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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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 九州のキリシタン・ロードをゆくⅢ

  <本日の主な訪問地>

 憧れの天草へ!

まずは宇土城跡

今日は憧れの天草を巡ります♪

天草諸島はキリシタンに関心を持つ者なら誰でも訪れたいと思う島。でも生憎私は今まで来る機会がなかったので、今日は本当に願いが叶う日といえそうです。

天草といえば天草の乱と天草四郎。キリシタン史の中でもよくよく注意して吟味して丁寧に読み解いていくべきトピックスだと思います。自分の考えを左右するような発見をするかもしれないし。

念願叶って踏む天草の土地はどんな表情を見せてくれるのでしょう。
熊本からまずは小西行長が居城した宇土へ。そして天草へと・・・o(゜▽゜ヽ)(/゜▽゜)o レッツゴー♪


宇土城跡


天草へ向う途中、宇土の宇土城跡に寄ります。ここはキリシタン大名小西行長の居城であった城。

本丸跡はは、跡いうだけあってほんとに何もなく、広い芝生公園。でも大きな小西行長像が建てられています☆

来た甲斐ありました (*´▽`*)ノ゛

小西行長像


レオン・パジェスの「日本切支丹宗門史」の1600年の項に宇土のことが書かれています。

「宇土の大駐在所(大きな教会)にいくつかの伝道所が付属していて、5人の司祭と7人の修道士がいた。すでに1万人の信者がいたが、更に1万7千人の新受洗者ができた」と。

ちょっと大げさじゃないかと思いますが、それほど多くのキリシタンがいたということでしょうね。
1600年といえば、秀吉の伴天連追放令の後。26聖人が殉教した3年後でもあります。決して信徒となることが楽な時代ではありませんでした。

小西行長の庇護があったのは大きいでしょうが、それ以上に民衆の救いを求める心が強かったことがキリシタン繁栄の礎だったんじゃないでしょうか。



宇土城跡の散策地図

宇土城跡

小西行長像

説明板

説明板(左)

説明板(右)

近世宇土城跡について

小西行長について

天草四郎メモリアルホール

大矢野島へ


宇土を後にしてとうとう天草諸島へ。
最初の島、大矢野島に天草パールラインで渡ります♪

まだ天草の様子がわからなくて、どこにポイントがあるのか把握できてませんが、まずは天草四郎メモリアル・ホールへ。

とりあえず情報収集を!

天草四郎メモリアルホール


大矢野に入ると天草四郎を全面に打ち出したお店とかがいろいろ。

大矢野島は天草四郎の出生地とされているらしいです(長崎説もあるけど)。

メモリアル・ホールは「楽しく学ぶ」といった感じの、何というか、よくある「○○体験館」みたいな感じ。

敷地には顔を出して写真を撮る書割みたいな観光地っぽいものや、恋人たちが鳴らすと結ばれるという愛の鐘なんていう、ベタ過ぎるほどロマンチックな物が置かれています。ディープなキリシタン世界を、一般の人に紹介しようって目的で作られたのかな?



天草四郎メモリアルホール

書割

入口

 天草の全体像がつかめない・・・;;

大矢野の浜辺


しかし大矢野はロマンチックな所ではありません。天草四郎の出身地ということは、天草の乱の出発点だったわけですから。

天草の乱の首謀者は以下の三人。
・益田甚兵衛好次
・渡辺小左衛門
・隠居していた小左衛門の父、伝衛門

天草四郎は益田甚兵衛(小西行長の元祐筆)の一人息子で、渡辺小左衛門は大矢野の大庄屋でした。

彼ら3人が1637年の春、大矢野島の隠れ家で計画したことが天草の乱の発端になりました。
なので乱後の大矢野はまるで亡所のように荒れ果てたといわれています。
今は穏やかな浜辺に、柔らかい風が吹き抜けていくだけですが・・・。


サンタマリア館に行きたいの!

サンタマリア館、閉鎖した!?


大矢野島から天草パールラインの3号橋、4号橋を渡って上天草島へ。いろいろ見たい所があるけれど、全部回ってたら時間がなくなるので、必ず行きたい所を選んで核心的に参ります。

まずはサンタマリア館。以前この博物館のの館長の息子さんが書いた本を読んだことがあったので、キリシタン遺物を求めて来てみたのですが・・・

なんと、閉館!

どんよりとしてきた空の下、気分まで下降線になってくるのを止められません。
ここ、結構期待してたんですが...(;´□`;)



キリシタン遺物が集められた

サンタマリア館

閉鎖だなんて

噓だといって;;

天草上島の海岸線


しかし閉鎖の看板をよく見ると、リニューアルオープンの文字が!
この道をもっといった先にできてる(?)みたいです。とりあえず向ってみましょう☆

右手に見えるは大浦の海。ここ大浦村は、唐津藩主寺沢広高の時代、随分とひどい重税に悩まされた村です。

寺沢検地(検地とは課税対象の土地を調べること)は「縄延(なわのばし)」で有名で、ちょうど縄を延ばすように生産高を多く見積もって、その見積もりに従って民を絞り上げるというやり方で、凶作の年には多数の餓死者を出しました。

記録によると大浦村の農業生産高は実際よりも1.6倍も高く見積もられています。重税にあえぎ、不作に悩んで藩に「借り米(かりまい。藩から米を借りて飢えをしのぐこと)」を申し出ています。藩に対する怨嗟の声が上ったとしても不思議はないと思います。

天草島原の乱に参加したした人々の共通点は、天草も島原もキリシタンが多い土地柄だったこともありますが、両方の藩主(天草では寺沢家、島原では松倉家)が、共に重税と苛政をもって民を虐げたことを挙げることができます。

つまり一揆の下地は、藩主自身の手にによって何年も前から種が撒かれ、育まれ、丁寧に準備されていたのだと。その結果として、乱後に寺沢家も松倉家も幕府から裁かれる(寺沢家は島原領を削られ、松倉勝家は全領没収され、後に大名としては異例の斬罪となる)のですが、彼らのせいで立ち上がった農民たちもまた滅ぼされたことに、やりきれない思いをさせられます。

天草島原の乱には、キリシタンの信仰という側面があるので、その点でまず看過できないのですが、為政者の過ちと一揆という面でも、深く考えさせられます。


NEWサンタマリア館!


