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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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 九州のキリシタン・ロードをゆく Ⅵ

  <本日の主な訪問地>

 体力の限界を感じつつ・・・

朝は元気


今日は最終日。夕方には博多を発たねばなりませぬ。
見たい所踏んでみたい地はまだまだあるけど
時間が許す限り回ってみたいと思います☆

心配なのは体力。
そろそろ限界を迎えそうな予感が・・・。
朝食でエネルギーチャージして、とりあえず元気!!
では o( ̄ー ̄\)☆ミLetsGo!!


博多駅


まずは博多駅へ。コインロッカーに荷物を入れて、身軽になって街歩きに繰り出します♪

今日は公共交通機関で回る予定。地下鉄の一日乗車券を買って、ちょっぴり地元民の気分。今までずっとレンタカーを借りっぱなしだったので、地下鉄とか乗れるのが楽しみです o(*'▽'*)o


 伴天連追放令が出された筥崎宮

筥崎宮


地下鉄に乗って筥崎宮へ。「箱崎宮前」駅からは徒歩3分です。

「筥崎宮」に行くのに「箱崎宮前」だなんて、どうして漢字が違うかというと、筥崎八幡神に対して恐れ多いから、それで異なる漢字を用いているのだとか。

気の遣い過ぎじゃないかなーと思うのは、私だけ? これも文化なんだと考えるべきでしょうか。。

一ノ鳥居


参道に構える風格のある鳥居は黒田長政の建立。長政は黒田如水の長男で、霊名ダミアンを持つキリシタンでしたが、秀吉の伴天連追放令を機に棄教し、後には迫害側に回りました。

慶長14年に建てたというので、福岡藩の初代藩主になってから少し経ったくらいの頃ですね。

ここ筥崎宮の造営にはもう一人キリシタンゆかりの人物が関わっています。それは大内義隆。ザビエルと直接2度も対面して交流した山口の大名です。彼は大宰大弐という官位を朝廷から受けていたので、戦国の兵火で荒廃していた本殿と拝殿を再建するという大事業をしたのです。



筥崎宮について

筥崎宮解説板

亀山上皇の像

像の解説

楼門


朝一番に筥崎宮に来たのは、ここが伴天連追放令が出された地だから。

1587年九州平定のためにやって来た秀吉は筥崎宮に陣を張りました。

念願だった島津制圧が済むと、秀吉は突如「伴天連追放令」を宣布。キリシタン大名の代表格である高山右近に棄教を迫りました。

「伴天連追放令」がここから出されたとは、解説板にも公式HPにも、更にはwikiにも書いてないので、合ってるのか不安がよぎりますが、たぶん合ってる、、、はず。キリシタン史には欠かせない場所なのでちゃんと訪れてみたかったのです。

伴天連追放令の衝撃


秀吉の伴天連追放令は、世界のキリスト教史でも重大事件で「バテレンたちの数百枚にも及ぶ膨大ともいえる文書がヨーロッパに存在している」(松田毅一「南蛮のバテレン」)といいます。

もちろん日本での衝撃も大きく、秀吉の前日までの行動(博多湾に来航したフスタ船に乗り宣教師と対話していた)からしても、いかにも唐突なものとして受け止められました。

秀吉の茶会に同席していた神屋宗湛(かみや・そうたん)の日記によると、伴天連追放令が出されたのは天正15年6月19日(西暦では1587年7月24日)のことで、秀吉の宴席から2人の使者が出され、1人は博多湾に浮かぶバテレンの船へ、もう1人は高山右近の陣営に走ったと書かれています。

秀吉と高山右近


伴天連追放令を携えた使者が最初に向った先であることをみても、出された当初この命令が高山右近という1人のキリシタン大名を狙い撃ちするものであったことは明らか。

右近は九州平定の戦において、前衛総指揮官の役を果たしていましたが、島津氏を打ち破り薩摩を支配下に置いた直後、右近の役割が終わったのを見計らったかのように手の平を返したのです。

