本文へスキップ

キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

トップページ > 旅行記 > 駿府キリシタン秘抄Ⅷ

 駿府キリシタン秘抄 Ⅷ


          今日は浜松から足を伸ばし
          愛知県東部を攻めようと思います☆

          以前から行きたかった殉教地を地図上でチェックしましたが
          行けるかどうかは・・・神様次第。
          導いてもらえますように (*^▽^*)ノ



教会が!


まずは愛知県の新城市へと向っていたら、市内に入ったところに教会を発見。イエス福音教団の新城第一教会だということです。

新城でも教会に行きたいなと思っていたのですが、カトリックや日本基督教団の教会は近くにないようだったので、少し見られて良かったです☆


新城小学校


さて本日最初に目指したのはこの新城小学校。ここは新城城跡で、運動場が本丸跡なのです。

朝から早速キリシタンの殉教の話をして恐縮ですが、新城藩主を水野元綱が務めていた時代に事件は起きました。

井道村に住んでいた与兵衛夫婦がキリシタンであると訴人があり、2人は役人に捕らえられて井ノ口陣屋の牢に入れられました。井ノ口陣屋は新城陣屋ともよばれ、新城城と同じ場所にあったようなので、ここに来たことは来たでしょうねキリシタンの夫婦が。

キリシタン与兵衛夫婦の殉教地


そして殉教に関してなのですが、「切支丹伴天連宗ノ者御成敗伝聞書」によると、1628(寛永5)年、与兵衛夫婦は井道村北の小川の畔、伊与田で磔刑になったと記されています。そして死体は死体は3日間晒されて村を流れる川の脇に埋められたのだと。

しかし一方で、「大日本史料」には井ノ口陣屋の河原で与兵衛夫婦は処刑されたとも書いてあるので、どちらだろう?という感じなのです。

キリシタン研究者の高木一雄氏は「新城市井道辺り」であろうと推測しているので、とりあえず現地に来てみたわけです。まずは井ノ口陣屋跡である新城小学校に。井道も遠くはありません。


新城城跡

新城小学校

桜淵公園


「井口陣屋の河原で」ということであればと、城跡から川のある方へと来てみました。

河川敷の広いきれいな公園で、桜淵公園というみたい。

カメラ片手に散策したくなるような景色が広がっていて、「ここだったら・・・」と思うと胸がキュンと痛みます。。でもたぶん、ここなんじゃないですかね。立地的に結構新城城跡から近いので、ここなら「井ノ口陣屋の河原」と言い表すだろうと思います。


桜淵公園

桜淵公園

桜淵公園

お堂の由来碑

 鳥居強右衛門を追って

新昌寺


せっかく新城市まで来たので、数年前から気になっていた人物ゆかりの地にも行ってみようと思います。その人の名は、鳥居強右衛門(すねえもん)。

この近くの駅名が「鳥居」なのも、この人の名前からじゃないかと。歴史が好きな人なら知っているかもしれない、ちょっぴり有名な人です。まずは強右衛門さんの墓がある新昌寺へ☆

鳥居強右衛門の墓


山門の前に、強右衛門の墓があると碑に刻んで建ててあるくらいだから、訪れる人が多いんでしょう。地元でも有名に違いありません。

墓地の一番奥にありますが、案内板が出ているので迷いません。こちら(←)が鳥居強右衛門のお墓。

墓碑こそ古いですが、他の戦没将兵たちとは別に、新しく台座を据えて整えたようです。尊敬されている様子が窺えます。

長篠の戦いと鳥居強右衛門


鳥居強右衛門について語るには、長篠の戦いから始めなければなりません。長篠の戦いは1575年、三河の地をめぐって、織田信長・徳川家康連合軍と武田勝頼が争った戦いです。設楽ヶ原で決戦が行われ、最終的には武田側が大敗を喫するのですが、合戦の途中では武田側が優勢になるときもありました。

織田・徳川側にあった奥平信昌が城主を務める長篠城が、苦戦を強いられて城主以下500人となり、信長と家康に援軍を頼みたかったのですが、城を囲まれてしまい、伝える手立てがありませんでした。そこで白羽の矢が立ったのが、鳥居強右衛門でした。