海岸線を走ること6分で、ニューオープンのサンタマリア館に到着。おとぎの国の家のようです。

壁面に昨日オープンしたと書かれていてびっくり!

旧館が閉鎖で目の前が真っ暗になりかけましたが、本当はもっといいものを見せてくださるために、新しくしてくれていたのかもしれません。

何事も、その最後がどうなるかを見てみなければ正しい判断はできない。途中であーだこーだ言っちゃいけないのだと悟りました。



NEWサンタマリア館

祝落成!昨日開館!

前の十字架

説明板

館内


館内に入ると、本で見たことのあるお顔が。たぶん館長さんです。

オープン仕立てだから知人の方が来館しているようでロビーで親しげに話しています。

「写真を撮っていいですか?」と受付の人に聞くと、館長さんが「よかよか」と♪

今オープン記念で特別に天正遣欧使節が持って帰ってきた鏡を展示しているから是非見てってと言われました。
何もかもが整えられているようで、幸運に感謝です (^人^)謝謝♪


展示室


展示室には天草の各地から集められたキリシタン遺物がどっさり。

こういう個人蔵だった物はは地元の研究者でないと、譲り受けることができなかっただろうなと思いました。

天草各地を全部探して歩くことはできないから、一同に集められたここで見させてもらえて有難いです。



キリシタン遺物

キリシタン遺物

キリシタン遺物

キリシタン遺物

キリシタン遺物

キリシタン遺物

キリシタン遺物

キリシタン遺物

復活キリシタンの祭壇


また単にキリシタン遺物があるというだけでなく、潜伏キリシタン(隠れキリシタン)の祭壇が復元されてあって、見られることも特長だと思います。

日本の中に西洋が入り混じった感じが独特な雰囲気をかもし出しています。


キリシタン関係の物

鳥がかわいい

十字になってる

キリシタン遺物

キリシタン遺物

キリシタン遺物

復活キリシタンの祭壇

天正遣欧使節の鏡?

南蛮寺の跡を探して

注連縄をつけた家


お腹一杯になって館を出て、近くにある史跡に向かいます。

正覚寺は元南蛮寺だった場所に建てられたお寺で、キリシタン墓碑が発掘され公開されているのだとか。

お寺の場世がわからなくてうろうろしていると、家々の玄関に正月でもないのに注連縄が飾られているのを見かけました。

キリシタンだと疑われないように、天草のどこかの地域では年中注連縄を付けていると、テレビで見たと夫が言っていたけれど、ここもそうであるようです。

380年も前の出来事なのに、それくらい強く刻まれて、今に至っているなんて・・・。
現在では風習と化しているんでしょうけど、信仰の自由が保障された現代の日本で、こういう風習があること自体を考えてみる必要があるのかと。


正覚寺参道


もう一つ気になったのは、私が道を尋ねたおじさんが、どうみてもラテン系の風貌であったこと。

まさか宣教師が結婚して土着なんてしないだろうから、異国の血が流れてるなんてことはないですけど。

私が考えたのは、この九州って所はどちらかというと濃い顔の人が多いから、宣教師たちが人々の中に紛れ込みやすかったんじゃないかということ。

九州の民にとっても、南蛮人ってそれほどかけ離れた人種に見えなかったかもしれないなと思ったりして。大体ザビエルだって「日本人は白人だ」って書いていることをみても、「自分とあまり変わんないな」と思った可能性は十分にあります。

それはさておき、見えてきたのは正覚寺のながーい参道。
若干荒れた感じが漂っているのは広さのせい?
近寄っていくと立派な山門とお堂が見えてきました。



正覚寺案内板

山門

本堂

南蛮寺跡

キリシタン墓碑のある覆屋


キリシタン墓碑は、本堂の左手、十字架のついた覆屋(お堂みたいな)の中にあります。

これらの墓碑は、本堂の大改築の際に床下から出てきた、つまり踏みつけてお堂を建てちゃったわけですね。

キリシタン墓碑


この地域は上津浦(こうつうら)といって、300年にわたって当地を支配した上津浦氏のお膝元。

上津浦や大矢野、栖本など天草全体にキリシタンが爆発的に増えていく背景には、それらの地域の領主たちの入信があります。

これにはどういう経緯があったかというと、天草五人衆とよばれる人たちがいて(上津浦氏はその一人)、島津vs大友の戦争の時、彼らは島津側について戦ったのですが、豊後の一万田城に置き去りにされて絶体絶命の事態に陥ってしまったのでした。

この時攻める大友軍の司令官がドン・パウロ志賀親次だったので、同じキリシタンであるドン・ジョアン天草久種に対して、「キリシタンのよしみ」で助けようと申し出るのです。天草久種が「自分だけ助かるのは申し訳ない」と言うと、志賀親次は「じゃあ皆さん助けます」と。

こうして天草五人衆は命を助けられ、「キリシタンのよしみ」の「キリシタン」とは何ぞやと、その世界を学ぶようになり、後に一人一人が受洗するようになるのです(上津浦氏はその子の代に)。
群雄割拠の世に九州の一隅でこんなに美しい物語があったことを、もっと多くの人に知ってほしいです☆



