享け、信仰を持ち続けられたのだから幸運だったということができます。プリンスのイメージは続きそうです☆


解説板

本堂

手水屋

手水鉢

 キリシタン時代の教会跡へ☆

忍稜神社


さて次は忍稜(しのぶがおか)神社へ。JRの駅「忍ヶ丘」の名はこの神社から来たものだそうです。

そいういえば今日はJR片町線を駅1個分ずつ移動しながら回っているような感じです。それくらいこの辺りに隈なくキリシタンの足跡が残されているということですね。

こちらの神社の辺りにキリシタン時代の教会があったといわれています。まずは境内を一周してみましょうか☆


由緒書き

秀忠が本陣を置いた

参道

古墳もあった

神社の創建は・・・


神社の創建は1200年も前だと由緒書きに書かれていますが、その頃この神社はもっと南の方にあり、当地に移ってきたのは江戸時代のことです。

安土桃山時代にここにあったのは岡山城というお城。岡山県の岡山と間違えられないように、河内岡山城と言われたりもします。

ここの城主である結城殿(詳しい名前は不明。宣教師の記録に「結城殿」とだけ書かれているので、それで通しますね☆)がキリシタンになったことから、教会が建てられ、キリスト教が繁栄した訳ですね♪

むすびの木


さて、キリシタンと関係なく目を引かれたのは、境内にある「むすびの木」と名付けられた木。2本の木が、それも違う種類の木が、一方を他方を取り込む形で合体しています。かなり無理くりな、しかしものすごい愛情でくっついたような感じで、見れば見るほど衝撃的です・・・。

「こんなふうに主と同行しなさいということかな?」「主の愛はこのように強いということかな?」等、口々に感想を述べました。神様が万物を使って人間にメッセージを送っているのだという説教を最近聞いたので、万物見ながら悟ろうという意識が高くなっておりまして☆

それをいうなら、今回このようにこのメンバーで回れていることも、暑くも寒くもないちょうどいいお天気であることも、いろんなことが神様の愛から派生しているのだと感じられてきます。

大雑把な言い方になってしまいますが、「すべてが神様の愛なんだな」と。人も万物も、物事さえも、受け取る心さえ準備すれば、神様の愛として享受できるのだと思うに至りました o(*'▽'*)oハレルヤー


「むすびの木」

ものすごい愛情?

境内

岡山城跡


おっと、忘れるところでした。この辺りにどんな教会があったのか説明するのを。まずは岡山城のことから・・・\(o ̄∇ ̄o)

岡山城は、三好長慶が飯盛山城を居城とした1560年頃、飯盛山の北東にある忍岡古墳の丘陵を利用して築かれた支城でした。

1572年に城主の結城殿が洗礼を受け、霊名ジョアンを持つキリシタンとなりました。結城殿は池田教正(飯盛山城で受洗した)の娘と結婚していて、教会建設などキリシタンの発展に大きな役割を果たしました。

キリシタン武将 結城弥平次


この結城ジョアンに家老として仕え、当地に教会を建てることに尽力したのが結城弥平次というキリシタン武将でした。結城弥平次は、あの「大逆転劇」でキリシタンとなった結城忠正の甥で1564年に19歳で受洗し、ジョルジという霊名を授かっていました。

この人物がこの地方のキリシタンを栄えさせる立役者となり、五機内で最も華麗な教会が河内岡山に建てられたのです。しかし1584年、城主結城ジョアンが小牧長久手の戦いで戦死すると、風向きは変わりました。

河内岡山を異教徒の城主が治めることとなったので、教会が破却されることがないようにと、結城弥平次は高山右近と力を合わせ、大坂に移築できるよう努め、成し遂げたのです。

それが2日目に跡地を探した(天満橋の辺りにあった)大坂の教会です。何か、この3日間に訪れた所が全部つながって一つの輪になったような、そんな気がします (*^▽^*)



妙法寺


それでは車に乗って最後の教会跡へ☆
到着したのは、現在は妙法寺というお寺になっている場所。砂城主の結城三衛門尉が建てた砂の教会がここにありました。

このページのトップに掲げている写真はこの妙法寺の前に建てられていたもので、「砂、岡山のキリシタン 異国の文にのる」という歌が書かれています。なかなか趣があっていいですね♪

門前の道が旧河内街道だということが、解説板に地図入りで詳しく説明されています。それを見ていたNさんが、「あ、ここ(地図に載っている学校)の出身者、うちの教会に何人もいる!」と声を上げました。

キリシタンのゆかりの地から現代もクリスチャンが生まれる――。こういうことを今まで何度も見てきましたが、いつも不思議だなと思っていました。祈りが後の世に信仰者を生む原因になるなんてことが、果たしてあるのでしょうか?

