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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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 伊勢路を旅して ④


        春先の風に誘われて伊勢へ。
        今日は初めて伊賀上野に参ります♪
        歴史とその中で生きた人の思いを感じられたらいいな(*゜v゜*)


         

伊賀上野へ


祖父母の家と先祖の墓があるので、昔から三重県には年一回以上来ていました。でも親戚のいる伊勢方面以外には足を運んだことがなく、伊賀上野は初。

津でレンタカーを借りて出発しましたが、伊賀は思ったより遠いです。随分と時間もかかるし、山道だったり、他に道がないからか混んでいたり。でも違う世界に行ける感じがして面白いです♪

カトリック上野教会


とりあえず来てみたのがカトリック上野教会。

石垣の塀が城下町にマッチしています☆

可愛らしい感じの外観ですね。

聖堂内


聖堂も割とシンプルで、建物からして凝った感じではありません。

でも木製のものを多く使っていて、温か味があります♪

日曜はポルトガル語による礼拝もあると書かれていました。南米から働きに来てる人が多いのかも。教会も国際化してますね。

カトリック上野教会

案内板

窓辺

祭壇

日本基督教団上野教会


続いて日本基督教団の上野教会へ。この地域のことを県外の人は「伊賀上野」というけれど、当地では「上野」とよぶようです。東京で「上野」といえば山手線の、ですが('-'*)

創立120周年を数える教会で、趣きある瓦屋根と同じ素材で作られた十字架が印象的。信徒さんがお掃除をしてみえたので少しお話をしました♪

その方曰く「上野は不思議なところですよ。そんなに大きな町でもないのに、古い教会がいくつもあるんです」

ああそれは、キリシタンだった大名と素晴らしいキリシタン女性がいたからじゃないでしょうかね。――そう言いたかったのですが、言えませんでした。まだ頭の中で考えがまとまってなくて。旅の終わりにはまとまるといいんですけど☆


入口

十字架

外観

瓦屋根

 それでは上野城へ☆

芭蕉翁記念館


それでは「上野」を訪れる観光客なら絶対にはずさないであろうスポットへ。上野城です♪

今は広い公園のようになっていて、本丸跡には天守が再現されていますが、それ以外の所に様々な施設が設けられています。

その一つが芭蕉翁記念館。松尾芭蕉は「上野」の輩出した大人物ですもんね☆


上野公園マップ

芭蕉翁

記念館の石灯籠

芭蕉翁記念館

上野城

青空をバックに、憎たらしいほどキメてくる天守。上野城はカッコイイです♪
外回りだけでも半日過ごせそうですが、中に入ってみましょうか ( v ̄▽ ̄)


上野城跡

石垣


天守

内部


内部には藤堂家のお宝がいっぱい。実際に使われた甲冑や武器、芭蕉の文机などもあります。

しかし私が上野城に来たのは、昔キリシタン大名がいたから。1585年に城主となった筒井定次という人です。

でも藤堂家以前の城主の面影とかというものは全然残っていないようです。キリシタンの残り香も。近代になって制作された天井画の中にはクリスチャンだった徳富蘇峰のサインもありますけどね。この城が再建された時の有名人だったから一筆書いて展示するようになっただけで、キリスト教的な意図はありません。大きな期待はしていなかったけれど、筒井家についてちょっとぐらい触れてるかなーと思っていたのでがっかりです。


藤堂高虎像

御輿

芭蕉の文机

天井画

キリシタン大名 筒井定次と伊賀国


筒井定次は秀吉の禁教令が出された後の1592年に肥後名護屋でキリスト教に接し、彼の下にいたマンショ三箇の勧められて、長崎にいたヴァリニャーノ神父に会うために出かけて、キリスト教の教えを聴聞しました。長崎で活動していたヴィンセンテ修道士から説話を聞いた筒井定次は、キリシタンになることを決心し、洗礼を授けてもらいたいと切々と願いました。

当初は筒井定次を秀吉側のスパイではないかと(キリスト教に興味があると言って近づいてきて教会の様子を探ろうとしている)と懸念されましたが、彼の真摯な態度にほだされて説話を聞くことが許され洗礼が施されるようになりました。

キリシタンとなった筒井定次は祈祷文とともにキリスト教の教理をすべて学んで伊賀国に戻ることを望み、時勢が許すようになったら自領にキリシタン集団を作るつもりだと話しました。

