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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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 九州のキリシタン・ロードをゆく Ⅴ

  <本日の主な訪問地>

 熊本から福岡へ

熊本の中心地からスタート☆

おはようございます!
今日は熊本を回り、福岡へと参ります☆

楽しみにしているのが今村。
福岡との県境に位置する太刀洗(たちあらい)にあります。

久留米や秋月にも初めて行くし、ほんと九州は行きたい所だらけです。時間との戦いでもあるので、行くべき所に効率的に行けるよう、朝から祈って出発進行♪

小さく見える熊本城


交差点の信号待ちで、熊本城を遠望。
熊本の核心といってもいいでしょうね。

ここに居城した人物で特筆したいのは加藤清正と細川忠利。清正はキリシタンにとっては大迫害者ですが、忠利は細川ガラシャの息子で、洗礼を受けたこともあるといわれています。

しかしキリシタン贔屓とは言いがたく、この城から天草島原の乱の鎮圧に向っています。時代の趨勢と御家の事情があるとはいえ、母の信じた宗教に敵対するとはどんな心境だったのでしょう。

熊本を訪れた観光客なら一番に来るであろう熊本城ですが、いまいち乗り気になれず後回しに(これが後に後悔の元となることとも知らずに…)。


熊本城の櫓

花岡山の仏舎利


朝一番に向かったのは、熊本城の西にそびえる花岡山。

ここには時代を隔てて2つのキリスト教の歴史が刻まれているので、是非来たかったのです。

坂道をぐいぐいっと登ってまずは山頂へ。真っ白な仏舎利がお出迎えです。清掃員の方に尋ねて熊本バンドの碑に向かいます☆

熊本バンド


仏舎利の裏手、緑に囲まれた場所にある熊本バンドの碑。

「奉教之碑」と刻まれ、前には野外礼拝ができそうなスペースが設けられています。

奉教之碑


熊本バンドの「バンド」とは信仰者の群れのこと。明治時代のプロテスタント宣教は黎明期にあたり、各地の青年たちが聖書に触れ信仰の集まりを持つことによって始まりました。

その代表が、横浜、札幌、熊本で起こった○○(○○の部分に地名が入る)バンド。

熊本バンドのルーツは1871(明治4)年にアメリカから赴任したL.L.ジェーンズの聖書教育で、聖書に初めて触れた熊本洋学校の生徒40人余りが自発的に「奉教の盟約」を表明しました。

「奉教之碑」の裏には奉教趣意書が刻まれていますが、内容はキリスト教に入信し、伝道を決意するというもの。この趣意書には35名が署名していて、明治のキリスト教界を担った重要人物たちの名を見出すことができます。

宮川経輝、小崎弘道、海老名弾正、横井(伊勢)時雄、金森通倫(余談ですが自民党の石破さんはこの人の4代目の子孫でクリスチャン)らに混じり、徳富猪一郎の名も。 徳富猪一郎とは、そう徳富蘇峰のこと。ここが彼らの出発点だったんですね。

しかし聖書を教えてもらって信仰表明する青年たちが出てきても、当時の熊本には教会がなかったため、熊本における教会形成には至りませんでした。

現代から考えると不思議な現象ですが、彼らは教会に通っていなかったのです。それで彼らのうちの何人かは、信仰を深め宣教に邁進すべく、京都の同志社大学へと向うこととなったのでした。



花岡山地図

花岡山解説板

花岡山解説

「奉教之碑」

署名者リスト

奉教趣意書

石碑前の空間

山頂からの眺め

キリシタン殉教者の墓を求めて

眼下の景色


花岡山の山頂から見下ろすと、熊本の市街地が一望のもとに。

何ともいい景色で、熊本のためにお祈りするにはもってこいの場所です♪

熊本バンドの面々も、そう考えてここに登ってきたのでしょうか (*⌒―⌒*)

西軍墓地


仏舎利前の階段を下りて行くと、墓地が見えてきました。西軍墓地です。

緑陰に建つ小さな墓石群は、口から言葉を奪うような侘しさと寂しさ。怖いというより、やりきれない寂寥感が漂っています。

彼らは何のために死んだのでしょう。戦争にはそれなりの大義名分があるんでしょうが、そういうものが吹っ飛ぶような圧倒的な虚しさを感じます。

自分の命を、誰かの主張する「大義名分」などに奪われちゃいけないと、語っているように思いました。



西軍墓地

墓碑

花岡山攻防戦

西軍埋葬地

キリシタンの墓碑と顕彰碑


西軍墓地を突き抜けた所にあるのが、キリシタンの墓碑と殉教碑。

花岡山は昔から墓所として用いられてきた山で、この山から江戸時代の末期に殉教者の墓碑が出てきたことから、ここに殉教記念碑が建てられるようになりました。

墓碑銘は「加賀山隼人正藤原興良息女墓」。加賀山隼人は、今回の旅で最初に訪れた小倉の殉教者です。福岡県の小倉で加賀山隼人を偲び、大分県の日出で隼人の従兄弟である加賀山半左衛門とその息子の殉教地に立ち、今日は熊本で隼人の娘一家の殉教の地を巡ることになるとは…。何か見えない糸に引っ張られて来たような気さえします。

