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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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 駿府キリシタン秘抄 Ⅵ


               今日は盛りだくさん!
               三島を見て、久能山にロープウェイで登り
               駿府城下の寺院や教会を一気に回ります☆
               駿府の殉教地にも絶対行きたいし。
               冬の日は短いけれど、行くべき所には行けますように (´▽`)


三島宿・世古本陣跡

三島宿・世古本陣跡


まずは三島で取りこぼしていた所から。徒歩で向かったのは、三島宿の世古本陣跡です。

三島宿にはもう一つ、樋口本陣というのもあったのですが、タウンゼント・ハリスがヒュースケンと共に宿泊したのはこちら。

ハリスは世古本陣の日本庭園の素晴らしさを日記に書いています。今では小さな碑と解説板が残るだけなので、想像することしかできませんが。

日米和親条約を結んだ人として知られるハリスですが、日本に阿片が入ってこないように防いだ人でもあります。日本を愛していたのかもしれません。ヒュースケンはこの後江戸に移ってから暗殺されてしまいます。ここでは平和な日本を楽しんでいたのならいいんだけどな。

本陣跡への途上にある御殿川(昨日見た川とつながっている?)の説明版には、将軍家光のために造られた御殿の東側を流れていたことから名付けられたと書かれています。むむ、三島宿に家光も来てたんですね。駿府とかに行ったんだろうから当然といえば当然だけど・・・家光の御殿ってどこにあったんだろう? 歴史ストーカーの血が騒ぎます...( =(1)ω(1)=)フモー

樋口本陣跡
樋口本陣跡
樋口本陣跡解説板
樋口本陣跡解説板
御殿川
御殿川
御殿川解説
御殿川解説

カトリック三島教会

カトリック三島教会


車に乗ってカトリック三島教会へ。もしかして中でお祈りできるかなーと思ったのですが、人が集まってるみたいで入っていけませんでした。

教会案内を見ると「献堂式」の文字が!
どうりで新しいと思いました。でもまさかできたてホヤホヤだったとは。

新聖堂、完成おめでとうございます♪

カトリック三島教会
カトリック三島教会
カトリック三島教会
庭のルルド
カトリック三島教会
献堂式!?

三島ゆかりの文学者の碑

三島ゆかりの文学者の碑


三島には三島ゆかりの文学者の碑が数多く建てられていて、結構立派な碑なのでそれだけで十分な観光資源。

その中で是非とも見たいのは小出正吾のものなんですが、夫が駆け回って探してくれても見つかりませんでした;;

悔しまぎれにプロフィールだけ紹介しますと、三島に生まれた小出正吾は早稲田大学卒業後、故郷に戻って農業の傍ら文学の勉強を始め、1922(大正11)年キリスト教の新聞に創作童話を連載して童話作家となり、後には明治学院の教授をつとめた人です。

キリスト教ヒューマニズムの立場で創作を行い、1975年「ジンタの音」で野間児童文芸賞を受賞。郷土を舞台とした童話をはじめ、わかりやすく心温まる作品を残しました。その「ジンタの音」の一部が刻まれた碑を見てみたかったんですが、また来ればいいですかねヾ(´▽`*)ゝ

桜川について
桜川について
桜川
桜川
文学碑
文学碑
文学碑
文学碑

カトリック清水教会

カトリック清水教会


三島を離れ、日本平に向っていたら、教会が目に入ってきました☆

カトリック清水教会です。

思わず停車して、扉を押してみると開いているではありませんかっ♪
カトリック清水教会

聖堂内


「神様ありがとうございます!」
そう口に出して言って、中に入ってお祈り。足元には畳が敷かれています☆

耐震や老朽化の問題をクリアできるなら、歳月を経た教会もいいですよね。何か染みこんでいるものがあるような感じで。

どの道を経由して行くか迷ったのですが、この道で正解だったようです d(^-^)

カトリック清水教会
カトリック清水教会
カトリック清水教会
カトリック清水教会
畳!
カトリック清水教会
聖像
カトリック清水教会
プレゼピオ
カトリック清水教会
カトリック清水教会
カトリック清水教会
カトリック清水教会
カトリック清水教会
カトリック清水教会

 久能山東照宮へ!

