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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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 ゴーゴー三多摩!その⑤

 今日はどこへ行きましょう?

               

                  今日も今日とて近場の街を
                  歴史の足跡を求めて歩きます★

                  新しい発見があるといいな。
                  史跡めぐりスタートです♪



史跡マップ


最近私がハマっているのが、「町田市民文学館ことばらんど」から出されているこの(←)「町田文学散歩マップ」。

「町田駅・本町田篇」「鶴川篇」「相原・小山田篇」と、地元民にしかわからない(?)地域名で分かれているところがすでにマニアックですが、内容は更にマニアック。

そんじょそこらの読書家ではフォローしきれない様々な作家たちの痕跡を丹念に追い、場所別にまとめてあるのですが、ディープな文学情報と地域情報の融合が素晴らしく、「さすがジモティー!」と感嘆してしまいます。

こういうお仕事をしてくれる図書館員さんたちがいるから、ラクにその場所に行けるんですね。ほんとに感謝です。アリガト♪(*゜ 3゜)/~チュッ♪(イリマセンカ・・・)


寒竹学苑跡


「鶴川篇」を元にやって来たのが寒竹学苑の跡。前回、近辺の人に聞きまわっても誰も知らなくて、無念にも敗退した場所です。

家で住所を調べてみたところ、たぶんここだと判明したので再訪してみました。前回すぐそこの奥さんに尋ねたんですけど、ご存知ありませんでした。今では知る人がいないのかもしれません。

寒竹学苑は、神戸照子(1915-2005年)が創設したキリスト教系の教育施設。聖書講読会や親子教室などが開かれていて、当時を知る人によれば「村では、学苑にいけばよい子になるんだと言われ」ていたそうです。

神戸照子は在野の歌人で、内村鑑三の影響を受けたクリスチャン。戦争で夫を亡くしてからここに来て住むようになり、教育委員なども務めて32年間暮し、2005年に亡くなりました。だから学苑があったのも、そんなに昔の話ではないのですけどね。ご近所の方が知らないのは、最近どんどん新しい家が建つようになって、少し前のことでも大昔のようになってしまったからかも。

こういうことって日本全体で起こっているんでしょうね。土地の再開発と記憶の断裂が・・・。歴史的な場所を大切にする意識がもっと高まってくるといいと思うんですが。


 
 神戸照子の短歌

  裏山の芽ぶきあかるき中にいて
  還り来ませぬ夫をおもへり

        (1948年歌会始入選歌)



寒竹学苑跡

寒竹学苑跡

寒竹学苑跡

寒竹学苑跡

大蔵高札場跡


続いて向ったのが大蔵の高札場跡。これは文学マップには載っていません。

写真を撮ろうとすると、うむっ?パトカーが停まってる ( ̄◇ ̄;)

向かいのお店で男性が捕まっているのが見えました。何かあったんですねぇ。ご苦労さまです・・・っていうか、パトカー邪魔なんですけど;;

どいてくれとも言えなくて、風景を撮るみたいにパチリ。パトカー完全にフレームインしてるけど、まっ、いいかぁ。あ、なんで高札場の跡を撮りたかったかについては、また後ほど☆



大蔵高札場跡

大蔵高札場跡

大蔵高札場跡

大蔵高札場跡

 クリスチャンの女流歌人

慶性寺


次に来たのは大蔵にあるお寺、慶性寺。
ここも女流歌人ゆかりのお寺です。

大正から昭和ににかけて活躍したアララギ派の歌人、今井邦子(1890-1948年)が戦時中に疎開して暮していたお寺なのです。

今井邦子はクリスチャンで、西田天香の一燈園にもいたことがありました。また石阪ミナ(北村透谷の妻でクリスチャン)に英語を習ったことがあり、先程の神戸照子にとっては短歌の師匠という関係でした。

人のつながりって不思議で、すごいですね。見えないネットワークがうまく張り巡らされているような気がしたりして♪



   今井邦子の短歌

    月更けてわが寝る堂のすき間より
    こころかなしくさし入りて居り
     

          (鶴川で詠んだ歌)