解説板

キリシタン墓碑

キリシタン墓碑

キリシタン墓碑

キリシタン墓碑

県の重要文化財

県の重要文化財

県の重要文化財

キリシタン墓碑

墓碑について

ナギの木


かくして今私のいるこの場所に南蛮寺、つまり教会が建てられて人々が集まってミサを執り行うようになったのですが、正覚寺についてはもう2点、しっかと覚えておきたい事が。

一つはこの覆屋のすぐ左裏にあるナギの木。伴天連(神父)のコエリョが植えたものとされています。

もう一つは目にすることはできなかったのですが、この寺に残されたとされる「末鑑(すえかがみ)」という預言書の存在。

「末鑑」は当地に赴任し働いていたマルコス・フェラロ(マルコスラ上人、ママコス上人とも呼ばれた)が追放されてマカオに行く際、残していったとされる預言の書。この中に末世(終末)には良か人(救世主)が来て救ってくれるという内容があって、これが天草四郎が擁立される理論的根拠となったのです。

歴史はつながり、流れとなって、思いもよらぬ方向へと進んでいくんだなと、境内の杉木立を見上げて考えたりして・・・( ̄o ̄)ムジョウダネェ...



墓碑のある覆屋の

左手にある

ナギの木

解説板

上津浦(こうつうら)城はいずこに??

上津浦城跡


正覚寺から来た道をちょっと戻り、小道を半信半疑で進みつつ・・・地図によるとここ(←の山)が上津浦城跡です。

登城口も失われて、まったくの廃城となっているようです。ここが天草五人衆の中で最後にキリシタンになった上津浦種直(ドン・ホクロン)の居城でした。

上津浦氏は天草合戦(1589年)で軍門に降って先祖代々の土地を譲り渡すこととなったのですが、その後もこの城は歴史に顔を出します。

上津浦氏が去って、城は荒れ果てていたはずですが、この城を本陣としたのが天草島原の乱の天草一揆軍。だから天草四郎もここにいて軍議に参加したりしていただろうし、キリシタン農民たちは戦争前の高揚した気持ちで祈り、主に勝利を求めていたんじゃないでしょうか。

彼らはここから富岡城へと進軍して行くのです。そして海を渡って島原へ・・・。
地上に神の国を建てることを夢見ていた彼らに、運命は血まみれの結末を与えます。
同じ信仰を持つ、キリシタン信徒一人ひとりのことを考える時、私は何をどう解釈していいのかわからなくなります。運命を解釈すること自体、人たる身には許されていないのかもしれませんね。



上津浦種直や

天草四郎がいた

上津浦城跡

天草の乱の激戦地

祇園橋


海の上に架けられた橋を渡って天草下島へ。

本渡城跡を目指します。

時刻は早13時を回り、先を急がねばなりませんが・・・、ああっ!ここだけは見ておかなくちゃ。

祗園橋です。

ここ祗園橋のある辺りは、天草島原の乱における激戦地。当時の橋(現在の橋は国の重要文化財)は石ではなく土橋でしたが、一揆軍に押されてきた唐津藩士たちが橋が折れていることに気づかず、川に馬もろとも落ちて、一揆軍にことごとく討たれたと伝えられています。

この日の戦いで天草当地の直接責任者である富岡城番代、三宅藤兵衛は討ち死にしました。
で、この三宅藤兵衛なんですが、なんと明智光秀の孫。
つまり細川ガラシャの甥っ子なんです!

三宅藤兵衛の父は明智秀満で、母は明智光秀の娘。本能寺の変+三日天下で秀満は没しますが、幼少だった藤兵衛は、ガラシャの口利きで京都の鞍馬寺に預けられ僧となり命を保たれることとなったのです。その後その才を惜しんだ寺沢広高に召抱えられました。

明智秀満は明智光秀の甥でもあり・・・(複雑なので中略^^;)、寺沢広高の家臣となったときに、藤兵衛は三宅藤兵衛を襲名しました。

ガラシャへの憧れがあったのか、藤兵衛はキリシタンになったことがあります。でも棄教。禁教下で、自分を拾ってくれた藩主の下で、キリシタン宗は捨てざるを得なかったと思われます。
だからどんな思いでキリシタン一揆軍と戦っていたのか・・・想像しても想像しても、想像しきれません。

もう、次進みましょっか ε-(;ーωーA フゥ…



天草の乱の

激戦地

今は

静かに・・・

 先を急ぎます!

殉教千人塚


先を急いでも抜かしちゃいけないトコもある訳で、それがここ、千人塚です。

1637年11月14日、天草四郎の率いる7千人のキリシタン勢は、唐津軍2万5千人と本渡において激突し、町山口川を中心に大激戦が繰り広げられ、屍で川の流れも止まったといわれています。

この日の戦で、大将三宅藤兵衛を失った唐津勢は富岡へ敗走。河原に残った唐津・四郎両軍の無数の遺骸を、里人たちは市内数ヶ所に地蔵を建て、千人塚と称し、懇ろに祀りました。これらの塚を合祀したのがこの殉教千人塚なのです。

現在は本渡城跡が城山公園という広い公園になり、公園の一角にこの塚が設けられています。
城山公園内には、他にキリシタン墓地と天草キリシタン館という見所があって、一ヶ所に車を置いて全部歩いて回れます。



