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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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 近江戦国城物語 part1

  <主な訪問地>

 長い一日がスタート!

昨晩は三重県の津から紀勢本線、関西本線、草津線、東海道本線と4本乗り継いで、
へとへとになって夜10時にホテル着。
乗換えの多さで妙に疲れちゃった感があって、今日は朝からテンション低め( ̄Θ ̄;) ムゥー

しかしテンションくらいでへこたれてはおれません。
滋賀県なんてそう簡単に来られる場所ではないのですから!(そうか?)
今日から二日間、戦国時代の城巡りを堪能したいと思います♪

永原教会跡へ


朝一番に向かったのは永原教会跡。この地に流されてきたキリシタン武将三箇サンチョが建てた教会があった所です。

永原御殿の近くにあったという記録があるので、レンタカーのナビに永原御殿跡をセットしてスタート!

この日は全国的に大荒れの天気予報で、ちょっと心配です。朝から小雨のぱらついて気温も低め。さむっ!

そして・・・永原御殿跡を見つけられずに、菅原神社に到着;;

永原御殿跡はどこですか?


誰かに聞こうと車を降りてみたものの、神社にも人はおらず、途方に暮れかかったところで、向こうの方からスコップ片手に歩いてくる女性を発見!

「すみませーん、永原御殿跡はどこでしょう?」
人の良さそうな女性が指さしたのは、神社の右手。←どう見ても森か林です・・・。

「竹が倒れて危ないから中には入れないのよ。何も残ってないしね。石垣だけ残ってるんだけど、ほら見えるでしょ」

え、農家の石垣じゃ・・・


女性の指さす所をしっかり見ようと、見る角度を何度も変えてみましたが、その先にあるのは民家。民家の向こうにも少し石は見えるけど・・・。

「これって、農家の石垣では・・・?」
という言葉を飲み込んで、
「ありがとうございます! あの、碑は?」

碑があるのは向こうの畑の中だとか。貴重な情報ありがとうございます!

立入禁止の林の中


先ほど「ここじゃないよね、まさか」と思い通り過ぎた場所が、御殿跡だったとわかり、近くまで行ってみました。

立入禁止を示す黄色いロープの先には、薄暗い竹やぶが広がっています。夜半から今日にかけての強風で、折れたばかりの竹も見えます。

やはり中に入ったら危険そうです。今もゆっさゆっさと竹やぶ全体が揺れています。

危険な目に遭わないよう、人を通して天が注意してくれたようです♪

永原御殿跡の碑


来た道を戻ると、その畑の傍らに原御殿跡の碑を発見☆ さっきは見落としていたようです^^;

この近くにあったという永原教会は三箇サンチョの熱心な働きによって、40名余りの信徒を生むこととなりました。

教会が建てられたのが1577年なので、近江の国はかなり早くからキリスト教が布教された地だったということができます。

碑のまわりにフキノトウ


永原教会出身のキリシタンに、永原ニコラオという人がいます。この地域で伝道され、安土セミナリヨに進み、その後長きにわたり日本各地で宣教し活躍しました。

キリシタン時代最も過酷な拷問といわれる穴吊り。永原ニコラオは穴吊りで亡くなった最初の殉教者だといわれています。


永原御殿跡の碑

道しるべ

石碑近くの神社

周辺案内図

永原御殿の門


周辺案内図で近くのお寺に永原御殿の門が移築されていると知り、「おおっ、これも天の導きか?!」と興奮して向かいました。

着いてみて気づきましたが、私たちが追い求めていたのは、永原御殿ではなく永原教会。御殿門には用はなかったかも^^;

それでも歴史的な文化財ということでパチリ。勉強になりました☆


永原御殿の門

門のひさし

説明板①

説明板②

 日野に向います!

近江戦国の道


思ったより時間がかかってしまったので、テンポアップして次なる目的地に向かいます。目指すはキリシタン大名 蒲生氏郷の故郷、日野!