決死の覚悟で、武田軍の包囲網を抜け、信長と家康に援軍要請をし、快諾されました。しかしそのことを伝えようと城に戻る途中、強右衛門は武田軍に捕獲されてしまったのです。武田側では強右衛門を脅して、長篠城の方に向って「援軍は来ない」と言え、そうすればお前の命は助けてやると言いました。

なぜならすでに長篠城内の士気は下がり、降伏するまであと少しだということを、武田軍は知っていたからです。援軍が来ないと知れば、諦めて城を明け渡すだろう・・・。

強右衛門は味方にそう伝えると言って、長篠城の近くまで連れて来られたときに大声で叫びました。「あと二、三日で援軍が来る。それまで頑張れ」。怒った武田軍によって、強右衛門は磔になって惨殺されました。

しかし援軍が来ると聞いた長篠城の兵たちの士気は上がり、強右衛門の死を無駄にしてはならないと大いに奮い立ち、城を守り通すことができたのです。

こういう人も義人というんでしょうかね。キリシタンだったわけではないですが、心を惹かれてここまで来てしまいました☆


鳥居強右衛門の墓

他の将兵たちの墓

解説碑

強右衛門ゆかりの木

鳥居強右衛門磔死之碑


鳥居強右衛門磔死之碑があるのは、長篠城跡の後ろを流れる豊川の対岸。

処刑されることをわかりながら援軍が来ることを味方に知らせた強右衛門の胸には、どんな思いがあったのでしょう。

磔になって槍で刺し貫かれて死んだ姿が、イエス様と重なるのは、私がクリスチャンだからでしょうけど、この人が多くの人の心を惹きつけているのは、特定の宗教によらない普遍的な何かがあるからではないでしょうか。人の生き方というものを、考えさせられます。


畑の奥にあるのが碑

鳥居強右衛門磔死之碑

解説板

解説板

長篠城跡


長篠城跡にもやって参りました。今日は博物館はお休みですが、それでも訪れている人がいます。歴史ロマンを求めてでしょうか。

城跡には碑と解説板があるだけで、遺構も土塁くらいしか残っていませんが、なぜか訪れた甲斐があるように感じます☆

ここの城主で鳥居強右衛門の主君であった奥平信昌は、家康の女婿(むすめむこ)。家康が長女の亀姫を嫁がせたくらい信頼された家臣でした。だから援軍もすぐに出そうということになったんでしょうね。ちなみに亀姫を産んだのは築山御前。ついでにいうと、亀姫が嫁いだとき、奥平信昌は新城城主でした。今回の旅と妙にリンクしてるような...(ーー;)

奥平信昌の子がキリシタンに!


信昌は一人の側室も置かせず、亀姫は4男1女を生み、加納御前、加納の方と呼ばれました。そう、信昌は関が原合戦の功績により美濃国加納城10万石城主となったので、奥さんは「加納御前」というわけです。で、この加納という土地なのですが、加納城下にはキリシタンが多く住んでいたと宣教師の記録にも出てくるような所なのです。

それでキリスト教と接触があったらしく、信昌と亀姫の三男 奥平(のちに松平。外祖父家康の養子となって松平姓を許された)忠政は、1612年洗礼を受けてキリシタンになりました。すでに1602年に父 信昌が隠居する際、忠政を第二代加納城主にしていたので、キリシタン城主誕生!だったわけです。それもれっきとした家康の孫ですよ!

もちろん禁教令より前のことで、禁教後には名前が出てこないところを見ると、そりゃ祖父ちゃんの意向に沿ったのでしょうし、忠政は1614年に35歳で亡くなってしまったので、何をしたとも言えないですが・・・。それでも、家康の身近なところにキリシタンがいたというのは、意味深いなぁと。。d(^-^)


入口

本丸跡

対岸が強右衛門磔死地

史跡めぐりマップ

井道


長篠から加納へすっかり気持ちが飛んでしまいましたが、次なる目的地へ向っていると、地図に「井道」の文字が!

「わー、次曲がって。まっすぐ行くと井道だから」
運転中の夫にお願いし、殉教した夫婦が住んでいた井道村(今も村かは知らないけれど)に寄ってもらうことに。

史料が乏しいのでどこと特定はできないけれど、この辺りに住んでいたんだなー、宣べ伝えをしていたというから、他にもキリシタンいたかもしれないなーと、そんなことを思いながら車窓を眺めておりました☆


もしかして・・・!?


