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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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 九州のキリシタン・ロードをゆくⅡ

  <本日の主な訪問地>

 SORIN!

日本で初めての南蛮文化がここに


大分県のほぼ中央に位置する大分市は県庁所在地。でもそれだけじゃないことをご存知でしょうか? 

ここは大友家の居城があった街で、家督を継いだ大友宗麟が遠く南蛮からの宣教師を受け入れて、キリシタン文化を花咲かせた街でもあったのです。

「日本初の南蛮文化がここに」――そう銘打っても良いほど、ヨーロッパ式の文明文化が栄えた場所に、今は何が残っているのでしょう。
宗麟とキリシタン文化の残り香を求めて・・・、今日は大分市の真ん中からスタートです♪

聖フランシスコ・ザビエル像


府内城跡前の大通りを渡ると、大手公園とその前に建つザビエル像が目に入ってきます。

ここから先、車道の中央分離帯は、緑と様々な銅像とで彩られた遊歩公園となります。

銅像の企画立案実行役は、長く大分市長を務めた上田保氏。「府内(ふない)」と呼ばれた現在の大分市であった物事を、像にして見せてくれています。像を創った彫刻家たちまた一流の芸術家揃いなので、作品としても見ごたえがあります☆

まずはザビエル。ザビエルもまたこの地に来た宣教師の一人です。この時挨拶をしたのが、まだ青年だった大友宗麟(この時の名は義鎮ですが、混乱を避けるため宗麟で統一します)。宗麟がキリシタンとなるのはそれから26年も経ってからですが、この出会いは生涯忘れ得ぬものだったのではないでしょうか。


府内城跡

大手公園

ザビエル像

解説碑

伊東ドン・マンショ像


つづいて現れるのが伊東マンショの像。長崎の平和祈念像などを製作した北村西望の作品です。

伊東マンショは大友宗麟の名代として、ローマ法王の元に派遣された天正遣欧使節の一人。

ヨーロッパを訪問した四人の少年は、各地で歓待され、日本ブームを巻き起こしました。


伊東マンショ像

伊東マンショ像

解説碑

伊東マンショ

西洋音楽発祥記念碑


宗麟は布教の許可を与えたので、宣教師は府内に教会を建てて活動するようになりました。

ザビエルが日本を去った後、全権を委ねられたトルレス神父はここ豊後府内で、信徒たちに合唱や演劇を教え、神を賛美する心を育てました。

1557年に少年たちが聖歌を歌っていたと宣教師の記録に書かれていますが、それ以前から当地では当然のように賛美歌が口ずさまれていたのではないかと思います。


西洋音楽発祥記念碑

解説碑

宣教師

子供たち

西洋医術発祥記念碑


大分県庁の法へ歩みを進めると、見えてくるのが 西洋医術発祥記念碑。

府内の教会(デウス堂)の横は、病人をケアする医療施設が建てられたのは1557年頃。

最初はトルレス神父とバルタザル・ガーゴという宣教師が質素な施薬院を開いていたのですが、医療の知識を持つポルトガル商人、ルイス・デ・アルメイダがイエズス会に加わることによって、医療施設は2つの病棟を持つ病院へと発展しました。