久能山東照宮

日本平からロープウェイで


次は一度は行ってみたかった久能山東照宮。日光の東照宮が造られるまで家康を安置していた神社です。

一説には家康の遺体は日光には移されておらず、魂だけお坊さんが抜き取って日光東照宮にお祀りしたとも。

日本平からのロープウェイにはガイドさんが同乗してアナウンスしてくれるのですが、その話の中でもそう言っていました。家康は神廟(家康を神としているのでその廟ということ)の下に今もいるのではないかと。それが本当だったら、今日は家康と初対面ですよ。えらいこっちゃ。

日本平からのロープウェイ
ロープウェイ内
日本平からのロープウェイ
海がよく見える
日本平からのロープウェイ
地獄谷
久能山東照宮
解説板
国宝の拝殿

国宝の拝殿


2010年に本殿・石の間・拝殿が国宝に指定されたということで、普段なら大勢の人がいるんでしょうが、小雨でロープウェイも始発に乗ったので、閑散としています。

絢爛豪華な装飾を人に押されずゆっくりと見られるのはいいですね。日光と比べて随分と小規模なので、人が押し寄せると大変だと思います (・ε・)

久能山東照宮
階段
久能山東照宮
拝殿
久能山東照宮
装飾
久能山東照宮
本殿
家康の神廟

家康の神廟


地震のせいか、斜めにゆがんでしまった石段をえっちらおっちら登り、やはり閑散としている家康の神廟に到着。

遺体は今もここにあるのかもなーと思いました。正座か立て膝か、あるいは立ったままとか、後々を見守るような姿で葬られているような気がします。遺言か何かで指示していてもおかしくないですよね、家康なら。

ちなみに神廟は、家康が生まれた岡崎の方に向いて建てられているのだとか。それはちょっと意外でした。家康なら江戸を見つめてそうなのに。故郷を向く意味って何だろう? 押さえを利かせなきゃいけない方向に睨みを利かせているのなら、イメージが合うんですけどね...[壁]д=)ジー

家康の神廟
神廟
傾斜した石段
傾斜した石段
添石垣
添石垣
添石垣について
添石垣について
東照宮博物館

東照宮博物館


東照宮を訪れたら是非見たかったのは博物館。家康に献上された南蛮渡来品が収められているということで☆

写真は撮れませんでしたが、公式サイトでも確認できる洋式時計が一番の見ものでした。あと家康や歴代将軍が実際に使っていた物とか。

家康が自ら漢方を薬研で挽いていたのは有名な話ですが、実際に使っていた実物を見ると、よくもまあこんなに素朴な物が素朴なままで残っているなとか、これをゴリゴリやりながら長生きして天下を獲ろうとしていたんだなとか、いろんな考えが浮かんできます。

これを触っていた人がいる、徳川家康という人だった、南蛮渡来の時計は受け取ったけどキリスト教は迫害した・・・。実物を見ると、歴史が観念ではなく現実と結びついて感じられるようです。そういう意味ではいい勉強になりました。神廟も博物館も。

いい眺め
いい眺め
家康の手形
家康の手形
赤い灯籠
赤い灯籠
石碑など
石碑など

久能寺(鉄舟寺)


東照宮を後にして、石垣いちごの店が立ち並ぶ道を久能山方面へ。とあるお寺に立ち寄りました。

このお寺、元々は「久能寺」だったのです(今は正式名称はそのままなのかな?)が、山岡鉄舟が再興したことから「鉄舟寺」と呼ばれております。

ここには国宝の「久能寺経」なるものが伝わっているそうですが、それが見たくて来たわけではありません。キリシタンになった一人の武将がこのお寺に蟄居させられていたからです。その名も榊原嘉兵衛。榊原嘉兵衛は、家康の信任厚く久能山一帯を任せられた榊原照久の、実のお兄さんです。

「おめーの兄ちゃんキリシタンになったそうだが。キリシタンはだめだって言ったがや。このままだと殺さなかんで。おめーに預けるで、よう反省させておとなしくさせやー(by 私の想像の中の家康)」とでも言ったのでしょうか。兄は弟に預けられ、この寺に蟄居しました。

その後大坂の陣で本多忠朝に従って戦い、群馬県にいた従兄弟の榊原康勝(館林10万石の城主)の元にいるとき死亡したので、信仰を持ち続けていたとは考えにくいですが、人の心は誰にもわからないものですから・・・。

久能寺(鉄舟寺)
博物館は閉館
久能寺(鉄舟寺)解説板
久能寺(鉄舟寺)解説板
久能寺(鉄舟寺)
久能寺
久能寺(鉄舟寺)
久能寺

照久寺(宝台院別院)

照久寺(宝台院別院)


つづいて今度はその弟 の葬られていお寺に参上。榊原氏の菩提寺だけあって、風格があります。風格だけでなく、経営的にもうまくいっていそうな感じで。

榊原照久は東照宮祭主と守衛も務めていて、城はなく石高も千8百ほどだったので、領主というよりは将軍家の家臣と言った方が妥当。

しかしこの一帯を治めていたのだから、地元の名家で権力者だったわけですね。このお寺の名前自体が「照久寺」ですし。今は駿府城の近くにある宝台院の別院になっているらしいですが。本堂裏手の墓地に抜けると、墓域の一番高い所に榊原照久と一族のお墓があると地図に書いてあります。