すると、井道を抜けけた所に自然公園を発見。

昔は小川が流れていたようで、石橋が架けられています。

ん、小川?キリシタン夫婦は確か小川の畔で磔刑になったんじゃなかったっけ。

えっ、もしかしてここが、殉教地だったりする・・・? 確かに「井道村北の小川の畔」という記述の、「北」を除けばぴったりな所だったりします。更に、公園を下ると桜淵公園に続いていて、小川は井ノ口陣屋の河原につながっているのです。

つまり、前掲の「切支丹伴天連宗ノ者御成敗伝聞書」と「大日本史料」の記述は異なっているけれど、ここなら両方とも大きくは矛盾しないということです。「北」という点がネックですが、当時の井道村の位置と小川の流れよっては、小川が北になることもあり得るかと。また戦死者の慰霊碑や祠の碑があったり、それっぽいかなと思う点がいくつか見受けられます。まぁ素人の想像でしかないけれど・・・。

キリシタン殉教者 与兵衛夫婦


キリシタン殉教者 与兵衛夫婦が一体どんな人たちだったかというと、殉教地同様、詳しくは知られていません。一家は京都でキリシタンになり、池田輝政が吉田城主になったとき、支城である新城城を任された片桐半左衛門の家来として、この地に来たこと。

池田輝政が姫路に移封になったとき、当地に残る決心をし井道村城口に土着したことなどです。生業としては箕作りをしていたようで、その一方で宣教に励んでいたということです。それで訴人によって捕らえられたのが1628年。池田輝政が吉田城に入ったのが1590年で、姫路に移ったのが1601年なので、最初の11年は下級武士として、その後27年を職人として暮したということになりますか。

随分と長い間、ここで頑張っていたことがわかります。それゆえ目立って、密告されたんでしょうけど。1623年家光が将軍になって以降、全国の迫害がより一層厳しくなったので、三河でも以前までは許されていたことが許されなくなったのだろうと思います。

磔刑にして3日間も晒しておいたのは、他にも信徒がいるから見せしめとした可能性があります。その人たちはその後どうしていったんでしょう。処刑のされ方が鳥居強右衛門と同じなのが・・・、同じ新城市なので頭にひっかかります。


戦没者慰霊碑

自然公園

祠碑

小川が流れていた

 豊川市へ p( ̄ー ̄\)

牛久保城跡


次は豊川市へ。またもや殉教地を探します。やって来たのは牛久保城跡。

飯田線の牛久保駅自体が城跡城跡で、豊川方向2つ目の踏切辺りが外堀だったとされています。

駅のすぐ近くにあるクリニックの前に、石碑と説明板が設置されています。説明板に古地図も載っているので、殉教地がどこであったか考えてみましたが、可能性として考えられるのは、街道が交差する辺りと、城内の牢くらい。しかし現在のどこに当たるかは、町並みも変わっていてわかりません;;

牛久保の殉教


牛久保の殉教については、新城よりも不明な部分が多いです。レオン・パジェスの「日本切支丹宗門史」に、「(三河国の)御油村で5人、牛久保で1人、丸山で1人のキリシタンが処刑された」とあるだけなのです。

いずれも場所はわかっていませんが、代官が松平親正(在位1629~1666年)と烏山精明(在位1610~1666年)の時代だったということなので、1620年代から1660年代であろうと考えられます。

また他の史料によると、1610~1620年にイエズス会宣教師が三河国を3回巡回しており、1631年に御油と牛久保でそれぞれ数人のキリシタンが捕まったことが記録されています。

1620年頃までに御油、牛久保、丸山にキリシタン集団が形成され、1631年に検挙、見せしめとしてリーダー格の者たちが処刑されたのではないでしょうか。

もっと史料が出てくればいいのですが。いやもっと私に調べることができれば、わかってくるのかな? せめて高札場の場所がわかれば、そこが第一候補なんだけど・・・o(゜^ ゜)


牛久保城跡

牛久保城跡の説明板

牛久保城跡

古地図

山本勘助の墓がある?