今では当たり前となっている手術などの西洋医療が、日本の地で初めて行われたのは現在の顕徳町辺りだったとされています。


西洋医術発祥記念碑

西洋医術発祥記念碑

説明碑

大分県庁

西洋劇発祥記念碑


次に見えてくるのが西洋劇発祥記念碑。
レリーフに描かれているのは、聖書に出てくるソロモンの裁判のシーン。

ザビエルが日本を去った後、後を継いだトルレス神父は日本人信徒(キリシタン)に芸術活動を勧めました。

その一つが演劇で、宣教師から教えてもらった聖書の物語を題材に、日本人信徒自らが考え、歌までつけて劇を作ってクリスマスに演じたという記録が残っています。

歌までつけて・・・というので、今風に言うとミュージカルですね♪
一般信徒がそこまでの水準を持っていたということにも驚かされます。

尚、このレリーフを制作したのは舟越保武。長崎26殉教者記念像で高村光太郎賞を受けた、日本を代表する彫刻家で、カトリックのクリスチャンでもあります。


西洋劇発祥記念碑

説明碑

朝倉文夫の作品も

説明

育児院と牛乳の記念碑


少し進んだところにあるのが育児院と牛乳の記念碑。

日本では近代になるまで、「間引き」という嬰児殺しはどこででもなされてきたことで、多くの子どもたちが捨てられ、殺されていました。

そういった子供たちをもらいうけ、養育するのが育児院で、子供たちの栄養不足を補うために推奨されたのが、牛乳の摂取でした。

このような発達した考えと実践がなされていても、当時の人々には理解しにくく、また仏教寺院側から流されたデマもあったので、「南蛮人は子供を取って食べる」とか「牛の血を飲んでいる化け物だ」と噂されて怖がられたりもしていたとか。

どんなに相手が善意で行っていても、人は自分の水準で相手を見て判断するから、自分がその段階に至るまでは相手をなかなか理解できないんですよね。現代でもそれは同じだと思います。


育児院と牛乳の記念碑

解説の碑

北村西望の作品

解説

瀧廉太郎像


遊歩公園の端に据えられているのが、瀧廉太郎の銅像。

「瀧廉太郎終焉之地」と書かれています。

廉太郎は病を患ってドイツから帰国し、郷里である大分市で療養しました。

あまり知られていないことですが、瀧廉太郎は聖公会で洗礼を受けたクリスチャン。たぶんお祈りをしながら最期の日を迎えたのではないでしょうか。

ちなみにこれらの像を建てたの上田保氏もクリスチャン。でも像を建ている時にはクリスチャンではありませんでした。昭和22年から16年間大分市長を務め、市長職を辞してから受洗したのです。

戦争が終わって何もなくなった日本で、誇りまで失ってはならないと、大分が世界に誇れるものはなんだろうと研究するうちに、瀧廉太郎、そして大友宗麟の時代から始まったキリシタンの歴史と南蛮文化にのめり込むようになり、市長を引退してからクリスチャンになったのだとか。

上田保氏は「大分を東洋のカトリックの聖地にしたい。キリシタン博物館を建てたい!」とローマ法王に会った時に話して、バチカンから建設資金1千ドルを贈られたこともあります。ものすごい情熱家で、魅力的な人物ですね。

聖地にしたいという願いは、今もここに宿っているような・・・(*゜v゜*)


瀧廉太郎終焉之地

瀧廉太郎年譜

瀧廉太郎像

像のある遊歩公園

 海に沈んだ港町

春日浦バス停


感慨に耽っていたらあっという間に午前中が終わってしまいそうなので、車に乗って港方面へ。

行ってみたいのは勢家・春日浦。ザビエルが上陸した港町です。

春日浦バス停の横には小さな公園と大友宗麟像。隣には「神宮寺浦南蛮貿易場址」の碑が建てられています。

「春日浦」「神宮寺」など、呼び名はいくつかありますが、示すところはこの辺りに「沖の浜」があったということ。沖の浜は地震で海に沈んだと考えられています。

大友宗麟像


大友宗麟に招かれたザビエルは日出から別府湾を横断して沖の浜に上陸。

小船で海岸沿いに府内の中心部まで着いて、そこから大友館までパレードしました。

その後府内滞在中のザビエルは、沖の浜にあった宿舎に泊っています。一説には、最初の教会は大友館近く(顕徳寺)ではなく、沖の浜にあったとも。
1551年、ザビエルが日本を離れる際に、ポルトガル船に乗船したのも沖の浜の港です。

今はスピードを出した車が素通りしていく閑散とした場所ですが、ここから海を臨んだ辺りには、遠く南蛮からの船が行き交い、ザビエルが足跡を残した港町が殷賑を極めていたのだと思うと、ロマンを感じるとともに、もうちょっと当時を偲べるものがあったらいいのになという残念な思いがわいてきます。