「加賀山隼人正藤原興良息女」の実際の名前は小笠原みや。夫の小笠原玄也は、細川ガラシャの介錯をして自害した小笠原小斎の息子です。細川家を守るためにガラシャと共に果てた小笠原小斎の義を重く見て、細川忠興は小笠原家を旗本衆として特別に扱っていました。

しかし1614年、幕府の禁教令が全国に布かれると、重臣の中にキリシタンがいることを看過するわけにはいかなくなり、細川忠興は小笠原玄也に棄教を命じました。

玄也は「不転書物(ころばざるかきもの)」を書いて忠興に差し出し、強い決意を表しました。その時忠興は小笠原家を身内の者として処断しませんでしたが、食べていけるかどうかの捨て扶持(すてぶち)を与えて追放しました。

それから21年間、小倉の郊外で家族は細々と暮らしていたのですが、中浦ジュリアン神父が巡回中に彼らに出会ったことがイエズス会の会報に残っています。

1636年、報奨金目当てに玄也一家を告訴する者が現れ、藩主の細川忠利はやむなく一家を捕らえて座敷牢へ。50日間の牢生活の中で彼らは16通の手紙を残しています。玄也だけでなく妻や娘までも、淡々と、しかしはっきりとした言葉で信仰の覚悟が述べていることに、驚かされます。



顕彰碑

発見された墓碑

墓碑銘

石碑

キリストの証人ここに眠る


殉教記念碑の横には緑の芝生が美しい広場が設けられ、「キリストの証人ここに眠る」と刻まれた碑が建てられています。

「キリストの証人…」の文字の下には殉教者たちの名前が。父玄也、母みや、6人の息子(源八、佐左衛門、三右衛門、四郎、五郎、権之助)、3人の娘(まり、くり、つち)と4人の奉公人。

彼らの殉教地はここではなく、次に訪れる禅定院。でもここで祈るのがふさわしいと思ったのでしばし瞑目。目を開けて、ふと「まりちゃん、くりちゃん…」と子供たちの名前を口にしてみたら、彼女たちの明るい顔がぱっと浮かんできて、涙があふれました。

いつも殉教者の名前だけ見て、どういう人だったんだろうと思って、それで過ごしてきていましたが、彼ら彼女らには顔があり、名前があり、体があり、毎日の暮らしがあり、それぞれの思いがあって、、実際に生きてここにいたんだということが、急激に感じられてきて、堪らなくなりました。

当然なことなのに、見落としていました。この人たちは実在の、実際に息をして動いて、生きていた人たちで、今ここにいる私と何ら変わりがないのだということを。そう思うと親しみと同時に、悲しみが襲ってきます。彼女たちの笑顔を奪った処刑という仕打ちについても、むごいとかひどいとか、そういう客観的な表現ではなく、悲しいし悔しいという、とても主観的な言葉が出てくるというか。



広場

キリストの証人ここに眠る

殉教者たちの名前

右手が殉教碑

禅定院


花岡山を下りて北上。禅定院に向かいます。ここは小笠原一家と奉公人4名の計15名が殉教した場所です。

境内には墓参の人々が多数みえていて、墓域にあるお墓の解説が掲示されていますが、殉教地だとの記述はなし。仕方ないことかもしれませんが;;

しかしお墓マップを見ていてすごいことを発見! 三宅角左衛門と小西隼人の墓があるそうな (*゜ロ゜)


禅定院

墓域

お墓マップ

小西隼人の墓!!

三宅角左衛門の墓


三宅角左衛門は加藤清正の家臣で、小西美作がいなくなった後の麦島城代。八代のキリシタンの処刑を命じた人物です。

私にとってはここで会ったが100年目という感じですが、ひと際立派なお墓が建てられてて、称えられてる感があります。

墓地には他にも加藤清正の○○将とか○傑とかいう武将たちのお墓があって、いずれも称えられてる感満々です。

小西隼人の墓


小西隼人のお墓は、「これ!?」って感じの自然石。小西家から加藤家の家臣へと鞍替えした南条元宅の墓の後ろにあります。

小西隼人はキリシタン大名小西行長の実弟。宇土城代でもありました。

禅定院歴代住職の言い伝えでは、小西行長の墓だと言われているのだとか。だとしたらものすごいものを見つけてしまったことになります。ものすごいものに導いてもらったと言うべきか。。



三宅角左衛門の墓

庄林隼人の墓

南条元宅の墓

小西隼人の墓

 加藤清正の廟所へ


蔚山町


清正家臣団の墓を見たところで、清正本人のお墓も見に行きましょう。

向う途中で目に入って来たのが、「蔚山町」の文字。路面電車の駅につけられた名前です。

蔚山(うるさん)は、韓国の東海岸にある都市。清正が朝鮮侵攻で蔚山から連行して来た人々が、この辺りに住んでいたのでしょうか。


蔚山町駅

本妙寺

本妙寺


ほどなく到着、本妙寺。

私は殉教地やキリシタンゆかりの地には熱くなれるのですが、迫害者関係となるとどうも力が湧いてこず…。

しかも午前中だというのに炎天下の暑さ。日なたに出るだけでも汗が発火しそうです。その上この階段。もうやめてくれ;;