城山公園地図

千人塚への道

織部灯籠が並ぶ

読み取り式の解説板

殉教戦千人塚

発掘物の解説

キリシタン墓地と記念碑

キリシタン墓地


殉教戦千人塚から坂道を少し登ったところにあるのが、城山公園キリシタン墓地。

五和町に点在していた墓石が集められたもので、墓地を見守るようにキリストの像が建てられています。

片手を上げるキリストの前、左右にあるのがアダム荒川とルイス・デ・アルメイダの記念碑。アルメイダのレリーフは舟越保武氏によるものです。


記念碑


舟越保武氏の彫刻には、和の落ち着きと洋の明朗さがあるような。

どの作品にも聖なる静けさがあふれているような気がします。

ひと言で言うと、「祈り」でしょうか。

ありふれた言い方になってしまって恐縮ですけど (^-^;テヘ



キリシタン墓

キリスト像と記念碑

アダム荒川記念碑

アダム荒川記念碑

アダム荒川について

キリスト像

右手にはアルメイダ碑

アルメイダ記念碑

アルメイダ記念碑

舟越保武氏の作品

解説碑

アルメイダ碑について

陣中旗を見に

天草キリシタン館


本堂城跡の本丸跡に建てられているのが、天草市立天草キリシタン館。

ここに来たら絶対見なきゃいけない物は唯一つ! 天草四郎陣中旗です。

十字軍の旗やジャンヌダルクのそれに並び、世界三大軍旗とされる天草四郎陣中旗は、天草島原の乱で一揆軍が用いたもの。国の重要文化財に指定されています。

描いたのは南蛮絵師、山田右衛門作(えもさく)です。

山田右衛門作は陣中旗を描き、一揆軍の兵士7百人を率いるクラスの地位を与えられながら、矢文をもって旧主有馬直純に内応、四郎を生け捕りにする計画を進めた人物。それが露見して一揆軍によって縄を打たれ、見張られていましたが、幕府軍が勝利したため救助され命拾いをしました。

原城内3万7千人中、ただ一人のユダ。
そして原城内3万7千人の中で唯一の生き残り。
山田右衛門作が生き残ることによって、城の中で何が起こっていたかを知ることができるので、その点では貴重な証言者ともいうことができると思いますが・・・。

館内の2階に設けられた展示室に入ると、照明を落とした薄暗い空間に、浮かぶように照らされて天草四郎陣中旗が広げられています。
縦横およそ1メートルの思ったよりも小さな旗で、「軍旗」というイメージとは程遠い、華奢な印象。でも端々に点々と赤黒いしみがついているのを見ると、戦場を渡ってきたことが知られます。

山田右衛門作は、若い頃有馬は八良尾のセミナリヨか天草は志岐の画学舎にいて、イタリア人宣教師で芸術家のジョバンニ・ニコラオに学び、そこで会得した西洋画法をもって陣中旗を描いただろうといわれています。

私見ではありますが、繊細な線とモチーフの正確さ、ラテン語の文字の美しさからして、およそ日本人が描いたとは思えないレベルです。山田右衛門作はとても真面目で、熱心にキリスト教を学んだ人なんじゃないでしょうか。

この人がどんなふうにして裏切りに傾き、ユダに堕ちたのか、知りたいような知りたくないような、相反する両方の気持ちが同時に強く湧き上がってくるのを感じます・・・。



天草キリシタン館

天草四郎像

陣中旗寄贈者の顕彰碑

織部灯籠

出土品解説板

近隣マップ

北原白秋の碑

明徳寺へ

明徳寺


ついでといっては何ですが、キリシタン館より徒歩3分と書いてあったので明徳寺へ。

明徳寺は曹洞宗の寺院で、1645年天草四ヶ本寺の一つ東向寺の末寺として天草代官鈴木重成によって創建されました。

開山は中華珪法。1714年に造立された山門に「祖門英師行清規流通仏陀正法」「将家賢臣革弊政芟耶蘇邪宗」(仏陀の正法を広め、耶蘇の邪法を破るという意味)の双聯があると、本に書いてあったので来てみたのですが、どこにあるのかわかりませんでした;;

なお、山門は天草市指定の文化財。
乱後に天草代官となった鈴木重成についても、おいおい触れたいと思います。



明徳寺について

明徳寺山門

明徳寺山門

明徳寺山門解説

お上のしるし

石段に十字が刻まれていると司馬遼太郎が書いてた気がするけど、見つかりませんでした

 天草下島は広い!

富岡城跡を遠望


来てみてわかりましたが、天草下島は広い! 

土地勘も交通事情もよく知らない者にとって、行きたい所を時間内に回るというのは至難の業。

しかも上津浦と河内浦、本渡城跡公園と富岡城跡公園など、紛らわしい地名もちらほらあり、千人塚なんて二つあるし、キリシタン墓地と名のつく所はもっとあるわけで・・・。

地名を地図上でちゃんと把握してなかった私が悪いのですが、実際1日くらいじゃとてもじゃないけど回りきれないことが判明いたしまして候。
なので再訪が決定です、天草。ベイビー、また来るぜ。

とはいえ、今回必ず見ておきたい所があるので、とりあえずゴー☆
(次いつ来られるかわからないしねぇ。。)



富岡城跡の麓にある

袋池

池の伝説

富岡城跡公園マップ

アダム荒川殉教地

アダム荒川殉教地の碑


富岡城跡の本丸跡へ向っていく道の途中にあるのが、アダム荒川殉教地。

アダム荒川は天草で最初の殉教者とされています。

1614年、キリスト教禁教令が全国に拡大されると、天草の領主 寺沢広高は富岡城の番代に志岐の宣教師を国外に追放するように命じました。

志岐にいた宣教師が退去する際に、信徒らの面倒をみるよう頼んでおいたのがアダム荒川でした。
アダム荒川は喜んでこの任に励んでいましたが、これがかえって目をつけられることとなり、棄教するよう拷問にかけられました。老人でありながら過酷な拷問にも耐えたので、家老たちは斬首する他はないと判断し、役人に命じて処刑させました。

その23年後、天草島原の乱で富岡城を攻撃したキリシタンたちも、一揆軍と共に海を渡っていけなかった信徒たちも富岡城の周りで殺されています。彼らは殉教者ではないとされていますが、同じキリシタン。
多くのキリスト教徒たちが地を流すこの場所で、その初穂となり、予兆ともなったのがアダム荒川だったのかもしれません。