大友宗麟像

神宮寺浦南蛮貿易場址

現在の様子

現在の様子

教会もちらりと

カトリック大分教会


せっかく大分市に来たので、教会もさくっとめぐってみたいと思います。

中に入っている時間がないので、車道からで失礼しますが、こちらがカトリック大分教会。

ザビエルとキリシタン大名ゆかりの地で信仰を守るとは、とっても祝福された環境ですね☆


カトリック大分教会

カトリック大分教会

カトリック大分教会

日本基督教団 大分教会


大分県におけるプロテスタント伝道は、長崎に来ていた宣教師たちが巡回したことに始まるのではないかといわれています。

特筆すべき現象は「大分リバイバル」といわれる聖霊体験が、1889年の12月31日に起こっていること。

神戸にいたランバス宣教師を迎えて除夜祈祷会で祈っていると、一同の上に熱い聖霊が次々と下って、人々は涙で悔い改め、神のためにこの身を捧げる決心をしたというものです。
その場にいたランバス宣教師自身が「第二の回心」をしたと告白しています。

このリバイバルによって多くの青年たちが献身して、県下での伝道活動に奉仕しました。
熱い聖霊を受けた者たちのスピリットは、今も受け継がれているのでしょうか。
そうであるように願います (*'ー'*)


大分教会

大分教会

大分教会

 デウス堂跡を求めて


万寿寺


再び車に乗って、今度はデウス堂や大友館のあった顕徳寺方面へ。

大分に初めて足を踏み入れた私たちにとって、右も左も町の様子がまったくわからないので、とりあえず今も立派な堂宇を構えていそうなお寺さん、万寿寺へ。

万寿寺には瀧廉太郎のお墓もあるというので、見ておきたいですし。

大友家累代の墓


山門だけ見ても圧倒されるような万寿寺は、お盆の参詣客とその送り迎えをする若い僧侶の姿で、ちょっとした賑わい。

ぱっと見ただけではわからなかったので、瀧廉太郎のお墓はどこですかと聞いてみると、「瀧廉太郎のお墓は今はないんですよ。子孫の方が日出の方に移されたので。でも大友ならありますよ」とのこと。

「大友ならありますよ」って・・・、りんごは品切れだけどみかんならありますよ、みたいな!?
「それじゃあ、大友お願いします」と言ってみる(こういう時は乗るに限る)と、墓地の端っこにあるコチラ(↑)に案内してくれました。

大友家累代の墓と書かれていますが、随分と質素というかなんというか・・・。
それもそのはず、大友宗麟は、元々の万寿寺を焼き討ちした張本人で、現在ある万寿寺はその別院が残って整備され、栄えているものなのです。

そう考えれば「大友ならあります」と案内してくれただけでも感謝なのかも。
ちょっと面白い思い出にもなりましたしね (´▽`) 


万寿寺

万寿寺

大友家累代の墓

「神儀」と書かれてる

デウス堂跡発見!

デウス堂跡


カーナビ頼りに移動してる身としては、住所のない碑の在り処を探すのは一苦労。

万寿寺からあっちかな、こっちかなとぐるぐるしていると、でっかい看板の下に小さな碑を発見!

おお、「デウス堂跡」と書いてあります!!
ここにデウス堂(教会)と病院、宣教師が暮らす修道院があったんですね。

デウス堂跡の碑


デウス堂の位置に関しては、他の説もありますが、ここでいいんじゃないかなと素人ながらに考えます。

なんか、そんな気がする。
周りにはそれを裏付けるものは何もないですけどね。

ただ碑の建てられる場所として、この「さとう」の看板下でいいのかという、若干の問題を抱えているような・・・。目印と考えればいいのかもしれないけど;;


「さとう」の下に

「デウス堂跡」碑

解説板

解説文

ここはどこ・・・?