お墓を探すのにも手間がかかりませんでした。「榊原照久公之墓」と書かれた碑が前に建てられているので。群馬県で亡くなってお寺に葬られたはずだけど、その年月日もお墓もわからない「キリシタンの兄ちゃん」榊原嘉兵衛とは大違いです。仕方ないですけどね。

照久寺(宝台院別院)
照久寺
榊原照久公之墓
榊原照久公之墓
戊辰戦争関係の墓
戊辰戦争関係の墓
かしく坊の墓
かしく坊の墓

 桔梗川を見て葵区へ♪

桔梗川

桔梗川


駿府のキリシタン殉教地は、安倍川畔にあった刑罰場ですが、その傍らに桔梗川という小川が流れていました。

この小川の元の名はわかりませんが、殉教者の血が川の水を、桔梗(キキョウ)色に染めたので、「桔梗川」とよばれるようになったのだとか。

それで現在もあるのかと調べてみたところ、あるにはあるのですが、ほとんどが暗渠となっていて、見ることができるのは殉教地からは少し離れたSBS通りのホンダの東側くらいでした。実はこれ、何年もかかって調べたんです。

ネット上には情報があふれている時代ですが、一般的でない情報に出会うのは結構難しいですね。それでも以前よりアップトゥーデートな情報に接しやすいので重宝おりますが。最終的には「見せてください!」とお祈りして、やっと見つけました。念願叶って感謝です。もちろん殉教関連のものなので、うれしい気分にはなりませんが・・・。

桔梗川
桔梗川
桔梗川
桔梗川

静岡その枝キリスト教会

静岡その枝キリスト教会


桔梗川を見ることのできる駿河区から葵区東部に向う途中で、「静岡その枝キリスト教会」を発見。

公式サイトによると、今は単立だけど戦時中は日本基督教団に入っていたことがあり、牧師さんは東京聖書学院を卒業しているということです。静岡にもいろんな教会があるんですね☆


蓮永寺

蓮永寺


そして蓮永寺へ。想像以上に大きなお寺で、敷地がものすごく広いです。

ここにあるのは家康側室お万の方の供養塔と勝海舟の母と妹の墓。この妹さんは佐久間象山の奥さんでもあります。

お墓は案内板が出ているので容易に見つけられたのですが、お万の方はそこそこいい立派なものなのに、勝海舟の母と妹のお墓は、二人合同で、ごく小さいお墓でした。勝海舟が十分に出世してからのものなのに、何でなんでしょうね?

正確には、お万の方のものはお墓ではなく「供養塔」なので、後の世の人が建てた可能性もあります。お万の方は御三家の一つ水戸藩の藩祖 徳川頼房の生母にあたるので。ちなみにこの頼房の子で、お万の方の孫にあたるのが徳川光圀。黄門様です。

どこかの時点で我が家の正当性をより証立てるために、家康の側室だったお万の方の供養塔を立派に建てたということは、十分考えられますね。

山門にあたる田安門は徳川家達の屋敷から移築したもの。元は学校か公民館に使われたとおぼしき、レトロな建物も残っていて、 歴史の断片が集められているようなお寺だなと感じます♪

ここで聖書が教えられていた!


さてここ蓮永寺ではもう一つ重要な出来事が起こっています。駿府学問所の教授として1871(明治4)年に来日したエドワード・ウォーレン・クラークは、駿府城三の丸に新居を建てるまでこの寺を宿舎としていたのですが、ここで日曜日ごとにキリスト教の講義をしていたというのです!

クラークは牧師で宣教の志を持って来ていたので、学校で教えることよりもこちらの方が主目的だったかもしれません。当時まだキリスト教はまだ解禁されていませんでしたが、クラークを招聘した勝海舟らの計らいで不問に付されたということです(超ラッキー☆)。

クラークが東京に移った後は、カナダ・メソジスト教会の宣教師デイヴィッドソン・マクドナルド(駿府学問所の後身 賤機舎で教師を務めた)がバイブルクラスを続け、望む者には洗礼を施しました。そうしてそれが静岡バンド(バンドとは信徒の群れのこと)を形成していくようになったのです。

ここも一つのキリスト教発祥地だと思うと、寒風の中でもうれしい気持ちになります (*´▽`*)ノ゛

蓮永寺
お万の方の供養塔
勝海舟の母と妹の墓
勝海舟の母と妹の墓
勝海舟の母と妹の墓
解説板
田安門
田安門

来迎院

来迎院


続いて来迎院へ。家康開基の寺で南蛮屏風が伝来していたのですが、屏風は今はもうないということなので、お寺の外観だけ見ておしまいに☆

この南蛮屏風は家康から賜ったという寺伝があり、たぶん代々大切にされていたのだと思いますが、1889年当時の静岡県知事の斡旋で徳川家達に献上され、その後皇居造営を祝して家達から宮中に献納されたのだとか。

私はこの南蛮屏風の実物を、サントリー美術館で催された「南蛮美術の光と影」展で見たのですが(そのときのことはコチラに☆)、宣教師や南蛮寺(当時教会はこう呼ばれていた)、南蛮寺内部の様子が描かれていてなかなか興味深いです。

上掲ページの「宮内庁所蔵の南蛮屏風」というのがそれですので、よろしかったらcheck it out!