道案内

アダム荒川殉教地碑

アダム荒川殉教地碑

アダム荒川殉教地碑

解説板

読み取り式の解説板

アダム荒川殉教地近辺

アダム荒川殉教地近辺

駐車場には鈴木重成像

鈴木重成像


二の丸跡の駐車場には天草代官だった鈴木重成の像が建てられています。

鈴木重成は天草島原の乱の時、幕府の上使松平信綱の陣営にいた人で、乱の後「亡所」となった天草の再建のため、身命を賭し取り組みました。

中でも「縄延(なわのぼし)」によって苛烈な重税を課されていた農民のために、石高の半減を訴えて江戸で切腹したことはよく知られています(石高の半減を幕府が認めたのは、第三代の代官 鈴木重辰の時)。

天草にある鈴木神社はこの鈴木重成を祀ったもので、人を神として拝んじゃいけませんが、それくらい天草の島民にとってはこの人が恩人だということでしょうね。



鈴木重成像

鈴木重成について

二の丸駐車場

富岡城跡へ

二の丸石垣


坂道を登って本丸へ向うと、立派な石垣が現れます。防御に強い城だったことが窺えて、一揆軍の苦労がしのばれます。

1637年11月14日、上津浦を出陣した一揆軍は破竹の勢いで本渡に至り、唐津軍を敗走せしめました。18日、天草四郎が率いる1万1千人の一揆軍は志岐に設営し、19日と22日に猛攻撃をかけました。

しかし二の丸と本丸の上から反撃を受け、多数の犠牲者を出し、とうとう最後まで城を攻め落とすことはできませんでした。

そこで一揆軍は作戦を変更し、海を渡って島原半島の原城へ向うのですが・・・。
この城が落とされていたら武器なども手に入って、歴史は変わっていたかもしれませんね。
富岡城は乱後に大規模な修築がなされているので、当時とは随分と違っているのかもしれないけれど、堅牢な石垣に手を当てながら、上から降り注ぐ銃と矢の雨、一揆軍の苦痛と苦悩を思いました。



二の丸石垣

本丸へ向う道

城跡

眼下には海

城跡に建つ像


本丸の手前にある広い敷地には4人の像が。

「天草の恩人」だとして造立されたもので、前に並ぶ二人は勝海舟と頼山陽、後ろに並ぶは鈴木重成とその兄鈴木正三という構成となっています。

何でも文句を言っちゃいけませんが、いまいちピンとこないのは私だけでしょうか。


「天草の恩人」

「天草の恩人」像

富岡城

勝海舟と頼山陽

志岐の港


城跡から見下ろすと、神様の視点のようなナイスビュー。

眼下に望むは志岐の港。その先に見えるのは志岐の町です。

そもそも天草にキリシタン宗が入って来たのはこの港からでした。

きっかけは、1566年、志岐城主 志岐麟泉の南蛮との貿易を期待して、口之津にいたトルレス神父に宣教師の派遣を要請したことに始まります。
1570年になって、ようやくポルトガル船が志岐に入港。その船からカブラル、オルガンティーノ両神父が下りてきました。

カブラルはトルレスの後任で、日本駐在の全宣教師を召集し、志岐で全国宣教師会議を開きました。
この会議でカブラルは、日本を上、豊後、下の三教区に分け、それぞれに駐在する宣教師を決定します。トルレスは長崎からこの会議に出席し、その後も志岐に滞在していましたが、その年の10月に老衰のため亡くなりました。後任尾布教長カブラルの来日も、死を予期した彼の希望を実現したものでした。

私の大好きなトルレス神父は、ザビエルと一緒に来日し、その後もずっと日本を離れることなく宣教に従事した人物。鹿児島、平戸、山口、府内、横瀬浦、大村、口之津、志岐の各地で働いて、日本の布教長であること21年、洗礼を授けること3万人、教会の創建は50に及びました。
トルレス神父が志岐のどこに葬られたかはわかっていませんが、あの雲の下のどこかに眠っていると思うだけで、優しい気持ちに満たされます (*⌒―⌒*)ニマッ

志岐麟泉はいち早くキリシタンになったくせに、ポルトガル船入港の翌年に棄教。むしろキリシタン迫害の方に回りました。

しかし天草合戦が起こって、小西行長が志岐を領するようになり、代官としてビンセント日比屋兵右衛門を配したことにより、キリシタンは復活。新たにオルガンチノ・ソルジを迎えて、レジデンシアが置かれ、1592年頃、イエズス会の画学舎も設けられました。

この画学舎は1601年頃まで存続し、ジョバンニ・ニコラオの指導で洋画の教育と宗教画の制作が続けられました。画学舎ではオルガンなどの楽器類も作られていて、日本で初めて製作された志岐画学舎のオルガンは、パイプに竹を用い、フランドル地方のものより素晴らしい音色を奏でたのだとか。ロマンです♪

1599年3月、長崎にいたセルケイラ司教はセミナリヨを天草に、そして8月に志岐に移して、司教区の中心としました。

志岐志岐志岐・・・。数々の歴史の舞台となり、トルレス神父をその腕に抱く志岐。
今日は遠望するのみですが、やはりいつか天草再訪を果たして、徹底的に歩いてみたいです☆