デウス堂跡が見つかったのこに気を良くして、大友館跡を探しますが、皆目わからず、西山にあったという大友屋敷跡を探しに山っぽい方向に向かいます。

県立高校の北側だとか上野墓地公園がそうだとか、いろんな本を読みすぎて(というか、頭の中で資料が整理できなくて)、墓地をさまようだけで終わってしまいました (×_×)

時間のムダ? That's right ! 正にそうです。もう午後になるので次の目的地に行かねばっ。

殉教地もあります

大分キリシタン殉教記念公園


大分市を後にする前に殉教地にだけは行きたくて葛木の地へ。

大分市の郊外にあるこの場所に大分気殉教記念公園があります。

この近辺での殉教を記念した公園であって、ここでキリシタンが処刑されたわけではありませんが、一人一人がどこで処刑されたが正確にはわかっていないので、まとめた形であってもこのように公園を造って記念として残してくれているのは有難いことです。

殉教レリーフ


公園奥には西村西望によるレリーフが。

横にある解説碑によると、この費用は足立さんという方が出されたようですが、企画立案はやはり上田保氏のよう。

大分県キリシタン史跡顕彰会会長として名前が刻まれています。

ただ残念でならないのは、レリーフの横に実際の殉教地が地図で示されたものがあるのですが、経年劣化で色が剥げ落ちていて、全く読み取れないこと。これがちゃんとしてたら実際の殉教地もわかるのになあと・・・。逆にそれが嫌で(人が死んだ所だとわかったら土地が売れないとかそういう理由で嫌がる人がいるのは確かなので)、剥げ落ちたままにしてるんでしょうか。

公園自体はきれいに掃除されているのに、そこだけ剥げたままというのは、そんな憶測も招きます。
せめて資料をどこかで閲覧できるといいんですけどね。どこが本当の殉教地なのか、たぶん碑を建てた大分県キリシタン史跡顕彰会の方ならわかってるんでしょうから、本とかにしてもらえたら、更に有難いなと、そんな欲張りな期待を抱いています。。


葛木

殉教記念公園前バス停

殉教記念公園

殉教記念公園

レリーフ

解説碑

剥げた地図

織部灯籠

公園内

歌碑

塀の十字架

近くの教会

 宗麟終焉の地、津久見へ

津久見駅前の宗麟像


バイパスに乗り損ねて、思った以上に時間がかかって津久見に到着。

ここは大友宗麟終焉の地なので、ちょこっとだけでも来てみたかったのです。

津久見駅前には下り立った客を迎えるかのように建つ宗麟像。

大きくはないけど存在感があります☆


津久見駅

宗麟像

大友公園


宗麟公園と間違って、大友公園に到着。時間ないのに更に時間ロスです;;

津久見に大友公園と宗麟公園と二つがあるなんて、よそ者には予測できませんでした。

こちらは宗麟のお墓など史跡的な部分はなく、たぶん電波塔とかそういう施設のある公園。それでも「大友」の名を冠しただけあって、公園のモニュメントには宗麟の花押が! これを見たらちょっと心が晴れました☆

あと見晴らしは良いです。子供をわーっと走り回らせてあげたいファミリーにおすすめかと♪


壁画

見晴らしグッド

モニュメント

宗麟の花押

宗麟公園

宗麟公園


小道を行きつ戻りつ、迷ったりもしながら、ようやく宗麟公園にも到着。

こちらが大友宗麟のお墓がある公園です。

「宗麟墓地公園」と書いてあることもあるので、やはり私たち以外にも間違って大友公園に行っちゃう人がいるのかも。。

大友宗麟の墓


大友宗麟がその生涯を終えたのは津久見の館において。

ここには息子の義統が建てた仏式の墓と、近年になって建てられた洋式の墓があります。

この美しいフォルムの洋式墓の設計は磯崎新。ポストモダンの旗手でしたっけ? 大分市の出身の有名な建築家です。やっぱ上田保さんが依頼したのかなぁ・・・?


墓所への階段

宗麟像と解説碑

やっぱり上田保!