まっすぐに続く道は近江戦国の道と名づけられていて、ごうごうと風が吹き抜ける中走ると、気分は戦国武将。

風雲急を告げる時代、この道を走り抜けて行った武将たちはどんな思いを抱いていたのでしょう。

日野川ダム公園


日野の町に入ると急に商店が多くなり、道幅が狭くなります。これは古くからの城下町の特徴。細い道なのにバスも通るので、運転は要注意です。

しかしその城下町の尽きる所、日野城のあった辺りに来ると、たちまち静かな雰囲気に。日野城址の一部はダム湖の下に沈んでいるのです。

日野川ダムは公園として整備されていますが、この天気のせいか人気(ひとけ)はほとんど無し。駐車場に車を停めて城跡を探します。

日野城址


日野城は正確には中野城という名前で、他の多くの城と同様、現在は石垣と遺構が少し残っているのみです。

織田信長の娘婿であった蒲生氏郷は、本能寺の変の一報を聞きつけると、早速安土城に向い、信長の妻子を引き連れてこの城に匿いました。

その時戦上手だった氏郷がそのまま安土城に籠城していたら歴史は違っていただろうといわれています。

日野城石垣


蒲生氏郷はこの城で城主の嫡男として生まれ、12歳の時岐阜にいた織田信長の元へ人質に出されました。

しかし氏郷の才気を見込んだ信長は、自らの三女冬姫と結婚させ、元服の際には後見人役になって岐阜城で式を執り行うほどでした。

氏郷は信長亡き後、秀吉に仕え、松阪城や会津若松の鶴ヶ城を築き、その城下町で商業を大いに繁栄させました。

日野城址の神社


氏郷は又茶人としても知られ、利休七哲の筆頭に数えられています。利休切腹の折に、その子少庵を会津に匿ったことから、今も顕彰されています。

氏郷がキリシタンになったのは、同じく利休七哲の一人である高山右近の強い勧めがあったからです。

2人の友情は生涯変わらず、氏郷が伏見で亡くなった時にも右近が傍らにいて、信仰の平安のうちに逝けるように看取りました。

物見櫓跡に建つ神社


現在日野城址にあるのは、建造物としては石垣と2つの神社のみです。

有名なキリシタン大名の城であるにも関わらず、神社ばかりというのは・・・ですが (・ε・)

先日の新聞に載っていた若い女性による戦国武将人気ランキング(@@!)で、蒲生氏郷は4位でした。

どんなランキングじゃいとツッコミたくなりますが、ま、人気があるのはいいことですね♪

 日野の史跡めぐり

日野には蒲生氏郷ゆかりの史跡がほかにもたくさんあります。
日野城址以外の場所はそれほそど離れていないので、徒歩でまわることもできそうですが、
今回は時間短縮のため車でGO! まずは会津若松という名の由来となった場所に行きます♪

馬見岡綿向神社


蒲生家ゆかりの馬見岡綿向神社(うまみおかわたむきじんじゃ)は、もともと山頂にあったものを平安時代にこの地に移したものだそう。

山一つ越えたら京都という立地のためか、近江は昔から人々が文明に触れて暮らしてきた土地なのだと感じます。

長い参道の先にある鳥居も、鴨居部分が綱で渡された形で、これは現在の形になる前の昔の鳥居の形です。なかなか珍しいものに出会えました。


日本古来の形の鳥居

相撲櫓

氏郷も見た?巨木

若松の森跡


この神社の参道にあった若松の森にちなんで、氏郷はそれまで会津黒川と呼ばれていた地を会津若松と改めたのだとか。

この参道は当時松の森に覆われていたんですね。とても神聖な雰囲気だったことが想像できます。氏郷は松のどこに惹かれたのでしょう。

会津若松にある鶴ヶ城の名は自分の幼名からつけたといわれていますが、松も鶴も縁起がいいことはもちろん、不変性を表す象徴。

変転の激しい戦国時代にあって、氏郷は変わらないものに惹かれていたのかもしれませんね☆


若松の森の説明板

参道

参道脇の松

信楽院


次に訪れたのは氏郷の菩提寺である信楽院(しんぎょういん)。本堂は県指定の文化財だそうですが、私が驚いたのは山門に施された透かし彫り。

境内の鐘楼も、素人の私が見ても価値がわかるほど、なんとも形容しがたい美しさがあります。色彩は地味なのに、あでやかな印象。

見上げた形も花が咲いているような。
こういうのを「美」というんだなと思ったりして☆


信楽院の説明

門の透かし彫り

孔雀の透かし彫り

門の金具

扁額

本堂

鐘楼

鐘楼

氏郷の遺髪塔


しかしここを訪れたのは寺院建築を見るためではなく、墓所を訪れるため。ここには氏郷の遺髪を納めた墓塔があるのです。

境内から左手に小さな門があり、そこを抜けると墓地に出られます。いつも墓地をウロウロしている私たちは、時折奇異の目で見られるのですが、今回はお彼岸なのでOK!堂々と(?)入っていけます。

氏郷の遺髪塔は墓地の一番奥にありました。若くして亡くなった大名は、安らかにこの世を去れたのでしょうか。


信楽院入口

墓地入口

氏郷の遺髪塔

氏郷の遺髪塔

日野の町歩き


信楽院のまわりは昔ながらの町並みが保存されている地域でもあります。土蔵の白壁や古い瓦屋根を見ながらちょっと町歩き。

茶人としても有名な氏郷が茶の湯に用いた湧き水を目指します。o(゜ー゜o)。。。。てくてく

日野商人が闊歩していた頃、ここは経済的な豊かさを背景に文化水準も高い町として栄えていたんだろうなと、歩いてみて感じました。

町並みにも家のたたずまいにも、心なしか品を感じるというか。

若草清水


歩いて5分ほどで湧き水に到着。若草清水と呼ばれており、今も透明な水が湧き出ています。

まわりには田園風景が広がっていて、とてもいい感じ♪ 
昔の文化人は自然をうまく取り入れて暮らしてたんだなぁ。

命をはった時代に、繊細で優しい心を忘れないでいたことが武士であり茶人でもあった氏郷の魅力のような気がします。


若草清水の説明

若草清水

まわりの風景

清水

 いざ鯰江へ

お昼頃になったら少しは暖かくなると見込んでいたのに、
昼が近づくにつれてどんどん風が強くなってきて、
避難するように車に乗り込むこととなったお気楽夫婦(私たち)