家康の外祖母源応尼の墓

華陽院にある家康の外祖母源応尼の墓


お次は家康の祖母 源応尼(げんおうに)の墓がある華陽院へ。源応尼は、今川の人質になった家康の世話をするためにこの辺りに住んでいて、この寺の和尚に家康は学んだこともあったといいます。

源応尼は家康にとって二重の意味でお祖母さん。なぜなら最初に嫁いだ水野家で、後に家康の母となる於大(おだい)を産んだ後、松平清康との講和に際し、離縁して清康と強引に再婚させられたのですから。そして清康の子が広忠で、この人が家康の父ですが、ややこしいことに広忠の正室が於大の方なのです。フフ、混乱してきましたか...(ΦωΦ)?ヤヤコシヤー

複雑な系図と駿府城代の墓


広忠を産んだのも源応尼だとする説が有力で、そうだとすると、母方でも父方でも家康のお祖母ちゃんだったということになります。いやその前に、お父さん広忠は異父同母のお姉さんと結婚して家康が生まれたということに・・・! 

所詮政略結婚だったのだから、それもアリだったのか、それとも広忠は他の奥さんから生まれたのか、当時の人は知っていただろうけど、今ではわからなくなってしまっています。

さて境内には7歳で早世した家康の5女市姫や側室お久の方、歴代駿府城代3人の墓もあります。お久の方のお墓は小さくてものすごく質素。後に名を高めてくれる子孫がいなかったような感じです。

歴代駿府城代3人の墓は、墓地にある石造物を集めた箇所の後ろに隠れるように並んでいます。当時は権勢を振るっていたでしょうにね。


華陽院

墓域マップ

駿府城代3人の墓

側室お久の方の墓

静岡ハリストス正教会

静岡ハリストス正教会


お寺が続きましたが、ようやく教会へ♪

静岡ハリストス正教会です。


真っ白な旧聖堂は、近づいてみると老朽化著しく、今にも壁が剥がれ落ちそうで(っていうか、剥がれ落ちてる・・・?)、ちょっと心配な感じY(>_<、)Y

敷地内には、かまぼこ型の(?)新聖堂が建てられていました。旧聖堂は今ではなかなか見られないような建築様式なので、修復して是非残してほしいです☆

静岡ハリストス正教会
静岡ハリストス教会
静岡ハリストス正教会
静岡ハリストス教会
静岡ハリストス正教会
静岡ハリストス教会
静岡ハリストス正教会
新聖堂

静岡福音ルーテル教会

静岡福音ルーテル教会


次なる目的地に向っていると、沿道に教会が。静岡福音ルーテル教会と書かれています。

よく見ると一階の破風が瓦を用いた和風テイストになっていて、こだわりが感じられます♪


 原主水の屋敷跡…!?

原主水の屋敷跡

原主水の屋敷跡!?


さて駿府城のお堀を周回してやって来たのは、キリシタン殉教者 原主水(はらもんど)の屋敷跡ではないかと私が推測した場所。

現在は静岡県民御用達のスーパー「しずてつストア」になっていて・・・、合ってるか急に自信なくしたりして(;´д`)

夫が去年駿府城に行って来たときの写真に「駿府古絵図」があり、そこに「原主水」という名を発見! 

お城と道を手がかりに、ここであろうと類推してみたのですが、う~んどうだろう? スーパーという現実的かつ生活に密着した場所である故に、歴史と結びつかないとしたら、それもバイアスがかかっていることなんでしょうね。

しかし一応キリスト教系の出版社から出された本でも、「原主水の屋敷は浅間神社に近い長谷通りにあった」と書かれているので、間違っていたとしても遠く離れてはいないはず。私の推測地は長谷通り沿いのしずてつストアの東側の並び辺りなんですが。合ってますか?原主水さん☆