仏式の墓

洋式の墓

洋式の墓

洋式の墓

洋式の墓

宗麟の胸像


宗麟は死の前年、キリシタンの理想郷を作ろうと日向に軍を進めて島津軍に大敗し、臼杵に籠城を余儀なくされます。

島津軍が退却したので籠城を解くことはできましたが、九州制覇を目論む島津軍が大挙して豊後に攻め込もうとしていました。

この危機に宗麟は「国が滅ぶのは仕方がない。しかしキリスト教が滅ぶのは耐えられない」と老骨に鞭打って、沖の浜から海路大坂へ上り、秀吉に援軍を直訴するのです。

秀吉の援軍によって島津軍は撤退させられ豊後は救われましたが、その戦のせいで多くのキリシタン文化は灰となり、宗麟は戦後に流行った病(ペストと言われている)に倒れます。

津久見の館で息を引き取る時、宗麟の心に去来したのはどんな思いだったのでしょう?
権謀術数渦巻く戦国の世も、宗麟が歩んだ複雑な人生も、私などには到底想像できませんが、それでも同じクリスチャンとしては、「主のためにできたこと」を誇りに思う気持ちがあったのではないでしょうか。

私もちょっとは・・・「主のためにできたこと」を残せるような人生を歩みたいです (。_。*)))モジモジ...


宗麟像

宗麟の花押①

宗麟の花押②

宗麟の花押③

宗麟の花押④

宗麟の花押⑤

宗麟の花押⑥

宗麟の花押⑦

カトリック教会も見て

カトリック津久見教会


宗麟公園からの帰り道に、カーナビに教会の表記を発見。

住宅街に埋もれたように建つカトリック教会で、幼稚園を併設しているようです。

子供たちの歌声は、宗麟の耳にも届いているかもしれませんね♪


カトリック津久見教会

カトリック津久見教会

十字架とキリスト

 臼杵へ参ります♪

臼杵城跡


津久見から大分市方面に戻って来るような軌跡を描いて、臼杵の町へ。

宗麟が籠城した臼杵城を見るためです☆

当時は海に突き出た島の上に築かれた城だったようですが、現在は埋め立てが進んで、堀をめぐらせた山城といった感じ。

それでも他にはない、とっても個性的で不思議な感じがある佇まいです。何と言っていいのか・・・、異様なものに出会ったような、奇妙な感じがします。当時この城が海に浮かんでいたとしたら、かなりの奇観だったでしょうね。

臼杵城跡


臼杵城に宗麟が籠城したのは、日向から命からがら退却して来たとき。

それなのに籠城の際、宣教師や町の人々まで一緒に城に匿ったというから、大変だったことでしょう。

情け無用の戦国の世で、キリシタン精神で生きていくことは、試みが多かったことだろうと容易に推察できます。どうすればいいかわからないことも多々あったに違いありません。それだけにより主に求めて、答えをもらおうともがいたのではないかと思うのです。

宗麟がザビエルと会って26年も経ってからキリシタンになったことや、それまでの生き方で不審な点があることなどが、いろいろと批判されたりしますが、真実に悔い改めて信仰で生きていこうとしたことは、それらをチャラにするんじゃないか(悪事は報いを受けるけれど、悔い改めれば主が許してくださるという意味で)と、思います。

たとえ明日死ぬんだとしても、人生をやり直していけないと誰が決めたんでしょう。
宗麟は死の2~3年前からすべてを悔い改めて真実な信仰で生き、人生の総決算をして、そして同時に自らの死を準備をして生きていたように、私には思えてなりません。


臼杵城跡

臼杵城跡

堀の鴨

堀と石垣

本丸跡

地図


物資の搬入に使った?

臼杵修練院跡と大橋寺

臼杵修練院跡!?


