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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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 九州のキリシタン・ロードをゆく Ⅳ

  <本日の主な訪問地>

 ザビエルが上陸した鹿児島☆


桜島


目が覚めると、桜島。
噴煙を上げています。

活火山にあまり縁のない私には驚異の風景ですが、鹿児島人にはフツーのことなんでしょうか。

1549年8月15日、ザビエル日本初上陸の時、桜島はどんな表情を見せていたんでしょう。今日はキリスト教伝来の地、鹿児島を旅します♪

ザビエル上陸地へ!

ザビエル上陸碑


鹿児島市の中央からは北に位置する祇園之洲公園。

その中にザビエル上陸記念碑は建てられています。

ここは埋め立てによってできた人工の島。実際の上陸地はもっと内陸の方だったと考えられますが、まずはこの記念碑を見ないと何も始まらないような気がして。

記念碑右手の、今にも天に引き上げられていきそうな人がザビエル。
向って左手にある茶色いレリーフは、ザビエル一行が上陸した時の様子を描いています。

この記念碑の制作にあたったのはベルギーの芸術家ルイ・フランセン。建てたのは鹿児島市です。
多くのキリスト教関係の史跡はカトリック教会によって建てられていますが、当地では官民一体で歴史と文化という側面から捉えて顕彰しているよう。

それでもザビエル像からは深い精神性と神への愛が感じられるから、やはりこの地に宿っているものがあるのかと☆
今日一日を見守ってくれるといいな ヽ(=´▽`=)ノ



記念碑

上陸記念碑

ザビエル像

当時の鹿児島

説明板

説明

石碑

聖書の言葉

稲荷川河口


ザビエル一行(ヨーロッパ人はザビエルとトルレス神父とフェルナンデス修道士、日本人はヤジロウ、ジョアン、アントニオの計6人)が入港したのは、稲荷川河口の山川港だったとされています。

当時は「田ノ浦」とよばれていたみたい。
稲荷川河口付近って、外海に接している割には静かですね。でも荒々しい桜島の姿はきっと見てるはず。

船が港に着くとき、6人は何を思ったんだろう。

高麗橋


当時実際の港があった所のことを、「高麗橋と玉江橋が移築された左岸付近」と書いてある本を読んで、移築された高麗橋まで来てみたけれど・・・。

港の跡だとか、ザビエルの実際の上陸地だとか書いてないから、違うかも;;

当時の河口はもっと内陸になっちゃってるんじゃないかな。事前のリサーチが甘かったぜ (/ー ̄;)マケナイモン...


稲荷川

高麗橋

高麗橋解説

郷土の偉人像

 忍室和尚に会いたくて♪


大龍寺跡


朝から一勝一敗で次なる目的地へ。
鹿児島でのザビエルの滞在地で、友誼を結んだ忍室和尚のいた福昌寺の跡に向かいます。

途中で偶然見つけた大龍寺遺跡に寄り道。
島津貴久がザビエルと会見した後に、移り住んだ城の跡です。

今は小学校になっているけれど、ここは幕末まで続く島津氏の本拠地になった所。
だから島津家の菩提寺でもある福昌寺と近いのも納得です。
偶然見つけたようだけど、ちゃんと理由があるのだとわかりました。

つまりこの近辺は島津氏のお膝元。ザビエルの宿泊所、福昌寺も島津氏の息がつよーくかかって、コントロールの利く寺だったからこその抜擢だったんでしょうね。

だからザビエルらの動きは逐一スパイされ、報告されていたと考えるべきかと。
ほとんど初めて接する外国人(しかも南蛮人で宣教師)だったんだから当然ですけどね。



大龍寺の跡

大龍寺遺跡

大龍寺跡

大龍小学校

福昌寺の跡

福昌寺跡


山の方に進み、玉龍高校脇の道を登って行くと、古い墓地を発見。ここが福昌寺跡のようです。

歴代藩主の眠る墓にしては、意外とこじんまりとしていて豪華な感じもナッシング。

豪奢を戒める家風だったのかな?
掃除しなかったらすぐに荒れ果てちゃいそうな雰囲気です。

福昌寺跡の墓所


昔大きな寺だったことがわかるのは、墓地がいくつかの区域に分かれて山の斜面に広がっていること。

今「福昌寺跡」とよんでいる所はお寺の墓地のことで、お寺の敷地はもっと山の麓まであって、ザビエルらが滞在したのも高校の敷地だったりして?

