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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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 マカオ~東西の遠い絆 ④

マカオ空港

  <今日の予定>

  • マカオ国際空港
     
    
☆回想
    
☆マカオの歴史
    
☆キリシタンとマカオ
    
☆アジアのキリスト教
     ↓
  • 日本へ
  

 日本に帰ります!

朝のマカオ市内

マカオ空港へ


朝9時のフライトで今日マカオを発ちます。夜が明けきらぬうちに起き出して身支度をし、チェックアウト。

つかまえにくいことで有名なマカオのタクシーも、ホテルの前で無事つかまえられました。
あとは空港に向かうだけ。

車窓からマカオの街を眺めながら、今回の旅を振り返ります――。

セントポール天主堂跡 旅の始まりはセントポール天主堂跡。ここにはヴァリニャーノが、天正遣欧使節の原マルチノがいました。

このファサードは日本を追放されたキリシタンたちが刻んだもの。
一体どんな気持ちで、どんな祈りをこめて彫ったのでしょう。
天主堂のファサード
ファサードの裏側 何度も火災で崩壊したのに、この天主堂のファサードだけが残っているのは、神様がそうしてくれたからではないでしょうか。
司祭になることを夢見てやってきたペトロ岐部が失望したのもここでした。そして彼はローマを目指して旅立ったのです。 学院があったあたり
ヴァリニャーノのお墓 ザビエル亡き後、日本宣教の指揮を執ったヴァリニャーノ。フロイスの書いた「日本史」が冗長だと切り捨てたのも彼でした。
多くの殉教者の遺骨が運ばれてきたマカオ。ここには今も、民族の救いを願う魂が眠っています。 キリシタン殉教図

 マカオの歴史

マカオのお札

マカオのお札には教会が


それにしても今回はいつもにも増してよく泣いた旅行だったなぁ・・・。

マカオに向う飛行機の中で、急に感動がこみ上げてきて涙に火がつき、その後も訪れる教会や殉教者たちの骨の前で、更には毎晩お祈りするたびに泣いていました。

思ったより早く空港に着いたので、少しまったり♪ マカオの歴史をおさらいしてみましょう。

マカオの海辺 1550年頃まだマカオには主要な港はなく、上川島から浪白澳を経て広東へのルートに向うルートが開拓されたばかりでした。
東洋の使徒フランシスコ・ザビエルが、日本を一旦任せて中国に福音の種を蒔こうとして上陸したのも上川島でした。

ここで裏切りにあい、ザビエルは熱病にかかって亡くなりました。
フランシスコ・ザビエル像
ジョルジェ・アルバレス 広州を「発見」し、マカオを征服したとされる人物がジョルジェ・アルバレス。

彼は日本人で最初のクリスチャンとなるヤジローを、ザビエルに紹介した人物でもあります。
次第にマカオに住み着くポルトガル人が増え、1576年イエズス会はマカオ司教区を設置しました。

初代マカ
オ司教カルネイロは、日本で活動する宣教師のアルメイダらと連絡をとり、日本宣教を援助しました
カルネイロ司教の頭蓋骨
アッシジのフランチェスコの幻視 つづいて1579年フランシスコ会が修道院を開設し、福祉活動に取り組みました。
次にやってきたのがドミニコ会。そしてアウグスチノ会です。1587年には2つの修道会の修道院が創建されました。 聖ドミニコ教会
聖オーガスチン教会 天正遣欧使節の4少年がマカオに滞在したのは、1587年3月から9ヶ月と、1589年8月からの1年11ヶ月。

結構長くいたんですね^^
昔の航海は風が頼りだったので、風待ちの滞在だったのです。
                                                 
空港前のホテルと観覧車

空港の前のホテル


キリシタンの繁栄を語るとき、対になって語らねばならないのが、迫害と殉教の歴史。
その記録の中にもマカオが登場します。

天正遣欧使節の少年たちが胸躍らせたであろうマカオ、そして国を追い出されたキリシタンたちの終着駅マカオ。

志をもってマカオを飛び出した若者たちが、骨になって戻ってきた街マカオ・・・

宣教師たちが乗ってきたというナウ船 4少年がいた頃は、教会や修道院がどんどん建てられ、キリスト教の花が咲いていく時でした。

その後キリスト教が禁止され、キリシタンだというだけで処刑されるとは想像だにしなかったでしょう。
1614年徳川幕府はキリシタンを国外追放としたので、多くの者がマカオに逃れてきました。