私「あ、ここだと思う。停めて」
夫「何が?」
私「臼杵の修練院と修道院があった所・・・」
夫「えーっ!?」

夫が驚くのも無理はありません。この車の待避所のような所。この辺りだってことしか言えないけれど、たぶんこの辺りがキリシタンの拠点があった場所だと思います。

ヴァリニャーノが来日し、臼杵に修練院(ノビシャード)、府内にコレジオ(大神学校)を創設したのですが、臼杵の修練院・修道院の場所については「臼杵川の中州の対岸にあった」とされています。

それで川の中州の移り変わりを調べてみると、中州の上流の3分の1が当時と同じであることがわかりました。なので、現在は中州と橋でつながれているけれど、この辺りがそこに相当するのです。

大事なことは、修練院でパウロ三木や不干斎ハビアン(後に棄教し、排耶書を著す)が学び、修道院の教会で宗麟が受洗したのだということ。

宗麟は洗礼を受けた後、城へ向う籠の中で、あまりの感謝で涙を流したと言っています。一国の大名がキリシタンになったことを喜んで、感涙したとは、なんとも感動的な話ではないでしょうか。

場所自体は私の推測では確かだとは言えないけれど、少なくとも「この辺り」で、そういう歴史があったことは、是非記録して覚えておきたいものだと思います。

大橋寺


さて中州には、「豊後のイゼベル」と宣教師たちが呼んでいた、宗麟の正室の墓がある大橋寺があります。

イゼベルとは旧約時代エリヤという預言者が活躍していた時代に、エリヤをひどく迫害した王妃の名。

「豊後のイゼベル」たる宗麟の正室も、臼杵の教会に投石させたり、焼き討ちするよう指示したりしました。


臼杵修練院跡!?

臼杵修練院跡!?

臼杵修練院跡!?

中州の大橋寺

 そろそろ巻きます!

今日の予定は・・・


府内(大分市)、津久見、臼杵と回って来て、お日様も西に傾いてまいりましたが、ここから更に、野津、竹田と回り、阿蘇山を越えて熊本に至るというのが今日の予定。うーん、ちょっと巻いて(急いで)いかなきゃね☆

無茶なスケジュールを組んでしまったことよ、と反省しつつ・・・
(`∇´ )にょほほほ(笑ってごまかす2)
ドライバー(夫)に頑張ってもらいましょう。では出発!

磨崖クルス

磨崖クルス


野津(のつ)は、臼杵市の中心部からずっと山の方に行った町。

キリシタン時代には6000人を超える信徒がいて、教会6つとレジデンシア(宣教師の駐在所)があったとされています。

また豊後崩れ(キリシタン弾圧)では22年間に517人が逮捕されたと記録に残っているので、私としては、是非その土地を踏むだけでも踏んでみたい!という感じ。

個人の方がやってらっしゃるというキリシタン記念資料館を目指して行ったのですが、カーナビに表示は出るものの、実際にはそれらしきものはなく、断念(もしかして今はもうない?)。

しかしちょっと進むと「磨崖クルス」と書かれた案内板が見えてきました。これだけ大きな案内板が出てるなら、野津のキリシタン史跡めぐりは楽勝かもしれません ( v ̄▽ ̄) ぃぇぃ♪

磨崖クルス


案内板の明解さのわりに、少し探しにくい所にある磨崖クルス。

木陰にひっそりと顔を覗かせています。

あまり大きくはないですが、くっきりと刻まれた干十字。

隠れ住んでいたキリシタンの礼拝所にでも置かれていたのでしょうか。
山のどこかに据えられていたのが、何かの拍子に落ちてきてこのようになったように見受けられます。

ごつごつした岩の側面に刻まれた端正なクルス紋様は、信徒の誠実な思いを表しているような。
誰がどんな気持ちでこの十字架を見つめていたのかわかりませんが、両手を合わせて祈る姿が瞼に浮かんでくるような気がします。