だったら学校のグランドの外側にでもそういう解説板でも建ててくれるといいのにな。
違うかもしれないから強く言えないけど (~_~;)


島津貴久の墓


福昌寺跡の塀に囲まれた墓域にある、こちらが島津貴久のお墓。

ザビエルと直接対話し、布教の許可を与えた人です。

よく本に島津貴久のことを「藩主」と書いてありますが、本当は「太守」。孫の家久が初代藩主です。

「藩主」だか「太守」だかそれはそれとしても、この墓の小ささって、・・・どうでしょ。
前にあるスペースの広さが気になりますが、祭祀でもやるのかな? お寺だから供養の儀式みたいな?
塀の外にある石灯籠の方がずっと巨大で、このアンバランスさは何を示しているのかと。
妙なことが気になって恐縮ですが・・・。



塀の外の石灯籠

島津家当主の墓

島津家当主の墓

島津家の墓

歴代住職の墓


墓地の左の方、山側にあるのが歴代住職のお墓。ずらりと並ぶ墓石の中でお目当ての忍室和尚のお墓を見つけられるか不安でしたが、心配無用でした。

目印がついてるのは忍室和尚のものだけ。そりゃそうですよね、450年も経ってから後世の人に探してもらえる人なんてめったにいないだろうから。

でも今日は私、あなたに会いにきましたですよ。ザビエルの残した書簡を読んで。

忍室の墓


苔むす(正確には苔じゃなくて地衣だけど)墓石群の中に、小さくも大きくもない一つのお墓。

これが忍室和尚の眠る場所です。

後代に名が残ることが大切かどうか、議論の余地はあるだろうけど、後の世に住む人がその人の行ったことを慕って会いに来ることは、決して不名誉なことではないでしょう。

忍室和尚の名が知られるようになり、標柱まで建ててもらえてるのは、この人自身のパーソナリティーもさることながら、やはりザビエルとの絡みがあるから。だから自分がどう生きるかも重要だけど、どれだけ大きな人物と出会って、その人とどう関わるかがもっと大きな要素といえるかと思います。
いい意味で、考えさせられますね♪

さてこの忍室和尚は、当時「東堂」という立場でした。「東堂」とは引退した住職のこと。寺を代表する職責を引退してたから、ザビエルともざっくばらんに話せたのかもしれません。

座禅をする仏僧たちをザビエルが見て、何をしているのかと問うた時、普通なら煩悩を消し去り無我の境地に至る修行をしているのだと答えるでしょうが、この和尚さんは違います。

今夜何を食べようかとか、どうやったら人より偉くなれるか等を考えているんだ、自分もそうだったと答えたのです。今言っても問題発言で、仏教界から大ブーイングじゃないでしょうか。

しかし本音と建前の日本社会の中で、本音でもってザビエルと関わったこと、それが素晴らしい足跡となったことを忘れちゃいけないと思います。つまり天と出会う時には建前や虚飾を取り払って、本音と本心で接していくべきではないかと...(*゜.゜)ネッ



歴代住職の墓

唯一の標柱

忍室和尚の墓

忍室和尚の墓

 浦上キリシタンの墓も・・・


裏山を登って行くと


島津家の墓所と歴代住職のお墓群のある所から、小道を登っていった先にあるのがキリシタン墓。

キリシタンといっても江戸時代のではありません。明治になってから、政府によって流罪となりここに来て、命を終えた浦上(うらかみ)キリシタンのお墓が、ここ福昌寺跡にあるのです。

浦上キリシタンの墓


裏山の小さな平地にひっそりとたたずむ緑色の墓石たち。

この下に信徒一人ひとりが埋められているはずです。

日本にキリスト教を伝えたザビエルゆかりの寺に自分たちが囚われていると、彼らは知っていたのでしょうか。

この寺を牢獄として使うことに決めた為政者は、そういうキリシタン的なつながりを知っててやったのでしょうか?
資料がなくて、誰がどう考えて、どんな経緯でここが使われることになったのか、今私はわからないけれど(誰か知ってたら教えてください)、少なくとも神様の目から見たときには、絶対意味がありますよね。

どういう意味なのか、どんな御心があったのか、人の生死が関わっていることを軽々しく語ってはいけない気がして、、、口を閉じます。


浦上キリシタンの人たち


鹿児島に流されて来た浦上村のキリシタンは375名。故郷に帰れぬまま亡くなった人は53名でした。

津和野や名古屋、和歌山、高知よりは低い死亡率ですが、数年の間に15%もの人が死んでしまう状況が普通でしょうか。

解説板には「もっとも寛大な対応を受けている」と書かれています。


浦上キリシタンの墓

浦上キリシタンの墓

浦上キリシタンの墓

浦上キリシタンの墓

おそらく後で建てられたと見られる

美しい墓

解説板

解説

玉龍高校


歴史のつながりと重なりについて、不思議な感慨に捕らわれながら下りて行くと、高校を見渡せる場所に。

島津貴久と忍室とザビエルと浦上キリシタンと・・・。一筋縄ではいかないものが鹿児島にはあるのかもと感じました。

大体日本人初のクリスチャン ヤジロウも、日本人で最初にヨーロッパに留学したベルナルドも鹿児島の人。

ヤジロウがザビエルを日本に連れて来たと言っても過言ではないわけで、意図したかどうかは別としても、すごいことをやらかしたことは確かじゃないでしょうか。ベルナルドだって、キリスト教を学びにヨーロッパに行くって言ったって、現代じゃないんだからっ。つまりそんじょそこらの精神では無理だということです。

そんな鹿児島人の精神(何と言うんでしょうね。鹿児島の魂で、・・・かごたま?)を受け継ぐ若者たちが、今も続々と育っているのかな☆
誰もいない校庭に、「明日」という文字が浮かんでるような気がしたりして (* ̄ー ̄)