筒井定次のその後と最期


その後も筒井定次は秀吉に仕えて武士として活発な活躍を見せ、秀吉が亡くなる時には遺品に信国の刀を賜りました。関ヶ原では徳川側につき領地を守りましたが、1608年家臣の訴えによって領地を没収され、他の大名に預けられました。ついに1615年切腹を命じられて、息子と一緒に自害しました。享年54歳。

その死の本当の理由は明らかではありませんが、切腹したのだからキリスト教の信仰を捨てたのだと解釈されています。伊賀に教会を建てたとかキリシタン集団を作ったとかという記録もないですし。

ただこの筒井家からは伊賀マリアというキリシタン女性を代表するといってもいい一人の女性が出ています。この人は筒井定次の娘か従姉妹だったとされています。この素敵な女性についてはまた機会があれば・・・☆


城内

上野城絵図

天守から

内部の階段

俳聖殿


天守から出てやはり城内にある俳聖殿へ。松尾芭蕉が聖人か神のように祀られています。

この特徴ある建物は、芭蕉の旅姿を模したものだそう。ユニークな形が功を奏して観光名所になっているようです。

でも特に史跡としての価値はなく、記念したものに過ぎません。

俳聖殿内


城代の屋敷跡

子供忍者の姿も・・・♪

 行っちゃいますか、芭蕉生家☆


芭蕉生家


芭蕉の生家は上野城から車で数分のところにあります。

さっきの俳聖殿を見て、崇め奉る感を予想していたのですが、見事に裏切られました。

質素かつ簡素。江戸時代の民家をそのまま残して当時の習俗を学べるようにしていますと言ったら、「そうですか」と信じちゃいます。芭蕉という人も何か特別な生まれというんじゃなくて、普通に生まれて普通に生活してたんだなと感じました (*゜.゜)ホー


外の石碑


家財道具

部屋

小さな庭

使っていた部屋

部屋の内部

台所など

お昼


お昼は芭蕉生家の向いくらいにある喫茶店のようなお店で。仕出し弁当なども扱っているみたいで、お弁当みたいなランチが安い上に美味しかったです♪

朝から飛ばしっぱなしだったので、じっくり目も足も休めねば。行きが長距離だったことを考えると、帰りも(夫に)長距離運転をしてもらわなければなりませんし。

いつも無謀な計画につき合わせてしまって申し訳ありませんが、今回も最後まで頑張ってくださいまし p(^(エ)^q=p^(エ)^)q ガンバッ♪


 蓑虫庵を経て浦上キリシタン収容所跡へ

蓑虫庵


車に乗って10分ほどで蓑虫庵へ到着。芭蕉の門人・服部土芳の草庵です。1688(貞享5)年に芭蕉がここを訪れ、庵開きのお祝いとして贈った「蓑虫の音を聞きに来よ草の庵」の句にちなんで蓑虫庵と名付けられたそうです。

わびさびな感じで良いです(あ、千利休とごっちゃになってる)♪ 県の文化財史跡及び名勝に指定されています。




服部土芳

浦上キリシタン収容所跡


蓑虫庵から目と鼻の距離にあるのが浦上キリシタン収容所跡 。今はアパートが建てられています。

ここに長崎から流配されてきたキリシタンを入れた収容所があっただなんて誰も知らなさそう。

1870(明治3)年に伊賀上野に到着した58名の浦上キリシタン(長崎の浦上村から来たのでそうよばれている)は、市内の4ヶ所に分囚され、その後ここに一括収容されました。

各地に流された浦上キリシタンが説諭という名の拷問を受け死んでいったのとは対照的に、伊賀上野での取り扱いは比較的穏やかなもので、食事もそこそこ与えられ、説得も肉体的拷問を伴うものではありませんでした。それでも流配期間中の死亡者は男子7名、女子4名。彼らは帰郷を果たせませんでした。

日本聖公会 上野聖ヨハネ教会


近くにあったので立ち寄ったのが、上野聖ヨハネ教会。英国国教会の流れをくむ日本聖公会の教会です。

民家の中の洋館のようですが、十字架が誇らしげに建てられています。

キリシタン大名がいて、浦上キリシタンがいたこともあって、今は教会が建っている。上野はキリスト教の歴史の重なった町だと思います☆


聖ヨハネ教会

聖ヨハネ教会

聖ヨハネ教会

 お寺に寄りながら戻りましょうか

西蓮寺


伊賀市の市街地を出て西蓮寺へ。ここにキリシタン灯籠があるというので立ち寄ってみました。

が、キリシタン灯籠は見つけられませんでした。たくさん墓石や石造物があるのでその中にあるのかもしれませんが。

藤堂家歴代家老の墓とか、真盛上人の廟などがあり、かなりの名刹であることだけがわかりました。梅もキレイに咲いています。


鐘楼門

解説

真盛上人の廟

本堂

プレゼン・タイム!