当時の町並みを想像しながら、通りを歩きながらチェック。お城の北側には寺町が作られていたんですね。昔からあったような道も通っているので、どこかの辻か、大寺院の門前に高札場があったと思うんですが。

「山本勘助の墓」と書かれた案内板が。山本勘助って、愛知県出身だったんだ?

山本勘助の墓


私ってほんと何も知らないなーと、心の中で嘆きつつ、それでも今知ればいいじゃんと思って、長谷寺というお寺のの墓地に。

奥まった所にあるけれど、いくつも案内板が出ているので見逃すことはありません。殉教地もこうやって書いてくれてると助かるんだけど。。ε- ( ̄、 ̄)ソレハナイカ

交流があった僧侶が、勘助の遺髪を埋めて建てたお墓なんですね。一つ知識が増えて良かったです☆


山本勘助の墓

解説板

仏像の解説

周辺史跡マップ

 家康の故郷 岡崎へ!

法蔵寺


それでは豊川市を後にして、家康の故郷 岡崎へ、いざ出陣!

着いたのは法蔵寺。家康が子供の頃読み書き手習いに通ったという寺で、庭に「キリシタン灯籠」があるのだとか。

また松平家の墓所とその脇に近藤勇の首塚があるらしく・・・、えっ近藤勇の首塚があるの!? それ何って感じ。長い参道に続いて石段がありますが、行ってみますかね。


参道の松

解説板

巨樹

本堂

「キリシタン灯籠」


「キリシタン灯籠」は奥庭の露地にありました。先に行った私がウロウロ探していると、夫がすばやく見つけて私を呼びました。

「大体ある所がわかってきた」と。たくさん見て回っているうちに、嗅覚が発達したようです。恐るべし。人間ってすごいな。

近づいてみると、竿の部分に元あった何かが削り取られ、文字が刻まれています。石も随分と古いものですね。何でもキリシタンと関係付けて言う人ならば、「竿部分の神父像を削って経文を書き込むことで摘発の目を逃れようとした」とでも主張しそう。

しかしもしこの形の灯籠がキリシタン関係のものだと認識されていたのなら、家康ゆかりの寺に今まであるということが不自然です。キリシタンが崇拝するようなものを置いていたら寺の存亡に関わるんですから、竿を削るよりも灯籠自体を捨てるか壊すことでしょう。

捨てられないほど貴重な灯籠(失礼ながらそうは見えないけど)ならば、削って傷つけるというのは矛盾してますし。だから「キリシタン灯籠」というものはないんだと思います。何度も言うようですが。ここには「キリシタン灯籠」と書いた札などはないからいいんですけど、これが「キリシタン灯籠」だと書いてある本があったから来たんです。早く理解が広まらないかなぁ...(ノ_-;)ハァ


「キリシタン灯籠」

「キリシタン灯籠」

上に続く石段

鐘楼

松平家の墓所


更に石段を上って行くと、周囲を一望できる場所に出ました。田園風景がいい感じです♪

六角堂の横手にあるのが松平家の墓所みたいですね。特に案内板は出ていないのでスルーしそうになりました。

よーく見れば標柱が建てられたお墓もありますが、字が薄れて読める状態ではありません。掃除はしてありますが、全体的に朽ち果てた印象が否めない感じ。ものすごく古そうで・・・。

法蔵時縁起書によれば、この寺は松平親氏の菩提寺として松平泰親が建立したそうで、松平家墓所で真ん中の大きいのが家康の父 広忠の墓のようです。この中に家康の妹 矢田姫のお墓もあるそうですが、確認できませんでした。家康の仮の廟所となった久能山東照宮だってあんなに豪華絢爛だったことを思うと、御先祖様たちに対してはあまり気を使わない方針なんですかね。徳川家っていうのは。


松平家の墓所

大きいのが広忠の墓

家康の先祖の墓

家康の先祖の墓

近藤勇の首塚


松平家墓所の斜向いにあるのが近藤勇の首塚。何でこんな所にと思い解説板を読んでみると、

近藤勇は東京板橋の刑場で斬首、首は京都三条大橋に晒されましたが、同士が三晩目に持出し京都誓願寺に持ち込んだのだとか。

そして誓願寺の住職が法蔵寺の住職になったので、土方歳三ら新選組の同士達とこの寺に埋めたのだということです。逆賊ということでわからぬように埋めていましたが、昭和33年誓願寺で記録が見つかり、また他にも文献が見つかったので、この地を掘り返してみたところ、台座や遺品なども出土したそうです。不思議な経緯で、ここに首が埋まっている(?)んですね。台座にはいろんな人の名前が刻まれています。