 ザビエル公園とカテドラル♪


キリスト教伝来の地


次にやって来たのは市の中心部に近い場所。ここにあるザビエル公園にザビエル渡鹿記念碑が建てられているということで♪

「キリスト教伝来の地」と大きく書かれていますね。後ろに見える像はザビエル、ヤジロウ、ベルナルド。

鹿児島でこんなふうに路上伝道はしなかったと思いますが、イメージですかね。

ヤジロウのことなんですが、「武士だった」と書かれている本をよく見かけますが、私は違うんじゃないかなーと思ってます。ザビエルの書簡を読むと、ヤジロウは人を殺したことがあって罪の意識に悩んでて、放浪しているうちにジョルジェ・アルバレス船長に会い、ザビエルを紹介してもらうんですが、武士が人を殺して悩むでしょうか? 武士は命をかけて戦うのが本分で、時は戦国。戦いの連続なんですよ?

それに武士なら主君に忠誠を尽くさなければならず、外国への無断出奔など考えられません。しかも鹿児島に戻ってきて誰かに詫びを入れにいった形跡もなく、誰かに叱られて罰を受けた様子もありません。当時の太守は島津貴久なのだから、鹿児島で武士をしていたとしたら島津家かその家老の家来みたいな線が濃厚ですが、ザビエルと一緒に島津貴久に会見した際に何の罪も問われていません。

ザビエルの文章を読むと、どうやらヤジロウは漢文が読めなかったようなので、これも武士としてはあり得ません。一方、ヤジロウとヤジロウの従僕ジョアンは日本で高く売れる商品とかの知識が豊富で、そういった面でザビエルに助言したりしているのです。

以上のことから推測すると、ヤジロウは商人だったのではないでしょうか。現代だって日本人男性が外国で活躍すると「サムライ」とか言われたりしますよね。
サッカー日本代表だってサムライ・ブルーって名乗ってますし。

外国人から見たら、男らしい日本人はみんな「サムライ」なんじゃないでしょうか。特に刀とか持ってたら、「これが噂のサムライかっ!?」って思われちゃうわけで(海に出るならみんな護身用の武器くらい持っていたはず)。

つまり「武士という身分」としてのサムライではないということです。
ヤジロウを貶めたいわけじゃないですけどね。
「武士だった」と堂々と書かれているのを見ると、何か違和感が湧き上がるんです…c(゜^ ゜ ;)


ザビエル公園


ザビエル公園は1949年、ザビエル渡来400年を記念して鹿児島市が作った公園。

その中にザビエル渡鹿記念碑が建てられています。

ザビエル像と後ろの門が一体になったモニュメントに見えますが、後ろの門みたいな石造物は、鹿児島で最初に建てられたカトリック教会堂の正面部分。

旧教会堂を取り壊して新しい教会堂が建設される際に、リサイクル・・・というと語弊があるかもしれませんが、まあいい感じに有効利用されてこのようになっているのです。
エコを狙ってのことではないからリサイクルじゃないですよね。うーんと、やっぱ有効利用?

でもこの歴史を感じさせる雰囲気が堪らなくいいですよね♪ すてきです。
タイトルを勝手につけるなら、「過去から現在へ、時を超えて響き合う思い」という感じかな☆



キリスト教伝来の地

ザビエル史跡マップ

三人の像

解説碑

解説板

ザビエル渡鹿記念碑

ザビエル像

台座

鹿児島司教区カテドラル・ザビエル教会

鹿児島カテドラル・ザビエル教会


公園から大通りを隔てた所にあるのが鹿児島カテドラル・ザビエル教会。

ザビエル渡来450年を記念して1999年に建立されました。

ザビエルが初めて日本の地を踏んだ8月15日近辺の日曜日には、毎年ザビエルゆかりの地を回る、ザビエル・ウォークという催しが行われているようですね。

その街の人が自分たちの街にある史跡をめぐり歩くことは、単に知識に留まらず、街の発展にも大いに貢献するのではないでしょうか。日本中が不景気にあえいでますが、街の活性化はやはり郷土愛からではないかと思うので。

それをもうちょっぴり広げると、日本の活性化は、日本人の日本ラブ、自分たちの歴史とルーツを知ることから始まるんじゃないかと思うんですよね Love(* ̄▽ ̄*)Love


聖堂内


聖堂内は青い光に満たされた神秘的な空間。

ザビエルの越えてきた万里の波濤をイメージしているんでしょうか。

明日がザビエル上陸記念祭だからか、信徒の方がお花の飾りつけなどをなさっています。

一人でお祈りして顔を上げると、この教会の方が「良かったから案内しますよ」と声をかけてきてくださいました。歴史ある教会には観光で訪れる人も多いから、ボランティアガイドの方を養成しているんですね。有り難いことです。「是非」とお願いしました☆

聖堂内の祭壇左手のドアの脇には、ザビエルの聖遺骨が!
間近に見られて感激です♪ こんなに近づいちゃっていいのかしらというくらいで。



鹿児島カテドラル

ザビエル上陸記念祭

ザビエル像

台座

壁のレリーフ

忍室とザビエル

聖堂内

奥にザビエル聖遺骨

展示資料室


階下には展示資料室が設けられていて、本で見たことのある絵などの実物が見られたりします。

その一つがこの絵(←)。ザビエルが鹿児島で布教している様子を描いたもので、作者は長谷川路可氏。

本で見たのと若干違うのは、ザビエルの辺りに広がっているシミ。雨漏りで濡れちゃって、こうなってしまったそうです;;


布教するザビエル

臨終のザビエル

聖霊を受けるザビエル

昔の教会堂

昔の教会

ラゲ訳聖書

ラゲ訳聖書について

ラゲ訳日仏辞典

 ヤジロウの墓がある!?