朝ポットにつめてきたお茶で暖をとって、次なる目的地をナビにセット。
安土方面に向いながら、途中にある鯰江(なまずえ)という所に寄りたいと思います。
いざ鯰江へ (/*⌒-⌒)o レッツゴー♪

鯰江城址


バス停「鯰江」の向い側にあるのが鯰江城址。平安時代からの名家佐々木氏が逃げ込んだ城です。

蒲生家は代々佐々木家に仕えてきましたが、佐々木家が信長に対抗したため、氏郷は信長に従って元主君であった佐々木家を討ちました。

ここは氏郷が元主君を攻めた城。その時滅ぼされたまま再建されることはなく、現在は住宅地になっています。
若き日の氏郷はここで何を感じたのでしょう。

バス停「鯰江」


鯰江城址を見つけて、喜びいさんで車外に出たところで襲ってきたのが強烈な牛糞スメルΣ(□`;)!
ああ、春なのね;; これが農村なのね;;

もう一つ驚かされたのは、城址のすぐ横にある大きな地図。個人情報の保護が叫ばれるこのご時勢に、戸主の名前が完全公開されてます@@;

それくらい悪い人のいない地域だということでしょうか・・・てか、この臭い、限界です;; 
もっといたいけど早めに退散します。


鯰江城址の碑

説明板

説明板と城跡

史跡全体

 そして安土へ!

永原、日野、鯰江といろいろ巡ってきましたが、
次はとうとう安土! 今回の旅行のメインディッシュです☆
鯰江を過ぎた辺りから天候もよくなってきて、お日様も顔を出しました。

これなら安土城の大手道もちゃんと登れるかも。
天のご加護を願いつつ、車を西に走らせますъ( ゜ー^)♪

安土城郭資料館


まず訪れたのが安土城郭資料館。

情報誌では駐車場5台となっていたので、車を停められるか心配だったのですが、駐車場は拡張されている上、休日だというのにそれほど混んでいません。

天気予報が雨で、午前中もずっと小雨が降っていたから、お出かけの予定をずらした人が多いのかもしれませんね。
感謝でございます☆

安土城模型


入場料200円を払って中に入ると、目に入ってくるのが安土城を20分の1のスケールで再現された安土城の精巧な模型。

「ただいま分かれておりますので、間に入って中の様子をご覧いただけます」
と言われて、「?」と思っていたのですが、20分後にその意味が判明。

観光バスがバックするときみたいな音を出しながら、真っ二つの城が合体!
ちょっと見ものです (ノ゜⊿゜)ノ


これと

これとが

近づていき・・・

一つに!

屏風絵の再現


もう一つの見ものは、信長がイエズズ会の巡察師ヴァリニャーノ神父に贈呈した屏風図を再現した陶板壁画。

この屏風、ローマ法王の元に贈られたはずなのですが、行方不明となり見つかっていません。

屏風絵には安土城の様子が描かれていたので、見つかれば「幻」といわれる安土城の様子が詳しくわかるはずなのですが。


屏風絵の説明

安土城下町の説明

安土城下の部分

セミナリヨの部分

2階から見た安土城模型


2階建ての館内は、こじんまりとした感じですが、安土城址に行く前の情報収集にはもってこい。

3年の年月をかけて建てられ、たった6年で地上から姿を消した安土城。

今残っているのは石垣と近年発見された大手道くらいなので、ここでイメージをふくらませて向かうのが良さそうです☆


肖像画の説明文

宣教師が描いた信長

信長肖像画について

2階の展示

相撲櫓(すもうやぐら)