近藤勇首塚

近藤勇首塚

解説板

台座

自動販売機にも


村を通っていたら、自動販売機も家康推しのラッピングがしてありました。

さすがお膝元。江戸に行って400年以上も経つのに、今でも「我が殿」なんでしょうか。

それとも観光資源として利用できるものは利用しようというスタンス? そうですよね、歴史上の人物としてはビッグな人ですもんね。

 

広忠寺


続いて今度は広忠寺へ。「広忠」とは、家康の父、松平広忠の「広忠」です。

1562年、徳川家康が父 広忠の菩提を弔うため創建したお寺で、家康と同年同日に生まれた異母弟が住職でした。

あの私、ここに来ようとするまで家康にそんな異母弟がいたとは知りませんでした。歴史上のビックネームでも、知られてないことがたくさんありますよね。私が無知なだけかなぁ。。ヽ(~~~ )ノ

広忠らの墓


境内左手に伸びる道があって、そこを進むと広忠らの墓が、崖下の木陰にひっそりと佇んでいます。

父の菩提を弔うために建てたにしては・・・、それほど大きくもない墓です。隣には家康の異母弟のとその母於久の方の墓が。

「父の菩提を弔う」という大義名分でもって、邪魔になるかもしれぬ弟を厄介払いしたんじゃないかと考えるのは、ひねくれた考え方ですかね。私って性格悪いかも ヽ(;▽;)ノカモジャナイカー

家康から賜った大黒天が寺宝だそうですけど、家康は大黒天をすごく信心してたんでしょうか。大黒天は仏様でもないから、ご本尊にしているお寺ってあまり聞かないし。やはり冷淡に感じます。身内にも周りの人に対しても。形式的には供養とかするけど、すーすーと寒々しい感じがします。


解説板

墓所入口

広忠らの墓

境内

道の駅できしめん♪


家康関連の史跡めぐりで冷えたので、ひと休みすることに。道路沿いにちょうど道の駅「藤川宿」が見えてきたので、ご飯休憩♪

いや~ん、本物のきしめん! 私のソウルフードです☆
今日の実際のお天気は、冬のわりにはポカポカなので、外でランチする親子連れも。いいですのぅ (*゜v゜*)

 藤川宿ヽ(‘ ∇‘ )ノ

再現された高札場がっ!


食べ終わる頃、「藤川宿跡にプレゼントがある」と言われているような気がして、夫に頼んで行ってみると、見事な高札場が再現されていました!

すごい。新しくできたばっかりで、私たちのために用意してもらったかのよう(自意識過剰かっ)。でもこれを見てこんなに興奮できるのは私たちくらいだと思うんですけど(このフレーズ昨日も使った。。) とにかく感謝です ヾ(●⌒∇⌒●)ノハレルヤー

素晴らしいのは、高札一枚一枚の文面までしっかりと再現されていること。キリシタン禁制の高札も真ん中右手に掲げられています。当時これと同じものがここにあったということですね。キリシタン禁制の高札を見てうれしいわけではないけれど、歴史的なことを実感できるから良いです。これは完璧です☆


本陣跡

高札場

旧東海道

藤川宿の位置

藤川宿

本陣について

高札場について

キリシタン禁制の高札

大平一里塚


さて次はまたもや高札場跡。旧東海道にあった大平一里塚で、国指定の史跡です。

参勤交代のため諸大名の通過があると、藩から使者をここに差し出し送迎の礼をさせたので、御使者場ともいわれていたのだとか。

丸山のキリシタン殉教地


なぜここに来たかというと、ここが殉教地ではないかと見当をつけたからです。「(三河国の)御油村で5人、牛久保で1人、丸山で1人のキリシタンが処刑された」と書かれているうちの、丸山の殉教地は場所不明ですが、三河国丸山は額田郡丸山村→岡崎市丸山町→岡崎市大平地区丸山という変遷を辿りました。