ヤジロウの墓(伝)


ボランティアガイドさんにお礼を言ってお暇し、史跡地図に目を落としていると、「ヤジロウの墓(伝)」の文字を発見!

ヤジロウの墓だと言われてるものが近くにあるなんて、地元じゃなきゃ得られない情報ですよね、たぶん(?)。

次に行きたい所への道上にあるし、行ってみるべし...((((=・o・)ノ

伝ヤジロウの墓


道路に案内標識は出ているものの、あまりにあまりに小さい伝ヤジロウの墓。

木陰にひっそりと、草に埋もれるように建っています。

いえ、建っているというより石がちょこんと置かれている感じです。

ここが本当にヤジロウのお墓かどうかわからないけど、この小さな石がヤジロウのその後の人生を象徴しているような気がして、切なくなります。

鹿児島にいるだけでは日本全体の布教許可を天皇から受けることはできないと考え、ザビエルらは平戸へ向うのですが、ヤジロウには家族があり、また鹿児島でできた信徒たちの面倒をみるために彼一人が鹿児島に残りました。そしてその後ヤジロウの消息は途絶えるのです。

ほどなくして棄教したとされ、海賊となって死んだといわれています。もちろん、そうじゃなかったという説もあります。単に願望で言うなら、私だって「そうじゃなかった説」を採ります。

でもヤジロウとインドで直接会ったことがあるフロイスが、消息を求めて鹿児島に来て、ザビエルの時から残る信徒ら関係者たちに会って話を聞いて、そう(棄教し、海賊になって死んだ)書いています。

フロイスが緻密に記録する性格だったことを鑑みると、それが事実だったと考えざるを得ません。少なくとも、通説に十分対抗し得る新しい史料が出るまでは。

切ないですよ、ヤジロウ。
どんな気持ちだったんですか、主を忘れるって。
墓石は何も答えてくれないけれど…。



ポーロヤジロウの標柱

巨木の下に

小さな墓石

解説板

解説

石碑

墓石

墓石

周囲の田園風景


私にとってヤジロウは、キリシタンを勉強する上での隠れテーマです。

日本人初のクリスチャンが、どうして信仰を持ち続けられなかったのかという問題は、日本人とキリスト教という関係の難しさを浮き彫りにするのではないかと思うから。

ただし、難しいといっても不可能ではないと確信しています。幼い頃からキリスト教的環境で生まれ育ったヨーロッパ人とは考え方、受け取り方が異なるというだけで、キリストの伝えた真理が国境や環境で普遍性を失ったりはしないと信じています。

もし日本人には本質的にキリスト教を理解できないとするなら(そういう極論が昔流布してましたが)、あの多くの殉教者は何を信じて命を捧げたというんでしょう。キリストを勘違いし、間違って信じて、愚かにも死んだというんでしょうか。

ただ日本人には日本人に合った方法で教え、育てる必要があるのだろうと思います。

キリスト教的な信仰の土台がなかったヤジロウにとっては、一人で異教徒の間に置かれ、質問されてもそれを尋ねる導師のいない環境は、とても厳しいものだったのでしょう。

歴史の闇に飲まれていった者の孤独を思い、未来に生かす知恵に変えていきたいと思います。


 島津氏とザビエルの会見の地へ


一宇治城跡


鹿児島市を出て日置市へ。伊集院町を目指します。向うは一宇治城跡。島津貴久とザビエルが会見した城です。

緑の多い地帯の丘陵部に広がる一宇治城跡は、戦国時代の山城。現在は城山公園という名の公園となっています。

山城で廃城となった城をいくつも見てきましたが、大体は草ぼうぼう、木々の生い茂るただの山に変貌しているのが関の山(山城だけに?)なのですが、ここは違います。

人口もあまり多くなさそうな地域にありながら、このように整備されて史跡地として保護されているのは、やはりザビエルが来たという一大イベントがあったからだと思われます。言うなれば、ザビエルによるご利益。長い階段の下にも少し縄文人っぽい(?)ザビエル像が見受けられます☆



城山公園

ザビエル像

井戸の跡

井戸について

島津貴久・ザビエル会見の地碑

会見之地碑


一宇治城の本丸跡には「島津貴久・ザビエル会見之地」碑が建てられています。

が、会見の地がどこであったかについては、2つの説があり、はっきりとした結論は出ていません。

国分市の清水城(今回は行けなかった)だったという説と、ここ伊集院町の一宇治城だったという説で、どちらにも相当な理由があるのです。それぞれの説の論拠を要約すると、キロ数や貴久の記録からは国分清水城であろうということになり、貴久の母がいたということからは一宇治城が正しかろうということになるわけです。