清正の位牌


加藤清正ともなると、お墓とは呼ばず廟所と呼ぶらしく、ほぼ神に等しい感じで祀られてるので、もしかしたら位牌と呼ばないかもしれないけど、こちらが位牌みたい。

これが置いてあるお堂も天井から何から豪華絢爛。清正は日蓮宗の熱心な信徒で、このお寺の日真という僧侶とは昵懇の仲でした。キリシタンに棄教を勧める時にも日真の講話を聞かせたりしています。

八代のキリシタンのところにも行かせて、日蓮宗に改宗させようとしたし、他の地域でもそういうことがありました。

自分も神仏を信じていたなら、信仰者の心がわからなくはなかったろうに…と思うのですが、そうはならないのが人の世のようで。うー、暑い (;´д`)ゞ



本妙寺

六喜廟

境内の道

お堂

天井画

堂内

解説板

解説

春日寺跡?

春日寺の墓地は工事中?


さて、熊本は濃(こゆ)いです

何が濃いって、味とか顔じゃなくて、歴史ですよ、歴史。

キリシタンを迫害した加藤家がいて、ガラシャの家系の細川家がいて、それだけでも十分濃いのに、キリシタン大名大友宗麟の息子たちのお墓まであるんです。

大友家は豊後から肥後まで治めてたときがあるので、不思議とはいいませんが、でも濃いでしょ、ほんとに。歴史の濃い、濃密で複層的な世界が広がっているのです。熊本市内だけでも一日では到底フォローできそうにありません。まあ、いいことなんですけどね、素晴らしい史跡があるんだから☆

…と思いながら、大友宗麟の息子たちの墓があるという春日寺に来てみましたが、お寺は見当たらず、あのぅ、墓地は工事中ですか?


宗麟の次男、三男の墓?


隣に何かできるのか墓地を整備してくれてるのかわかりませんが、とにかく工事現場っぽい雰囲気の春日寺墓地。

こちらの年季の入った2基の墓碑が、大友宗麟の次男大友親家(ちかいえ)と三男大友親盛(ちかもり)のもの。

2人ともキリシタンでしたが、大友家が改易された後に細川家に仕えることとなり、その際に棄教したようです。大友宗麟の3人の息子は皆キリシタンになりましたが、最終的には残念なことになりました。長男の義統(よしむね)は死去する前にキリシタンに戻ったと言われてもいますが、途中で信仰が悪くなったこともあったので、やっぱり残念;;

しかし宗麟の娘たちは随分としっかりしていて、夫を信仰に導いたり、キリシタンの夫と協力して宣教師を招いたり、身分の高い女性でありながら困難を恐れず、自分の人生を貫いていっているのが天晴れです。むやみに男女を比較しちゃいけませんが、宗麟の娘たちの凛とした生き様には惹かれます ( ̄▽ ̄)♪

尚、春日寺の現状についてはこちらのブログ(津々堂のたわごと日録)を参照ください<(_ _)>



春日寺墓地

春日寺墓地

工事中

宗麟の息子の墓

 ガラシャの面影を求めて


泰勝寺跡


一日の旅程を考えるとそろそろ熊本を後にすることを考えねばなりません。

という訳で絶対に外せない泰勝寺跡へ。ここには細川ガラシャ夫人のお墓があるのです。

現在泰勝寺ははなくなって、細川家の墓地だけが立田自然公園内にあります。


立田自然公園解説

立田自然公園マップ

泰勝寺跡

公園入口

細川ガラシャの墓


こちらが細川ガラシャ夫人のお墓。お墓といっても、この下に眠っているというのではないので、「思い出すよすが」ですかね。

仏教的に言うと「菩提を弔うためのもの」でしょうか。

ここに並んでいるのは細川藤孝夫妻と細川忠興夫妻の墓(ガラシャさんは忠興の妻)で、この四つが並んでいるので「四つ御廟」と呼ばれています。お寺と墓を建てたのは細川家の三代目忠利と四代目光利。

忠利も光利もガラシャ夫人の血を引いています。この2人には、戦国一の美女といわれ、38歳で壮絶な死を遂げたガラシャ夫人を慕い思う気持ちがあったのではないでしょうか。領内のキリシタン政策にはその感情を持ち込むことは許されなかったんでしょうが…。

ガラシャ夫人は1600年、敵対する石田三成に大坂城に来るよう迫られますが、自分が大坂城に行き人質になっては細川家の戦いに不利になるので、死への道を選ぶことに。

キリシタンは自害してはいけないという戒めがあるので、信頼のおける家臣、小笠原小斎に言って胸を刺させました。小笠原小斎は細川邸に火を放って切腹。戦地でガラシャの死を知った忠興は獅子奮迅の働きをして勝利を得ました。