磨崖クルス

磨崖クルス解説板

干十字

木陰にある磨崖クルス

大友義鑑の墓


磨崖クルスから道をはさんだ反対側にあるのが「大友義鑑の墓」の案内板。

大友義鑑は大友宗麟のお父さん。「二階崩れの変」という事件が起こって、義鑑が半死半生の身となり、宗麟は家督を継ぐようになったのです。

この「二階崩れの変」を裏で宗麟が糸を操っていたという人もいますし、ありえないことではないと私も思いますが、それはさておき、注目したいのはこの墓の質素さ。

昔はここにお寺があり、そこにお墓が建てられたんでしょうけれど、それにしても質素過ぎます。
墓塔もあまりに小さいし、一国の領主の墓とは思えません。

「二階崩れの変」が起こったのは、義鑑が嫡男である宗麟を差し置いて、宗麟の異母弟を後継ぎにしようとしたことが原因ですが、宗麟が父から「愛されなかった」ことがもっと深い要因。父に「愛されなかった」宗麟が、父を「愛せなかった」ことがここに表れているように感じます。
そのことが神の愛への希求へとつながっていくとは、若き宗麟自身、思ってもみなかったことでしょうけど・・・。

しかし天の瞳は、孤独な若者の上に注がれていたのかもしれません。
父との軋轢がきしみ始めていた頃、府内の港に着いたザビエル。宗麟はその出会いから四半世紀も経ってから洗礼を受けますが、その時選んだ霊名は「フランシスコ」。フランシスコ・ザビエルのその名からもらったものでした。それは四半世紀もの長い間ずっと、宗麟の心を占め続けてきたものだったと言うことができるでしょう。

「愛されなかった」青年の傷ついた心に、注がれ続けてきた天からの柔らかく優しい眼差し――。
人の生々流転の中に透明な姿で現れ共にする方を、今日も、今この瞬間も感じます。


野津中央公民館


野津には多くのキリシタン墓碑などの石造物があるようですが、ぽっと出の観光客にはハードルが高そう;;

なのでしっかり住所の判明している所に行こうということで、野津中央公民館へ。ここにはINRIと刻まれた碑があるらしい☆

もう時間がないので、公民館に入って行って最初に会ったおじさんに「キリシタンの碑が見たくてきたんですけど・・・」と打ち明けましたが、「んんん?」という反応。「ここにはそういう物ないけど、これならあるよー」と史跡の載った観光マップをくださいました。

またもや空振り。私が野球選手なら打率低すぎて戦力外通知だ。
以前はあったけど今はないのか、資料が古いのか、私の読み間違いか、単なる勘違いか・・・、たぶん私のリサーチが甘いからなんでしょうけど、レ・ミゼラブルです (=;ェ;=)

もう竹田に行っちゃえ!

岡城跡


他の物を見つける自信がなかったので、もう竹田に行っちゃえということで、岡城跡へ。

瀧廉太郎の「荒城の月」で有名な城跡です。閉門時間まで1時間もないのでお客さんはまばら。

小雨の降る中、情緒たっぷりの城跡を巡ります。

大手門跡


岡城跡ゆかりのクリスチャンは瀧廉太郎だけではありません。

志賀親次(ちかつぐ)という、忘れてはならないキリシタン武将がいるのです。

1586年、島津軍が豊後に攻め込む豊薩合戦が起こると、親次は居城であるこの城に立て籠もって、わずかな兵力で島津軍を何度も撃退しました(この采配を援軍を出した秀吉に称賛されています)。

城代屋敷跡


豊薩合戦の翌年に宗麟は死去し、それから4週間後に秀吉は伴天連追放令を出しましたが、親次は棄教を拒否し、宗麟亡き後の豊後のキリシタン保護者となりました。

親次の後を受けて岡藩主になった中川秀成も、キリシタン大名中川秀政の弟で、キリシタンを庇護しました。

竹田は長く、キリシタンのサンクチュアリ(守られた聖なる場所)であったわけです。


岡城跡の碑

大手門跡

石垣

遺構

本丸跡からの眺め

本丸跡からの眺め

「荒城の月」の歌碑

歌詞の説明板

キリシタン洞窟礼拝堂へ

キリシタン洞窟礼拝堂


岡城跡を後にして、キリシタン洞窟礼拝堂へ。

竹田には古田織部の子孫で、キリシタンだった家老、古田重治もいました。重治は弾圧時代にキリシタンを匿ったとされ、キリシタン洞窟礼拝堂は古田重治邸の近くにあります。

洞窟礼拝堂


入り組んだ小道を進んで山にぶつかった所にあるキリシタン洞窟礼拝堂。

旅行雑誌などの写真とは全くイメージが違い、凄まじい気を放っています。

これが「禁教下に信仰を守る」という凄まじいまでの覚悟なんでしょうか。

ロマンチックな礼拝堂を想像していたので、かなりショックです。でもこういう凄まじいものを見られたことに感謝せねばと思いました。ご禁制のキリシタン宗を信じて生きることが生易しいはずないのに、どこか美化してたなと、気が引き締まる思いがしました。