原主水の屋敷跡
原主水屋敷跡
原主水の屋敷跡
原主水屋敷跡

救世軍静岡小隊

救世軍静岡小隊


せっかく車で静岡に来たのだから、主な教会も見ちゃおうということで、救世軍の教会へ。

救世軍は軍隊式に教会を「小隊」と呼んでいます。なのでこちらは静岡小隊。

勇ましい感じがします☆


聖公会 静岡聖ペテロ教会

聖公会 静岡聖ペテロ教会


続いて日本聖公会の静岡聖ペテロ教会へ。

クリスマスツリーが飾られていますが、これは「しまい忘れ」ではないのでご注意を。クリスマスは大抵新年が明けてもエピファニーまで祝うのです。

教派によって、いつまで祝うか若干のずれもあったりしますが (o ̄∇ ̄o)/

聖公会 静岡聖ペテロ教会
静岡聖ペテロ教会
聖公会 静岡聖ペテロ教会
静岡聖ペテロ教会
聖公会 静岡聖ペテロ教会
静岡聖ペテロ教会

日本基督教団 静岡教会

日本基督教団 静岡教会


そして西草深町にある日本基督教団 静岡教会へ。隣にはミッション系の女子校もあります。

なぜ「西草深町」とわざわざ書いたかというと、昔キリシタン時代の教会も、恐らく西草深町辺りにあったであろうと、高木一雄著「東京周辺キリシタン遺跡巡り」に書いてあったからです。

この教会も先ほどの救世軍の教会も西草深町にあります。昔キリシタンの教会があった場所に、今も教会が複数存在しているというのは、偶然なんでしょうかね。。ヽ(~~~ )ノ

日本基督教団 静岡教会
日本基督教団 静岡教会
日本基督教団 静岡教会
日本基督教団 静岡教会
西草深町

 浅間さんに車を停めて

浅間神社

浅間神社


車でぐるぐる回ったので、短時間でいろいろ行けました。ここからは目的地が商店街内なので徒歩で向かいたいと思います。

浅間神社に駐車して、境内をうろちょろ。初詣客を迎える準備のために、神職はもとより、工事関係者、出店の準備をする人が動き回っていて、少し殺気立ってる感じすらします。

「かき入れ時」という言葉が浮かびました。今商売しなくっちゃ、いつするっていうの、って皆さん言っているような。クリスチャンからすると、初詣行ってお賽銭投げてご利益を願うことが信仰なんだろうかと思ってしまうのですが…c(゜^ ゜ ;)

浅間神社
浅間神社
浅間神社
浅間神社
浅間神社
浅間神社の赤鳥居
浅間神社
浅間神社

山田長政屋敷跡

山田長政屋敷跡


浅間神社に車を停めたのは、赤鳥居前から続く浅間通り沿いの商店街の一画にお目当ての場所があるから。

こちら(←)それ。山田長政屋敷跡にある長政像です。以前は説明板などがあったみたいですが撤去されたようで、銅像だけあるので、「どこぞのおじさん?」という感じ。

名前こそ下に書かれていますが、名前だけではいつの時代の人かもわからないので、「ここの商店街作った人だよ」と言われたら、日本史勉強してない人は信じちゃいそう・・・。

山田長政とキリシタン


山田長政はもちろんキリシタンではありませんが、キリシタンと接触していた可能性があります。山田長政がシャム(今のタイ)で王に仕え、日本人町の頭領となっていた頃に、ペトロ岐部がその地域を訪れているのです。またキリシタンは国外追放になっていた時代なので、シャムの日本人町でキリシタンが暮していてもおかしくはありません。

遠藤周作は歴史小説「王国への道」の中で、山田長政とペトロ岐部が出会って対話したシーンを描いています。同時代に生きた同国人なので、会わなかったとしてもお互いに噂くらいは聞いていたのではないでしょうか。だとしたら、何と思ったことでしょうね。この世とあの世の2つの王国に向っていった、お互いのことを。

山田長政屋敷跡
山田長政像
山田長政屋敷跡
山田長政像

日本基督教団 静岡草深教会

日本基督教団 静岡草深教会


山田長政像のある辺りから横道に曲がると見えてくるのが、日本基督教団の静岡草深教会。こちらも西草深町にあります。すごいですよね。

見たところ新しい聖堂みたいで、 壁の色も最近の流行りの色をしています☆


中村敬宇記念碑

中村敬宇記念碑


さて次は明治へと移ります。車をピックアップして、まずは見つけやすそうな富春院へゴー。

富春院前にある「尚志」の碑。これが見たかったものです☆

クリスチャンにして教育家である中村敬宇(中村正直とも。新島襄らと明六社を作った)を記念して建てられた碑なのです。

ちなみに山門の扁額も中村の字。この碑の先の路地を左折すると、「中村敬宇先生旧宅跡」の石柱があると、ネットに書いている人がいたので、それを頼りに旧宅跡にも向うとしましょう (o^-^o)