また秀吉が実際に九州に来てみたところ、思った以上にキリシタン信徒が増えており、大村、有馬などキリシタン大名が今後外国勢力と結びつけば、天下取りのシナリオが根底から覆されるのではないかという脅威を感じ、これらキリシタン大名が自分に従うかどうかを見極めるために、まずは右近に棄教を迫り、試金石としたとも考えられます。

右近の返事はNOでした。それもきっぱりとした断固としたもので、恐らく秀吉には予想外のことだったのではないでしょうか。1587年7月24日の夜、秀吉は一晩に3度も使者を送り、詰問とも説得ともつかぬことを繰り返すのです。

右近の決意と千利休


秀吉からの最初の使者は、まず棄教を迫る文書を伝え、右近が領民を改宗させたことなどを糾弾しました。右近は答えます。

「予が高槻、明石の人民をキリシタンにさせたのは予の手柄である。予は全世界に代えてもキリシタン宗門と己が霊魂の救いを捨てる意思はない。ゆえに予は領地、並びに明石の所領6万石を即刻殿下に返上する」と。

右近の固い意志を知った秀吉は、時間をおかず第二の使者を送り出します。選ばれたのは、右近にとっては師匠にあたる千利休。利休は秀吉に従って博多に滞在し、茶席をもうけて博多の有力商人たちを取り込む働きをしていました。

右近は師である利休に感謝し接しましたが、説得には応じませんでした。利休も右近が信仰を貫くであろうことは、当然わかっていたのでしょう・・・。

その後の右近がどんな行動に出るかは、またいずれお話するとして、次に参りましょうかね (゜ー゜*)


 ここからは寺めぐり


崇福寺


さて次なる目的地は崇福寺(そうふくじ)。黒田如水のお墓があるお寺です。

地下鉄駅から下りて歩いていると、どんどん気温が上昇してきて、午後の灼熱地獄が思いやられます;;

たった15分歩いただけなのに、疲労感もどどっと押し寄せてきて、如水のお墓だけは見たいという執念で足を進めます。。。

少々わかりにくい所にあって、入口も親切とは言いがたい場所にある崇福寺ですが、なんとか到着。目立たない小道の先にあるのに、それでも参道に立つと名刹の雰囲気が漂ってくるので、藩主の菩提寺とはこういうものかと思ったりして。ちなみにこの山門は福岡城の本丸表御門だったもの。陸軍から払い下げられたらしいですが、誰にだって払い下げてもらえるもんじゃないですよね、きっと。


藤水門


しかし如水と長政の眠る墓所は、土塀の向こう。ここから先に入るには黒田家の許可が必要です。

ただし、門の隙間から垣間見る(正に垣の間から見るという風に)ことができます。

隙間にカメラをくぐらせて、中に入って撮影したみたいなのが撮れたらいいんだけどなぁ (*・ε・*)ムムー

黒田家墓所


塀の外で悪戦苦闘し、その割には上品に撮れたのが、夫が撮ったこの一枚(←)。

真ん中の目立つ墓石がたぶん如水のお墓。ここ崇福寺には藩祖黒田如水と福岡藩初代藩主長政、4代綱政、6代継高、7代治之、9代斉隆の墓があります。

時代が下るにつれてキリシタンとは関係なくなっていくので、あまりモチベーションが上がりません;; そもそも如水自体がここにいる感じがしません。

如水は、海外貿易の利益を考えて入信したような「キリシタン大名もどき」ではなく、本当に信仰篤いキリシタンだったので、自らの死に際しては教会に埋葬してほしいとの遺言を残しました。

息子長政は一旦は教会に埋葬するも、キリシタン禁令が激しくなるに伴い、崇福寺に改葬したのではないかと思われます(私見)。もう一つ有力な説は黒田家伏見屋敷で亡くなり、京都大徳寺の塔頭龍光院に葬られ、後に国許にある崇福寺に分骨されたというもの。