あるのだとしたら、祈りは種のようなものですね。蒔かれた種が時になると芽吹いて、花を咲かせ実を結ぶように・・・。私たちは、自分でも知らずにいるけど、本当はそうやって皆生まれてきているんだったりして (^-^)


河内街道解説

地図

街道碑

旧河内街道

境内


境内の一角がしっとりとした緑に包まれたサンクチュアリのようだったので、皆で並んで記念写真を撮りました♪

キリシタンたちはここで何をしていたんだろう? 「キリシタン」というと、何か遠い昔のことのような響きがあるけれど・・・、要するにクリスチャン。私たちと変わりません。

たぶん讃美しただろうな、彼らだって笑っただろうし。説教を聞いて感動したり、時には深く反省する日もあっただろうし、「よし、これからもっとちゃんとお祈りするぞ!」とやる気になった日もきっとあったはず(自分もそうだから、ねっ)。

そう想像してみたら、彼らの顔さえ浮かんでくるような気がするから、またこれも不思議です。「今とつながってる感」を感じるたびに、不思議であり恵み深くもあり、どこか切なくもあります...(*゜.゜)

砂の教会


ここにあったと考えられているのは砂の教会。砂城主の結城三衛門尉は、結城忠正(何度も出てきますが「大逆転劇」の人です)の息子で、父が受洗した翌年の1564年に洗礼を受け、結城アントニオ(アンタン)と呼ばれました。ちなみに父結城忠正の洗礼名はエンリケです☆

結城アントニオは熱心な信徒となり、城の近くに教会を建てるなど、キリシタンの柱石のような存在でしたが、数年後に毒殺され32歳の生涯を閉じました。

彼の死は宣教師たちに悲しみを与え、フロイスはこう書いて結城アントニオの早過ぎる死を惜しんでいます。「かの高貴な人結城三衛門尉殿は、天下における最良のキリシタンの一人で」あったと――。


砂の教会跡

石仏

石造物

境内

殉教地


最後の目的地は妙法寺の東にある小祠堂。

最初に訪れた住道大聖堂跡もそうですが、キリシタン時代の教会は、弾圧期になると、壊された後、そこで信徒が処刑されることがありました。

それが見せしめとして最大の効果を上げることを、処刑を行う側の者たちは知っていたのでしょう。自分が通った教会が燃やされ、そこで尊敬する先輩キリシタンが殺される――。どれだけ衝撃的で恐ろしい光景だったでしょうか。

考えるだけでも痛ましく、息が詰まりそうです。

中のお地蔵さん


小祠堂の中には石のお地蔵さんが。誰が作ったんでしょう? 棄教して生き延びた元信徒が、殉教した知り合いを供養しようと寄進したんでしょうか。

それともキリシタンが柔和で良い人たちであったことを知る近隣の人々が、かわいそうに思って作ったのか。

あるいは信徒摘発の手先となった者や処刑に携わった者が、あまりに残酷な情景を目の当たりにして、祟りを恐れて置いたのでしょうか。お寺の関係者が、キリシタンだけでなく無縁仏全体を供養するために建てたかもしれませんが。

罪悪感と慰めたい気持ち、関わりを恐れる心と平安あれという願い・・・、様々な気持ちを受け止めてきたお地蔵さんは、暗い陰の中に座っています。よく見るとお地蔵さんではないですね。誰か高僧のようです。

持っているのが五鈷錫なら弘法大師かもしれませんが、妙法寺が日蓮宗なので日蓮上人かもしれません。キリシタンの教会跡に建てられているお寺のほとんどは日蓮宗のもの。日蓮も法難に遭ったのに、迫害を受けている者が義なる者であるかもしれないと微塵も考えなかったのでしょうかね。


小祠堂

石像

石造物

横の川

旅のしめくくり


史跡めぐりを終えて向かったのは、以前東京で一緒に演劇をやっていた人の開いたお店。エプロン姿がカフェの店長役みたいに見えてしまいました(本物だけど☆)

一服の清涼剤のような時間を過ごし、新幹線で帰路へ。勉強不足、準備不足、体力不足、寝不足を感じながら、現代に戻っていくような感覚を車内で味わっていました。

結論は・・・やっぱまた行こう、です♪



  徒歩と自動車と新幹線と


  今日は期せずして車で回ったので、徒歩の場合の半分の時間しかかかりませんでした。
  新幹線ならもっと早い訳で。乗り物によって所要時間が全然違うことを実感しました。
  歩いて行けない所だとしても、車や新幹線に乗るか、飛行機やロケットで飛んだらあっという間。
  そのように私の信仰という乗り物を変えて行くなら、可能性はぐっと広がるのだと感じました☆

  天国にあるという黄金の都、その永遠の城は、自分の考えに溺れて生きているうちは遠いけれど、
  自分を捨てて主と一体となり、そのエンジンで飛ぶなら、俄然近くなるのだと思います。

  信仰のロケットエンジンはきっと主への愛。なぜなら、
  多くの殉教者が天国への道を選べたのは、主を命のように愛したからに他ならないのだから。
  私も背中に翼をつけようと思う。高性能のすごいやつ。
  そしてその愛の翼で永遠の城へと、引き上げられたい――。ε=ε=ε=ε=ε=(o゜ー゜)oブーン!!





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