中村敬宇記念碑
富春院
中村敬宇記念碑
中村敬宇記念碑
富春院
富春院
山門の扁額も中村の字
山門の扁額

旧制静岡高等学校があった場所

城北公園


ふと見ると、道の反対側にも碑が建っているので、何だろうと横断歩道を渡ってみました。

読んでみると、この城北公園の地が、かつては旧制静岡高等学校があった場所であることを示す碑でした。旧制静岡高等学校は今の静岡大学の前身校の一つ。お城のすぐ近くにあったんですね☆

旧制静岡高等学校があった場所
旧制静岡高等学校があった場所
城北公園

中村敬宇先生旧宅跡

中村敬宇先生旧宅跡


元に戻って中村敬宇旧宅跡を探すも、どうにもこうにも見つからず、外で大掃除の真っ最中の人に訊いて教えてもらいました。

その人も最初はわからず、「こういう人でこういう碑があるはずなんですが・・・」としばらく話しているうちに、思いついて教えてくた感じ。

近所にあっても意外と知られてないもんなんだなーと思いながら向ってみると、碑を見て納得。電柱と平行に、ごくごく目立たぬように建てられています。しかも後ろの倉庫が保護色となって、碑自体が絶妙に背景に溶け込んでいます。これ、わざとじゃないですよねぇ。。

中村敬宇という人


中村敬宇はどんな人だったかというと、幕末から明治にかけて生きた人で、イギリスに渡り帰国してから、解説板にも書かれているように静岡学問所で教授を務めた人です。このとき教えた相手は徳川家達。幼き駿府藩主だったのだから緊張したでしょうね。

1872(明治5)年、東京に移ってからは大蔵省に出仕し、女子教育・盲唖教育にも尽力。東京女子師範学校(今のお茶水女子大の前身校)校長や東京帝国大学教授を歴任しました。また、福澤諭吉、森有礼、西周らとともに明六社を設立し、啓蒙思想の普及に努めました。

それで「明治の六大教育家」の一人として数えられています。ちなみにこの六大教育家うち3人はクリスチャン。中村敬宇以外の2人は森有礼と新島襄です。

先日生麦事件の碑を見てきたのですが、その碑の揮毫が中村敬宇でした。幕末から明治の混乱期に様々なことを考え、必要だと思うことを成していったんでしょうね ヽ(*゜O゜)ノスゴイ

中村敬宇先生旧宅跡
中村敬宇旧宅跡
中村敬宇先生旧宅跡
中村敬宇旧宅跡
中村敬宇先生旧宅跡
解説板

瑞龍寺の灯籠

瑞龍寺の灯籠


それでは「静岡」の名の由来となったという賤機山の麓を反対側へと回り、秀吉の妹旭姫(家康に嫁した)の菩提寺である瑞龍寺へ。

こちらに「キリシタン灯籠」とよぶ人もいる織部(型)灯籠があるというので、確認しておこうかと思いまして。

件(くだん)の灯籠は本堂向かって右手の庭にありました。新しそうに見えるので元の物をかたどって作ったレプリカでしょうか。

旭姫のお墓は家康が設けたものなのだとか。政略結婚のために前の夫と離縁させられ(何かさっきも聞いたような話ですが)、家康の元に嫁いでたった2年で他界しました。詳しい説明は下の解説板をどうぞ。

瑞龍寺
瑞龍寺
瑞龍寺の灯籠
織部(型)灯籠
旭姫の墓
旭姫の墓
旭姫の墓
解説板

 駿府のキリシタン殉教地

駿府キリシタン殉教地

彌勒緑地


では今回の旅行で最も行かなければならないと考えていた場所へ!

・・・しかし、ここはキリシタン史跡めぐりを始めてすぐの2009年にすでに訪れていた場所だったりします。

つまりそのとき導かれて来ていたにも関わらず、ちょろっと見て過ぎてしまったというか。神様のお導きは深いですの ('-'*)

周辺史跡地図
周辺史跡地図
彌勒町について
彌勒町について
彌勒緑地
彌勒緑地
由井正雪墓址碑
由井正雪墓址碑
駿府キリシタン殉教地

正念寺跡


彌勒緑地の中ほどにあたる場所が正念寺跡。ここが駿府キリシタンの殉教地です。当時は安倍川畔で、渡し場のそばでした。

最初来たときは釜飯屋さんの前にある殉教碑を見て、そこだったと考え、次に来た時は安倍川の川原を殉教地だったんだと思って眺めてました。

しかし「駿国雑記」によると、「御仕置場ハ安倍郡安倍川ノ渡頭右ノ方ニアリ・・・(中略)スベテ大罪ハ此処ニ於テ行ハレ小罪ハ牢屋ニ於テ行ハル」とあり、この緑地に建てられている解説板にも、ここに川を渡すための川会所があったと書かれています。