富岡城跡


富岡城の本丸跡には富岡ビジターセンターが開設され、様々なインフォメーションを発信中です。

だけれど一人静かに志岐の港を眺めながら、空想の世界に飛び立つのもアリかと。

私くらいのキリシタン馬鹿じゃないと、時間を忘れて空想に遊んでられないかもしれませんけど...( ̄∇ ̄;)ハハハ


本丸跡

本丸跡への道

富岡ビジターセンター

復元された所

富岡城跡

遺構

遺構

復元された所

 富岡の千人塚

千人塚の案内標識


富岡城を後にして、志岐方面へ国道324号を南下すると見えてくるのが、千人塚の案内標識。その先にあるのが富岡吉利支丹供養碑です。

千人塚ともいい供養碑ともいうから紛らわしいですが、こちらの供養碑の下には実際に一揆軍の首級が埋められているので、千人塚とよぶのがふさわしいかと。

逆に、先に行った本渡城跡の殉教千人塚はただの供養碑で、下に誰も埋められていなくて、しかも一揆軍と唐津軍の戦死者を村人らが埋葬してお地蔵さんを建てたのですが、そのお地蔵さんなどを城山公園に持ってきて合祀したものなので、「千人塚」とは全くいえないと思います。

細かいことをいって恐縮ですが、こちらを「富岡キリシタン千人塚」(供養碑が建てられててそれが史跡なんだよっていうことなら、碑には「鬼理志丹」と書かれているので「鬼理志丹供養碑」が正確かなと)とし、本渡の方を「天草の乱 戦死者供養碑」としてはどうでしょうか。あと武器を持って戦っちゃ「殉教者」にはならないので、どちらにも「殉教」って言葉は使ってはダメですよね。


富岡吉利支丹供養碑


説明が先になってしまいましたが、こちらがその碑です。

天草島原の乱で武器を持って戦った1万余人の首級は原城を囲むように獄門に処せられ、その後首は3等分して三ヶ所に埋められました。
それが原城下と長崎の西坂、そしてここです。

埋葬から10年経ってやっとここに供養碑が建てられることとなり、今に残っています。建立者は天草代官鈴木重成、碑文は中華珪法によるものです。

キリシタン戦死者を哀れんで供養碑を建ててくれたなんて、宗派を超えたヒューマニズムだよなと思いながら碑文を見ると、キリシタンは「理志丹」と書かれ、「外道(げどう。人の道を外れた者、の意)の法を行って国を奪おうとした」とか「外直くして曲性内に存す(外面は善いが、中身が曲がっている)」「逆心を顕して」「彼の兇徒残らず亡滅し了(おわ)る」などと書かれています。

つまり!人の道を外れて悪いことを行って皆滅亡したが、「若し法を聞く者有らば一として成仏せざるは無し(碑文の表の言葉)」なんだから、かわいそうに思って仏教式にここに葬ってあげましたよ、成仏できるようにね、という内容。これって、「供養」って言います!?

私が思うに、これは人々への見せしめのために建てられた塚と碑なんじゃないかと。
当時はそう書かざるを得なかったというより、碑文に書かれた内容が当然正しいと判断してる感じがします。

鈴木重成という人は、農民が苦しめられ一揆が起こり、多数の死者が出たことには憐れみの情を持っていたけれど、キリシタンたちの思いには共感がなかったのかもなと思いました。



富岡吉利支丹供養碑

案内標柱

解説板

解説板

解説板

読み取り式解説板

供養碑

供養碑

 天主堂が見たくて

陽光きらめく天草灘


ここまでキリシタンと天草の乱について見てきたけれど、ここからは明治になって建てられた2つの天主堂を回ります。

陽光きらめく天草灘を車窓に眺めながら、一日のうちにたくさんのものを見せて頂いているなと、あふれる思いで感謝を。

時に感涙し、時にぷりぷりし、今日の天候のように様々なお天気模様に翻弄されっぱなしですが、主の中でこんなに濃い時間を過ごせるなんて、素晴らしいことだと思うし☆

真っ白な大江天主堂♪

大江天主堂


海沿いの道から緑の多い集落へ入ってしばらく行くと、丘の上に白い教会が♪

大江天主堂です!

聖堂内は撮影できなくて残念ですが、私の好きな畳敷きの教会。

ステンドグラスの窓を通して入ってくる薄い光が、畳目に淡い色彩を躍らせています。
この天主堂の起工は1932年。その時の主任司祭はガルニエ神父で、設計施工は鉄川与助でした。

日本のキリスト教復活は、1865年長崎から始まりました。パリ外国宣教会のプチジャン神父に長崎郊外にいたキリシタン信徒が会いに来て、信仰を告白したことは「信徒発見」として知られ、世界宗教史上の奇跡と言われています。

天草の大江村に信仰の死者がやって来たのは1873年4月。その後隠れて信仰を持ってきた(潜伏)キリシタンはカトリック教会に復帰。大江村にも宣教師が送られるようになりました。その一人がガルニエ神父です。

ガルニエ神父は東京から来た若い5人の詩人たち(与謝野鉄幹、北原白秋ら)によって有名になりましたが、この神父さんの一大記念事業はこの天主堂を建てたことではないでしょうか。ほとんどがガルニエ神父の私財を投じることでの建立されましたが、その私財とは自分へのお給料(宣教費)。自分の生活費を削りに削り、40年間も貯めて建築費用に充てました。

その倹約は徹底的で、貧しい大江村の人たちよりも更に貧しく、白米などは一切口にせず、一枚の司祭服を10年着通したのだとか。村人の方が神父の粗食を見かねて、もう少し栄養を摂るように勧めたところ、「自分が国を離れて日本に来ているのは、人を助けるためだ。これくらい倹約しなければ人を助けることはできない」と答えたそう。

明治期に渡来し、カトリック復活の担い手となったパリ外国宣教会の神父たちの、素朴で壮烈な生き様。その一人ガルニエ神父は天草の土となり、今もこの聖堂を見守っているように、感じました。



