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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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 伊勢路を旅して ③

  <主な訪問地>

  • 津城跡
  • 津市役所
  • 正覚寺
  • カトリック津教会
  • 牢獄跡
  • 鯰江一族殉教地
  • 塔世橋

 伊勢にはいろんな町が


伊勢路にはいろんな町があります。

どの町もそれほど大きな町ではないですが、都市化が進んでいるので生活するには便利。しかしその一方で昔の面影や史跡が失われつつあるのも事実です。

そんな伊勢路を巡る旅もこれで3回目。今回は津を訪れます☆
キリシタンの世界に目を開くようになってきたので、殉教地などが多くなっています。

当時の風景は跡形もなくなっているでしょうけど、キリシタンが信仰の証をした場所に立った時にどんなことが感じ取れるのか、自分の心に問いかけながら訪れてみたいと思います。

津城跡


最初に向かったのは津城の跡。
用事をすませてから向かったので、時刻はすでに午後4時半を回っています。

織田信長の弟織田信包が築いた城で、低い土地にあるにも関わらず防御に優れた城だったとか。石垣と内堀だけが当時のまま残っているものです。

レンタカーの返却時間が迫っているので、外側から眺めるだけに留めます ;;


津城址

津城址

津城址

津城址

津地方裁判所


お堀端をぐるりと回って津地方裁判所の前に。ここには昔、津城の評定所がありました。評定所とは、江戸時代の裁判所のこと。

江戸にある評定所は幕政の重要事項や大名旗本の訴訟、複数の奉行の管轄にまたがる問題の裁判を行なった機関で、今の最高裁判所の役割を果たしていました。

各藩にも同様に自藩管轄の武士を裁く組織が存在し評定所又は御用屋敷と呼ばれていました。

 藤堂高虎ラブを感じる

高虎の鎧(複製)


津市役所周辺には図書館やリージョンプラザと呼ばれる施設が集まっています。町中だというのに、巨大な駐車場と公園が併設されているのに驚きます。

資料集めにいいかと市立図書館を訪れてみましたが、閉館時間が5時ということで、即撤退。

それでもオープンスペースに展示された鎧や書などで、津市民の藤堂高虎への愛を感じました☆

市役所周辺


市役所を訪れたのは図書館が目当てではなく、ここが殉教地だからです。

寛永年間(1624~42)、藩主藤堂高次は城下に切支丹禁制を強め、キリシタンであることが発覚した200石取りの武士中島長兵衛とその家族3人を捕らえました。

中島長兵衛一家4人が処刑されたのが、現在市役所の敷地内となっているこの辺りと推定されています。

中島長兵衛一家


中島長兵衛一家は両親と2人の男の子の4人家族で、棄教を迫られても信仰を捨てませんでした。

長兵衛とその妻は逆さに吊られ、2人の子供はその面前で打ち首とされました。

逆さ磔になった長兵衛とその妻は頭がひょうたんのようになって、2、3日後に絶命したといいます。

4人の首は見せしめのために塔世川の北堤下に晒されました。


市役所の前

市役所の前

 藤堂家のお姫様

親戚が今も住んでいる馴染みある地域なのに、こんな歴史があって殉教者まで出ていることを、私は今まで知りませんでした。クリスチャンであっても、殉教といえば長崎とかの話だと思っているのが、大多数なのではないでしょうか。

伊勢でのキリシタンの歴史を調べていくうちに、興味深いこともまた見つけました。キリシタンだったのは武士や庶民だけではなく、切支丹禁制を領民に強いた藤堂高次の息女石姫もまた熱心な信者だったということです。次はその姫の墓があるお寺を訪れます。

正覚寺


入り組んだ一方通行の道を進み、到着したのはこの赤門の寺、正覚寺。キリシタンの墓を作る危険を負わせた正覚寺に対し、高次が津城内の御殿の赤門を下げ渡したのだと伝えられています。

石姫を可愛がっていた高次は、外部に知られぬよう御殿の奥で自由に信仰させていましたが、姫は元来病弱だったため若いうちに亡くなってしまい、ここに葬られました。

石姫の墓



この墓と石姫の存在が明らかになったのは、明治になり藤堂家から宮家に嫁いだ令嬢が洗礼を受け、先祖に同じ宗門の女性がいたことを話したことからです。

石姫の墓は境内に入ってすぐの場所にあります。当時としては考えられない洋風のお墓で、苔むしていますが、とても大切に扱われてきたことがわかります。


正覚寺

朱塗りの赤門

お堂

石姫の墓

 神父さま、ありがとう!!

