本文へスキップ

キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

トップページ > 旅行記 > 駿府キリシタン秘抄Ⅱ

 駿府キリシタン秘抄Ⅱ

  <本日の主な訪問地>

 ヨハネ原主水を探して・・・

牧ヶ谷 耕雲寺


去年興味を抱くようになったキリシタン殉教者、ヨハネ原主水の足跡を追って、今日は静岡市郊外の牧ヶ谷にある耕雲寺へ。

前回はキリシタンに関心を持ってから間もなかったので、あまり下調べもせずひょこっと巡ってみたのですが、それではイカンと悔い改めてじっくり本などを読んでみたのであります☆

すると、この原主水さん、一度逃げてるんですね、キリシタンへの迫害が始まった時に。最後は殉教者として天に命を帰するのに、それまでに様々な遍歴があったことがうかがえるわけで、とても興味を引かれます。

ご存知の方もいるかもしれませんが、まずはヨハネ原主水の足跡をその辺りから振りかえってみたいと思います――。

耕雲寺の鐘楼



ヨハネ原主水胤信(はら・もんど・たねのぶ)は1587(天正15)年、現在の千葉県にある臼井城で城主の息子として生まれました。

原家は北条氏に忠誠を誓っていたので、豊臣秀吉が北条氏を小田原に攻めた時に参戦、敗れて捕らえられ江戸で切腹しました。

遺児となった原主水は徳川家康の小姓となり伏見に移り、長じて1600(慶長5)年、大坂でモレホン神父から受洗しました。

原主水は前途有望な若き武士で、家康のそばに仕える警護役の一人でもあったので、1607(慶長12)年家康に従って駿府に移ります。

駿府におけるキリスト教の布教もこの頃で、1611(慶長16)年の時点で700人のキリシタンが市中にいたと記されています。

原主水はフランシスコ会の「聖フランシスコ帯の組」という信心会に入り、積極的に活動していました。

しかし1611(慶長16)年の春、状況は一変します。キリシタンであった岡本大八の収賄事件が発覚し、駿府の教会が彼の名義になっていたことから、キリスト教に対する家康の怒りは爆発、弾圧が始まりました。

耕雲寺裏手の山々


翌1612(慶長17)年、家康は幕府直轄領でキリスト教禁令を発布し、駿府では城に出仕する14名のキリシタン武士を改易追放しました。

この14名の筆頭に記されているのが原主水ですが、原主水はこの時駿府におらず、追放のことを聞きそのまま身を隠したのです。

最初は親友の岡平内の元に、そこから赴いたのが牧ヶ谷にある耕雲寺で、この寺の住職が原主水を匿い、逃亡を助けたのでした。

戒名のない卵頭型の墓


原主水は母方の親戚を頼って武蔵の岩槻(現在の埼玉県岩槻市)に逃れましたが、ここで捕まり駿府に連れ戻されました。

1614(慶長19)年10月16日、原主水は安倍川の河原で両手の指を切られ、両腿の筋を切られた上、額に十字の焼印を押されて追放されました。

原主水は河原にあったハンセン病者の小屋で介抱されて命だけは取り留めました。

さて原主水を匿った人々のその後なのですが、岡平内は斬首されましたが、耕雲寺の住職は処罰を受けるに留まりました。しかし寺は18年間廃寺になり、宗旨替えさせらてしまいました。

現在付近の寺が曹洞宗なのに、ここだけが臨済宗。戒名のない卵頭型の墓は、処罰された住職のものではないかといわれています。

戒名のない卵頭墓石について


境内を見回すと、「戒名のない卵頭墓石」について書かれた顕彰碑が建てられていました。

そういうものはないだろうなーと思っていたので、ちょっとびっくり w(*゜o゜*)w

「仏陀の教 慈悲の真髄を全うした義挙であった」と讃するものではありますが、ちゃんとキリシタンについて書かれているということが貴重だと思います。

牧ヶ谷古墳群


寺の裏の山には牧ヶ谷古墳群とよばれる古墳が点在しており、一説には原主水はこれらの穴の中に隠れたのではないかといわれています。

ぱっと見ではよくわかりませんが、「さもありなん」といった雰囲気はあります。研究者の方に古墳を見てもらったら、少しは何かわからないですかねぇ?

