本文へスキップ

キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

トップページ > 旅行記 > 駿府キリシタン秘抄ⅩⅠ

 駿府キリシタン秘抄 ⅩⅠ


        今日は一週間に及ぶ旅の最終日。
        連日運転してくれた夫は、明日から仕事なので
        無理はせずに帰ろうと思っています☆
        ポイントを絞って、レッツゴー ъ( ゜ー^)♪



マンホールの蓋


まずは徒歩で沼津城跡へ!
「冴ゆる」という言葉がぴったりな寒空の下をてくてくと参ります。

足元のマンホールの蓋には富士山が。沼津からは近いですからね♪

沼津城跡


10分ほどで城跡に到着。

沼津城(三枚橋城とも)はJR沼津駅前にあったので、実は歩いてきた辺りも全部城跡。

本丸跡は中央公園となっていて碑と説明板が建てられています。

ここには、清洲城主だったときに城下にキリシタン寺の建設を許した松平忠吉が住んでいた・・・はずなんですが、説明板には松平忠吉のことなど書かれてませんね (;^_^A

松平忠吉とキリシタン


浜松城で生まれた家康の4男 松平忠吉は、わずか2歳でこの城の城主となり、その後10年ほどを当地で暮しました。「沼津城跡」碑の周りに並べられている石は、沼津城が三枚橋城とよばれていたときの石垣。忠吉の姿を目撃していたかもしれませんね。

長じて関東に移封され、関ヶ原で戦功を挙げて清洲52万石城主となりました。それでそのとき城下に集まっていたキリシタンに教会を建てることを許可したわけです。しかし1607年、忠吉は27歳で死去したので、その後保護者を失ったキリシタンは清洲から逃れていくようになりました。

しかしキリシタン嫌いの家康の子でありながら、キリシタンに好意的だったことは瞠目すべきことかと。あー寒いけど来て良かった☆


沼津城跡

沼津城跡説明板

沼津城

沼津城について

高札場跡


中央公園のすぐ近くには、橋かどうかもよくわからなくなっている「三枚橋」があります。

昔はお城のそばを通る街道沿いで、最も賑わいのあるところだったのでしょう。それでここに高札場が建てられていました。

今は川もほとんどが暗渠となって、大型トラックが轟音とともに走り去っていくような、殺伐とした雰囲気になっています。


旧東海道

川郭

三枚橋

三枚橋と川

富士山、近っ!


ふと見ると、ビルに紛れて富士山が(゜O゜;

派手なホテルの肩越しに見る富士山を、趣き深いとは言えませんが・・・。

沼津市民はこんなに富士山を間近に見ているんですね。富士山に対する思いが強くなるのも頷けます♪


 沼津の教会めぐり★

カトリック沼津教会


それでは恒例の教会めぐりへ☆

まずはカトリック沼津教会。一見体育館のような丈夫そうな建物に大きな十字架がついています。

伝統がありそうですが、聖堂は新しいですね。建てられてから数年しか経ってないように見受けられます。

カトリック沼津教会

カトリック沼津教会

カトリック沼津教会

カトリック沼津教会

聖公会 沼津聖ヨハネ教会


続いて日本聖公会 沼津聖ヨハネ教会へ。

教会付属の四恩幼稚園が隣にあります。「四恩」は「シオン」と「四つの恩」を掛けているんでしょうか。

真っ白な壁が清らかさを感じさせます♪


沼津聖ヨハネ教会

聖イエス会 エペソ教会


教会めぐりを終えてお寺に向おうとしていたら、教会を発見。聖イエス会のエペソ教会だということです。

大槻武二という人によって創立された、ホーリネスの流れをくむ教会ですよね。

携挙(空中に引き上げられて主に会うこと)とメシア再臨を説いています。たくさんの人が集っているように見えますね。


聖イエス会エペソ教会

聖イエス会エペソ教会

妙伝寺


次はお寺へ。1601~1613年まで沼津城主だった大久保忠佐(ただすけ)の墓がある妙伝寺です。

沼津市のHPによると山門を入ってすぐ右手にあるのが大久保忠佐の墓だということです。他のHPには向っての左手のが墓石だと載っていたので、灯籠の右手にあるのがそうみたいですね。

大久保忠佐は家康の父 広忠の時代から松平・徳川家に仕えた武将。山田長政は日本にいた頃、この大久保忠佐の家臣でした。

1613年忠佐が77歳で死去すると、沼津藩は無嗣断絶で改易となり、やがて沼津城も廃城となりました。幾多の戦いを生き抜いて出世して、城主にまでなっても墓石しか残らないんだから・・・虚しいものだなと思ったりして。

大久保家とキリシタン


ついでに言いますってーと、大久保忠佐はキリシタンとの関わりは特になかったようですが、大久保家はキリシタンと浅からぬ関わりがありました。忠佐の甥にあたる大久保忠隣(ただちか)は、後に大久保長安事件に連座して失脚させられるのですが、自身の家臣である長安を抜擢し「大久保」の苗字を与えたのは忠隣でした。そして忠隣はキリシタン討伐を命じられ大坂に向う途中で改易され、許されぬまま生涯を終えました。