車に戻ってお茶など飲んで一息ついたところで
私のプレゼンテーション開始☆

「まだ陽が高いよね。もうちょっと回ってみてもいいかなと思うんだよね。来た道と違う道通って津の方に戻っていくと、前から時間があったら行きたいなと思ってた所があるの。ちょっと遠回りになるんだけどぉ・・・」

「しょうがないなー」という感じで承諾する夫。プレゼン成功です。二本木と一志町を通って津まで帰りましょう♪ 暗くならいないといいなぁ ∬´ー`∬ウフ


 まずは大三。そして三ヶ野へ☆

日本基督教団 大三教会


農村を抜けて二本木にある大三(おおみつ)へ。日本基督教団の大三教会へやってまいりました。

現在教会になっているこの場所が、昔の代官所跡。

その代官所に浦上キリシタンが収容されたことがあったのです。

1869(明治2)年、長崎から送られ津藩に預けられた信徒は155名(出発した時は156名だったが途中で1人死亡)。彼らのうち第一陣としてやって来た戸主のグループ22名が入れられたのがここにあった代官所でした。

江戸時代は罪人(キリシタンも罪人として扱われた)を取り締まる代官所が置かれ、明治の世になってもキリスト教禁令が解かれなかったために配流された浦上キリシタンが収容されたことがあるこの場所に、今教会が建っているというのは偶然でしょうか。意図的にこの場所を買ったのか否かはわからないけれど、神の摂理を感じずにはいられません。


日本基督教団大三教会

日本基督教団大三教会

日本基督教団大三教会

日本基督教団大三教会

徳田屋跡


旧街道沿いの衣料品店がある所が、津藩に流された浦上信徒全員が集められた徳田屋の跡。

旧街道の途中にあるこの地域(二本木)は昔からの宿場町で、徳田屋は旅館でした。信徒らはここに28日間滞在し、その後3つの地域に分囚されることになったのです。22名は大和古市へ、58名は伊賀上野へと。


そして残る75名が引き続き二本木に残されました。流配生活がどんなものだったかは、場所によって異なるので一概に言うことはできませんが、津藩では厳しい拷問の記録はありません。なので改心(棄教)した者も比較的少ないです。

しかしキリスト教を信じたというそれだけの理由で配流され、囚人生活をし、棄教するよう説得を受け続けたということ自体、人道的とは言い得ません。二本木に留め置かれた75名はこの後、更に伊勢各地に送られていくのでした(それらの場所には明日行く予定です)。


旧街道

徳田屋跡

徳田屋跡

常夜灯

三ヶ野


二本木から津に向う道の途中にある三ヶ野。何の変哲もない低い山々で、舗装された道路だけがばしっと通っています。

しかしカトリック津教会が出した「津の殉教史」によると、この三ヶ野にある向居山という山でキリシタン遺物らしき物が発見されたのだとか。

石の祠に十字が彫られるとか、そういう感じの物なので、キリシタン遺物だと断定できるのかどうか素人の私には判断ができないですけど。もしキリシタン遺物だったならすごいですし、ロマンがありますね。少なくとも近くでは信仰を持っていた人たちがいたんだから、可能性がゼロではないだろうし (o ̄∀ ̄)ノ


三ヶ野

三ヶ野

三ヶ野

上出公会所


さて本日のラスト(のつもりで)訪れたのが上出公会所。ここの敷地にある小さな碑を見るために来たのでございます。

この碑があったのは、村内で一番早く1884年に受洗した中村弥太郎の家。先祖が大庄屋で飢饉を救うことをしたので村人たちが建ててくれた碑だそうです。

中村弥太郎は1887年には講義所を作って、キリスト教の布教に努めました。弟が後に宮内大臣になった中村雄次郎という人で、村に寄付などもしたので、その人のことを知っている人の方が多いようですが(中村雄次郎が英国留学中にキリスト教に触れ入信、郷里に帰って村人50人を伝道したと書かれている本がありますが、雄次郎は神道家だったと子孫の方が言っています。宮内大臣だったわけですし・・・)。