慶性寺

慶性寺

慶性寺

慶性寺

野津田高札場跡


さて野津田にやって参りました。今日は町田市内にあった5ヶ所の高札場跡を回るつもりです。

高札場とは平安時代から明治時代初期にかけて、政府が民衆に法令を伝達する際に使われた掲示場所。

お上(かみ)による法の宣布ということで、権威を持たせるために、土を高く盛り、その上に大きな掲示板を建て、板に墨書きしたお触書(高札)を取り付けました。

民衆への法の周知徹底と、懸賞金付の訴人(密告)を募ることを目的としていたので、高札場は主に人通りの多い街道沿いや町や村の中心部に建てられていました。高札自体、尊重すべきものとされ、高札場を無断で移動することはもちろん、薄くなってきた文字を墨でなぞること(墨入れ)さえも禁止されていました。幕府や諸藩では高札場と高札を管理する高札番という役職も設けていたほどです。正に「ザ・お上」といった感じで、一般民衆にとっては服従すべき権威そのものだったのです。

高札場とキリスト教禁令


代表的な高札としては、1661(寛文元)年の5枚の高札や1711(正徳元)年の5枚の高札、明治維新とともに新政府から出された五榜の掲示が挙げられますが、そのいずれにも切支丹宗門の禁止、つまりキリスト教禁令の一項が設けられていました。

徳川幕府と明治政府のキリスト教禁令は1873(明治6)年の高札撤去と共に解かれることとなったので、高札はキリスト教禁令の象徴だったということができます。

禁令が解かれることを待ちに待っていた宣教師たちは、高札場に行って切支丹禁令のお触書が無くなったのを確認して初めて、禁教令が解かれたことを実感し、喜んだと記しています。



野津田高札場跡

野津田高札場跡

野津田高札場跡

 プロテスタントの神学校

農村伝道神学校


せっかく野津田まで来たので、山の方に上って行って農村伝道神学校へ。

農村伝道神学校はプロテスタントの神学校。1956(昭和31)年、中央農村教化研究所が野津田に移転して、同時に農村伝道神学校と改称、最初は保育科もあったようです。

2年後に保育科の実習園として、大蔵にシオン幼稚園を設立。ここの保育科は廃止されましたが、幼稚園の方は鶴川シオン幼稚園として健在です。

農村伝道神学校は1975(昭和49)年に鶴川学院と名前を変えましたが、門の表札には「鶴川学院」よりも大きく「農村伝道神学校」と書かれていて、神学校であることに誇りを持っていることが窺えます。どんな人たちが学んでるんでしょうね。誰かいたら聞いてみたかったのですが、誰とも会いませんでした。



農村伝道神学校

農村伝道神学校

農村伝道神学校

農村伝道神学校

図師高札場跡


町田市はアルファベットのTに似た形をしていて、東西にも南北にも手を伸ばしたような形状。

JRと小田急線の通る町田駅周辺は繁華街ですが、その周辺は戸建ての住宅街で、手先に相当するような所には、辛うじて農村が残っています。

野津田や図師は都会に侵食されつつある農村といったような所で、車がスピードを上げてガンガン通っていきます。かつてこの交差点辺りにも高札場がありました。

こんな田舎にまで切支丹禁令の高札を掲示しておく必要があったのだろうかと、首を傾げずにはいられません。キリシタンがいた記録もないのに、「キリスト教を信じたら死刑。密告したらお金あげます」などと書いて、町田だけで5ヶ所も掲げておくなんて。民衆にキリスト教が恐ろしいものだと植え付ける意図があったんでしょうけど、それにしても過剰というか、やりすぎではないでしょうか。



図師高札場跡

図師高札場跡

図師高札場跡

図師高札場跡

 小野路宿へ☆

小野路宿、、、は工事中


高札場があり、自由民権運動とも関わりの深い小野路宿に来てみたら、広い範囲で工事をしていました。

見たかった高札場跡が正に工事の真っ最中で、当時の様子どころか現状も把握できません (/ー ̄;)アゥ

近いからまた来るかー、と思いつつ、町田でもここまで来るのは結構時間がかかるので、次いつ来られるのかと・・・。仕方ないっすけど。



小野路宿

小野路宿

小野路宿

小野路宿

小島資料館


小野路宿に来たら見てみたいと思っていた、もう一つの場所がここ小島資料館。

小野路高札場に掲げられていた切支丹禁令の高札や踏絵があるということです。

沖田総司ゆかりの品など貴重な数多くの収蔵品があるそうですが、開館日が「第一、第三日曜日の午後1時から5時」までって、入口の時点でハードルが高いような・・・。

団体なら予約して申し込めるようですが、個人で行こうとすると、クリスチャンには難しい時間帯ですねぇ (>_<)レイハイアルシィ...