入口

キリシタン洞窟礼拝堂

キリシタン洞窟礼拝堂

下の穴

下の穴

解説板

宣教師の隠れた洞窟

洞窟の標柱

さらっと回って

竹田市立歴史資料館


城下町の風情の残る町を中心部に向かって行くと、竹田市立歴史資料館が。

中川秀成らを祀る中川神社に伝わるサンチャゴの鐘という洋式の鐘が、ここに展示されているということですが、既にクローズ。もう17時ですので^^;

このサンチャゴの鐘は、府内のアルメイダさんの病院にあったといわれています。

府内から野津を経て竹田へ、キリシタンのルートがあったことがわかります。

瀧廉太郎記念館


竹田市立歴史資料館から歩いて数分の所には瀧廉太郎記念館があります。

既にクローズしてますが、ここは瀧廉太郎が住んでいた家を記念館にしたものなので、この辺を遊びまわったりしてたのかなーと感慨に耽ることができます。

瀧廉太郎の出生地は東京ですが、瀧家は日出藩の家老職をつとめた上級武士の家柄でした。だからお墓は日出にあるんですね。


瀧廉太郎記念館前

瀧廉太郎旧居

瀧廉太郎の碑

竹田と瀧廉太郎

 阿蘇越え!

阿蘇山


いささか時間切れの感がありますが、暗くならないうちに阿蘇越えをしようと、豊後街道を西に向かいます。

放牧された牛が、緑の中に点々と茶色い背中を見せています。

興味深いのは、竹田市北に隣接する久住(くじゅう)地方で、牛のことを「ボイ」と呼ぶこと。

阿蘇山


「ボイ」は、スペイン・ポルトガル語では牝牛を意味します。

これは言葉の考古学という側面からすると、一つの証拠になりえると思います。

南小国町


つまり豊後街道や日田往還が、宣教師が歩き、キリシタンが行き来したキリシタン・ロードだったのではないかということです。

この道は阿蘇の外輪山を2回越え、熊本へと至ります。その先には海路でつながれた天草諸島、島原半島、長崎などがあります。

宣教師たちは慣れない異国の山道を、一人でも多くの命を救おうとする、ただそれだけの希望を持って、越えていったのかもしれません。


阿蘇山を走るうちに

空は暗くなり

影が覆って

雨が降り始めました

今日も一日ありがとうございました


無謀かつ無茶なスケジュールを強行して、何とか無事にホテルに到着。感謝でございます。

夕飯はホテルの一階にあるジョイフルで鳥のてんぷらをチョイス。ジョイフルも鳥のてんぷらも関東の者には珍しいので、ちょっと旅行者気分(十分旅行してますけど、一般的な観光地に行かないから^^;)。

昨日今日と特に感謝しなければならないのは、猛暑が和らいだ中を行けたこと。九州の天気予報では34℃とか35℃とかの数字が並んでいたので、少しでも暑さが和らぐようにと激しく祈って九州入りしたのです。

しかし昨日は曇り、今日も小雨がちらつくなど、素晴らしいさじ加減で涼しく過ごさせてもらえました。
体力のない(根性もないっ;;)私には、最高のお天気模様でした☆

明日からも主の掌で守ってもらっていけるようにと(図々しくも)祈りつつ、
今日も感謝でおやすみなさい ☆c(゜ー゜*)c☆☆_(*゜∇゜)ノ~☆キラキラ


インフォメーション
天草観光ガイド「島旅」
天草市立天草キリシタン館
Laudate(女子パウロ会HP)


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