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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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長崎巡礼 ~浦上

ヨハネ・パウロ2世が座って祈ったイス  <主な訪問地>

 ★サンタ・クララ教会跡
 ★ベアトス様の碑
 ★如己堂
 ★永井隆記念館
 ★フランシスコ・サベリオ教会跡
 ★浦上天主堂
 ★平和公園
 ★原爆落下中心地
 ★長崎原爆資料館
 ★聖母の騎士修道院

 長崎巡礼最終日

楽しかった長崎巡礼も最終日。夜の便で帰ります。夕方には空港に向かわないといけませんが、それまで浦上と原爆に関する所などを見て回ろうと思います。

サンタ・クララ教会跡


最初に訪れたのは、サンタ・クララ教会跡。
路面電車に乗って浦上方面に向かい、「大橋」という駅で降りると近いです。

ここには浦上キリシタンの4つの秘密教会のうちの一つがありました。

秘密教会とは、1865年の「信徒発見」後も信仰の自由はまだ認められていなかったので、役人に知られないようにして、浦上に住むキリシタンたちがつくって集まっていた教会のこと。

大浦天主堂からプチジャンら神父たちをを迎えて、洗礼やミサを行っていました。
今はこのような像だけが建っています。


サントス通り


近くにはサントス通りという通りがあります。
サントスとは聖人のこと。

さすが日本で一番クリスチャンの多い県ですよね。


ベアトス様の墓


サンタ・クララ教会跡から歩いていくと、5分ほどでベアトス様の墓があります。「ベアトス」とは福者のこと。キリシタン時代に殉教した三人の人のお墓だとされている場所に建てられた碑です。

この碑の裏側には原爆の跡が残っています。
浦上のキリシタンたちは、禁教時代には迫害され、「信徒発見」後は秘密教会が摘発されて各地に流されて拷問を受けました。明治6年になってやっと許されて帰ってきて、東洋一といわれる浦上天主堂を建てました。

そしてようやく信徒達が落ち着いて生活できるようになった頃に戦争が起こり、原爆で聖堂もろとも吹き飛ばされてしまいました。

浦上には信仰者の血と涙がしみています。


シェモー住宅跡


原爆の被害を悼み、平和を祈念するシェモー博士とその賛同者たちが建てた住宅、シェモー住宅が老朽化したため建て替えられてできたシェモーアパートです。


如己堂(にょこどう)


ベアトス様の墓から歩くこと15分。
永井隆博士が暮らした如己堂に着きました。

TV番組で永井隆という名前を知って以来、是非来てみたいと夫と話していた所です。

中に生前永井博士が使っていたものや博士のデスマスクなどが展示されていて、ガラス越しに見ることができます。


帳方屋敷跡の碑


如己堂の右手にある永井隆記念館の入口左手にある「帳方屋敷跡」の碑。

帳方とは、隠れキリシタン時代に儀式を執り行った、いわば司祭や神父のような立場の人。隠れキリシタンの指導者です。

永井隆の奥様、緑夫人のお父様の家系は、代々帳方をやってきた家系だったので、この碑が建てられています。

後に夫人となる緑さんからの影響でクリスチャンになった永井博士ですが、大変信仰深い家系の女性をお嫁さんにしたんですね。


永井隆記念館


医師として放射線の研究をし、その危険性は十分わかっていたにも関わらず、物資不足のためやむを得ずレントゲンを直接見て診察をするという方法で人々を助け、癌を発症した永井博士。

博士は、原爆で妻を亡くしても信仰を失わず、自らの体を通して放射線が人体に及ぼす影響について研究し、放射線医学のさきがけとなりました。

館内には永井博士が書いた文章や遺品が展示されています。
写真撮影をしてもいいということだったので、たくさん写真を撮りました。

色紙に書かれた「如己愛人」とは、「己のごとく人を愛せよ」という意味の永井博士が作った言葉。
永井博士は病の床でも筆を執り、多くの著作を世に出しました。博士の著作の一冊「いとしい子へ」を読みましたが、その愛と平和のメッセージに強い感銘を受けました。