時刻は5時半を回り、辺りは夕靄に包まれつつあります。関東だとこのくらいの時間にはもう暗くなるので、やっぱり三重県は西にあるんだなぁと実感。この時間差の恩恵で是非とも回っておきたい所があと2ヶ所。・・・うーん、正確には4ヶ所。とりあえず先を急ぎます!

カトリック津教会


向かったのはカトリック津教会。今回の旅はこの教会が出版した「津の殉教史」という本に触発されたものだったので、是非訪れてみたかったのです。

高札なども展示してあるみたいだし。
「お邪魔しますー」と敷地内に入って行くと、目に飛び込んできたのが、「キリシタン遺物」の文字。

え!キリシタン遺物のコレクションがミュージアムになってるのΣ(・o・;)
それってすごいじゃないですか!

キリシタン遺物のコレクション


開いてるといいなぁー・・・ガタピシ、うむぅー。やっぱり開いてません(そりゃそうだ)。ふと目を上げると隣の司祭館の窓には人影が!

よし、頼んでみよう!!と玄関の前に立って呆然。外国人司祭2人の名前しか書いてありません。言葉通じるのでしょうか・・・?

ええぃ、ままよ! 何を話すのか考えもせず、呼び鈴を押します。ピンポーン・・・

庭のキリスト像


「あの、突然お伺いしてすみません!こちらで発行された本を読んだ者なんですが・・・」
現れた外国人神父に必死でアピールする私。

優しそうな眼差しの神父さんですが、夕闇も迫る空を見て、「他の時間ない? どこから来たの?」

「東京ですっ!!」

私の背後から叫ぶ夫 Σ(・o・;) !
その気迫におされたのか、「そうですか」と神父さんは鍵を取りに行ってくれました。

ほんとは東京の隣なんだけど、ま、東京方面ということで勘弁してもらいましょ^^;

「車で来たんですか? ご苦労さまです」
車を見た神父さんは、東京からここまで運転して来たと勘違いして、ねぎらいの言葉までかけてくれました。

キリシタン遺物を納めた建物は、三重の鍵で厳重に閉められていて、どこか蔵のような感じ。内部は十畳ほどのスペースです。
お医者さんのイセタニさんという方が何十年もかけて収集した高札やマリヤ観音など(イセタニ・コレクションとよんでいるみたい)が多数展示されています。

庭のルルド


神父さんも言っていましたが、どこから出たものなのかが明らかでなく、本物かどうかはわからないとのことでした。

マリア観音なるものは、中国製の子安観音を、キリシタンがマリアだと思って崇拝していた場合にマリア観音と呼べるわけで、由来不明だと何ともいえないのです。

でも訪れて見せていただいたので、感謝です。神父さま、ありがとうございます!!