「会見之地」碑が建てられているのは伊集院町なので、こちらに軍配が上がっているような状況でしょうか? 私はどちらの説の肩を持つとかはないのですが、顕彰してくれてることには感謝だなと思います。やっぱりザビエルのことを偲べる場所があるだけでも有り難いじゃないですか d(゜ー゜*)ネッ♪



「会見之地」碑

ザビエルについて

一宇治城について

一宇治城跡

城跡からの眺め


会見によってもたらされたのは、キリスト教を布教してもいいというお墨付き。もしここが会見の地であるなら、「キリスト教公認之地」碑を建ててもいいかも☆

太守であった島津貴久が布教を認めたことで、次に向う鶴丸城の家老もクリスチャンになれたし、1年足らずの滞在中に100人ほどに洗礼を施したと記録されています。

また記録には残っていないけれど、1549年の12月25日には鹿児島のどこかでザビエルらが日本初のクリスマスを祝ったはず。

記録に残っている日本最古のクリスマスが山口だから、山口には「クリスマス発祥の地」と書かれた碑があるけれど、ザビエル一行が日本で初めて迎えるクリスマスを祝っていないなんてこと、ありえないと思います。

だから「日本で初めてクリスマスが祝われたであろう」記念碑も建てちゃっていいかと♪

いいこともそうでないこともあった鹿児島だけど、全ての出発点、始まりの地になったことは確かだから、ザビエルの置き土産を大切にしていってほしいな (@⌒ο⌒@)ノ



一宇治城跡遺構

一宇治城跡の広場

子供用の遊具

城山公園

 もう一つの城、市来鶴丸城へ


城への登り口にある春日神社


さてザビエルの足跡を追って、今度は市来(いちき)にある鶴丸城へ。

市来は近代に入って東市来と市来に分かれ、市来城跡は東市来市に。

城への登り口がわからなくて難義しましたが、鶴丸小学校の裏山の神社脇に小道があり、そこを登って行くと本丸跡に出られるみたいです。

急に雨足が強くなってきたので、車内でやりすごしつつランチタイム☆ 少し休んでから行きなさいということかもしれません。
今日も涼しくて、つくづく感謝なのです (●⌒∇⌒●)


思ったよりちゃんとしてる!

ザビエル像


城跡への登り口にはザビエル像が。

よく見ると右手にも小さな像が2体並んでいます。

おお、ザビエルと家老ミゲルじゃないですかっ。

ザビエルの像は各地にありますが、家老のミゲルにまで着目していただいて「ありがとう!!」って感じです。


ザビエルと家老ミゲルの小さな像


家老のミゲルについては日本名がわかっておらず、市来城番の新納康久(にいろ・やすひさ)の家臣であったことと、ザビエルから洗礼を受け、霊名がミゲルだったことだけがわかっています。

島津貴久の公認後だったためか、ザビエル一行はこの城で好意的にもてなされ、新納康久は洗礼を受けませんでしたが、夫人と2人の息子にはキリシタンとなることを許しました。

家臣の内でも、ミゲルを筆頭に17名(15名とも)が受洗したと解説板に書かれています。
また解説板にはザビエルの来訪だけでなく、その11年後に来訪したアルメイダについても書かれていて、ほんとポイント高いです!(極めて私的な評価ですが^^;)



ザビエル像

ザビエルとミゲル

解説板

城跡マップ

本丸跡へ

本丸跡への道


さて、登りますかね。気合入れて。

「200m 鶴丸城跡」と書かれてるとこ見ると、まだ城跡内には入ってないようです。

案内矢印の脇に、「三・四年生きつい○○ みんながんばれ」と励ましのメッセージが書かれた木が埋もれてるのが若干気になりますが、とりあえずレッツゴー。

本丸跡・・・?


しかし登れど登れど、城跡っぽい遺構は見当たらず、落ち葉の間に石が転がっているだけ。。

多少人工的な加工の痕跡が見て取れるので、これが建物の土台の石だったのかもしれませんが、これを隅のかしら石にしたとしたら、小さな建物しか造れなさそう;;

やっぱり山城は山に戻っちゃいやすいんですね。自然の力は偉大です。

市来城内には、信徒たちのための会堂があったとされ、おそらくこれが日本初のキリスト教の教会だと思うんですが、、、アルメイダのことまで書いてある解説板にもそう記載されてないってことは、私のリサーチミスなのかな?

福昌寺は滞在する宿舎ではあったけれど、教会堂が敷地に建てられることはなかったようだから、礼拝は室内で行って、専用の建物を教会堂として持つことはなかったんじゃないかと。。

うむむ、ど素人の穴だらけの推測では、考えてても埒が明きませんな (;´д`)

まあ日本初かどうかはおいといても、日本で最初から3番目くらいまでに入る教会があったとは言えると思います。

この荒れ果てた山城跡(今はほぼ山?)に、賛美歌が流れてたし、ザビエルやアルメイダがいたし、信徒たちもいたし…、なんて思うと、跡は何もなくても、来て良かったな♪



みんながんばれ!?