今でも「丸山」という地名はこの近くに残っているのですが、キリシタン処刑が見せしめとしての側面を持っていたことを考えると、人通りの多い街道沿いではなかったかと推測されるのです。

するとこの辺りで地理的用件を満たすのは、旧東海道沿いで藤川宿と岡崎宿の間にある大平地区の一里塚なのです。見ると木があって、往時は送迎の礼をするスペースもあったでしょうから、あり得るんじゃないかなと思います。

また違う史料や何かが出てきたら考え直さなければならないと思いますが☆


大平一里塚

大平一里塚解説

旧東海道

板倉勝重の生誕地


岡崎は見所が多いです。次に来たのはキリシタンに好意的だった板倉勝重の生誕地。勝重は元和の大殉教のとき京都所司代だった人です。

「板倉勝重公生誕地」碑は個人宅の庭にあり、しかも文字の面が家側になっているので外からは見えません。

勇気があればチャイムを押すのですが、ここを見つけるのに時間がかかって余裕がないのと、大晦日に他人の家を突然訪れてかける迷惑を考えると・・・、今日は遠望で我慢です ( =_=)ジィー⇒⇒⇒⇒

板倉勝重と元和の大殉教


板倉勝重は元和の大殉教のとき京都所司代だった人ですが、自分の子の病をフランシスコ会の病院でジャコモという宣教師に治してもらったことがあったので、キリスト教徒に対して同情的でした。

命じられて処刑を執り行わなければなりませんでしたが、火焙りの苦しみができるだけ早く終わるようにと、高価な木材を高く積みました。そして処刑後は職を息子 重宗に譲って引退しました。

愛知県の人だったんですね。それも岡崎の。三河弁、話してたでしょうね。一人の人として思うと、職務というのは人に担いきれないものを負わせたりするんだなと。世が世だったから、生きていくのに職責を果たさなければならなかったでしょうけど、心は重かったでしょうね。


板倉勝重の生誕地

板倉勝重の生誕地

 そして大樹寺へ!

大樹寺


そして!岡崎に来たら絶対に行こうと思っていた大樹寺(たいじゅじ)へ。

大樹寺は、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に敗れたとき、今川軍についていた家康が逃げ帰った寺。先祖の墓の前で自害を図ろうとした家康を住職が諭し、思い止まらせたことで有名です。

そう、ここで家康は戦国の世を行き抜く決心をしたのだから、見逃すことはできません。徳川家康が残した遺言は、「予の遺体は久能山へ埋蔵せよ」「位牌は三河の大樹寺へ安置せよ」。だからこの寺には家康と歴代将軍の等身大の位牌があるんだとか。

はぃ?等身大の位牌ですって!?

びっくりですよね。見てみたいですよね、何かすごそうで。では宝物拝観料400円を払って有料エリアへ。あ、その前に山門と鐘楼は家光の寄進ですって。でかいです。迫力あって、威圧的で。家光はお祖父さんリスペクトで日光の東照宮も造っちゃったくらいですけど、こっちも抜かりなかったんですね。

歴代将軍の等身大の位牌


等身大の位牌って一体どんなものだろうと興味津々だったのですが、思ったより怖かったです。その人が立っているように感じられて。普通お仏壇の中にある位牌が、ただ人のサイズになって台上に置かれているだけなんですけど。驚いたのは、ほんとにその人の身長と同じ大きさに作ってあること。近年発掘された四肢骨から推算したところ、ほとんど差がなかった解説板に書かれていました。

昔の人だから家康も私より数センチ高かっただけで、14代(15代慶喜だけ位牌がない)の平均身長はたぶん153センチくらい。160センチあったのは秀忠1人だけです。綱吉は124センチだったなんて・・・驚きました。位牌が本人と同じ大きさだというのは俗説だとする人もいますが、そうでなかったら彼だけわざわざ124センチの位牌作りますかね? 徳川将軍家の菩提寺なのに...(ー'`ー;)


鐘楼

葵のご紋

本堂内の駕籠

本堂の仏像

松平八代墓


将軍たちと同じ空気をたっぷり吸ったような気分になって外へ。松平八代墓を見て帰ることとしましょう。

大樹寺は1475年に松平四代の親忠が、ここに念仏堂を設けたのが始まりだということです。だから家康が死のうとした先祖の墓前というのは、ここのことなんですかね?