日本人キリシタンたちはセントポール天主堂の周囲に住み着いて、建築に携わったりしました。
キリシタンたちが使った井戸
セントポール天主堂跡 しかしマカオ政府はイエズス会に圧力をかけ、キリシタンたちが神学を学び、司祭になることを妨げました。

そこでペトロ岐部はローマを目指し、トマス西や朝長キュウセイはマニラに向ったのです。
司祭となって日本に戻った彼らを待っていたのは、迫害の嵐と殉教でした。

幕府はキリシタンの遺骸を切り刻み、骨までも冒涜したので、信徒たちは決死の覚悟で殉教者の遺骨を拾いに行き、マカオに送って残したのです。
キリシタン殉教者らの遺骨
                                                   
マカオ国際空港ロビー

マカオ空港


旅の最後に衝撃を受けたのが、金大建神父との出会いでした(会ったのは像ですけど^^)。

キリスト教が入った順番は、日本⇒中国⇒韓国ですが、その要所要所にマカオが顔を出しているのです。

ザビエルの死を受けてリベンジを果たすべくやってきたヴァリニャーノ。

彼は日本を巡察して時の権力者らと渉り合う一方、マカオにマテオ・リッチを呼び寄せて、中国宣教に送り出します。

中国宣教は見事に実を結び、マテオ・リッチは「天主実義」を著しました。

――そして最後のドラマが始まるのです。

マテオ・リッチ展のポスター 北京に到達したマテオ・リッチは皇帝の愛顧を受け、西洋の進んだ科学技術とともにキリスト教を伝えました。

彼が著した「天主実義」は、知識層に広く読まれ、多くの信徒を獲得しました。

マテオ・リッチの死後、皇帝が変わり、徐々に中国はクリスチャンにとって暮らしにくい国となっていきました。


しかし朝鮮から朝貢にやってきていた若者によって、「天主実義」は国境を越え、朝鮮民族に伝えられることとなりました。


自らが学びに行ってキリスト教を輸入してきた民族は、宗教史上この民族だけといわれています。
天主堂を眺めるマテオ・リッチ像
聖ザビエル教会にあった金大建の絵 その後朝鮮においてもキリスト教は禁教となり、増えつつあったクリスチャンたちは隠れて信仰を守らなければならなくなりました。

そんな彼らにとっての願いは、自分の民族から司祭を生むことでした。司祭がいなければ秘蹟を受けることができないからです。
その期待は一人の青年に託されることとなりました。その名は金大建。祖父の代から信仰を堅く守ってきた一族の若者でした。

彼はマカオで神学を修め、上海で叙階されると祖国に向いましたが、1年も経たないうちに捕らえられ処刑されました。

日本、中国、韓国の中で、韓国は一番遅く福音が入った国ですが、今ではクリスチャンが最も多い国となっています。
カモンエス公園の金大建像

西から東へ伝わったもの

                         青空と天主堂
ヨーロッパを席巻したキリスト教が
大航海時代の幕開けを受けて
遠く東の果てまでも伝えられた16世紀。

日本に入った福音の種は
中国で育てられ
朝鮮にまでその根を伸ばしました。

しかし追って襲ってきた迫害によって
信仰者たちはふるいにかけられ
殉教の道を歩むこととなりました。

丘の上のペンニャ教会

遠い絆を想う


今回マカオに来てみて思ったことは
ここが東西の十字路だったのだということ。
西から東へ、そして東の国の隅々にまで―。

ここに立つとこの東アジアの国々は一つのみこころの中にあったことがわかります。

暗き地に光を。
神様が国々と人々をつむいで
救いの網をダイナミックに編んで
その御手を広げていったのだと。

そう考えると
私たちは確かに兄弟なのです。
血縁による兄弟ではなくて
みこころによる兄弟。

近い国だとぶつかることもあるけれど
互いに理解し尊敬し合い、
共に歩むことができるはずだと感じました。
アジアの平和を切に祈ります☆


いざ日本へ!


計画通りにはいかなったのに、一番いいように導いてもらったと思う、この数日間。
マカオにある30個の世界遺産(2010年現在)にも、すべて訪れることができました。
あとは感謝のお祈りをして・・・いざ日本へ!

最後まで読んでくださってみなさんにも、たくさんいいことがありますように!!

ありがとうございました♪(^・ェ・^)あ(・Θ・)り@(・ェ・)@がU・ェ・Uとぉ♪



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