鶴丸城跡

鶴丸城跡

本丸跡・・・?

 殉教地に向って


江口浜


海岸線を北上し熊本方面へ。名残惜しいですが鹿児島はもう少しで終わりです;;

これから向かうのは川内と八代の殉教地。左手には江口浜が見えています。

ここ江口浜はディエゴ小西美作(みまさか)ゆかりの地。ディエゴ美作はキリシタン大名 小西行長の重臣で、宇土城や麦島城の城主でした(行長の息子だという説も)。

行長が関ヶ原の戦いに敗れ京都で斬首された後小西領は加藤清正によって接収され、ディエゴ美作は海路薩摩に逃れました。その際、最初は京泊(薩摩川内市)に上陸しようとしましたが、その地の仏僧らの反対によって果たせず、無用な戦いを避けるために江口浜に行って落ち着いたのです。

ここにもキリシタンの足跡が残っているんですね。
この辺りに住人の中には、ディエゴ美作やその家臣団(江口浜に60隻の船でやって来た)の子孫が住んでるのかも。自分たちのルーツも知らないまま…。


平佐城跡

平佐城址の碑


薩摩川内市に入り、平佐城跡へ。現在は平佐西小学校が建っています。

ここは殉教者と関係がある場所。薩摩の殉教者レオ税所七右衛門(さいしょ・しちえもん)は、この城の主 北郷加賀守三久(ほんごう・かがのかみ・みつひさ)の家臣で、キリスト教を棄てないために処刑されました。

小学校の前の道


レオの屋敷は城の近くにあり、屋敷の前の辻(十字路)で斬首されました。

その場所がどこだったのかはわかっていませんが、この殉教は鹿児島で最初の殉教でした。

洗礼を受けたてから殉教までがわずか3ヶ月と26日で、キリシタンになったら殺されることを知っていながら受洗し、親しい友人に神を信じる恵みを語ったりしていました。

信仰の深さ、主への愛の強さは、信仰生活の長さと比例しないようです。
自分を省みてみなければなりませんね。



平佐西小学校

平佐城址の碑

小学校の前の道

小学校の石垣

 思いがけず教会めぐり


バプテスト川内キリスト教会


レオ税所の記念碑がある川内カトリック教会へ向う道すがら、バプテストの教会を発見。

日本バプテスト連盟に属する、バプテスト川内キリスト教会です。

殉教地に来たら、その実がどんなふうに現代に受け継がれているかを見たくて教会を訪れたりするのですが、確かに信仰の火が今も灯っているようです。

川内カトリック教会


線路を越えて川内カトリック教会へ。
平屋建ての聖堂が穏やかな印象を与える教会です。右手にはレオ税所の顕彰碑。

聖堂の入口にもレオ税所が斬首される場面を描いた石が置かれています(このページのトップ画像)。

殉教の地を受け継いでいるからこそ、自分たちも頑張ろうと、ずっと励んでらしたんじゃないかと思いました。

その実は受け継がれ、でも受け継がれるだけで終わるのでなく、更にその実が種として蒔かれて、多くの実を結ぼうとしているのだと感じます。


聖堂内


聖堂内は和風。木目と茣蓙が清々しいです☆

祭壇はもちろん、朗読台や、祭壇両脇にある聖母子像と4福音記者のレリーフまですべて木造。

主の宮に対する、いい意味でのこだわりを感じました♪


川内カトリック教会

聖堂入口

祭壇

ステンドグラス

教会の歴史

納骨堂と石碑

レオ税所顕彰碑

聖母子

 絶対行きたい京泊教会跡!


京泊天主堂跡の案内標柱


続いてレオ税所が通ったドミニコ会の教会、京泊教会の跡地へ。

案内板は早く見つかったのですが、ここから小道を登って行けと言う。道の先が緑に覆われているのが視界に入りましたが、「ええい、ままよ」と進んでいくと…。

やぶ蚊の大群が襲ってきて、汗ばんだ腕やら足やらを刺しまくる刺しまくる。もう何日も絶食してたのかも。こんなぽちゃぽちゃのおばちゃん、絶好のカモなんでしょうね;;

後悔先に立たず、、しかしもう進んでいくしかありません。この蚊の代償を、「来て良かった」的な感動で受け取らねば・゜゜・(≧д≦)エーン・゜゜・。



京泊教会跡の標柱

京泊教会について

京泊教会跡への道

京泊教会跡への道

着きました!ロザリオの教会

京泊天主堂跡


京泊教会の跡は小高い山の中。

今は緑に埋もれているけれど、海側の木々を取っ払ったら海岸が見えそうです。

京泊教会はロザリオの教会と呼ばれていたから、大きなロザリオが掛けられています♪


天主堂の跡地


レオ税所が洗礼を受けたのは自分の屋敷でしたが、通ったのはここにあった教会。

殉教する前にも妻に対し、「京泊の教会に行き洗礼を受け、教会と神父様たちにできるだけ仕えるように。(中略)私は先に天国へ行きます。そこで待っております。必ず来てください」と言葉を残しました。