いずれにせよ如水の願った所にはいないということなので、如水の心を求めてはいけないのかもしれませんね。

「秀吉に天下を獲らせた男」とまで言われる知将で、大名で、人徳もあって偉かったのに、最後の願いも叶えてもらえなかったなんて、切ないぜ、如水。



崇福寺

崇福寺解説板

崇福寺境内

黒田家墓所解説

黒田家墓所内

墓石が並ぶ

黒田家墓所内解説板

墓所への藤水門

 次は東長寺ですが・・・


東長寺


再び地下鉄に乗って、次は東長寺へ。
崇福寺にお墓がなかった藩主たち(2代忠之、3代光之、8代治高)が眠るお寺です。

立派な五重塔などの建物が建っていて、さすが藩主の菩提寺ですねという感じですが、崇福寺でモチベーションが低下した私が、ここで上がるはずもなく・・・。

しかし勉強だと思って見回ってみました。
後で「見てたらよかった!」と後悔するような失敗、私には十分アリガチですから (;´д`)トホッ


2代忠之のお墓


こちらが2代忠之のお墓。左右に並ぶ5基の五輪塔は、忠之が死去した際に殉死した5名の家臣たちの墓碑。

現代人である私には、主人が死んだから自分も死ぬという「殉死」がよく信じられないというか、怖いというか・・・。

その時代の風習とはいえ、そんな風に忠誠を示すことが素晴らしいことだと考えられていたということに恐怖が募ります。またこのようなお墓を見たら、この人がキリシタンでなかったことがはっきりとわかります。

キリシタンの武将たちは、そんな時代であっても、家臣たちの殉死を固く禁じて亡くなっていったのですから。



東長寺解説板

お堂

古い石造物

五重塔

藩主の墓について

配置図

3代光之の墓所

8代治高の墓所

 妙楽寺は期待大♪


妙楽寺


次にやって来たのは妙楽寺。入口がわからなくて遠回りしてしまい、体力と時間を大量消費;;

しかし妙楽寺には来たかったので、モチベは少々アップ。なぜならこのお寺の墓地には、あの末次興善のお墓があるから☆

妙楽寺は今は祇園駅近辺にありますが、昔は息の浜という、現在の古門戸町(地元民でない私にはどこ辺かよくわからないけど)にありました。

そして大友宗麟が寄進した土地に建てられたという、博多で最初の教会は、この息の浜妙楽寺の近くにあったといわれています。末次興善のお墓がこのお寺にあるのも、そのあたりに理由があるのかなーと思ったりして。もっとちゃんと調べないとわからないけど^^;


末次興善の墓


末次興善のお墓があるのは墓地の壁際。

博多の大商人のお墓としては小振りに感じます。

「興善」とするところを「孝善」としているのは、軽いイジメでしょうか?

まあ「孝」の字は悪い意味ではないので、イジメではないのかもしれませんが、江戸時代全体を通してキリシタンは排斥されてきたので、まともなお墓を建てさせてもらえていない場合がありました。

またキリシタンでなくても、切腹を命じられて死んだ場合など、墓を建てること自体が幕府に睨まれそうな場合には、墓石に名前を一文字変えて刻むということもあったようです。このお墓がそうかどうかは不明ですが。

末次興善について


さて秋月のキリシタンの大檀那、末次興善は一体どんな人物だったか?ということですが、興善のお孫さんが宣教師に話した内容よると、末次興善はザビエルの宿主で、彼から授洗したとのこと。でも興善の霊名「コスメ」からすると、おそらくザビエルと一緒に来たコスメ・デ・トルレス神父から授洗した可能性が濃厚です。それでもザビエルを家に泊めた人で、その頃からのキリシタンであることは間違いありません。

博多の最初の教会は1559年に戦火で博多が破壊された時に焼失しましたが、1561年に末次興善が再建。その教会(聖堂と司祭館など)も博多で起こった大火で大部分が燃えてしまいましたが、やはり末次興善が再建し、司祭館に自分の家から食事を送るなどして援助しました。