 浦上の街をてくてくと

涙でハンカチ一枚をぐじゅぐじゅにして、永井隆記念館を後にします。
浦上の街をてくてくと歩きつつ、熱い信仰の浦上キリシタンのことを思います。

聖フランシスコ・サベリオ教会跡


聖フランシスコ・サベリオとは、フランシスコ・ザビエルのこと。
ここにも秘密教会がありました。

それほど広くない地域のそこかしこに、秘密の教会を持っていたなんて、本当に熱心な人々が信仰を守っていたんだなと思います。

信教の自由が保障されているのに、神様を信じる人が少ない今の日本を見たら、彼らは何というでしょう。恥ずかしいような気持ちになりました。


浦上天主堂


多くの苦難を乗り越えた浦上の地に建つ、浦上天主堂は、「絵踏(えふみ)」に代表されるキリシタン迫害と長崎の原爆、二つの受難の中心地です。

1925年にこの地に完成した旧浦上天主堂は、その荘厳さと規模で「東洋一」と言われましたが、わずか20年後、上空で炸裂した原子爆弾によって、8500名の信徒とともに微塵に破壊されました。

この聖堂は、廃墟の中から旧天主堂の遺構を保存し用いながら、1959年に建設されました。

250年もの間、守り続けた信仰の復活を浦上の信徒が実現したことを記念して、この聖堂は1962年、大浦天主堂に代わり、司教座聖堂(カテドラル)に指定されました。

永井隆記念館で博士の文章を読んだ後だったので、聖堂に入って立ったまま祭壇を見つめているだけで、ぽろぽろぽろ涙が出てきます。
聖堂内は写真撮影禁止なので、代わりにポストカードを買い求めて、対応してくれた神父様に、被曝のマリア像の場所を聞きました。

被曝のマリア像は、聖堂を出て正面右手に回り、少し進んでいったところに小聖堂入口があるので、そこから入っていくと見ることができるとのこと。被曝マリア聖堂は新しく、静かな雰囲気です。一対一で神様と対話がしたい人におすすめしたい空間だと思いました。


 原爆の跡を訪ねて

浦上天主堂から歩いてすぐのところにある平和公園。原爆落下の中心地も公園として整備されています。青空の下、平和のありがたさを感じながら歩きます。

平和公園


有名な平和公園の平和祈念像。北村西望の作品です。

「きねん」という字を「記念」でなく「祈念」としたことに、祈り願う気持ちを感じます。
忘れることなく祈り続けていくべきことだなと。


長崎刑務所跡


ここに来るまで知らなかったのですが、
原爆が落とされた時、ここには長崎刑務所がありました。爆心地に最も近い公共の施設だったそうです。

収容されていた81名と職員など35名、計134名の命が奪われました。亡くなった人の中には中国や韓国の人も含まれていました。


原爆落下中心地


平和祈念像のある所から道を一つ隔てた所に、原爆落下中心地があります。
この黒い柱は落下中心地碑。
この上空500メートルのところで原子爆弾は破裂しました。

死傷者は約15万人。戦後64年(2009年現在)経った今も、原爆による後遺症に悩む人がいます。何とも言えない苦しい気持ちになります。


浦上天主堂の遺構


原爆で破壊された旧浦上天主堂の遺構が公園内に残っています。

鎮魂の場で、原爆で自らの妻を亡くした永井隆博士は、一瞬で灰となって天に召された信徒たちのことを神に捧げられた清い燔祭だったと言い、罪深く捧げ物になれない我々が残されたのだと言いました。

長い弾圧を乗り越えて勝利した後に、原爆という圧倒的な暴力で命を失くした浦上の信徒たちを思うと、私は言葉を失うだけです。



被曝当時の地層


平和公園の一角を川べりの方に下りて行くと、被曝当時の地層を見ることができます。

ガラス越しに、保存された地層に目を凝らすと、煉瓦の残骸の中に生活雑貨が混じっていました。

何気ない普通の生活を送っている時に、原爆が襲ってきたのだということを感じました。


原爆資料館


平和公園を出て原爆資料館に向かいます。小学校の頃に訪れた時とは全く違う、新しい建物になっていて、展示もわかりやすく洗練されています。外国人も多く訪れていました。

この碑は原爆で亡くなった朝鮮人の方を悼んだもの。さまざまな理由で日本に滞在していた外国人もまた命を奪われたのですね。

 帰る前にもう一ヶ所

長崎を去る前にもう一ヶ所、是非とも行ってみたかった所に向かいます。アウシュビッツで身代わりになって亡くなる前に日本にいたコルベ神父が、真心こめて作っていた出版物「聖母の騎士」。
コルベ神父の遺品と思いが眠る聖母の騎士修道院を訪れたいと思います。

聖母の騎士修道院


聖母の騎士修道院には、聖堂、印刷所、聖コルベ記念館と学校などがあります。

修道院は路面電車の終点「蛍茶屋」で降りて、仏教のお墓の並ぶ坂道をずっと登っていくと見えてきます。

へたばりそうな急な階段を上っていると、腰の曲がったおばあさんがひょいひょいと登って来て、「長崎は坂が多いから、おばあは皆足腰が丈夫で元気だよー」と言いながら追い抜いて行きました。

