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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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 駿府キリシタン秘抄 Ⅸ


            今日は浜松城をしっかりと見て
            掛川方面へと移動していく予定です♪
            前回行った時、新聖堂建設のために更地になっていた
            掛川市内の2つの教会は無事完成しているのでしょうか?
            興味深い発見がたくさんありますように (*゜v゜*)



石垣と門


浜松城は市役所周辺の一帯にありました。街の中心部に広場あり美術館あり、ちょっとした森までありの広い敷地が現在まで残されているのはお城のおかげかも☆

浜松城は徳川家康が29~45歳までの17年間を過ごした城。戦国の世を生き抜くのに熾烈な戦いと過酷な試練を味わった場所です。

またキリシタンに好意的で、自領での教会建築を許可したことのある松平忠吉が生まれた城でもあります。だから訪れてみたいなと思ってました。マイナーな所にばかり行っているので、観光化された史跡の便利さにちょっと驚いたりして。。ヾ(●´▽`●)ノカンコーチダー


浜松城跡

天守門

天守台解説

石垣

浜松城


天守門をくぐると黒壁の浜松城が。

こちらの天守は近年再建されたものですが、石垣等は遺構を修復したもの。

当時を彷彿とさせてくれます☆

ここに家康がいたんだなー。


門脇の鏡石解説

排水溝解説

井戸

井戸解説

天守の中は博物館


天守の中は博物館になっていて、貴重な品・・・という感じではありませんが、歴史を物語る品々が展示されています。

家康の生涯や浜松、三方ヶ原合戦に関する解説ビデオが3本ほど用意されていて、少し見てみたら結構面白いので、腰を落ち着けて全部見てしまいました (∩。∩;)ゞ

最近の博物館は進んでますね。建物自体は新しくないですが、ソフト面をリニューアルしている点に敬意を払いたいです。解説板による説明もじっくり読んでみました。無知な私にはかなり勉強になります☆


浜松城ゆかりの人

三方ヶ原合戦1

三方ヶ原合戦2

顰(しかみ)像

築山御前について

信康自刃について

次郎法師という女性

史跡マップ

キリシタン禁制の高札!


おお!と思ったのは、高札の展示。

本物が2枚置かれているのですが、なんと両方ともキリシタン禁制の高札でした!

これってこれって、私たちのためですよね、絶対☆

実物の上に再現されているのもキリシタン禁制のもの。しかも浜松宿ではどこに高札が掲げられていたかまで説明文に書かれています。この後行く所、決定です ( v ̄▽ ̄)ブィ


再現された高札

キリシタン禁制の高札

キリシタン禁制の高札

説明文

三方ヶ原、近っ


最上階は展望フロアになっていて、平野を城主の気分で睥睨することができます。

高い所から見るからか、三方ヶ原は割と近くにあるように感じます。あそこで戦って大敗して、この城に逃げ帰ったなら、いつ武田軍が押し寄せるか心配だったでしょうね。

家康はお茶漬け食べて、ぐうぐう寝たというけれど。剛毅だったというより疲れ果てていたのかも。城の門を開けっ放しにして灯りを煌々と焚いていたら、それを怪訝に思って「何か企んでるんではないか」と考えた武田軍の武将は、攻め込まずに引き返したといいます。

それはもちろん戦略勝ちだけど、追い込まれた末の一か八かの賭けだから、褒め称えるばかりではないような気も。九死に一生を得たら、私なら感謝するけどな、その知恵と霊感を下さった天に。


三方ヶ原

天守台

天守門

浜松宿

浜松城下

刀剣

ジオラマ

甲冑

鎧掛松


結構じっくりと見学しましたが、早朝に来たのでまだ9時半にもなっていません。

浜松城を後にして、城下の散歩へと参りましょう。今日は気温がぐっと冷え込んで、北風もピープー。

高札場跡のためでなかったら、こんな日に外歩かないな、きっと...{{(>_<)}}ブルブル


浜松城

家康の散歩道

浜松宿

大手門跡

日本基督教団 浜松元城教会


ふと見ると教会が。そうだ、ここ見たいと思ってチェックしてたんだけど・・・忘れてた!