安土城郭資料館から出ると、駐車場との間にあるのがこの相撲櫓。安土駅の南側の公園の中にあります。

信長は大の相撲ファンとしても知られ、相撲興行を主催したこともありました。

これが近代相撲の発祥となったといわれているのですから、偉人の残した足跡はいろんな分野に及ぶものなんですねえ (*゜。゜)ほーっ

 安土セミナリヨの跡

安土セミナリヨ跡


資料館から安土城方向に進む道の途中で、細い道に折れていくと至ることができるのが安土セミナリヨの跡。

安土城と同じくらい、いえそれ以上に来たかったのがここです。

安土城にほど近い場所に、信長から土地を与えられたイエズス会の宣教師たちは、ここに3階建てのセミナリヨを建てました。

セミナリヨとは小神学校のこと。司祭を目指す青年たちの学び舎です。


セミナリヨ史蹟公園碑

公園となっています

公園の様子

セミナリヨの説明

安土セミナリヨと三木パウロの碑


日本初のセミナリヨが建てられたこの地には、信長自身もよく訪れて、神学生たちが奏でる音楽に耳を傾けたり、話を聞いたりしたそうです。

のちに長崎で殉教し、日本26聖人となった三木パウロは、この神学校の第一期生でした。

その後の運命を知らぬ若きキリシタン神学生たちは、神の愛に触れる希望にあふれた日々をここで過ごしていたのでしょう。


石碑

碑文

碑の裏手

セミナリヨ公園脇の水辺


1582年の本能寺の変に続く混乱の中、安土城炎上と時を同じくしてセミナリヨも焼失しました。

しかし大臼(ダイウス=ラテン語でデウスは神様のこと)という地名が残っていることから、ここがセミナリヨがあった場所であろうと推定されています。

聖地として保存したいという教会関係者からの熱望を受けて、この土地を町が買い上げて1975年、セミナリヨ史蹟公園として整備されました。

大臼の地名を表す木碑


公園入口の石柱は白柳大司教の揮毫によるもの。白柳大司教は2008年の列福式の司式をなさった方です。大司教は、私たちがここを訪れる数ヶ月前、2009年の末に亡くなりました。

歴史ある場所を記念として残す事業にも又、歴史があるのだと感じさせられます。

古地図にはダイウスの他にもシュノミザ(主の御座?)という表記もあります。

神学校だけでなくこの辺り一帯にキリシタンも多く住んでいたのではないでしょうか。


ダイウスや

シュノミザという

地名は

この辺りだった?

 ちゃんと登れるのか、安土城 !?

安土城址入口


旅行の計画段階から、一番の懸案事項となっていたのが、果たして私は安土城に登れるのかということ。

体力に自信がないことに加え、坂道が特に苦手ときてるので、できれば山登りなんてことは避けて通りたいわけです (≧ヘ≦)

しかし入口で入場料500円を払ったら、気持ちが変わりました。登らなきゃ損じゃん! いくぞー。

大手道


いきなり始まる登り道に、数段でバテる私(体力なさすぎ;;)
ここはゆっくり進むことにしましょう。

平成元年から20年計画で進められた安土城の発掘調査による最大の成果は、この大手道の発見。普通城への道は、敵の侵入を防ぐために細くしたり曲げたりするのですが、安土城への道はまっすぐ。

幅6mの石段が麓から130mにわたって直線で山腹まで伸びているのは、信長にとって国内にもう脅威となる対抗勢力がなかったからではないかと考えられています。

よいしょ、よいしょ・・・


重たい体を持ち上げながら、よいしょ、よいしょと一段ずつ登っていく私を横目に、元気な中高年がどんどん先に進んでいきます;;

登っていく途中、私を追い抜いて行かなかった人は一人もいませんでした。つまりダントツ1位のビリッケツ。我ながら哀れです (/□≦、)エーン!!

しかし天気だけは私の味方(あ、付き合ってくれてる夫もw)
空は晴れ渡り、ぽかぽかとしてきました♪

石材として使われている石仏


道のそこかしこに使われているのが、石仏。というか、元石仏?
石材として使っちゃったようです。

仏僧の堕落を非難し、迷信を信じなかった信長らしいですね。ちなみに秀吉も大地震の後に、「この役立たず!」と大仏に矢を射ったとか。

戦国時代は価値観が大きく転換していった時代。生臭坊主とご利益信仰の宗教界も、転換すべき時を与えられていたのかもしれません。


安土城址の説明①

説明②

石材とされた石仏を

5体ほど発見

伝秀吉邸跡


登って行く唯一の楽しみが、羽柴秀吉屋敷跡、前田利家屋敷跡、徳川家康屋敷跡などと伝えられる場所が左右に現れること。

いずれ劣らぬ戦国時代のビッグネームが屋敷を構えていたのかもしれないなんて、歴史好きには胸躍るものがあります。

ただし建物の痕跡はあっても、個人を特定する出土品は見つかっていません。安土城の発掘はまだ1割程度しか進められていないそうです。


伝前田利家屋敷跡

屋敷の出入口跡

説明板①

説明板②

眺望はso good!


休み休み登ってふと振り向くと、眺望はso good!
この眺めにも励まされます☆

当時の安土城は、三方を琵琶湖に囲まれた山の上に、ちょうど湖に突き出た格好で建てられていたのだとか。

なんとも壮観で、人の手によるものとは考えられないくらい奇抜な光景だったでしょうね。信長という人の美意識というか、スケールの大きさが感じられます。

焼けた跡が残る黒金門の石垣


山腹で西に直線に折れた大手道は、百々橋(どどばし)口道と合流した所で山頂に向き、黒金門で今度は東に曲がります。

この黒金門があった場所から先は、天主や二の丸、三の丸といった中枢にあたる場所。黒金門跡に残る石垣は当時からのもので、焼けた跡が見られます。


黒金門の説明①

説明②

当時からの石組み

石垣

信長の墓所


本能寺の変でこの世を去った信長の墓所は、京都の本能寺(本能寺の変があった場所とは異なる)、大徳寺総見院、妙心寺、阿弥陀寺にありますが、ここにも秀吉が建てた信長の墓所があります。