大久保長安はキリシタンにならなかったものの、宣教師と親しく、逆に大久保忠隣はキリシタンの迫害者として知られています。また大久保忠隣の5男成尭はキリシタン城主として梅縄城にいました(詳しくは駿府キリシタン秘抄Ⅴに♪)。

大久保忠隣の改易で将来を断たれたかに見えた忠隣の息子たちでしたが、忠隣の正室が石川家成(大垣城主)の娘だったことから、忠総と成堯を家成の養子として石川姓を名乗らせるようにし、忠総は大垣城主にまでなったのです。

そしてこの石川家成には石川康通(やすみち)という嫡男がいたのですが、この人がキリシタン大名でした。晩年に洗礼を受け1607年に54歳で亡くなったのですが、嫡子が幼少であったため父 家成が康通の跡を継いで大垣城主になりました。

それで家成の死後忠総が大垣城主となったわけですね。ほんとにややこしいですが・・・(T▽T)

以上まとめますと、大久保忠佐の親戚にはキリシタン武将が2人と迫害者が1人いたということです☆


妙伝寺

妙伝寺

妙伝寺

 では裾野に寄って御殿場へ d(o⌒∇⌒o)b

不二聖心女子学院


それでは沼津を後にして、裾野市を経由して御殿場方面へと向かいます。

裾野に寄りたかったのは、こちら(←)の不二農園に来てみたかったからですが、今日はお休みのようです。

不二農園は不二聖心女子学院に隣接した農園で、学校法人聖心女子学院の直営。去年100周年を迎えました。

元々ここにあった茶畑を関西財界の有力者で聖公会の信徒だった岩下清周(きよちか)が受け継ぐことになり、地元の子どもたちのために私財を投じて「温情舎小学校」(不二聖心の前身)を建てたのが始まりなので、学校よりも農園が先だったわけですね。

清周の長男がカトリックの岩下壮一神父に、三女の亀代(きよ)が聖心会の修道女になった関係で、同校と農園は戦後、聖心会に引き継がれ、今日に至っています。

岩下神父と御母堂のお墓が今も学園内にあるそうで、校舎内にも「岩下コーナー」という展示室が新設されたということなので、一度見てみたかったのですが。冬休み中ですから難しそうですね。

また来ますー。いえ、来させてください♪ 国産の紅茶とそれを使ったお菓子が好評なようです (ёё。)ウフ


不二聖心

不二聖心

神山復生病院


さて御殿場に来たのは、神山(こうやま)復生病院にある復生記念館を見るため・・・、だったのですが、記念館は現在修復中で見られないということです...(;゜⊿゜)ノウソー

そんなこと公式HPに微塵も書いてなかったのに。しかも建物の修復は来年まで終わらないとか。。

聖堂


臨時に復生記念館の別館をオープンさせているということですが、生憎今日は解説員がお休みなので見せられないとのこと。

不二農園に続いてこっちも空振りだなんて、今日は何だかツイてないなぁと思っていたら、「私でよければ」と、案内を引き受けてくれるシスターが現れました。天の配剤に感謝です。修道院の方から来てくださるのを待ちながら、しばし見学。病院は今はホスピスなので静かな雰囲気です。

遠藤周作の「わたしが・棄てた・女」を原作にした音楽座のミュージカル「泣かないで」の舞台美術は、ここの竹林をイメージしていたんだと気づきました。舞台美術を担当した朝倉摂さんは去年死去してしまったけれど、作品を通して近しく感じるのだから不思議なものです。


病棟

聖堂

樹齢百余年

キリスト像

復生記念館は閉鎖中;;


資料を元に精密に修復しているため、通常より時間がかかるということですが、シスターが案内してくださったので、この期間も恵みだと感じました。

岩下神父の遺したものや、文字通り日本の土となった宣教師さんたちの写真を見るだけでも涙が出てきます。

神山復生病院は1889年、パリ外国宣教会のテストウィド神父によって始められたハンセン病患者のための治療所。1943年に開発された特効薬プロミンによりハンセン病は不治の病から治る病になりましたが、それまでハンセン病患者は人々から見捨てられ、国は患者たちを隔離する政策を取っていました。

ハンセン病患者と共に歩んだ井深八重


1919年、22歳の一人の女性が神山復生病院に送られてきました。彼女の名前は井深八重。父親は国会議員で、伯父 井深梶之助は明治学院の総理という名家に生まれ、彼女自身も京都の同志社女学校を卒業後、長崎で英語教師をしていた才媛でした。しかしハンセン病であると診断されたために、戸籍まで抜かれて送られて来たのです。

当初は現実を受け止めることができず過ごしていましたが、患者たちに愛で接するレゼー神父の姿に打たれて、患者の世話を手伝うようになり、やがて洗礼を受けるようになりました。そして病院に看護師がいなかったので、資格を取得するために勉強も始めました。