小島資料館

小島資料館

小島資料館

開館日

小野路高札場跡は工事中


高札場跡は小島資料館の真向かいの辺り。高札などが残っているということは、小島さん家がこのあたりの庄屋さんで、高札場の管理もしていたのかもしれません。

高札はお上からものなので、高札場は政府の施設ではありますが、日本全国津々浦々まで政府の役人が作業に来ることも難しいので、村々の長である庄屋(多くがその地域の地主)が、村人の管理をし、行政機関の出張所のような役割を果たしていました。

高札場跡には小野路宿通り観光交流センター(名称はたぶん仮)がオープン予定らしいです。
昔も今も往来が激しく、人々が集まる場所だということが変わらないから、昔は高札場、今は交流センターという訳なんですね ( ̄∧ ̄)フムム



小野路高札場跡

小野路高札場跡

小野路高札場跡

小野路高札場跡

 ラストも高札場跡

真光寺高札場跡


今日のラストも高札場。ここは真光寺という地域です。新しい住宅が点々と建っている様子からして、少し前までは農村だったとおぼしき町です。

店もほとんどないので、車がスピードを出して走っていく、通過点のような場所。ここにも高く掲げられていました、キリスト教禁令の高札が。

もしかして昔キリシタンがいたのかと調べてみましたが、町田での宗門御改帳などに残る記録は「当村ニ切支丹類一切無後座候」が定文のように繰り返されるのみ。つまり何百年もの間キリシタンはいなかったのです。

だからこんなに警戒する必要ないですし、信徒がいなくては新しくキリシタンが生まれることもないので、キリスト教はお上に逆らう邪教だと恐怖心を煽る必要もありません。ほんと、やりすぎです。キリスト教迫害の原因は、キリシタン信徒の言動その他にあるのではなく、中央政府の疑心暗鬼にこそあるのではないでしょうか。恐れる必要もないのに恐れることを妄想といい、それに基づいて過剰に防御し攻撃する人がいるならば、その人の精神と行動に問題ありとするのが正常な判断だといえます。

「キリシタンが弾圧されたのは、彼らが日本の文化や風土を無視して、無闇に自分たちの理屈で推し進めようとしたからだ。もっと日本古来の文化を尊重し、融和すべきだった」という人もいます。

キリシタン時代は、日本が西洋の文化に初めて出会った時代なので、文化的な衝突があったことは否めませんし、宣教師の中には日本人を下に見る人もいたので、その宣教師に関しては文化を尊重する姿勢がなかったという指摘が当てはまります。

しかし、数百年もの間徳川幕府が弾圧し続けて、明治政府もまた明治6年になるまで高札撤去せず、キリスト教禁令を解かなかったなかったことについては、日本の体制側にも疑心暗鬼という、大きな病因があったと認識すべきだと思います。

そう考えると高札は、正に疑心暗鬼と権威の象徴であり、恐れる必要もないのに恐れ続けた人間の弱さと愚かさを物語るものだといえるのではないでしょうか。そして私たちは弱く愚かだからこそ、それが引き金となって、ひどく残忍にもなり得るのだと教えてくれているような気がするのです。



真光寺高札場跡

真光寺高札場跡

真光寺高札場跡

真光寺高札場跡



そうして今日も一日が過ぎ


そうして今日も一日が過ぎ
いつもと同じ夕闇が。

いつもと同じようでいて
昨日とは違い、明日とも違うのは
私が一日分年を取ったから。

年を取る分、何かを吸収し、成長していけるなら
虚しいとは言わないけれど
そうじゃないから、虚しいのかも。

人の人生も
一日のようだと言う人もいるけど、
一日のような人生を悔いなく生きるって
そんなことできる人いるのかな。

この年になると
これからビッグな人になってやるとか思わないけど
それでも何か
諦めずに生きたいと思う。

今日という日を与えてくれた方に感謝して・・・
~( ̄∇ ̄)~~( ̄∇ ̄)~~( ̄∇ ̄)~~( ̄∇ ̄)~らららー♪




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