だからガラシャ夫人の遺骸は大坂にあった細川邸と共に焼失し、遺骨のある墓はどこにもないのです。しかしガラシャ夫人遺愛の手水鉢がお墓の前に置かれています。

蝉時雨の下で石を眺めていると、結局後の歴史に残るものは、物ではなくて心なのかもと思えてきます。石造物自体が有り難いんじゃなくて、その人の心を感じるからそれを見るとうれしいわけで。

ここではガラシャ夫人の心に触れられるとは言いがたいけれど、彼女を想う人の心に触れられるような気がします。



泰勝寺跡

ガラシャ夫人の廟

ガラシャ夫人の墓塔

解説板

ガラシャ遺愛の手水鉢

ガラシャ遺愛の手水鉢

廟所入口の手洗鉢

初代藤孝の墓

リデル、ライト両女史記念館に寄ります♪

リデル、ライト両女史記念館


熊本を発とうと久留米の住所をナビに入れていると、「リデル、ライト両女史記念館はコチラ」との標識が。
すぐそこなので寄ってみましょうか。

リデル、ライト両女史記念館は現在も現役の医療施設の敷地内にあります。療養中の人以外はあまり訪れる人がいないような感じですが、記念館の展示は勉強になりました。

いいなと思ったのは回り全体の雰囲気。
教会を中心に各建物が建てられ、緑の多い環境もグッド。
冷房は効いてないけど、暑さを一瞬忘れるような清涼感です☆



記念館

建物は国の有形文化財

室内

十字架

2人の写真

展示

展示

展示

展示


2人の碑

皇太后の歌碑

歌碑解説

教会

 久留米に向かいます!

袋に入った焼そば


道路沿いのコンビニで気になる物を発見!

「熊本では焼きそばは袋に掃いているもの」と、県民性を紹介するテレビ番組で言っていましたが、正にそれ。

レジに出すと「温めますか~?」と聞かれ、「はい」と答えると、店員さんは当たり前のように袋の端をハサミでちょきちょきと切り、レンジでチン。

手軽なご当地グルメなんですね。おにぎり感覚で頬張りながら、高速に乗って北に向かいます。目指すは毛利秀包とマセンシアがいた久留米。なので熊本ともサヨナラです;; 寂しいけれど仕方がないっ。今日は博多に泊まるんだもの。未練を断っていざ...((((=・o・)ノ ゴーゴー♪

 

毛利秀包とマセンシアがいた久留米城跡

久留米城跡


そんなわけでやって来ました、久留米城跡☆

元々の城域は、明善高校から久留米市役所、久留米大医学部を含む地域でしたが、現在は本丸跡だけが城跡として残っています。

この城にいた毛利秀包(ひでかね)とマセンシアは、政略結婚には珍しいキリシタン同士のカップルで、夫婦仲も良かったよう。その上2人とも信仰心に篤かったのです。

この2人と息子のお墓は山口に旅行した時に回ったのですが(宜しければ「風薫る5月に」をご参照ください)、3人が一緒にいたのはこの城でした。マセンシアは大友宗麟の娘で、宗麟の息子たちと比べちゃ何ですが、性質も信仰もしっかりとしていて、長男である元鎮が生まれると、ペドロ・ラモン神父をこの城に呼びました。その後フロイスが来てこの子に洗礼を授け、霊名をフランシスコとしました。

この霊名は大友宗麟と同じ。マンセンシア、絶対狙ってたと思います。「おじいちゃん(宗麟)のような偉大な信仰者になってね」って――。



久留米城跡

石垣

月見櫓跡

本丸跡

小早川神社


本丸中央にある目立つ建物が篠山神社。

でもそれよりもずっと見たかったのが、この小さな小早川神社。

神社と呼ばれてはいるものの、実際には小さな祠なんですが、この扉にアンドレアス十字が刻まれていて、それがキリシタン遺物である証といわれているのです。

一説にはここが教会跡だとも。裏付ける史料がないので推測の域を出ませんが、信仰のいいキリシタン夫婦が城内に教会を設けなかったとは考えられないので、きっとこの辺りに教会や祭壇があって、日々祈りが捧げられ、神父たちが巡回したりしてたんだろうなと、感慨深い気持ちになります (@⌒ο⌒@)オホー



アンドレアス十字

解説板

祠の周囲

篠山神社

久留米大のグランド


毛利秀包はキリシタン嫌いの多い毛利家にあって、唯一の、しかも信仰のいいキリシタン大名だった人物。

秀吉に仕えていながら禁教下でも棄教せず、マセンシアと手を携えて神父らを保護していました。

しかし関ヶ原の役で西軍についたため改易。その後下関で病没しました。

関ヶ原の役の時、国許であるここ久留米城も東軍側に攻められて、主なきまま籠城していましたが、秀包はマセンシアに「黒田孝高(如水、官兵衛とも)の軍が来たら城を明け渡すように」と言い置いてあったとか。