待ち合わせ場所が天国だなんて、素晴らしい言葉ですね。


京泊教会のあった期間

ロザリオ

解説板

京泊教会について

海岸線を北上

阿久根


鹿児島のラストはこの阿久根。
目的地ってほどではないけど、水俣への途上にあったので寄ってみました。

江戸時代、最後の宣教師であるシドッチがここを経由して行ったことがわかっています。

シドッチは屋久島に上陸してすぐに逮捕され、長崎に護送されていくのですが、阿久根脇元の港から長崎行きの船に乗りました。

その後、長崎だけでは処理しきれず江戸に送られ、最期は切支丹屋敷で迎えました。
宣教師としてやって来たシドッチが日本で伝道できたのは、切支丹屋敷で小間使いをしていた長助とはるの夫婦だけ。でもこの2人の救霊のためにすべてを耐え忍んだことが、キリストの愛を伝えていると思います。

ここを通って行くときには、そんな結末を予想してはいなかったでしょう。
主を証して生きるとは、自分が思ってもみなかった所に、どんなご計画があるかわからないけど何か御心があると信じて、赴くことなんだなと思ったりして。。

そういえば今朝最初に見た桜島も殉教地。
鹿児島巡礼はキリシタン殉教地に始まり、最後の宣教師が殉教への道を踏み出した港で終わりました。

鹿児島ではもっともっと行きたい所もあったけれど、すべてこれで良かったのかもしれません。


 水俣、そして八代へ参ります☆


改修中のカトリック水俣教会


熊本に入り水俣を通って行くので、カトリック教会に寄ってみようかと車を向けましたが、改装中で入れそうにありませんでした。

少しくらいは見せてくれるのかもしれませんが、工事の邪魔になっちゃいけないので、外観だけで「良し」とします☆。

次に来るときには立派な教会になっていることでしょうね。いつ来られるかわからないけど^^;

徳富蘇峰・蘆花の生家


水俣ではもう一ヶ所、立ち寄ってみたい所が。徳富蘇峰・蘆花兄弟の生家です。今は2人の記念館になっていますが、そろそろ閉館なので、こちらも外観のみで「良し」。

徳富兄弟はそれぞれ異分野で活躍し有名ですが、2人ともクリスチャンだったことはあまり知られていないように思います。

知の巨人とベストセラー作家、2人の情報は検索すればいくらでも出てきますが、私が注目したいのは、伯母の矢島楫子と、義兄の湯浅治郎。矢島楫子は明治の女子教育者で今の女子学院の元となる学校を建てた人物で、湯浅治郎は社会運動家で政治家、安中の便覧舎(私設図書館)を作った人です。ともにクリスチャンです。

明治期にキリスト教徒になった人たちには、家族や師弟、親友などのつながりがあって興味深いです。
人づてに宣教していったのだといえばそれまでですが、何か金脈のような、精神的なつながりの脈があるように感じます。

私もその脈の中に呼んでもらって、ここにいるのかな (*'-'*)ポー


日が暮れる前に殉教地には行かなくちゃ

古城児童公園


2ヶ所を外観だけでスルーしたおかげで、暗くなる前に着くことができました。殉教地跡である古城児童公園に。

どこにでもある児童公園で、「キリシタン殉教の跡」と書かれた標柱がなければ、誰もここが殉教地だと思いもしないでしょう。

ここでキリシタンの母子は息を引き取るまで「イエス、マリア」の御名を唱え続けていたといいます。彼らは十字架に磔(はりつけ)にされ、槍で突かれて殉教しました。



古城児童公園

キリシタン殉教の跡

地元史談会による標柱

解説①

解説②

公園内

殉教地

麦島城跡を探していると・・・

今日も一日涼しくて


今日も耐えられないほどの暑さじゃなくて感謝だなと空を見上げると、一日の終わりを告げるかのようにように、光が弱まってきました。

あとはディエゴ美作が築いた麦島城跡が、見つかったら見つかったでいいし、難しかったらカトリック八代教会へ行って帰路につこうかな。

連日の長時間ドライブで夫も疲れているだろうし☆

列福記念公園ができてる!!


麦島城跡を求めて、「ペトロ岐部と187殉教者 歴史・巡礼ガイド」の道順どおりに車でウロウロしていると、、何か広い公園ができています。

さっきみたいな標柱に「キリシタン」の文字を見つけて、車を停めてもらい下りてみると、なんと「キリシタン殉教者 列福記念公園」と書かれているではありませんか!!