三重県の市街地から離れたこんな里山で、明治の初めにいち早くクリスチャンになり、信仰を広めようとしただなんて、天晴れではありませんか。 やはり神の摂理が・・・と、感動しそうになりましたが、よくよく見ると碑が、ネットに載っていたのと違います;; ここまで来たけど甲子祠之碑見つからず!です。


これかと思っちゃった碑

上出公会所

お寺の跡

祠はあったけど

 すっきりしないので、もう少し・・・

誕生寺


ここまで来たのに何かすっきりしないなーということで、近くにある誕生寺へ。真盛上人が生まれた所だそうで、産湯の井戸などが残っています。

真盛上人は三重が生んだ仏教界のスター。私などでも知っているくらい有名なお坊さんです。こちらで生まれて伊賀上野の西蓮寺で亡くなっているのだから、今日は縁がありますね。後ろはお城の跡になっています☆


誕生寺

産湯の井戸

大仰城跡

解説板

西来寺


津に戻ってもまだ陽があったので、最後のダメ押しで西来寺に。家康の側室 於奈津(おなつ)の方の木像があるというので来てみました。

木像は見られませんでしたが、国や県の文化財指定を受けているもののリストの中に於奈津の方関係の物がありました。

なぜ於奈津の方が気になるのかというと、この人が長崎奉行長谷川左兵衛の妹だからです。キリスト教禁令の方針を打ち出し、徳川400年の(キリスト教にとっての)暗黒時代を生み出した家康には、長崎奉行の妹が絡んでいたのです。


西来寺

文化財リスト

文化財リスト

於奈津の方関係の物

長谷川左兵衛とキリシタン


長谷川左兵衛は長谷川藤広ともいい、出身は伊勢の一志郡。1610(慶長10)年、有馬晴信と共にノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号(マードレ・デ・デウス号)を焼き討ちし、船を沈めました。これは家康に褒められたのですが、その後の恩賞のことで有馬晴信は岡本大八に賄賂を贈り、大八が噓をついていたことがバレて、有馬晴信が長谷川左兵衛を暗殺しようとしているとバラされて・・・(話が複雑すぎるので中略)、それで有馬晴信は死罪ということになり、有馬晴信も岡本大八もキリシタンだったことから家康はキリスト教嫌いに火が付き、ついにキリスト教禁令が出されることになるのです(省略し過ぎて意味不明・・・?)。

簡単にいうと、長谷川左兵衛は最初は協力していた有馬晴信と対立するようになり、不倶戴天の敵とまでなったので、有馬晴信を陥れて蹴落とし、キリシタンまで弾圧したのです。長崎奉行だった彼は旧有馬領を長崎領に併合するよう家康に働きかけ、これに成功。旧有馬領でキリシタンに大迫害を加えました。

自分の妹を家康の側室に輿入れさせるとは、ほんとに用意周到です。古狸ともよばれた家康が、ただ長谷川左兵衛の意のままに操られたとは思いませんが、彼が進言してくることを認める形でキリシタン迫害が行われ、キリスト教禁令に直結していくのですから、、、ここで怒っても仕方ないですけど (○`ε´○)

津観音


もう暗くなってきちゃいましたが、「津まではなかなか来られないから行ってみたい」と夫を説得して津観音へ。

ここにも於奈津の方の寄進した鐘が残されています。高い塔がそびえていて、こんな夜でもお参りに(犬の散歩を兼ねてですが)来ている人がいます。

門前は昔高札場でした。キリシタン禁制の高札も掲げられていたことでしょう。むむむという感じです (`ε´)ミケンニシワヨル...


五重塔


境内

門前


        いいことも悪いこともあった地で


          いいことも悪いこともあった伊勢と伊賀の地で
          いろんなものを見たし、いろんなことを感じました。
          私はクリスチャンだからその観点で見るけど
          他の人はまた違う観点で評価したりするのでしょう。

          しかし一つ事実として確認できるのは
          人が思いを残した地では、また再び歴史が起こるということです。
          明日も少しだけ伊勢を回ります。
          何かを感じる時間になりますように ヾ(´▽`*)ゝ♪









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