駿府キリシタン秘抄Ⅰ |
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<本日の主な訪問地> |
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蓮華寺池公園静岡は何を隠そう私の夫の生まれ故郷。 高校までの18年間を県内の各地を転々としながら過ごしたのだとか。 なので静岡の様々な場所に思い出がいっぱい。 高校時代の思い出の地、蓮華寺池公園に連れて行ってもらいました♪ 見頃を迎えると壮観だとされる藤は一本も咲いていないけど、いい感じの公園です。 |
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静岡の中心へさて、軽く感傷にひたったところで、今日の本題に! やはりキリシタンですもの、私の目的は!! 家康の住んでた駿府城にイエズス会とフランシスコ会の修道院、ヨハネ原主水におたあジュリア、殉教地だってあるのが静岡なのです。 訪れたい所はたくさんあるけど、帰省のついでの時間しかないので、自由時間は今日の午後のみ (×_×) それでも必ず行くべき所には行けるように祈って、まずは静岡の中心地へ☆ |
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駿府キリシタン殉教之碑静岡県静岡市、この県庁のある街の中心部にあるのが駿府キリシタン殉教之碑。 一番行きたい場所に最初に向ったので、いきなり殉教地に到着してしまいました。 言葉を失う夫。この辺りはお正月とかによく通った道筋だそうで・・・。 自分の故郷や馴染みのある所が殉教地だったと知った時って、かなりショックです。私もそうだったので、夫の気持ちはよくわかります。 何も感じずに生きてきたことや、クリスチャンになってからも知らなかったことなどが、どどっと重苦しい波となって覆ってくるのです。 安倍川河原だったこの付近の地で、ヨハネ原主水は額十字の焼印を押され、指と足の筋を切られました。1616年に同じ刑を受けたキリシタンの町人6名は、2名が一昼夜のうちに死亡し河原に埋められたと記録されているので、その苛烈さのほどが知れます。 命を取り留めた原主水は、河原にあったハンセン病者の小屋で介抱され、回復すると江戸に向かいます。 立つこともできない不自由な体で浅草の施療院で患者の世話をしていたのを密告され、小伝馬町の獄へ。札の辻で火焙りになり殉教しました。 本当に壮絶で、、、言葉を失うのが正常だと思います。 |
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駿府城下をしばらく黙って碑を見つめていた夫ですが、私に促されて次なる目的地へ。 殉教者がいたということは、それだけキリシタンがいたということ。そう、駿府城下には多くの信徒が住んでいたのです。 1607(慶長12)年のイエズス会の記録には120人のキリシタンがいたとあり、1611(慶長16)年には市中に700人の信徒が暮らしていると書かれています。 つまり家康がキリスト教禁令を出すまでは、キリシタンが栄えていたといってもいいほどの状況だったわけで。イエズス会もフランシスコ会も駿府城下に修道院を持っていました。 |
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川越(かわごし)町「この辺だったはずなんだけどなぁ・・・」 川越町の住所表示を見つけてキョロキョロする私を置き去りにして、通りの向こうに渡っていく夫。 「ちょっと待ってよー (◎`ε´◎ )ブーブー」 こんな所ではぐれたくないので追いかけていくと、どんどん小道の奥に。 あまりこんなことはないので、「なんじゃろう?」と思って小走りでついていくと、小さな公園が。 「あった」 夫が指さす先には「この付近駿府キリシタン聖堂跡」の碑が・・・! |
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駿府キリシタン聖堂跡「えー、うそっ!!」 目にしている物が信じられず、見ているのに「うそ!!」と言ってしまう心理、これを事実否認の心理というとか・・・いや、そういうことじゃなくて。 出身者に与えられる能力なのか導きなのか、よくぞ見つけ出したことよ、予備知識もなしに (・0・*) それに、ほんとに信じられません。こんな小道の奥の小さな児童公園の片隅に碑を建てるなんて。もっと気の利いた目立つ場所が他にあるでしょうに・・・。 私が考えるに、観光名所としたいならこんなわかりにくい場所に建てるはずがない⇒ということは実際にここにあったから、ここに建てたのだ!という結論に。 現在の川越町にあったのは、イエズス会の駿府修道院と聖堂。 碑には「聖堂跡」ということ以外何も書かれていませんが、建てられたのは1611(慶長16)年で、同宿のジュアン道寿とペトロ角助が住み込みで主の御用に当たっていました。 ただここの名義人がパウロ岡本大八というキリシタンで、この人が収賄事件で訴えられたことが家康のキリシタンに対する心象を悪くし、禁教令につながっていくのですから・・・恵み深いとばかり言ってられません;; |