黒田孝高はこの時東軍についていましたが、キリシタン大名の先輩。秀包は黒田孝高の影響でキリシタンになったのでした。だから霊名は黒田孝高と同じシモン。籠城していた人々は黒田家に預けられるのですが、手厚く扱われました。ここにもキリシタンの誼(よしみ)があったのです。

この城を明け渡す際に、受け取りをしたのは黒田直之。黒田孝高の異母弟で、霊名ミゲル(パウロとも)を持つキリシタンでもありました。この直之が秋月に入封し、宣教師を招いて教会を建て、城下に3000人のキリシタンが住む町を作るのは、この後のこと。

秋月にはヴァリニャーノと天正遣欧使節の少年たちがやって来たりして、「キリシタンのユートピア(理想郷)」とまで宣教師によって書かれていますが・・・今日行く予定なので、詳しいことはそちらに譲って、と。

本丸跡から城跡だったグランドを見下ろしながら、連綿と続いていくキリシタンの誼(よしみ)、それが川のような歴史の流れとなっていくのを感じました。


 絶対行きたかった、今村!!

気温は37℃


ここ数日涼しかった分溜め込まれていた熱を一気に放出したかのような熱気が移動の車を襲います。

温度計によると現在外気温は37℃。それがあっという間に38となり、やがて39に!

温度を感知するセンサー自体が熱せられちゃったゆえの数字かもしれませんが、暑さも湿気もハンパない状態!! もう、へるぷみーぷりーず、です Σ(;´□`;)


今村に向って♪


しかし!この目で確かめたい場所があるから行かねばなりませぬ、どこまでも!!

いや、「どこまでも」じゃなくて、まずは今村まで。今村のある太刀洗町は、昔久留米藩だった所なので、久留米市内からだとお隣みたいな感じ。

しかし町の雰囲気はガラリと変わり、長閑な田園風景が広がっています。熱風さえも忘れられそうな爽やかな緑。こんな風景が日本に残っているということだけでも、神様に感謝したくなりますヽ( ´ ▽ ` )ノ ルルルノルー♪


今村カトリック教会


こんな田園風景の中にいきなり建っているのが今村カトリック教会。

ここが日本だからちょっと奇異にも感じられますが、本来なら(キリシタンの迫害とかなかったら)、日本の田園風景には美しい教会がつきもの、となっていたかもしれません。

こちらの教会の設計施工はやはり鉄川与助さん。長崎県の五島や平戸、熊本県の天草といった地方を中心に約50の教会建築を請け負った大工の棟梁です。特にかつての隠れキリシタン集落の教会を数多く手がけていて・・・そう、ここ今村も禁教下で約200年もの間隠れて信仰を守ってきた、隠れキリシタンの村なのです。



今村カトリック教会

解説板

教会正面

側面

今村のキリシタン


「何しに来たとですかー?」
カメラを構える私たちに声を掛けてきたのは信徒さんらしき男性。

観光客がマナーを守るよう見張る意味もあって、ボランティアでガイドをしているようです。

少し前にもこの教会を始めとする鉄川与助さんの教会が、NHKの番組でも紹介されていたから、訪れる人が多くて、中にはマナーの良くない人もいるんでしょうね;;

聖堂に入ってすぐ私たちがお祈りするのを見て、クリスチャンだとわかったらしく、後で隠れ時代にキリシタンたちが祈りの対象としていた石造物を見せてくれました。現代に残るクリスチャンの誼に感謝!

私たちが「今村の隠れキリシタンのことが知りたくて来た」と話すと、そのボランティアガイドの男性が「私のひい爺さんも爺さんも殉教者で、私は殉教者の子孫だ」と言うからびっくり。

私「その殉教者って、もしかしてジョアン・・・」
男性「(微笑んで)又右衛門さん」
私「えーっ!私たち、この後ジョアン又右衛門さんの殉教地に行こうと思ってたんです」
男性「あそこはわかりにくい。人の家みたいな所だし。又右衛門さんの墓は祭壇の下だけど・・・」

そうです、この今村カトリック教会自体が、キリシタン殉教者ジョアン又右衛門の墓の上に建てられているのです。だから単に教会だからというのでなく、キリシタンゆかりの地、また復活した隠れキリシタンが建てた信仰の礎として、是非とも来たかったわけなんですが、その大元(おおもと)の殉教者の子孫の人に会い、話までしてもらいながら教会を案内してもらっただなんて・・・すごいというか、すごいというか、ほんとにすごくないですかっ!?