列福記念公園


ガイドブックにも書かれてないから、最近できたもののよう。

本にも載ってなくて探してもいないのに来られたなんて、すごい感謝です☆

この場合、こう叫ぶのはごく自然なことかと (*≧∇≦)/--------ハレルヤー♪



公園の十字架

解説板

解説

英語版

麦島城跡も見つかりました☆

麦島城跡の標柱


列福記念公園の斜向かいに麦島城跡も発見! 城跡といった感じではありませんが、遺構の石も置かれ、解説板もあります。

麦島城はディエゴ美作が築き、城代となった城。小西行長の刑死後は加藤清正の領地となり、三宅角左衛門が城代となりました。

1601年、加藤清正は領内のキリシタン追放に動きました。ディエゴ美作ら小西行長の旧臣の大半は薩摩に逃れましたが、若い武士たち数人が八代に残っていたので、彼らを棄教させようとしたのです。

清正の棄教命令を拒否したシモン竹田と、シモン竹田の毅然とした態度を見て信仰を取り戻したヨハネ南は麦島で斬首。その日のうちにこの2人の家族、ヨハネ南の妻マグダレナとその子ルドビコ(7歳)、シモン竹田の母ヨハンナと妻アグネスの4人も処刑されました。その場所が先ほどの古城児童公園。

城代の三宅角左衛門はシモン竹田の友人だったので、苦渋の決断だったでしょうが、キリシタン撲滅の流れには賛成だったようです。八代の信徒たちを世話する「慈悲役」の3人(ヨアキム渡辺次郎左衛門、ミカエル三石彦右衛門、ヨハネ服部甚五郎)を呼び出し、財産を没収した上、投獄しました。

宣教師も日本から追放されていなくなっていた徳川時代、彼ら「慈悲役」の役割は非常に大きく、信徒たちを支えながら、使徒的働きにも従事していました。

ヨアキム渡辺などは、シモン竹田の首を斬った市河治兵衛を悔い改めさせ、キリシタンにすることまでしていました。迫害下にありながら、このような驚くべき歴史が起こったのは、正に御働きというべきではないでしょうか。

3人は牢内でも祈り、霊的に規則正しい生活をしていましたが、1606年ヨアキム渡辺は熱病にかかって獄中死。残る2人は1609年に牢から引き出され、その子たちと共に斬首されました。彼らが入れられていた牢は麦島城内にあったとされています。



麦島城跡の解説板

解説板

解説板と標柱

標柱

標柱

解説板

城の石

城の石

八代城跡をちらりと見て教会へ


八代城跡


市の中心部に立派な石垣を残している八代城。この城を造ったのは加藤忠広。清正の息子です.

築城の際に麦島城の石垣を持って来た使ったといわれているので、標柱と解説板しかない麦島城の姿を偲ぶよすがにはなるかと。

加藤家の後に熊本を治めたのは細川家。細川ガラシャの夫、細川忠興はこの城で亡くなりました。



八代城跡

八代城跡

八代高校の跡

熊本短期大学の跡

〆めはやはり教会♪

カトリック八代教会


一日の〆めはやはり教会に☆

カトリック八代教会です。

結構大きな教会なのですが、周りに高い建物があるので少々こじんまりとした印象。

殉教記念碑


殉教記念碑を見ていると、通りがかったシスターが話しかけてくれました。
「6歳の子供までいたんですよ」と。

夕方のミサがあるのか、すぐに行ってしまわれましたが、殉教の火を絶やさないようにしようとする方々がいるのを知ることができました。

夕拝に向う家族を何組か見たことも恵みでした♪ マリア像の前で十字を切りお辞儀をする父親の横で、野球帽を被った息子はマリア様を見上げるだけ。でも「行くぞ」と引っ張られていくとき、名残惜しそうにしていたのは子供の方でした。

八代の殉教者11名は教会、家族の絆で結ばれた人々。
その絆にそっと寄り添う主の姿があったのではないでしょうか。
2008年に列福された「ペトロ岐部と187殉教者」のうちで、八代の殉教者は最初の殉教者たちです。
日本中に禁教の嵐が吹き荒れる前の、他地域では様子見ムードがあった時にここでは殉教の初穂が捧げられていました。

その背景には小西vs加藤、つまりキリシタンvs日蓮宗の対立の構造があったことは確かですが、そう捉えるだけでは見落としがあると思います。
旧約聖書には、清いものだけが捧げ物として受け入れられるとありますが、彼らこそ清い捧げ物であると主がお認めになったからこそ、初穂として捧げることをお許しになったのではないかと。
とってもクリスチャンっぽい発想で恐縮ですが、私はそう思います。



カトリック八代教会

教会案内

マリア像

マリア像

殉教記念碑

解説碑

カトリック八代教会

鐘楼と十字架


今日は熊本ステイ☆


あっという間に夕闇に包まれ
ホテルに着いたらクタクタでした。
今日は熊本ステイ。
熊本城の城下町は今もかなりの殷賑ぶりです。

ご飯を食べなきゃいけないので
町に街に繰り出してみたところ
どこを見ても、くまモンくまモン…。
ご当地キャラの人気ランキングで1位らしいです。

世の中では時に変わったものが流行るよなーと
旧世代っぽい感想を抱きながら、
長崎ちゃんぽんを完食。早く寝て明日に備えねば。

今回の旅行も半分を過ぎ、残るは1日半です。
見たいものは山積みなので、効果的に回れますように!
主が共にしてくださると信じて、明日も o(*⌒O⌒)bふぁいとっ!!



インフォメーション
鹿児島県観光ガイド「本物。の旅 鹿児島」
鹿児島カテドラル・ザビエル教会
Laudate(女子パウロ会HP)

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