初代親氏、二代泰親・・・と数えていくと、あれっ、墓が9基ある! 最後にひと際大きな墓があって、よく見ると家康のものでした。これは1969年に岡崎市民が家康を顕彰するために遺品を納めて建立したものなのだとか。

松平八代墓は1615年に家康が先祖の墓を再建したもので、2年後に天領代官が今の形に整えて現在に至っています。東照宮を見た私としては、松平八代墓といえど、一般の墓と大差なく感じられ、やっぱり家康って冷たいよね、自分以外の人には、、、と思ってしまいます。偏見かもしれませんが、ね☆


松平八代墓解説

初代の墓

八代広忠の墓

家康の墓

 西尾市と額田郡を回って帰ります♪

長円寺


大樹寺を見終えたら、あとは帰りがてら2ヶ所に寄るだけです。まずは西尾市にある長円寺へ。

ここは先ほど生誕地に行った板倉勝重とその一族の菩提寺。勝重は最初京都の長円寺に葬られましたが、息子の重宗が後にこの寺に移したのです。

島原の乱の第一次追討使となった板倉重昌(勝重の次男。重宗の弟)の墓もあるそうです。静かな所ですね。昔とあまり風景が変わっていないかも。

肖影堂


緑の中に朱色が映えるこちらの肖影堂が、勝重の遺骨を納めた坐像(肖像彫刻)を祀る廟所だということです。

坐像は公開していない(?)みたいですけど、西尾市公式サイトで見ることができます。あ、こういう人いそう、って感じ♪



板倉家の墓所


板倉重昌の墓は、結論から言うと見つけられませんでした o(´^`)o

境内に板倉6家の代々の当主と夫人の墓塔が林立する墓所があったので、その辺りかと思って探してみたのですが、重昌の戒名を発見できませんでした。

そもそも重昌くらいの有名人なら案内板くらい出てるだろうと考えたのが間違いでした。それなりに名前は知られていても、墓まで探しに来る人はあまりいないのかも。

島原の乱第一次追討使・板倉重昌


キリシタン一揆である天草・島原の乱が起こったとき、幕府はその鎮圧のために九州に追討使を送りました。「第一次」とあるのは、重昌らが事態を収拾できずにいるうちに、「第二次」が派遣されたからです。

それを聞いた重昌は面目をつぶされたと焦りを感じて総攻撃を命じ、それによって大損害を出してしまいます。そこで重昌が思い留まっていれば結果は違ったのでしょうが、今度は板倉勢を率いて突撃をし、眉間に鉄砲の弾を受けて戦死しました。享年51。

残された嫡子の重矩(しげのり)は父の代わりに深溝藩2代藩主となり、後には京都所司代にまでなったのですから、よくよく所司代に縁がある家系です。またキリシタンとも。

重昌の子孫はその後、各地に転封されながらも明治まで続きました。何か義があったんでしょうか? キリシタンの同情者だった板倉勝重に、キリシタン迫害者だった重宗、キリシタン一揆の総大将となって散った重昌・・・。

一人の人生、一つの家の歴史の中にも、神様しか知らないことがたくさんあるんだろうな。


長円寺

長円寺の宝物

肖影堂

境内マップ

本光寺


では本日ラストの訪問先へ。額田郡幸田町深溝にある本光寺です。深溝(ふこうず)松平の初代 松平忠定が開基し、深溝松平家の菩提寺となりました。

三河国深溝は徳川氏がまだ松平氏を名乗っていた頃は、松平氏の分家である深溝松平氏が治めていました。

この深溝松平氏の中に、「家忠日記」を記した松平家忠(4代当主)がいます。「家忠日記」は戦国武将の生活や当時の有力大名を知る上で貴重な史料。例えば、信長がイエズス会宣教師が連れて行った黒人を珍しく思って気に入り、「ヤスケ」と名付けて家来にしたことはフロイスの記録に記されていますが、「家忠日記」には彼の目撃談が登場します。

「名は弥助、身の丈六尺二分、黒人男性、身はすみのごとく」等々、フロイスの記録の裏付けが取れるのみならず、弥助の身長までわかります。キリシタン時代の同時代人として注目してもいいかと♪