遺体は確認されていないので(阿弥陀寺に葬られたという説もあるが)、墓所というより菩提を弔うために建てられた供養塔というのが適切かもしれません。

誰もが知っている日本史上の英雄なのに、死んでどうなったかはっきりとわからないとは奇妙な話です。

天主台跡



安土城の天主があったとされる場所には、現在礎石が残るのみです。
立ってみるとそれほど広くもないこの場所に、壮麗な建物があったとは、ちょっと想像できません。

天主の礎石


天主台は不整形の八角形をしており、その中にほぼ正方形の礎石が並んでいます。そのため天主の1階部分が八角形だったとする説と、四角形だったとする説とが唱えられています。

私が気になるのは「天守」ではなく「天主」と名づけたところ。当時のキリシタンは神様のことを「天主」と呼んでいたのです。

「信長は自らを神として拝ませようとした」という説を、今まで私は「まさかー」と思っていましたが、ここに来てみて、それが急にリアルに思えてきました。

眼下に広がる田園


石垣の上に上ると、眼下に広がる田園地帯。昔はここは湖でした。信長はここから船を出して京都に行ったのです。

今日は晴れているのに山頂には風が強く吹いていて、立っているのがやっと。三方が湖だった頃はもっと冷たい強風が吹きつけていたのでしょう。安土城を建てる工事では多くの人命が奪われました。

国中の石材と優良な木材を集め、難工事を強行し、有力者たちには城への道筋に屋敷を建てさせた、その強引さ。そこからは専制君主特有の自意識の強さが感じられます。

安土城から見上げた空


安土城の天主には仏教道教儒教の世界が描かれた間があり、その上に自らが座する部屋があったと推定されています。

安土城を信長の案内で見て回った宣教師ルイス・フロイスは、信長は安土城内に信長自身を表す「梵石」と称する大石を置いて、家臣や領民に拝ませようとしたと記しています。

キリストを信じ、命を捨てでもその救いをのべ伝えようとする宣教師たち。彼らの話を聞きながら一体信長は何を考えていたのか。

頂上からの眺め


イスラエルの一人の男が救い主として信じられているならば、自分がその位置に取って代わればいいのではないか。そうすれば世界を手に入れることも夢ではない――。

事実信長は日本を統一した後に、朝鮮、中国を侵略しようと考えていました。その後の歴史や世界の広さを知っている私たち現代人は「そんな無茶な」と思いますが、信長にとってはどうだったでしょう。

尾張の小大名の息子として生まれたにも関わらず、天下統一を目前にしていた信長にとっては、世界の片隅から覇者が出るという筋書きは、無茶でも誇大妄想でもなかったのではないでしょうか。

安土城石段


無事に頂上まで登れてハッピーなのに、石段を下りながら、徐々に虚しい思いに捕らわれていきました。安土城は日本のバベルの塔みたいだと。

旧約聖書に書かれたバベルの塔は、人が天にも届かんと建てた高い塔。その心の傲慢さゆえ、神はその塔を崩して、戒めとしたのです。

そう考えるなら、安土城は、今そこにないことに意味があるのかもしれません。もちろん私は歴史家ではなく、ただそう感じただけですが・・・☆

 文芸の郷セミナリヨ?

安土城址から車で5分ほどの距離にあるのが、文芸の郷とよばれる複合施設。
ここには文芸セミナリヨ、信長の館、あづちマリエート、安土城考古博物館などがあります。
セミナリヨの響きに惹かれて、とりあえず向かってみることに♪

文芸セミナリヨ


「なんじゃこりゃ@@」
と思ってしまうような、広大な駐車場と点在するハコモノたち。

建物のない安土城址からやってきたので、なんだか大きな建造物があるだけでカメラを向けたくなってパチリ☆

文芸セミナリヨというそうな。この日はコンサートか発表会のようなものをやっていて親子連れが出入していました。

信長の館


「なんじゃこりゃ@@パート2」ともいうべきなのが、この建物。聳え立つ信長の館は、入るのに勇気がいるような威圧感。

巨大ビックリ箱のような印象です。
「安土城考古博物館との共通入場券720円は、果たして安いのかっ!?」と、賭ける気持ちで入場。

内部には、その巨大な建物いっぱいになる形で、安土城の最上部が原寸大で復元されていました。なんとまあ・・・絢爛豪華でど派手なこと@@

信長の館の内部


幻と消えた安土城の、最上部の5階6階部分を忠実に再現したこの建築物は、1992年セビリヤ万博の日本館に展示され、万博で最も多い入場者を記録したのだとか。

思えば安土城は、日本で最初の天守(天主)を備えた城であっただけでなく、世界で初めての木造高層建築。

「ヨーロッパにもあるとは思えないとても壮大なもの」と、当時の先進国からやってきた宣教師も記録しているほどです。

安土城5階部分


更に驚くことには、この建物と装飾品の全てが、現代の匠たちによって、当時の手法でもって再現されているのです。

釘を一本も使わずに建てられた建物に、発掘された瓦を元に焼き上げられた庇屋根(ひさしやね)を載せ、10万枚の金箔を当時の技法で貼り付けているだけでもすごいのに、金具、天井画、襖絵、外壁の塗り、布の一つ一つまで、現代の名匠による完全なる再現。