興善の息子ジャコベ


彼の息子ジャコベ(ヤコベとも)も信仰深いキリシタンで、この父子は町に戦乱が起こりそうになると、神父たちを他の町や山に避難させ、そこで滞りなく暮らせるように手配するなど、様々な働きで宣教をサポートしました。イエズス会の年報にも、フロイスの「日本史」にも末次父子の名が随所に見受けられます。

ジャコベに関して特筆すべきは、26聖人との関わりです。備前の片上にあってイエズス会の上長に手紙を書いたパウロ三木でしたが、それを届ける方法がなく、そのままになってしまっていましたが、26名が博多に来たときジャコベと会うようになり、ジャコベが手紙を預かり長崎に届けてくれたことがありました。

ザビエルから26聖人までの時代というのは、キリシタンの始まりから隆盛、そして弾圧への起伏の激しい時代でしたが、一貫して信仰を守り、しかも教会の保護者として尽力し続けたというのは、出来そうで出来ない非凡な働きだったのではないでしょうか。

墓地の片隅の小振りで目立たない墓碑ですが、なんだか頭が下がります。お寺が移転したから遺骨はこの下にないだろうけど、なんとなく存在を感じるというか。瞑目すると、寛容な瞳でにっこりと微笑む、少し日に焼けたおじさんが瞼に浮かんできました☆



神屋宗湛の墓も


近くには神屋宗湛のお墓もあります。秀吉の茶会に招かれていた豪商で、伴天連追放令が出された夜のことを記録した人です。

神屋宗湛の運勢は秀吉の死で一気に急降下し、家康に冷遇されて黒田氏の御用商人にまで成り下がったそう。

同じ富商として博多にいたのだから、末次興善とその信仰についても知っていたはずですが、どう思って見ていたんでしょう。一見、境遇や生まれがその人の人生を支配しているように見えるけれど、どんな心を持っていきてゆくかがそれら外部要因よりもっと人生を左右すると思います。心が向う先に自分を投資し、最大の力を注ぐのですから。

力を注ぐ先にあるのが、自分が大切に思う宝なんでしょうが、それが虚しく終わると「人生は虚しい」と嘆息するしかないのかと。宝を地上に見た人と天に積もうとした人の墓碑が、同じ墓地に置かれているのはどこか象徴的な感じがします。正(まさ)しく地上とはそういう場所なのだ、と。



妙楽寺解説板

妙楽寺地図

境内案内

妙楽寺境内

末次興善の墓

神屋宗湛の墓

藩主の息子の墓


頭ガンガン痛いんですけどぉ ゜゜・(×_×)・゜゜・。


妙楽寺を後にして地下鉄駅に向ったところで
急に冷や汗が出てきました。
暑いのに寒いような感じもしてきて
頭も誰かに殴られているみたいに
ガンガン痛くて・・・。
こりゃ体を休ませないとだめそう;;

ふと見ると韓国料理屋さん。
もうお昼だしお店に入ろうっとゞ(´▽`*)ゝ
冷房のかかった店内はまるでパラダイス。

人間とはいかに弱い存在だろうか。
たった数度の気温差で
こんなに苦痛を味わうとは。
まるで精密機器だよ、と心の中で独りごちました。

さて精密機器みたいに素晴らしく
創ってもらった体を持って
次はどこに行こうかということですが
歩いたり動いたりが
できるだけないのが望ましいと思われます。
のんびり行くゆったり行くラクに行く・・・
うーん、、、
能古島はどうだろう?


 ラクして行けるトコはどこ?


それは能古島!


能古島(のこのしま)は博多湾に浮かぶ小さな島で、高山右近ゆかりの地!