大江天主堂

大江天主堂の扉

大江天主堂入口

解説板

設計施工は鉄川与助

ガルニエ神父像

ガルニエ神父

天主堂からの眺め

隣には天草ロザリオ館が

天草ロザリオ館


教会堂の建つ旧大江村の90%が隠れキリシタンだったとされ、旧家の中には当時の遺物や信心道具が残されている家もあるとか。

それらが集められた博物館、天草ロザリオ館が天主堂の登り口右手に建てられています。

他の博物館で複製が展示されていた「経消しの壷」などの実物が、隠れの信仰を守る信徒たちの息づかいを伝えてくるようで、切なくなります。

強く印象に残ったのは、実物大の「隠れ部屋」。容易に取り外せる梯子を登ると屋根裏部屋が覗けるようになっていて、薄暗い部屋で柱の隠し十字架に向って祈る信徒たちが見えるという、実物大の人形を使った模型です。

もちろん人形を使って再現したもので、部屋も本物を移築したものではないですが、この館の管理責任者の方の家に実際あった隠し部屋を手本に造られたもので、今もその方の家には隠し部屋が残されているそうです。だから文献などから推測して造られたものにはない「雰囲気」が充満しています。

大江の里小さな呟きの聞こえる隠し部屋に「何なんだろう?」と思い、梯子を登って行く時になぜか、自分がキリシタン摘発のためにやって来た捕吏のような気がしてきて、柱の十字架を拝んでいる姿を発見して、何か異様なもの、邪悪で、あってはいけない光景を見ているような妙な気分に陥りました。
隠れて信仰を守ってきたキリシタンについて、そんな風に思ったことなかったのに・・・。

「私は隠れキリシタンを美化してたのかな」と考えさせられて、ちょっと落ち込みそうにも;;
でもそういうことを知らないでいるより良かったですよね。
隠れて信仰を持つことは、人の目には異様に映り、禍々しい邪教のようで、決して私が単純に想像するような美しく、ステキなものではなかったのだという現実に、思い至ることができました。



天草ロザリオ館

天草ロザリオ館

 崎津の天主堂にも行きたいっ☆

住宅地の中にある崎津天主堂


ではもう一つの聖堂、崎津天主堂にもまいりましょう☆

曇天の空の下、住宅にはさまれるようにして建つ天主堂は、大江天主堂とはまた違った雰囲気ながら、それでもやはり一幅の絵のよう。

小さな漁村の家々の小道の突当りに、高い尖塔を持つゴシック教会が建っていることがすごいですが、違和感がないことがもっとすごいと思います。


崎津天主堂

天主堂の手前

崎津について

勝海舟も来た

崎津天主堂


崎津天主堂の完成は1934年。大江天主堂の完成の翌年で、建設にあたったのはやはり鉄川与助。

この時期の教会建築に必ずといっていいほど顔を出す鉄川与助は、長崎の五島列島出身の大工さん。その手による素晴らしい教会建築は世界遺産の候補となるほどで、時々テレビで特集も組まれたりしてますが、惜しむらくはこの人が最後までクリスチャンにならなかったこと。

うーん・・・という感じです。クリスチャンじゃなきゃ教会造っちゃだめとは言いませんが、やっぱ信仰と主への愛で祈りを込めて造ってほしいじゃありませんか ( ̄  ̄;)

こちらを建てたときの神父さんはハルブ神父。資金不足から石造なのは正面だけで、側面は木造だといいます。全てをなげうって神父さんと信徒たちが建立したことがうかがえて、一部木造だっていうことがもっと素晴らしく思えるというか。

この聖堂が建てられている場所も意味があります。
ここは長く禁教下のキリシタンたちが絵踏みをさせられた庄屋の跡地。祭壇は信徒が絵踏みをさせられた所に位置しているのです。隠れて信仰をしてきたキリシタンの苦悩を吸い込んで、復活の喜びと共に捧げているように感じます。

中央通路の両脇が畳敷きのステンドグラスの教会堂。華麗な祭壇を見ると、よくぞ明治の日本で、それも離島(今でこそ橋があるけど)の先っぽで、こんなに素晴らしいものが誕生したことよ、と思います。でもそれよりももっと、聖堂に込められた思い、建てられた場所にまつわる遠い思い出が、じわじわと感動を与えてくれるような・・・☆



崎津天主堂

崎津天主堂

崎津天主堂について

崎津天主堂解説板

ハルブ神父記念碑

ハルブ神父記念碑

天主堂正面

天主堂の塀

 河内浦にも行きたくて・・・

小雨ぱらつく中を


崎津天主堂を見て天草を後にしてもよかったのですが、ここまで来たらもう少し足を伸ばして河内浦にも行きたいなと♪

時刻は18時。辺りは徐々に暗くなってきて、ぱらぱらと小雨も吹きつけてきます。

ドライバー(夫)には悪いけど、やっぱりアルメイダさんが頑張ってた、そして眠っているはずの河内浦なんだから、せめてその土地を踏むだけでも、d(^-^)ネ!

アルメイダ上陸碑

アルメイダ上陸碑


信福寺に向っていると、道路脇に見覚えのある貌(かお)が!

本渡城跡のアルメイダ記念碑と同じレリーフです☆

アルメイダの「上陸」という点にも、「南蛮船停泊地」という点にも大いにクエスチョンマーク(ここ港じゃなくて、港から川を結構遡った内陸だし、南蛮船って来てないし、そもそも停泊は無理でしょ?!)ですが、1569年にまだ修道士だったアルメイダが崎津の浜に上陸したことをどこかに刻むためにここに記念碑を建てたんですかね?