そうこうするうちに3年が経ち、病状が一向に悪くならないことを不思議に思って、東京で再検査を受けたところ、ハンセン病だというのは誤診であったことがわかりました。

晴れて世間に戻れるようになり、レゼー神父もそれを勧めましたが、彼女は正反対の決心をします。ここに残ってハンセン病者と共に歩むのだと――。

八重は1923年、正式に資格を所得し病院初の看護師となりました。そして極貧状態にあった病院の婦長として献身的な看護にあたり、生涯をハンセン病患者の救済に捧げました。


復生記念館別館

修道院

神山平石共同墓地


「それではお墓までご案内しましょうか。歩いて行けるので」

岩下神父や井深八重さんのお墓が近くにあると聞き、行き方を尋ねると、シスターがそう言ってくれました。

ぜ、ぜひっっ!お願いします☆☆


井深八重さんらのお墓


井深八重さんたちが眠る墓は、神山平石共同墓地内に設けられたカトリック教会墓域にあります。

多くの名前が刻まれた碑の前に、初代院長テストウィド神父の墓があり、その手前に井深八重さんの墓が、「一粒の麦」と刻まれた墓碑とともに建てられています。これは本人の直筆の文字なのだとか。1989年、井深八重は91歳の天寿を全うし、ここに葬られました。

岩下壮一神父らのお墓


大きな碑の右手には「祈」の文字が刻まれた、岩下壮一神父と千葉大樹神父の墓があります。岩下神父は第6代の、千葉神父第7代の神山復生病院院長です。

下にまだスペースがあるので、今後も誰か一緒に葬られていくのかもしれません。

シスターによると、岩下神父の墓は3ヶ所にあるということで、東京の府中と先ほど訪れた不二聖心、そしてここだという話でした。ここには分骨の形で墓が作られたのだとか。言い方は変ですが、メインの墓は不二聖心みたいですね。

岩下壮一神父と「人間の分限」


岩下壮一神父は「人間の分限」などの著作で知られるカトリック司祭。財閥と言っていいほどの素封家の家に生まれて東大に入り、卒業するときは恩賜の銀時計もらうほどの秀才でした。欧米に留学してその俊英を謳われ、帰国後は教授の席も用意されていましたが、生涯を神に捧げる誓願を立て、1925年ヨーロッパで司祭となりました。

神山復生病院の院長に推挙されたのは帰国後の1930年。復生病院は、晩年裾野に移り住んだ父 清周が資金援助をしている病院でした。亡くなるまでの10年間、病院の経営と患者の介護に粉骨砕身し、51歳で帰天しました。

その間にしたことは、病院の増改築に設備改善、運動場造りなど多々ありますが、患者たちに野球ができるようにしたことも業績の一つです。病を忘れてボールを追い、歓声を上げる患者の姿に喜びを感じていたのではないでしょうか。

岩下神父は患者らから親しみを込めて、「おやじ」とよばれていたといいます。また一方でその卓越した知性と哲学的思考でカトリック界で名著とされる「人間の分限」や「キリストに倣いて」などの著作を残しました。

岩下神父の著作は、今読むと少々堅苦しく読みづらい文章ですが、献身を考える若者たちに読み継がれているそうです。

周りには神山復生病院で亡くなった信徒たちの墓があります。明るくてきれいな墓苑ですね。春には枝垂れ桜が見事なのだとシスターが言っていました♪


テストウィド神父の墓

井深八重の墓

昔の神父の墓

枝垂れ桜

日本基督教団 神山教会


せっかく神山まで来たのだからと、近くの教会を探してみたら、日本基督教団の教会があったので、来てみました☆

山の上にある日本基督教団 神山教会です。すぐそばに病院があるので、その関係者の人たちが通っているのでしょうか。

表札が出てなければ通り過ぎてしまいそうな、家の教会です。

富士山☆


少し高い所まで上って来たので、見晴らしは最高♪

病院に通う人も教会に来る人も、この景色に癒されているんでしょうね。

雄大で美しい富士山を見られて、春から縁起がいいことですな ヾ(@⌒▽⌒@)ノウハ




   ゆるしゆるされて


   天に召されて主に会う日というのが、うれしいようで恐ろしいです。
   自分の悪事がすべてバレて裁きの台に上ると思うと。

   善行を積んで、いい事だけしているなら怖くないんでしょうが、
   決してそうではないことを自分でよくわかっているし
   自分が忘れてたり、気にも留めてないことでも、
   神様の目には罪になることがきっとあるだろうから。

   それを免れるためには罪を「許される」ことが必要なんですが
   その条件は自分が「許す」こと。許してこそ許されるのだそうです。
   理にかなった話だと思います。

   今私はやらかしてきた数々の悪事を悔い、自分の悪い性格を改めようとしているのですが
   自分の力でできないことは主にお願いしつつ、「許す」ことにも注力していこうと思います。
   それで・・・天国に行く日が楽しみだけになると、いいなぁ (*´ェ`*)



                                         NEXT >>