建築の様子

金具つくり

金具の工程

彩色

発掘された瓦


「平成のジャパン・オール・スターズによる、一城限りの夢のコラボ」というと、響きが軽すぎますが、正にそんな感じですね☆

美しいツヤの塗りの柱から中を覗くと、信長が狩野永徳に描かせた金碧障壁画(きんぺきしょうへきが)や、天人の飛ぶ様子を描いた天井画が目の間に広がります。

「眼福とはこのことか!」
現代の私でもそう思うくらいなのだから、当時の人にはこの世のものとは思えないくらいの衝撃だったでしょう。

5階の世界観


しかしここで注目してみたいのが、信長という人の内面。実際に作ったのは戦国の匠たちだとしても、それをプロデュースしたのは信長なのですから。

信長は何を考えて、このように作ったのか?

5階は内陣と外陣との2つの部分に分かれ、外側には龍の舞う様子と地獄の図。内側に入ると、魔を破って浄土の道に入り、釈迦が説法する世界に至るようになっています。

最上階


そして5階から階段を上って最上階に進むと、10万枚の金箔を張った外壁の内に、花鳥風月と諸国の人々が描かれ、真ん中には信長の御座が据えられています。

私が敬虔な仏教徒だったら、最上階にお釈迦様を描いてもらうと思います。たとえ自分の城だとしても。

信長が神の位置に自分を置こうとしたかどうかはわかりませんが、彼が滅んだ原因にはその高慢があったことは否めないと思いました。


工事のジオラマ

金箔の鯱

当時の食事

食事の食品サンプル

あづちマリエート


信長の館を堪能し、外に出てくるとカキーンという音と声援が。少年野球の試合をやっているようです。

広い球場の横には、これまた巨大建造物のあづちマリエート。こちらは室内競技場だそう。いろんな施設が集まっているんですねぇ (*゜.゜)

そして私たちが向かったのは、球場の奥にある(遠い;;)レストラン。時刻は午後2時。そろそろお腹がすいてきました。今日もお昼遅くなっちゃったねぇ^^;

信長うどん満喫♪


入口の券売機で戦国焼定食と信長うどんの食券を買い、待つこと10分。
ああ、だしが体にしみわたるー。

夫の注文した戦国焼定食は、要するにスタミナ定食(ま、いいでしょう◎)
私の信長うどんにはお餅など信長が好んだ食材を使っているようでした♪
風は強いけど、日差しは暖かくて、最高だーヾ(@⌒▽⌒@)ノ

旧柳原学校校舎


お腹いっぱいになり、休憩も取れたので、上機嫌で向かったのが、安土考古博物館。敷地が広いので、随分と距離があります。

旧柳原学校校舎など、敷地内にちりばめられた昔の建物などを見学しながら、歩くこと10分。

今までのより更に大きな建造物の、安土考古博物館に到着しました。

うーん、建物のデザインも凝ってて、滋賀県ってお金持ちだなぁ、、、

安土考古博物館


入口を通って中に入ると、弥生から古墳時代の生活を再現している展示室と、安土城などの展示室が両翼に配置されています。

復元された銅鏡や銅鐸を持ち上げる体験は珍しかったけど、全体的に展示品に比して空間が贅沢に使われている印象。つまり建物大きすぎ。

観光に力を入れるのはいいとしても、費用対効果をもっと考えた方がいいような。滋賀の県民税を納めてない私でもそんな風に思っちゃうような建物でした。

 ラストスパートで小谷城!

時刻は3時をまわり、「これからどこかに向かうなら近場だよね」という雰囲気(?)ですが、
ここから高速に乗り、米原を越え長浜市に向かおうというのがお気楽無謀夫婦(私たち)の計画。
車を使えるのは今日までだし、やっぱり小谷城は見ておきたいので☆

だって京極マリアの生まれた城で、蒲生氏郷が攻めた城なんだもん!(興味のない人には、「って言われても・・・?」という感じでしょうが^^;)
時間的に間に合わなかったら麓から見るだけでもいいので、とりあえずドライブ気分でしゅっぱーつ。

小谷城跡の看板


米原を過ぎた辺りから、雲行きが怪しくなり、あっという間に雨模様に。強風で車が揺れるほどです;;

小谷城址の近くまで来ているはずなのに、カーナビには表示されず、どうしよう・・・と思っていると右手に「小谷城跡」の看板発見!

どうやらこの山一帯に、小谷城の各建物が散らばっていたようで、それでナビにも表示されないようです。よくあるお城のイメージと、小谷城のような山城は、全然違うんですね^^;

小谷城大手道


来た道を少し戻って小谷城への標識を見つけ、その麓にある駐車場に到着。城への大手道と書かれた木標を見つけましたが、その手前で通行止め。

きのこを栽培しているので、勝手に入ってもらっては困ると注意が書かれています。えええー、小谷城址って行けないものなの? しかも理由はきのこ@@?