主の導きの深さ高さ広さ、それプラス絶妙なタイミングと確かさを思い知りました。唖然とする夫は口を閉じるのも忘れて開けっ放し。

私たちの反応に心が動いたのか、男性は自分の車まで取りに行ってプリント(印刷物)を持ってきてくれました。教会の祭壇下に眠るジョアン又右衛門についてのプリントを・・・。

今日私たちがここに来るなんて、自分たちしか知らないと思ってたけど、神様がご存知で、待ち構えて恵みを下さったんだなと感じました。いえ、それ以前に、自分たちが計画したつもりでいたこと自体、導かれてたことなのかもしれません。

感謝というか、これは衝撃です。感謝の部類には、こんな衝撃的なものがあるんですね。
この教会を訪れた人の中には、私たち同じ男性に案内してもらった人が他にもいるでしょうが、こんなに衝撃を受けながら対話した人は、他にはいないような(勝手な主観だけど)気がします。



後ろからみた教会

教会のレンガ塀

教会解説板

本田保神父像

本田保神父

ルルド

今村カトリック教会

教会の窓

ブラジルへの移民


この今村からブラジルへの移民が開始されたのは1913(大正2)年から。最初に100人が移住し、以来数百名が移民となりました。

これもまた偶然というか、神の配剤というべきか、夫の友人でブラジルに留学中の女性がいるのですが、その人が現地で知り合った日系人が今村からの移民の子孫なのだとか。

もう日系4世5世の代になっているので日本語も話せなくなっているようですが、自己のルーツである日本には関心が高いようです。苗字は「平田」さん。今村には平田さんと青木さんがとても多いので、この苗字自体が証といえます。地球の反対側とつながった遠い絆を思うと、神様にしか結ぶことができない縁があるのだと感じます。


 迫害の跡を・・・

広琳寺


国道322号に戻ってしばらく行くと、右手に見えてくるのが広琳寺。「天主文」という書物を書写して平田さんに贈った青木道立が葬られたお寺です。

江戸時代の寺請制度の下、信徒たちは表面上は仏教徒となってお寺に所属しなければならなかったので、ここもそんな檀那寺の一つだったのでしょう。

久留米藩では寺社奉行が毎年6月に絵踏み、誓詞を実施(by「家訓記得集」)していましたが、密かにキリシタンの信仰が受け継がれていたのです。

そんな今村に転機が訪れたのは、1867(慶応3)年。ここに隠れ信徒の一大集団がいるとの話を受けて、浦上村の青年たちがやって来て、信徒たちを発見しました。1992年の今村信徒発見125周年には、当時の教皇ヨハネ・パウロ2世から祝福のメッセージが寄せられています。

今村は世界からも注目されるほどの稀有な歴史を有し、日本のキリスト教史で欠くことのできない存在だということができようかと思います。


ハタモン場を探して…


さて、ジョアン又右衛門の子孫の方から「あそこはわかりにくい」と、行き方も教えてもらえなかった殉教地ですが、どうしても行きたいのでトライ!

大刀洗の名所案内に載っていた地図と霊感を頼りにてくてく。どこか懐かしいような緑の田園風景の中を行きます。

第二次世界大戦の末期、日本はアメリカ軍の空襲で全土が焦土となりつつあったですが、この地域を爆撃しようとしたアメリカ兵が、眼下に大きな教会堂が建っているのを見て、爆弾を落とすのをやめたというエピソードが残っています。

殉教と迫害の後に建てられた尊い教会堂が、この田園地帯を守りまでしたことを、地域の歴史の1ページとして必ず覚えておいてほしいなと思ったりして。


ジョアン又右衛門の殉教地

殉教記念碑


見つからないので諦めて帰ろうとした時、「人の家みたいな所」にあると言っていたことを思い出して、ふと建物の裏側を覗いてみると・・・、 あああああ、ありました!!ジョアン又右衛門さんの殉教地、通称ハタモン場が!

ここは本郷町獄門場の跡で、昔は近くに川が流れていたようです。ジョアン又右衛門はここで磔にされて刑死しました。遺体は夜になってから信者が戸板に乗せて運び出し、西小路の竹薮に埋葬されました。
現在の今村教会堂の祭壇の下がその場所です。

周りには家もあるので、小さな声で「ここも神の」を賛美。不思議な導きに心から感謝して・・・♪



殉教地

殉教記念碑

十字架

解説板

カトリック本郷教会へも☆

聖母子像


自分でも情けないほどの信仰しか持ち合わせておらず、お祈りも義の行いも足りない私に、こんなにも恵みを下さるのはなぜだろうと、申し訳ない気持ちで答えを探しつつ、カトリック本郷教会へと向かいます。

こちらの教会は今村教会から、いわば巣分けしてできた教会。絵本の中から出てきたような可愛らしさの中に、素朴だけれど堅固な信仰がうかがえます。

カトリック本郷教会


日本の田舎の村々にこんな教会があったらステキでしょうね。

老後はこんな感じの所でのんびりと・・・なんて発想が浮かんできます。

いやいや、まだ早い。もうちょっとすべきことをしてからじゃないと、年老いてもいられんわい、と自戒しますが^^;


 キリシタンのユートピア秋月

秋月


気持ちがすっきりしたところで、次は秋月(あきづき)へ。時刻はもう15時をまわっているので、ラスト訪問地です。

駐車場に車を停めて、秋月のメインストリートへ。ピークの時間帯を過ぎているためか、観光客はまばらで、静かな城下町の佇まい。

この街道をたぶん、天正使節の4人の少年を連れたヴァリニャーノも歩いたことでしょう。私の好きなアルメイダさんも頑張ってました♪

なんせ、その頃秋月には藩主と大商人の庇護の下、3000人ものキリシタンがいたといいますから、相当なキリシタン人口です。信徒の世話をする宣教師や日本人神父たちがたくさん足を運んだことは、ごく自然なことでした。