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フランシスコ会の修道院跡は・・・さてさて、それではフランシスコ会の修道院はどこにあったのかということですが、修道院のあった竹屋小路は現在の西草深町にあたるので、まずはそこへGO! 城下町特有の入り組んだ小道を一通に阻まれながら行きつ戻りつ・・・西草深町という住所までは来ることができましたが、碑などはなく(たぶん)、跡地を見つけられませんでした。 しかし教会を発見☆ 日本基督教団の静岡教会です。白亜の建物が立派~(写真ボケちゃったけど;;)。 路駐が気になって写真もうまく撮れず、周りもよく観察できず・・・こりゃ、もう一度来なきゃ ヽ(TдT)ノぁぅぅ |
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カトリック静岡教会次に訪れたのはカトリック静岡教会。 駐車場があるので、ほっとします (´▽`) 駿府城の内堀と外堀の間にあるこの教会では、とても印象深い出会いがありました。。。 それは原主水像との出会い。 小坂圭二氏によるこの像は、なんとも形容しがたい精神性にあふれていて、本物の人間に会ったような何か伝わってくるものがあって、ドキッとするほど。 夫も同じ印象を受けたようです。 原主水のこと、もっと知りたくなりました。 キリシタンについても。 |
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駿府城今日最後のデスティネーションは駿府城。静岡県民にとってはいろんな行事等でフツーに訪れる場所らしく、夫のテンションは低め。 一度は行ってみたいという、県外人の気持ちが汲めぬらしい... ( ̄へ ̄) 地方のランドマークって、得てしてそういう扱いを受けていることが多いような。 |
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駿府城下町の古地図しかし今日は自分の出身地でのキリシタンの歴史に触れて、夫も新たな目を開いたらしく、私が「この辺りに原主水住んでたんだよ」と古地図を指すと興味津々でした☆ 下調べをして気づいたのですが、原主水の住んでいた所とシャムに日本人町を築いた山田長政の出生地は至近。もしかしてニアミスくらいはあったかも!? 時代とか場所とか、もっとちゃんと調べないと確かなことは言えませんが、駿府には隠れた(単に私が知らないだけか!?)歴史がまだまだたくさん眠っていそう♪ |
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家康像家康という人物についてもそう。この人がどんな人生を歩んできたかは、静岡を中心とした東海地方に刻まれているんだから、掘り起こしてみなくては。 思えばキリスト教禁教令が発布された時に家康が居城していたのが駿府城。 1611(慶長16)年春に江戸で行われた老職会議でパウロ岡本大八の事件が訴えられたことにより、8月に家康はキリスト教を邪法と決めつけ、翌1612(慶長17)年3月に全国の幕府直轄領に禁教を命じたのです。 |
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本丸堀無論家康のお膝元、駿府でもキリシタンは悪者にされ、修道院は破却され、同宿ジュアン道寿とペトロ角助は奉行所の牢に入れられ、後に安倍川河原で殉教。 原主水と同じ刑を受けて一昼夜のうちに絶命した2人とはこの2人のことだったのです。聖堂跡と殉教地は目と鼻の先。他の信徒らへの見せしめだったことが、歩いてみて、よくわかりました。 しかし信仰の花を咲かせたのは殉教者だけでなく、駿府城に出仕する武士の一人だった原主水は棄教を拒んで半死半生になり、大奥に勤めていた、おたあジュリアは家康の申し出を拒否して遠島になりました。 |
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駿府城の堀この、おたあジュリアは、元々キリシタン大名の小西行長が朝鮮出兵に行って連れて来た少女で、行長の妻が養育して信仰を持つようになりました。 この頃まだ朝鮮には福音は入っていないので、ジュリアは朝鮮族で初めて洗礼を受けた人物とされています。またとってもキレイだったことでも有名。 小西行長が処刑された後、ジュリアは駿府城の大奥づきの女中になったのですが、家康に側室になるように言われても応じず、キリシタンをやめるように命じられても固辞して、新島や神津島に流されました。 ヨハネ原主水やおたあジュリアが見たのと同じ城の石垣を見ていると思うと、彼らがすぐそばにいるような、不思議な感じがします・・・♪ |
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駿府キリシタン家康のお膝元、駿府に歴史が眠っていることなんて ![]() ちょっと考えればわかりそうなものなのに 考えが眠っていて気づきませんでした;; もうちょっと歴史に目を覚まそうと思います。 もうちょっと身近な物事に目を開いて もうちょっと賢くなりたいし もうちょっと悟り深く生きていきたい。。。 過ぎ行く日々を 過ぎ行くだけにしたくない―― この思いを原点に据えたいと思います☆ たぶん帰省の際にちょっとずつ書き加えられていく「駿府キリシタン秘抄」ですが ご愛顧のほど、よろしくお願いします ヽ( ̄ ̄∇ ̄ ̄)ノ ♪ |
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