外の気温はどんどん冷えてきて、吐く息が白くなるほど。冷たい雨は風にあおられて、上下左右に吹きつけてきます。ひとまず車に退却すべし^^;


周辺地図

小谷城の地図

駐車場にあった歌碑

大手道

小谷城戦国歴史資料館へ


私「うむぅ、小谷城に行けないなら、近くにある歴史資料館に行ってみようか。さっき案内板出てたし」
夫「外はこの雨だもんねえ・・・」

再びUターンして車を走らせると、資料館の案内板が丁寧に誘導してくれます。道も舗装されたばかりなのか、新しくてきれい。

私「来年のNHK大河ドラマが浅井長政の三女のお江になったから、その効果かもね」
夫「そうなんだー。観光客をあてこんで整備するとは、商魂たくましいのぉ」

小谷城戦国歴史資料館


小さく見えていた資料館に到着してびっくり。何これ!?
つぶれた喫茶店のような古い外観。資料館という感じが全然しません@@;

入ってみてもう一度びっくり。何だ、このニオイは!?
昔嗅いだことがあるこのニオイは・・・小学校のトイレ!!

更に驚かされたのが、展示品の少なさ。大人が作った壁新聞のような説明板に、コピーしただけの肖像画。本物なのは、陶器のかけら2,3個のみ。しかも城で使われていたかどうかは全くもって不明。

この資料館、資料館っていっていいの!?


展示室は入口の両脇に2部屋しかなく、教科書のコピペ程度のことしか書いてないので、あっという間に見学終了。私は5分で見終わりました。写真撮影禁止となってますが、撮りたい物もありません。

浅井三姉妹効果のゆえか他にも2組の見学者が訪れていて、駐車場の台数から察するに、町からかなり離れたこの資料館にバスで来たグループもあるようです。一日に何本もないコミュニティバスに乗って来て、帰りのバスまでの時間ここで過ごすしかないなんて、あまりに不憫。

仕方なく入口から出ようとすると、入口でたむろしながら、ジロジロこっちを見ていたガイドのおじさんたちが話しかけてきました。
「もう帰るの? またおいでよー。来年の大河ドラマでさ、どっと人が来るだろうから」

人が来たって私たちには関係ないのにそんなことを話しかけてくるのは、暇だからでしょう。
資料館の職員でもないのにエントランスに座って、下駄箱ふさいじゃってるし。
頭の中は人がたくさん来て儲かるだろうなという皮算用だけ。あらゆる面で失望しました(><)

入場料は300円!


しかもここの入場料、なんと300円もします。安土城郭資料館だって200円なのに;; 文芸の郷セミナリヨのハコモノ群はお金かけすぎかもと思ったけど、反対にこっちはお金も手間もかけなさすぎ。大体この建物、元は児童館だったのを、様々な理由で転用して資料館としたものだと判明(ニオイの原因はそれだ!)

そもそもこれくらいの展示物で「資料館」と名乗っていいのかが疑問です。個人のミュージアムなら程度や質をうんぬんしませんが、ここは長浜市の施設ですから。

ガイドのおじさんたちは短期的な観点で儲けを期待しているようですが、長浜市の観光政策という長期のスパンで考えると、こういう施設で儲けることは、訪問客の失望を招き大きなマイナスになると思います。キレイなのは道だけなんて・・・(≡д≡)

無料休憩所&お土産屋さんにしてみては?


文句だけ言うのも何なので、ここで一つ提案!
「小谷城ふれあい情報館」「小谷城 戦国感応館」などと名前を変え、小谷城の歴史の勉強もできる無料休憩所にしてみてはどうでしょう?

お土産屋さんを併設して浅井三姉妹のストラップを売りながら、その傍らで地元野菜や特産品も売ってみたっていいわけで。そこで淹れたてコーヒーを180円で出したら、きっと喜ばれると思うし(飲み物を出すならまずあのニオイを何とかせねばなりませんが・・・)

儲かるかどうかはわかりませんが、訪れた人はトクした気分で帰るでしょう。
長浜市さーん(人じゃないけど^^;)、考えてみてくださいね♪


小谷城戦国歴史資料館

資料館前の史跡

武家屋敷群

説明板

小谷城址リベンジ


長浜市に提案したのはいいけれど(長浜の人が見てくれないと意味ないが)、収まらないのがこの気持ち。

やっぱり見たいよ、小谷城!!(標語かっ?)
通行止めの大手道とあの資料館だけ見て、小谷城に行った気になれという方が無理というもの。

大手道の駐車場の脇に山に伸びる側道があったので、もう一度戻って、そこから上って行ってみると、おお、ありました。上にも駐車場が!

車が入れるのはここまでですが、歩いて登れば本丸とかも見られそうです☆

美しい夕暮れ


案内図から数歩、山の際に出ると、太陽が地平線ぎりぎりで最後の光を放っていました。久しぶりにキレイな夕暮れが見られてちょっと感激♪

しかし・・・音声をお届けできないのが残念ですが、
ゴゴゴーっと凄まじい風が大音響を上げて吹き抜けていきます。

暴風が折りたたみ傘を表に裏に交互にひっくり返して用をなさず、霙まじりの雨が顔面直撃。まるでコント;;

進め!進むのだ!