右近フリークの私にとっては、いつかは行きたいディスティネーションではありましたが、「今日」とは思っていませんでした。

しかし考えているとそのアイデアが一番良いように、どんどん感じられてくるわけで。よし、行っちゃおう!(夫の承諾を求める)。夫も「まあいいか」的に受け入れてくれたので、向っちゃいます。とりあえず地下鉄で姪の浜へ、それからバスで港まで。港からはフェリーで一気に能古島へ!(よく考えてみると乗換え結構多いかも^^;)



姪の浜の観光マップ

能古島解説板

能古島について

姪の浜の港

「フラワーのこ」


「能古島」って、響きがカントリーな感じだし、離れ小島のイメージでしたが、意外にも能古島行きのフェリー乗り場は若者や家族連れで賑やか。

気軽に行ける夏の遊び場って感じなんでしょうか。さびれた港と閑散とした待合室を思い描いていたので、ちょいびっくり。

しかしまたモワアーンとした熱気が襲ってきたので、体調はダウン。偏頭痛カムバック。主よ、助け給へ ┏(|||`□´|||;;)┓アセアセ



乗船場

博多湾

桟橋

カモメ

能古島に上陸


来たよー、能古島。

能古島は周囲12キロ、人口8百の小島で、奈良時代には防人が置かれた古い歴史があります。元寇の折には完全制圧された悲劇も。

その後に吹いた強風(いわゆる神風)で、元の軍が全滅したときには何千という遺体で浜が埋まったといい、以後しばらくは無人島になったりもしたそうです。


右近を決意させた祈り


右近がここに来たのは1587年の夏。秀吉が伴天連追放令を出し、右近が追放されるようになったことは半日で博多中の武将に広まりました。形だけでも秀吉に従うようにと説得しようとする者も少なくなく、それらから逃れるために、右近は誰にも告げずに身一つでこの島に来たのです。

私が思うに、それは一対一で神に向い、自分の決意を定めるため、祈りたかったからではないでしょうか。周囲の声に惑わされず、己の真実な声に聞き従うために全てをシャットアウトしようとしたのではないかと思います。

右近は人生の岐路に立った時、何度かただ一人、自らの道をひたすら神に求め祈っています。信長に攻められ絶体絶命に陥った高槻で、そしてマニラに追放される前、長崎で。

現在能古島には右近を偲ばせるものは何も残っていません。案内板にも書かれてないし。熱にうかされた今の私の体調では、右近の心を感じ取ることもできません。でも来て良かったです。

この後右近は瀬戸内海の淡路島や小豆島、熊本の宇土(これらはキリシタン大名であった小西行長の領地)、島原半島の加津佐、有家(キリシタン大名有馬晴信の領地)などを転々とします。藩主の身分も領地も捨てて、ただ心に抱く信仰、その一つを守るために、流浪の旅が始まりました。

キリシタン大名は多くあれど


日本史の中にキリシタンとなった大名は30人弱数えることができ、その中の9名ほどが本当に信仰を持っていたといわれています。しかし信仰と大名の位、どちらを取るかと言われ大名をやめた人は、高山右近一人しかいません。

前田利家に招かれ加賀に行き、そこでしばらく安定を得ますが、キリシタン弾圧が激化して国外追放へ。最期はマニラで迎えました。右近の心は最後まで折れなかったのです。

右近の心を定めさせた祈り――。真に強い人間になるために、私も祈りの人になりたいと思いました。



能古島

能古島と海

能古島の桟橋

能古島の港

博多港


再びフェリーに乗り姪の浜へ。

小波の向こうに見えるは博多港。ザビエルも来たことがある港です。

今回は九州を一気に回ったので、最後に訪れる博多のリサーチが甘くなってしまいました;;

1613年に閉鎖されるまで、博多の教会は日本で最も立派な教会の一つで、中浦ジュリアンも熱心に働いていました。また秋月のキリシタン河原でキリシタンが殉教した同じ日に、福岡城下でもキリシタンの処刑が行われたと記録されているので、もっと調べて殉教地だけでも行けたらよかったのですが・・・。

与えられた時間を有効に使うとは、本当に難しいものです。願わくば私の人生の時間が、やりたいことに対して時間切れになりませんように・・・!!