ここ秋月を宣教師たちは「キリシタンのユートピア」と呼んでいました ( ̄▽ ̄)ノ


瓦坂


こちらの瓦坂が秋月城の遺構。城跡は秋月中学や公園などになっています。

黒田氏秋月藩の初代藩主は、久留米城の受け取りをしたミゲル黒田直之。直之は杉本城(秋月城)を常の城とし、古処山城を詰めの城としました。

直之はキリシタンを保護し、宣教師を招いて教会を建て、亡命してきたキリシタン武将 明石全登(あかしたけのり。明石掃部とも)を匿ったりしました。

しかし直之は江戸にいる時発病し、なんとか秋月に戻ってきたものの帰天。家督は長男パウロ直基が継ぎましたが、主君黒田長政(黒田如水の長男で霊名ダミアンを持つキリシタンでしたが、棄教。直基にとっては従兄弟にあたる)に改宗を迫られ苦悩しました。

そうこうするうちに直基は家臣に惨殺され、所領没収、お家断絶になりました。黒田家の歴史書には直基は暗愚で暴君だったと書かれていますが、真実はどうなんでしょう? キリシタンを撲滅し、徳川家に睨まれないようにしようという意図があったのではないかと疑わずにはいられません。

その後長政は秋月のキリシタンを弾圧。なのでキリシタン遺物はないに等しい、とものの本には書いてあります。切ないキリシタンの栄枯盛衰ですが、それでも来てみたかったのです。キリシタンのユートピアとまで言われた秋月に・・・。



秋月城遺構

観光案内

城跡

秋月中学校

古地図

長屋門

長屋門解説

石垣

キリシタン遺物が眠る秋月郷土館

秋月郷土館


遺物はないとないに等しいといわれていますが、「キリシタン灯籠」があるという秋月郷土館へ。

閉館まで30分しかないので、門は閉まり気味(←)。しかしぐいっと押し開けて入って行き、時間もないので単刀直入に聞いてみました。「キリシタン灯籠が見たくて来たんですが」

帰り支度をしていた館長が顔を上げ、「キリシタン灯籠ってことは、キリシタン関係の方ですか?」
キリシタン関係の人って何なんだろう、キリスト教関係の間違いではないかしらんと思いつつ、ここはノリで勝負だと思い、「はい、そうです!」

「では私がご案内しましょう。ちょうど鍵を閉めて回ろうと思っていたので」
いつでもどこでも感謝ですが、館長自らたった2人の来館者のために成り立ちやら歴史、見所などを解説して回ってくれるなんてことは、主からのプレゼントなんじゃないかと感謝感激。特に有り難いのは、その場でもっと聞きたいことを尋ねることができることです。

秋月郷土館の収蔵品は黒田家の遺品がメインなので、黒田長政の武具や島原の乱に参戦した時の幟旗、黒田如水ゆかりの品など、のけぞるくらい貴重な品が所狭しと並べられています。中でもびっくりだったのが、島原城陣中図。島原の乱の時、城内がどんな様子だったかを描いたもので、作者はあの山田右衛門作。島原城中で唯一人ユダに堕ちた南蛮絵師です。この絵、ここにあったのね・・・!

館長さんが捕らわれている右衛門作(裏切りがバレて縄を打たれ見張られていた)を指さし、「これが山田・・・」と説明し始めたところで、夫が「ああっ!」、私が絵を描くまねをしたので、館長さんは「この人を知っているとはさすがキリシタン関係の方ですね」と若干満足げ。

キリシタン灯籠を見せてもらったついでにどこから発掘されたかを聞き、その後事務所に行ってキリシタン時代に教会だったといわれている場所とキリシタンゆかりの地、殉教地への行き方を聞いておいとましました。ものすごい収穫です。地元の人しか知らないことも多く、殉教地なんて観光地図に載ってないから。やっぱりここでも叫びましょうか。。(^|0|^) ハレルヤー♪



郷土館の説明

館内図

キリシタン灯籠が出土した辺り


秋月郷土館のちょうどお向かいが、宣教師を招いて泊めていた末次興善の屋敷跡。

末次興善は博多の大商人でキリシタン。教会の保護者として影に日なたに活躍しました。

ヴァリニャーノと天正使節の少年たちが泊ったのも、アルメイダら宣教師たちが滞在したのもこの屋敷だったのです。

1万坪以上あったというお屋敷の跡地は、現在家屋と田畑になっちゃってますが、キリシタン灯籠が発掘された(迫害を避けるため埋められた)場所は、この写真の辺りです。たぶんここにキリシタン時代にミサを執り行う教会か、伝道所があったと考えられます。あまりにも普通の、片田舎によくある光景になっていてしまっていて残念ですが・・・。