それでも進むしかありません。

滋賀県なんてそんなに簡単に来られる所じゃない(そうか?)し、小谷城を見られるチャンスだって次いつ巡ってくるかわからないのです。

さあ、進め!進むのだ!
自らを叱咤激励しながら登ります。幸いなことに勾配はきつくありません。

馬洗い池


ただ霙はついに氷の粒に変わり、バチバチと全身に打ち付けてきます。みるみるうちに手が真っ赤になり、開閉するのも困難なほどに固まってしまいました。

なのでここからはかじかんだ手をさすりさすり、震えながら撮ったブレブレ写真ばかりとなりますが、どうかご容赦ください<(_ _)>

こちらは馬洗い池。馬を洗った池だとか(そのままじゃん)。だめだ、寒さで頭が動かない・・・。3月は春だと思ってたけど、これじゃあ真冬です;;


馬洗い池の説明

追手道

番所跡

御茶屋跡

浅井長政自刃の地


山道を更に登ると右手に現れるのが、浅井長政が最期を遂げた赤尾屋敷跡。手前には内通した家来の首をはね、晒した首据石があります。

落城を前に自刃した長政の胸に、最後に浮かんだのは誰の面影だったでしょう。長政の正室お市の方は、この小谷城攻めをした織田信長の妹でした。

城が落ちる寸前に信長軍に降りてきたお市の方とその3人の娘が、その後流転の生涯を送ることは周知の如し。家族さえ犠牲にするのが戦国の世でした。

そしてこの戦いに加わった武将には蒲生氏郷もいました。若き武将の心にも苦いものがあったと思います。氏郷は信長の婿だったのですから。


赤尾屋敷跡

首据石

大広間跡

大広間跡説明板

本丸跡


わずかに石組みが残るのみの本丸跡。
寒さも忘れて立ちつくしました。
あまりに寂しく、もの悲しい光景です。

長政が戦いの前まで暮らしていた建物がここにありました。長政の姉であり、最後まで信仰を貫いたキリシタン女性京極マリアもこの城で生まれ、育ちました。

浅井三姉妹も少女時代を過ごし、城を駆け回って無邪気な声を上げていたのではないでしょうか。

多くの人が暮らしたはずのこの場所に、今では命の痕跡がまったくありません。体よりも心の芯が冷えてくるような、そんな感じがしました。


浅井家供養塔

本丸への道

本丸跡

説明板

 小谷城が最後って言いましたっけ?

ラストスパートで小谷城と言いましたが、最後とは言っていません。
そう、もう一ヶ所行かねばならない場所があるのです!
せっかくここまで来たんだしね。さあ、姉川古戦場跡に向かうぞー p( ̄ー ̄\)☆ミLetsGo!

姉川古戦場跡



小谷城からほど近い場所に、姉川古戦場跡はあります。
ここは浅井・朝倉連合軍が、織田・徳川連合軍と戦った場所。
この川を挟んだ両岸に布陣し、4万7千人が死闘を繰り広げました。


周囲には血川、血原、千人斬りの岡とよばれる場所が残っています。

この合戦にも氏郷は参戦していました。
戦国の武将たちは、一体何を得ようとしてそこまで戦ったのでしょうか。

力、領土、名誉、保身、富、栄華、野心、権能・・・
命を失う時には、すべてが虚しいものだったとわかっただろうに。

日本に福音が入ったこの時代は、この国に最も救いが必要な時代でもあったといえるのではないでしょうか。


現在の姉川

バス停横に慰霊碑

血川、血原の地名

布陣図

ガチガチガチ・・・


姉川古戦場跡を見終わって、高速に乗ろうとしていると急に日が落ちていきました。
今日も見るべき所を見終えるまで、日の入りを待ってくれたように感じて感謝。
そうであってもなくても、感謝だけは忘れたくないので☆

無事守山駅前のレンタカー屋さんに車を返し、西友で夕食を買ってホテルに帰る道、
信号待ちのほんの3分ほどの時間でも、耐えられないくらい冷えて冷えてガチガチガチ・・・。
冗談みたいに歯の根が合いません。こんなに震えるのって、子供の時以来かも。

今回の旅行、薄いセーターとスプリングコートで来たのは大間違いでした;;
いつも温和な天気予報士が「連休中の天気は大荒れ。山に行くのは自殺行為です」
と言っていたのを思い出しました。専門家の言葉はよく聞くべきですな(後悔先に立たず・・・)

それでも明日もこの服装でまわらねば。
天のご加護を願いつつ、今日も感謝でおやすみなさい♪
長いページを読んでくださって、ありがとうございます <(_ _)>ぺこっ

インフォメーション
京都教区内キリシタン遺跡(滋賀県など)
日野町観光協会HP
滋賀県観光情報
馬見岡綿向神社公式HP
安土町観光協会HP「安土周遊」
長浜観光協会HP


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