周辺史跡地図を見ても位置関係はばっちり符合しています。また御仕置場の跡地には1644(寛永21)年千日堂が建てられ、1654(承応3)年正念寺ととなるも、1872(明治5)年に廃寺となったということなので、正念寺跡だということだけでも殉教地であったと特定できます。

解説板には詳しい説明が載っていますが、殉教地であったことは書かれてませんね。そもそも処刑地跡であることも載っていません。住民感情を考慮してのことでしょうけど・・・。

駿府キリシタン殉教地
正念寺跡
安倍川架橋碑
安倍川架橋碑
安倍川架橋碑
架橋碑解説
高札場跡
高札場跡

宝台院

宝台院


ここ数年行きたいと思っていた場所に行けて、ちょっと気分が落ち着きました。「行かなくちゃ」とどこか気負っていたんでしょうね。

ホテルにチェックインして車をパーキングに入れて、ここからはまた徒歩で回ります☆

まず向ったのが宝台院。清水で訪れた宝台院別院(照久寺)の本院です。ここは家康の側室お愛の方(西郷の局。二代将軍徳川秀忠、尾張の松平忠吉の生母)の菩提寺で、徳川慶喜謹慎の地でもありますが、「キリシタン灯籠」なる石造物があるということで見に来たわけです。

お愛の方の墓は案の定、かなり立派なもの。「徳川慶喜謹慎の地」碑と解説碑が隣に設けられ、徳川家と縁の深い寺院であることを強調しています。それはそれとして、問題は「キリシタン灯籠」なる石造物。やや雑な手書き解説板が置いてあり、そこにはこの「キリシタン灯籠」は古田織部が駿府城へ奉納したもので、おたあジュリアらが信拝したと、堂々と書かれています。

「キリシタン灯籠」なるもの


古田織部が考案した形の灯籠を「キリシタン灯籠」と呼ぶべきではないということは、もう2~30年前から常識になっていることですが、それでも残念なことに、そう解説板に書かれていることは多々あります。しかしここまで歴史的事実を無視したことを堂々と書き連ねている解説はあまりありません。

もしこの形状の灯籠を、キリシタンが信拝する「キリシタン灯籠」だとするならば、キリスト教禁令を出した家康に奉納したとは考えられず、よしんば禁教令前に奉納したから大丈夫だったのだとしても、その後禁教令が出されたときに壊されなかったはずがありません。城下の聖堂は破却、キリシタンは処刑されたんですよ。

おたあジュリアが拝んだなんて、何の根拠もないことなのに、どうしてこう書けちゃうかな・・・。誰か歴史に詳しい人がそう言ったことを寺側が史実として受け止めて、悪気なく書いたのだとしたら、早めに訂正するのが良のではないかと思います。

宝台院
お愛の方の墓
徳川慶喜謹慎の地の碑
徳川慶喜謹慎の地の碑
「キリシタン灯籠」なる石造物
「キリシタン灯籠」
「キリシタン灯籠」なる石造物
「キリシタン灯籠」解説

徳川慶喜屋敷跡

浮月楼


血圧が上がり過ぎると体に悪いので、気持ちを抑えて浮月楼へ。こちらも徳川慶喜の屋敷跡です。

営業中なのでお客さん以外中には入れませんが、庭にも碑が建てられているみたいですね☆

徳川慶喜屋敷跡
徳川慶喜屋敷跡
徳川慶喜屋敷跡
浮月楼
徳川慶喜屋敷跡
浮月楼の庭

「キリシタン灯籠」

宝泰寺


続いて宝泰寺へ。朝鮮通信使が泊まったこともある由緒あるお寺ですが、「キリシタン灯籠」が2基あるということで・・・。

ある本に、「キリシタン灯籠」は本堂右手の庭と墓地にあると書いてあったので、1基しか見られないかと思いきや、少し変わった感じの灯籠も奥に見えました。もしかしてこれも「キリシタン灯籠」?

いやいや「キリシタン灯籠」なんてものはなく、呼称を付けるとしたら「織部(型)灯籠」ですよと、頭の中で問答しつつ、本堂右手の灯籠に近づいて行くと、何やら白い札が前に置いてあります!