本光寺解説板

本光寺境内地図

本光寺本堂

忠利が造らせた梵鐘

松平忠利の廟


しかし今日目的として来たのは、家忠ではなく忠利。家忠の子で5代当主、深溝藩主を経て吉田藩初代藩主となった人物です。

こちら(←)が松平忠利の廟。長円寺の肖影堂と似ていると思ったら、こちらも名前も「肖影堂」。

もしかしたら遺骨を入れた坐像が安置されているのかもしれませんが、外からは窺い知ることができません。

松平忠利とキリシタン殉教


松平忠利は吉田でキリシタン丸太夫が殉教したときの吉田城主。つまり処刑を命じた人です。父 家定の忠義と自分の戦功で下総小見川藩主、三河深溝藩主を経て三河吉田藩初代藩主となって、藩主を20年間務めたのですが、最後の年である1632年(亡くなる3ヶ月半前)に一人のキリシタンを火焙りにしました。

忠利は父と同様に「忠利日記」を書いていたのですが、そこに次のようにあります。
「廿六日未 雨降 きりしたん丸太夫火あぶりニいたし申候」
レオン・パジェスの「日本切支丹宗門史」には2人が処刑されたと書かれていますので、2人だったかもしれません。

場所がどこであったかは史料がなくてわかっていませんが、城下の人通りの多い街道沿いの川岸だったのではないでしょうか。GWに行ってみたら吉田城下(現在の豊橋)にそういう場所がありました(そのときのことはコチラに)。


肖影堂

肖影堂

1~4代の墓

1~4代の墓

ここにもこの形の灯籠が・・・


本光寺の墓地は西廟所と東廟所に分かれており、西廟所には深溝松平氏1~4代のとても質素な墓(藩主のものだとは到底考えられない)と、忠利の肖影堂(これだけが立派)などがあります。

そして肖影堂への入口前には、またもやこの形の灯籠(←)が!「キリシタン灯籠」と一部の人がよぶ織部灯籠(いい加減この言い回しやめようかな。。)です。

キリシタン処刑を命じた人の墓の前に、もし「キリシタン灯籠」を置いたのなら、どんだけ嫌味でしょうか。忠利への嫌がらせとしたなら理解できますが、ここは代々の菩提寺ですから、そんなこと微塵の疑いがあってもしません。つまりキリシタンが崇拝した「キリシタン灯籠」なるものはないのです。Q.E.D.証明終了!

キリシタンとの因縁?


東廟所には6~19(早世した11代だけ西廟所に)代までの霊廟があって、こちらは立派さに凸凹がなく全部が藩主クラスの墓という感じ。6代からはは肥前島原に封ぜられましたが、当主が死亡すると遺体を船でこの地に運び埋葬したというから驚きです。

代でいえば4倍近く島原で過ごしているのに、先祖の土地に対する思い入れが半端ありません。しかし島原といえば、あの天草・島原の乱の島原。

乱のきっかけとなった島原城(石高が多くもないのに藩主 松倉重政・勝重父子が分不相応に大きな城を建てようとして、農民に重税をかけた)に、吉田でキリシタンを火焙りにした人の息子が入るなんて、どういう因縁なんでしょうね。


石造物

東廟所への道

東廟所

解説板

夕暮れ


風が冷たくなってきました。本光寺は梅や紫陽花など季節の花で有名なお寺みたいですが、私たちみたいな人は何もないときに訪れるのがよさそう。

人々の生き死にを見つめて過ごした慌しい一日を、穏やかな夕暮れが静かに締めくくってくれています☆



       もう老年期に


       私の母が亡くなった年齢から、今の私の年を引くと
       十数年という数字が導き出されます。
       もしその年までしか生きられないんだとしたら
       私はもう老年期に差し掛かっていることに。

       人生長いようで短いですね。
       この年になると、先が見えてくるというのも事実ですし。
       そろそろ「終活」しなきゃいけないのかな?(さすがにまだか。。)

       しかし虚しいものやその場限りの名誉権勢などに
       汲々としていてはいかんということはわかります。
       最後に残る自分の中身というものに
       神経を遣うべき季節にきていますね ('-'*)(,_,*)('-'*)(,_,*)ンダンダ




                                         NEXT >>