聖母の騎士修道院の教会


おばあさんを追って、息を切らして登って行くと、修道院の入口でおばあさんは私たちを手招して中に入って行き、受付の方に私たちの来訪を伝えてくれました。

「くつのままでいいよー。コルベ神父の小聖堂はお御堂に入って左手にがあるから」と、ここの信者であるらしいおばあさんは、私たちの尋ねたいことを先に教えて立ち去っていきました。

サッパリとさわやかに親切にしてくれるんだな、ここの人たちは、と思いました。


聖者コルベ小聖堂


教会の内部に入ってお祈りし、ひと息ついてから左手にある聖者コルベ小聖堂に入ると、正面にコルベ神父の絵があり、右手にあるガラスケースには遺髪が入れられていました。

ローマ法王ヨハネ・パウロ2世が跪いてお祈りをした台と座られた椅子も窓辺に置かれています。

同じ国の出身者であるコルベ神父を、法王も敬愛していたのでしょう。


修道院の庭にあるルルド


修道院の受付の方にお礼を言いに行くと、ルルドと聖コルベ記念館の場所を教えてくれました。

当時、1坪1円で買ったという、聖母の騎士修道院の敷地はとても広く、庭はまるで小さな森のようで、緑が生い茂っていて、黙想に最適です。

山を登って行くと、聖コルベが1933年に造ったルルドに出ました。
二人の高齢のご婦人たちが、ロザリオをくくりながら熱心にマリア様にお祈りの言葉を唱えていました。

ここからの眺望はすばらしく、長崎市内を見渡すことができます。
ヒバリが上空でさかんに歌い交わしていて、天国みたいだと感じました。


聖コルベ記念館


ルルドを見てから少し道に迷いましたが、ぐるぐる回っているうちに聖コルベ記念館にたどり着きました。

ここの受付にいらした方もとても親切な方で、帰り際に「ふしぎのメダイ」というメダルも下さいました。

(聖コルベ記念館を訪れてみて印象がとてもよかったので、旅行から戻ってきてから記念館館長、小崎登明修道士の本を読みましたが、長崎キリシタンについて目を開かれることが多く、先に読んでから旅行に行けばよかったと思いました)

記念館にはコルベ神父の部屋が再現されていて、ゼノ修道士が手作りしたコルベ神父の机と椅子などに触れることができます。コルベ神父の遺品も多数展示されています。

長い時間をかけて、本当に多くの人が日本人の救いのために命をかけて取り組んできてくれて、今日(こんにち)の私たちがあるのだなあと感じました。神からの使命を悟り、実践者となった彼らに感謝するとともに、彼らの祈りを引き継ぐものになりたいと思いました。


 帰り道にもう一ヶ所

長いようで短かった長崎旅行ももう終わり・・・と思ったのですが、少しだけ時間が余っていたので、一駅だけ路面電車に乗って「新中川町」で降りました。

路面電車「新中川町」駅



ここから徒歩8分ほどの所にある、春徳寺を目指します。

ルイス・デ・アルメイダ渡来記念碑



長い坂道を上った所に、この辺りでルイス・デ・アルメイダ修道士が宣教していたことを表した碑が壁に埋められています。



春徳寺


長崎最初の教会、トードス・オス・サントス教会は、ここに建てられていました。一時期コレジヨやセミナリヨも置かれたことがあります。

禁教令で取り壊され、春徳寺が建てられましたが、門の前に碑があるので、往時をわずかにしのぶことができます。

教会はなくなりましたが、この寺のある丘は「唐渡(とうど)山」と呼ばれています。

「山」というには低いですが、「丘」という言葉のイメージよりも高いこの地に建てられた教会は、随分遠くからでも見ることができて、宣教の効果を上げたのではないかと思いました。

ここにはマニラに追放される前の高山右近が来て、再び霊操して試みに勝てるように祈ったといわれています。


長崎駅の駅ビルで


路面電車でJR長崎駅に行き、やっと昼食。
とうとう最終日は4時になってしまった、ランチタイム・・・。

でも見たい所、行きたい所を存分に回ったので悔いはありません。美味しいご飯と一緒に、幸せも噛みしめました。

高速バスで空港に行き、飛行機で羽田までひとっ飛び。着いたら土砂降りの雨でした。
窓を伝う雨粒を目で追いながら、「今度はいつ長崎に行こうか」と考えている私がいました。

最後まで読んでくださって、ありがとうございます (^人^)感謝♪ 


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