またもや「キリシタン灯籠」とか書いてあるのかと、思わず血圧が上がりかけましたが、よく見たら誰かの歌が書かれているものでした。風流さのために庭に置いたんでしょうな。人騒がせな・・・というか、私が神経過敏になっているだけか...o(iДi)oトホ

宝泰寺
宝泰寺
宝泰寺
本堂右手の灯籠
宝泰寺
宝泰寺の池
宝泰寺
奥にある石造物

西郷・山岡会見の地碑

西郷・山岡会見の地碑


若者で賑わう繁華街に向い、沿道にあるカッコいい碑をチェック。西郷・山岡会見の地碑です。

静岡市指定の文化財(史跡)だそうで、往時と今との比較地図まで添えられています。静岡をもっと歴史の地として認識してほしいという願いが窺えます☆

西郷・山岡会見の地碑
西郷・山岡会見の地碑
西郷・山岡会見の地碑
解説板
本陣跡
この辺りは本陣跡

駿府城代屋敷跡

青葉小学校跡


「駿府城代屋敷の跡地は青葉小学校となっている」と「静岡県の歴史散歩」という本に書いてあったのですが、青葉小学校はもう一つの小学校と合併して名前も場所も変わってしまったと判明。

ネットの地図では出てこないので、見当をつけて歩いて行ってみると・・・、青葉小学校の校門がまだありました!

校庭は工事中のようですが、建物はあります。なのでここが駿府城代屋敷の跡ですね。わかりやすくて有難いです。ネットの情報が最新だと考えていましたが、より正確なのは、自分御足で行き、目で見ることなのだと感じました (゜∇゜*)

城代橋
城代橋
城代橋
城代橋
駿府城代屋敷跡
青葉小学校跡
駿府城代屋敷跡
青葉小学校跡

静岡学問所跡

静岡学問所跡


急に周囲が薄暗くなってきて、一日の終わりを告げていますが、あともう少しだけ歩きたいと思います。

やって来たのは駿府城代屋敷跡からお堀沿いに進んだ辺り。大きな碑が法務局合同庁舎前に建てられていますが、ここが静岡学問所跡。中村敬宇が教えていた学校の跡ですね♪

また少し進むと、でっかいワサビのオブジェクトがあり、その向こうに銅板の地図をはめ込んだ碑が見えてきます。これが「駿府古絵図」。

夫が原主水の名前を見つけて撮影してきたものです。このお蔭で今回原主水屋敷跡に行くことができたのです(それが正しいかは今後要検討ですが・・・☆)

一回の旅が次へのきっかけとなり、次は前回よりも深く理解した上で訪れるので、より詳細な事実を発見することができるわけで、何度も訪問することはベールを一枚一枚めくっていくような感じがします。だからまた訪れてみたいですね、駿府 ヽ( ´ ▽ ` )ノ

静岡学問所跡
静岡学問所解説
二ノ丸御門跡
二ノ丸御門跡
ワサビのオブジェ
ワサビのオブジェ
駿府古絵図
駿府古絵図

駿府奉行所跡

駿府奉行所跡


さてと、もう暗くなってしまいましたが、省くことができないのが迫害関係の史跡地。

まずは駿府奉行所跡。静岡市役所前の歩道に小さな碑があるだけですが、キリシタンはここにあった牢に入れられました。

牢内で拷問を受けて死亡したこともあったので、殉教地でもあります。「駿府町奉行所址」と書かれた赤い文字が、闇に浮かんで鬼気迫る雰囲気を漂わせていると思うのですが、ここを通る人は何も感じないのかな?

駿府奉行所跡
駿府町奉行所址
静岡の由来
静岡の由来

伊勢丹前の高札場跡

伊勢丹前の高札場跡


もう一つの迫害関係の史跡地は高札場跡。伊勢丹前のイルミネーションでキラキラと輝く一角に碑があります。

昔も人々が騒々しく行き交い、流行や商業の最先端だったんでしょうね。ここに切支丹禁制の高札が掲げられ、キリシタンは信仰を棄てることを余儀なくされました。

摘発された信徒がここで晒し者になることもあったかもしれませんね。高札場の脇ではよく罪人が晒されたのです。城下の目抜き通りにあったのだから、市中引き回しのルートでもあった可能性は大きいです。ならば奉行所跡からこの高札場跡を経て安倍川へと向った道は、キリシタンの殉教路ということに・・・。

殉教路を行くキリシタンはここを通って行くとき、肉を中心にして生きる人たちを見て、何を感じたのでしょう? 彼らとその子孫の救いを願う最後のお祈りをしていったのでしょうか。だとすれば、今その祈りを受けて、私たちがここにいるのだと思います。

「札之辻址」石柱
「札之辻址」石柱
ライトアップされた道
ライトアップされた道


    心の中の澱


          普段何もないときは、きれいな水のように見えるのに
          一旦何か起こると、底から澱(おり)が巻き上がって
          コップの水全体を濁らせてしまう。

          まるで私の心のようです。

          普段は天使のように、善良な様子をして
          自分でも自分をそういう人間だと思っているけれど、
          何か誤解したり寂しく思ったりすると
          心が荒れ模様になって、澱が舞い上がるのです。

          この澱のような、心の底に残ってしまっている悪い性格を
          焼き捨ててしまわなければ――。






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