聖堂内



聖堂で少しお祈りして行こうと入って行くと、外国人親子が出てくるところでした。礼拝案内にも、複数の外国語によるミサの時間が書かれています。

日本が国際化されて外国人信徒が訪れるようになった一方で、教会から日本人信徒が少なくなっている現状もあるのではないかと思いました。

和の要素を取り入れた、木目の美しい聖堂。
日本人の信徒も大勢教会にあふれて、外国から来た人とともに祈るような、そういう国際化であってほしいです☆

 牢獄跡へ

牢獄跡


カトリック津教会から少し歩いた所に、昔牢獄があった場所があります。現在は住宅になっているのであまり大きな声で「牢獄だった」とは言えませんが。

寛永14(1637)年、研ぎ屋(とぎや)の長右兵衛がキリシタンであったため捕らえられ、ここにあった牢で拷問を受けるも棄教せず、亡くなりました。

またその子供2人は打ち首になったとのことです。

ここにも殉教者が


天和元(1681)年にもキリシタンであることが発覚した八左衛門という人が、厳しい拷問の末獄中で亡くなりました。

殉教した人々は、藩の記録でわずかに名前や処刑された年がわかるだけで、どんな人でどんな生き方をしていたのかなど、詳しいことは何も伝えられていません。

それでもここにも殉教者がいたこと、信仰の証をして亡くなったことを少しでも記憶に留めておければと思い、写真を撮りました。

 南堀端の辺り

再び車に乗り、少し南下して、津城の中島門の外に当たる場所を目指します。
暗くならないでほしいなぁー…(*゜。゜)m。★.::・'゜☆

南堀端に建つ建物


現在はビルが建っているこの場所の辺りは、津城中島門の外に当たり、昔は南堀端とよばれていた場所です。

寛永年間(1624~42年)、三百石取りの武士鯰江九右衛門の一族23人がキリシタンであったため成敗され、九右衛門ら5人はここで逆さ磔にかけられ、残る18人は塔世川の渡り瀬で打ち首になりました。

九右衛門らは息絶えるまでの3~5日間、苦しみを耐え抜きました。

旧町名を表す碑


寛永16(1639)年にも、キリシタンだと密告され捕らえられた3人の武士が、ここで逆さ磔の刑に処せられました。

永田少蔵、古賀半七、森島藤三郎の3人は足を束ねられ、内臓が出ないように体を縛られて逆さに吊られました。

役人たちは殺すよりも棄教させたかったので、頭に穴を開け、血が流れ出すようにして、頭に血が上って即死するのを避け、絶え間ない苦しみを与えて信仰を捨てさせようとしました。

想像を絶する苦悶を経てもなおキリストを否まなかった彼らは、3日目に亡くなりました。頭部は驚くほど大きく膨れていたと記録されています。

静かな夕暮れが町に訪れる中、彼らの壮絶な死を思い、黙祷します。

 塔世川のほとりで

痛ましい殉教の地を巡った3時間ほどのショートトリップでしたが、心に染み入るものが多く残りました。ほんの少しの時間でも、心を向けて足を運べば、巡礼の旅に出られるのだと知りました。
レンタカーを返却する前に、最後に立ち寄ったのは塔世川。現在は安濃川と名前を変えています。

塔世橋


現在も塔世橋という橋があります、昔の塔世橋はもう少し上流にかけられており、伊勢参宮街道の一部となっていました。

中島長兵衛一家が晒し首になったのはどの辺りだったのでしょう。鯰江九右衛門一族18人の斬首が行われたのはどこだったのでしょう。

詳しい場所はわかっていませんが、見せしめの意味を考えると、往来の激しかった街道や橋の上から眺められる位置だったのではないでしょうか。

今はただ冷たい風が吹き抜けていくだけです。


塔世川のほとり

今はただ

冷たい風が

吹き抜けていくだけ

旅の終わりは、次の旅の始まり・・・!?


行きたい所を全て回り終わって、津駅前のレンタカー屋さんに車を返して出てくると、日はとっぷりと暮れていました。まるで私たちが見て回るのを日を延ばして照らしてくれていたかのようで、不思議です。

さて今回の旅はこれで終わりではありません。3連休を利用して、これから2日間滋賀県を回ります。一番のお目当ては安土城!
安土城の麓にあったという安土セミナリヨの跡にも是非行ってみたいです☆

ここまで読んでくださってありがとうございます<(_ _)>
良かったら「近江戦国城物語part1」もお読みくださいまし♪

旅の安全と恵みを守ってくださった主に感謝して―――。

インフォメーション
津市観光協会HP「レッ津ゴー!」
京都教区内のキリシタン遺跡(三重県など)


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