それにしても、、、卵頭墓石の前に立ち、裏山を見上げて思うのは、原主水の心境。

ここにいた彼の、その時の気持ちはどんなだったんでしょう。答えてくれるものは何もないけれど・・・。


耕雲寺入口

耕雲寺本堂

耕雲寺鐘楼

耕雲寺境内

卵頭墓石顕彰碑

顕彰碑アッフ

住職の墓域

卵頭墓石

卵頭墓石

耕雲寺裏山

古墳群

「駿府キリシタン殉教之碑」へ

安倍川


ここはやはりもう一度、「駿府キリシタン殉教之碑」が見たいという気持ちに押され、静岡の中心部へ。

途中で安倍川に寄ります☆

「安倍川餅」で有名な安倍川は、県外人の私には穏やかなイメージ。あと宿場って感じ?

雨の少ないこの時期は広い河川敷がもったいないほどの水量。でも一度雨が降ると、上流から大量の水が流れ込んで一気に橋を流してしまうんだとか。

河原沿いには慰霊碑も見受けられました。


安倍川

現在の安倍川

慰霊碑

安倍川沿いの慰霊碑

「駿府キリシタン殉教之碑」


「駿府キリシタン殉教之碑」があるのは釜飯屋「みろく庵」の前。

通りに面した駐車場の一角に建てられています。たぶん掃除とかもこの店の方がしてくれているのではないでしょうか。

きちんとキレイにしてもらってて、感謝です。
そう、この感謝の気持ちをこめて今日はここで食事をしたいと思ったのです♪

初めて来た時は、「殉教地でご飯食べてていいのか!?」と思い、入店できませんでしたが、今は感謝して寄らせてもらうのがいいと考えるようになりました。


「駿府キリシタン殉教之碑」

解説

みろく庵

みろく庵の看板

釜飯三昧♪



メニューを開くと目移りするほどの釜飯ラインナップ。
炊けるのを待ちながら頭の中を整理します。
原主水、原主水、原主水・・・
そして彼はここを立って江戸に向ったんだ。
でも一体何のために向ったんだろう?

後から入ってきた地元民らしき三人組が
揃いも揃って「カツカレー!」と注文。
えっ、ここ釜飯屋じゃないの・・・ ( ̄◇ ̄;)?
ま、いっかぁ。。。

ご飯粒で胃を満たしながら
頭の中で原主水が駆け回るのを眺めていると
ピーンとくるものが。

もしかして・・・

私なりに「こうかな」と思うものが浮かびましたが
今はしゃべらないことに。

もうちょっと殉教地や原主水ゆかりの地をめぐってから
いつか話したいと思います。
もったいぶるほど、すごいことじゃないですけどね・・・(*゜ー゜)>てへ



 清水にある殉教地へ

稚児橋


「平成の大合併」とかいうやつで、静岡市に編入されることとなった清水にも、殉教地があります。

清水港に近い巴川の畔でキリシタンが処刑されたという記録があるのです。

場所は現在稚児橋という可愛らしい橋が架けられている辺り。

東京方面に帰る方向にも合っているので、最後に立ち寄ることにしました。

巴川


1615(元和元)年、江尻宿巴川畔の入江でハンセン病のキリシタン6名が斬首され、住んでいた小屋を焼き払われました。

これは家康が江戸に向う時にここを通るので、道中の安全を期するために行われたもので、キリシタンであることは口実に過ぎませんでした。

目障りだったり、排除したかったり、幕府にとって邪魔なものが「天下の大罪人=切支丹」だったりしたら、これ幸いと、簡単に処刑されてしまう構図が出来上がっていたことを物語っています。


稚児橋

巴川

橋の下

船高札について

神社にあるサッカーボール


立ち去りがたくて近くを歩いていると、神社の境内に丸い物を発見 (゜ー゜*?)オヨ?

よく見るとサッカーボールではありませんかっ。
解説板によりますと、ここが日本少年サッカー発祥の地なんだとか。

あまり大々的に宣伝すると全国から異論がわんさか出そうですが・・・。
確かに清水はサッカー強いですもんね。


サッカーボール

解説板

神社

神社の由来

静岡の殉教地



静岡のキリシタンゆかりの地は
調べれば調べるほど出てきて
広い県内のあちこちにあることがわかりました (゜0゜*)

下田にはペリーやハリスも来ているので
幕末から明治にかけてのキリスト教ゆかりの地も
きっとあるはず☆

そんなことを思うと、これまで目を開けずに
何もわからないままあちこちに行っていたことが
とっても惜しくて、もったいなかったなと思います;;

学校で歴史を勉強したけれど
自分に関係あるものだとは教えてもらわなかったのかも。
いや、教えてもらったのに頭に入らなかったのか (;´д`)

前向きに悔い改めながら
進んでいきたいと思います♪

ただ今は、ここまで読んでくださった方に声を大にして言いたい・・・

ありがとうございまーす L(´▽`L )



インフォメーション


                                         NEXT>>