灯籠が出てきた辺り

末次興善屋敷跡

末次興善屋敷跡

末次興善屋敷跡

末次興善屋敷跡


緑なす田畑が目に麗しいですが、キリシタン時代の栄光を覆ってしまっていると思うと、胸が苦しくなります。

もとより信仰はこの世のものを求めることではないから、これでもいい、救われた魂が天に上っていったなら、と考えるべきでしょうが、物足りなさを感じます。

人は目に疎くなると記憶からも疎くなるものなので、やはり歴史を証し現代に伝える何かを、ここにも置いてほしいです。



麗しい緑が

素晴らしいですが

込められた歴史も

素晴らしいと思います

キリシタンのユートピアだった


秋月のキリシタン史を語るには、黒田氏の筑前入国から書き起こして、アルメイダによる宣教、秋月出身の修道士ダミアンの活動、秋月の置かれたレジデンシアの動向を述べなければなりません。

またガブリエル・デ・マトス神父ら9人の宣教師らや藩主ミゲル黒田直之一族、教会の柱であった明石全登、末次興善一族らについて紹介する必要があるでしょう。

殉教地へ

穏やかな川の流れ


しかしこのページで全てを記述することは無理(勉強不足でまとめられません;;)なので、弾圧期の殉教に話を進めたいと思います。

記録に残る秋月の殉教者の名は七郎兵衛マティアス。場所は野鳥川沿いの女男石(めおといし)の辺り。

マティアスの後にも同じ場所でキリシタンが処刑されたので、キリシタン河原とも呼ばれています。処刑が行われたのは、1614年3月のことでした。

殉教地


彼の遺体は一旦秋月に埋められましたが、後に信徒によって掘り起こされ、長崎にあったトードス・オス・サントス教会の墓地に葬られました。

その当時、各地の殉教者の遺体はできるだけ長崎のキリシタン墓地に埋葬しようという習慣があったので、そのようにしたのです。後には殉教者の遺骨の一部をマカオに移すようにもなりました(マティアスの殉教については1614年のイエズス会日本年報に収録)。

ペトロ岐部とマティアスの指


この時マティアスの遺体を掘り起こして長崎に運んだ人物が、なんとあのペトロ・カスイ岐部だと聞いて驚くのは私だけでしょうか。

ペトロ岐部がマティアスと直接面識があったかどうかは不明ですが、同宿として博多か秋月で働いていたことがあったので、1614年の4月に秋月に赴いて遺体を掘り起こし、木箱に詰めて納めて長崎に持ち帰りました。

そしてペトロ岐部はマティアスの遺体を長崎に埋葬しなおす際に、指の一本を聖遺物として保存し、後にローマまで持って行ったのでした。1620年頃、ペトロ岐部はこの聖遺骨をラテン語の証言と共にイエズス会総会長補佐のヌーノ・マスカレーニャス神父に差し出しました。

このラテン語の文章の写しは今もローマにあるイエズス会本部の古文書館に保存されていますが、マティアスの指は残っていません。

あまりにもすごい天の歴史、主の御働き――。そんな言葉が脳裏に浮かんで、消すことができません。ローマまで行ったペトロ岐部は、その途中日本人として初めてエルサレム巡礼をした人物ですが、このキリシタン河原で処刑された一人のキリシタン殉教者の遺骨もまた、主が歩まれた地に至っていたとは。

もしかしたらペトロ岐部の中には自分より先に逝った者たちへの深い思いがあって、その遺骨を持ってエルサレムへ、そしてローマへと旅立ったのではないでしょうか。ローマに聖遺骨を届けた彼は、3年後の春にヨーロッパを発ちます。

迫害の嵐吹き荒れる日本へ、一人でも多くの同朋の命を救うために。それは、先に逝った者たちが遺した祈りを無駄にしないために、果たさずにはいられない遠い約束だったのではないか・・・。

キリシタン河原でペトロ岐部が抱いた思いを、私も受けたいと思いました。今はキリスト教を宣べ伝えても殺されたりはしない時代ですが、主の証のためにできることが私にだってあるだろうから。

思いは尽きません。。



殉教の地

女男石のある

キリシタン河原

ここにいた

キリシタン殉教者と

ペトロ岐部のことを

私は

忘れられない


再訪決定・・・!


レンタカーを返してホテルに着くと、
もうすっかり夜。
ちょうどホテルの1階にコンビニがあったので
夕飯を仕入れて部屋で食べ、おやすみなさい。

寝る前に気づきましたが、
熊本城を見るの忘れてました。
熊本に2泊もしたのに、しかも行きたかったのに;;

毎晩思っていたことですが、やはり再訪決定です。
キリシタンに関心を持つ者にとって九州は
5泊6日なんぞで回れるようなものではないのでした。

再訪決定。ただし次回までにもうちょっと勉強しておくこと!
人間的にももう少し成長して訪れたいものですな(コチョーリ…)

こんな私を愛してくれる神様に感謝して、オヤスミナサイ(ΘωΘ)o.。o○グウゥ



インフォメーション
熊本市観光情報サイト「満遊くまもと」
太刀洗名所案内
Laudate(女子パウロ会HP)

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