 最後に福岡城跡へ・・・!


大濠公園駅


重い体を引きずるようにして地下鉄駅へ。クーラーの利いた待合室で額を冷やします。

もう相当弱ってヨレヨレですが、最後に行っておきたい所が1ヵ所。黒田如水の隠居屋敷跡です。

すんなりいけるといいんだけどなぁ 〃´△`)-3 ハァフゥ...

お濠


大濠公園とはよく言ったもんで、出口を上ると広いお濠がどーん。

昔は出入りする橋を落とすと、あたかも水に浮かぶ浮城のようになり容易に侵入できなかったとか。そういう水の使い方が中津城と同じで、やはり作品には作者の個性が表れるなぁと思ったりして。

この中にある舞鶴公園というのが福岡城の跡地です。うー、城の入口どこだ・・・?


福岡城跡


福岡城は黒田如水・長政父子が7年かけて築いた城。

城内の主要箇所に47の櫓が建てられていましたが、現在見ることができるのは再建された潮見櫓(←)だけ。

城の象徴である天守は建てられず、天守台だけ建設されるにとどまりました。幕府の目を気にしたんですかね。



福岡城跡

木の根

遺構

潮見櫓

潮見櫓

潮見櫓解説

再建された櫓と門

黒田如水隠居屋敷跡


黒田如水の隠居屋敷があったのは三の丸。当時は御鷹屋敷と呼ばれていました。

現在はボタン・シャクヤク園となっています。

緑の木陰にぽつんと置かれた「黒田如水隠居屋敷跡」の石碑。

この石碑と説明板以外は何も残っていません。如水ってそんなにマイナーな人でもないし、もうちょっと待遇良くしてもらえませんかって感じなんですけど・・・) ̄ε ̄( ブー

再来年のNHK大河ドラマの主人公が黒田如水に決定(主演は岡田准一だったかな)したというので、その頃になったら整備されるかもしれません。大河ドラマは来年は新島八重だというし、キリスト教徒が2年も連続で主人公だなんて、キリスト教界は注目度アップを期待してもいいのかも!? 信仰はブームじゃないですけどね☆



隠居屋敷跡

説明板

地図

石碑

隠居屋敷跡

ボタン・シャクヤク園

現在の様子

溶けないアイス


「給食でおなじみ。溶けない不思議なアイス」を買って
博多駅へ。荷物をピックアップして帰ります。

疲れと体調不良が度を越えたのか、脳も体も無感覚。
ただヨレヨレのクタクタで、ヨボヨボ歩くのみ。

東に向う新幹線で、「だめだなぁ」と痛感。
こんな体力じゃ日本中の殉教地行けませんわ。
通販で運動器具買おうかなぁヾ( ̄o ̄;)デロデロ...



旅を、そして自分を振り返って・・・♪


ただただ夢中で回った数日間で、頭の中がまだ整理できていませんが
日本のキリスト教史の重要どころを
集中的に踏破できたのは有り難いことでした。

「私はなんでこんなにキリシタンに興味があって
キリスト教史について、こんなにも知りたいんだろう」

と、自分でも不思議に思っていたのですが
今回その答えをもらった気がします。

キリスト教というのは神様と人との愛の物語で
その愛の深さを感じたいから
そして信じたいから、もっと愛したいから
知りたいんだと思います。
バカみたいにその場所に行ってみたいんだと思います。

これからもバカみたいに回って
いろんなことを感じ、悟らせてもらいながら
主との経緯(いきさつ)を深めていきたいな♪

すべてのことを主に感謝 (ノ ̄▽ ̄)ノ~~~~{LOVE★}

こんなに長くなっちゃった旅行記読んでくださった皆さんもアリガトウゴザイマス☆



インフォメーション
筥崎宮公式HP
福岡市交通局
Laudate(女子パウロ会HP)

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