自分で説明を考えてみてようやく(半分)納得する感じです。
でも舟越保武作のアルメイダに会えただけでもうれしいし、アルメイダの足が運ばれた場所として記念されているのは有り難いことかと(でもいつか碑を建て替える時がきたら文言を書き直した方がいいかもしれませんね)。



アルメイダ上陸碑

アルメイダのレリーフ

アルメイダ上陸碑

アルメイダ上陸碑

アルメイダの足跡

信福寺


こちらが目的地の信福寺。信福寺は天草氏の菩提寺で、河内浦にやって来たアルメイダはこの寺の奥座敷で初めて領主の天草鎮尚(しげなお。鎮種とも)に会いました。

アルメイダの終焉の地でお墓もあるという説もあって、私が見た本では門前に「アルメイダ終焉の地」と標柱が建ってる写真が載ってましたが・・・。

その標柱は取り去られてしまっているようです。
掲示板のような所に信福寺とキリシタンについて書かれた紙が張ってあって、アルメイダの滞在地ではあるけれど、墓があるというのは根拠のないことだと書かれています。

まあちょっと、扱いとしては冷淡な感じですかね?
滞在地だったということは終焉の地(アルメイダは自分の家で信徒たちに見守られながら亡くなっている)でもある可能性高いんだから、「終焉の地」の標柱を残してていいと思うし、ここで亡くなってたら墓域に埋葬されてる可能性は高いと思うんですけど。

私有地である限り、標柱その他の設置はその土地の権利者に委ねられているんでしょうか?
史跡の位置づけと手続について、明確な指針が必要になんじゃなかなーと思ったりして o(゜^ ゜)



信福寺

信福寺

門前の石造物

本堂

信福寺境内

掲示板

説明文1

説明文2

 ああ、天草学林

天草コレジヨ跡


河内浦にはもう一つ、キリシタン史上忘れえぬ歴史が刻まれています。それは天草学林。

「天草学林」という訳語の適切さについても、どこにあったかについてもいろんな意見があるけれど、とにかく天草にはコレジヨがあって、ノビシアードがあって、そこに天正遣欧使節の4人が来てたんだから、その記念となるものくらい見てみたいというのが人情じゃありませんかっ☆

天草コレジヨ跡公園


天草コレジヨ跡の推定地は、史跡公園として整備されています。

さて戦国時代、天草五人衆の中で最有力者は天草氏でした。

当主の天草鎮尚が南蛮文化への憧れから宣教師の派遣をイエズス会のトルレス神父に要請したのは、1564年。実は天草諸島で最も早くキリスト教が導入された志岐氏よりも早かったのですが、宣教師が送られたのは志岐氏に遅れること3年、1569年になってからでした。

しかもお目当ての一つだった南蛮船は天草氏の領内に寄港することはなかったのですから、残念賞といっていいくらい。しかし天草鎮尚は貿易の利よりも良いものを手に入れました。それは信仰です。
受洗後11年、70歳近くになったドン・ミゲル鎮尚は、臨終の床で「私は霊魂(アニマ)に大きい平安と深い喜びを感じる」と語り、最後に「もう飛んで行くぞ」と言って息を引き取りました。

マカオで司祭となって帰ってきたばかりのアルメイダが臨終の秘蹟を行い、同信の家族や重臣たちに看取られて逝ったドン・ミゲル鎮尚は、自分の居城で神の子として信仰を全うできた、数少ない幸運な戦国武将だったのです。

アルメイダは鎮尚に一年遅れて、1583年に河内浦でこの世を去りました。享年59歳。日本宣教は30年に及びました。その頃天草氏の領内には35の教会(領内には35ヶ村があったので、各村に教会があったことになる)があり、1万5千人の信徒がいたとされています。アルメイダと鎮尚はナイスタッグを組んだのか、この成果は2人の面目躍如というべきでしょう。

鎮尚の死後、跡を継いだのがドン・ジョアン天草久種。そう、「キリシタンのよしみ」で志賀親次に助けられ、自分だけでなく天草五人衆全員が助かることになった、あの美しい物語のキリシタン武将です。そして彼らの力で天草はキリシタンの島へ。

キリシタン禁令下でも比較的自由を与えられ、コレジヨなども疎開してきたのですが、徳川幕府が2代3代と体制を固めると、迫害の嵐は激しさを増し、折りしも凶作が続いたために島民たちは信仰を拠り所として軍旗を掲げ・・・。

なんでしょうね、この物悲しさは。
天正遣欧使節の若者たちが夢を語り合ったであろう天草学林の跡に来てみたら、もっとうきうきとした気分になるかと思ったのに、歴史がどうなっていくかと彼らの末路を知っているからか、やりきれない思いが襲ってきて、耐えられません。



案内板

コレジヨ跡の案内碑

記念碑

解説1

解説2

天草コレジヨ跡公園

天草コレジヨ跡公園

真っ暗な中を激走して鹿児島へ;;


20時前になってようやく帰路につき、島を結ぶ瀬戸大橋で大渋滞に巻き込まれ(ちょっと考えれば予測できるよね;;)、真っ暗な中を激走することに。

今夜のお宿は鹿児島。
えっと、あと250キロくらいかしら。。

眠くなってきたと呟く夫にSAの熊本ラーメンを食べさせては、「元気でたねー」と暗示にかけ、宿泊予定のホテルに電話をかけては、「何時に着くかわかりませんが、泊りますからっ」と強力にアピール。

さすがの私も、無謀なスケジュール編成を後悔するに至りました。
夫の献身と努力のおかげで今日も無事に終えることができましたが。。

何はともあれ、人が助けてくれたことも含めて、まずは主に感謝。
私を助けてくれた人にも、私からは大したお礼ができないから、主が良くしてくれませんか?
――と、今日も図々しいお願いをしながら、感謝でもって・・・
お(*'o'*)や(*'O'*)す(*'。'*)みぃ(*'-'*)ノなさいまし""


インフォメーション
天草観光ガイド「島旅」
天草市立天草キリシタン館
Laudate(女子パウロ会HP)


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