昨日車窓から見えたから見たつもりになってました。

歴史ある教会みたいですね。お城の近くの目抜き通りにあるし。敬虔な感じがします♪


浜松元城教会

浜松元城教会

浜松元城教会

浜松元城教会

高札場跡


こちらが浜松宿の高札場跡。お城から歩くと結構距離あります。刺すような冷たい風のせいでそう感じたのかもしれないけど。

ここに先ほど見たようなキリシタン禁制の高札が高く掲示されていたんですね。お上の権威を見せつけながら。

私が当時に生を享けていたなら、どうしてたでしょうね。信仰を持てたんだとしても、殉教できるほど強くないから、結局心の中だけで信じて終わりにしたんだろうな。

高札場の前で信徒たちの道が、棄教と殉教、隠れて信仰を守る道の、それぞれに分かれて行ったんだろうと思うと・・・、これからも高札場めぐりは止められそうにないかな。


高札場跡解説板

高札場跡碑

高札場跡碑

 気賀関所跡へ ε=ε=(o ・ω・)o

ノーベル賞☆


街歩きを終えて駐車場に戻ると、市役所の壁にノーベル賞受賞を祝う横断幕(縦だけど)が。天野さん浜松でしたね、そういえば。

バイクや楽器の企業も有名です。商都だし、いろんな人物も輩出しているんですね、浜松。来てみて知ることは、知ろうと思ってたことだけじゃないのが、旅の魅力なんだろうと思います♪


ゆるキャラですか?

ここも城跡

街道沿いの松


それでは旧東海道を東へ。気賀関所跡を目指します。途中に植えられている松は・・・江戸時代から生えているものなのかな?

松はあまり成長が早くないと聞くから、江戸末期から旅人を見守っていたかもしれませんね。風で曲がってしまっている辺りとか、歳月を感じさせます☆


日本基督教団 気賀教会


気賀関所跡に行く前に教会にもちょっと立ち寄ってみました。日本基督教団 気賀教会です。

クリームイエローの壁がかわいらしい印象です。民家が普通に建ち並んでいる中にあるので、新婚さんのお家にも見えなくないような!?

アットホームな感じです♪


気賀教会

気賀教会

気賀関所跡


そして気賀関所跡へ。

東海道三大関所の一つに数えられるほど、人通りが多いために大きく、また厳しい関所でした。

今でいう検問所ですね。犯罪者はもちろん、「入り鉄砲と出女」を取り締まっていました。昔は身元を保証するもの等通行証がなければ旅などできず、庶民はお寺で身元保証書を書いてもらって各地を移動しました。

寺請け制度下のキリシタン


なので当然、お寺に籍をおいていないキリシタンは自由に移動ができません。江戸時代には寺請け制度というものが始まって、日本国民である限り必ずお寺の檀那にならなくてはならなくなったので、キリシタンは存在する余地すらなくなりました。もう最悪ですよ。死ぬしかない。キリスト教では自殺を禁じている。生きるためには信仰を捨てるしかない・・・。

それでどうしたかというと、隠れて信仰を守るという、私のような道(私が当時いたとしてですが)だけが残っていたわけで。殉教するほど強くない者たちが、それでも最後の砦として心だけを守り、歩んでいった道がそれだったのです。

しかしこの「強くない者たち」が、信仰を子々孫々に隠れて伝え、鎖国が解かれて外国人宣教師が再び日本の地を踏むときまで、信仰を守り抜いたのですから、これを果たして「弱い」と言えるでしょうか。大逆転ですよ。弱い者たちが決して弱くないということを教えてくれます。

私がキリシタンに惹かれる理由もたぶんそこにあるのだと思います。人の心の不思議。上手く言えないけれど、その不思議さに捉えられて、今まであちこちに行っているんだと思います。あー、関所と全然関係ないことばかり言ってる。。( ̄0 ̄;

関所内


関所の施設は本日お休みということで、門の隙間から中を窺います。

あの恐ろしげな物は「さすまた」っていうんだっけ? 取り押さえたりするときに使うやつ。

あの建物で改められて、下手したら逮捕や拷問もあり、か。こういうものを見るときに、裁かれ痛めつけられる側の気持ちになるようになりましたね。自分と関係あるものとして、歴史を学ぶようになったお蔭で。


関所について

気賀関所解説板

気賀関所跡

気賀関所跡

遠見台と空


私たちが当時に生まれてキリシタンになっていたら、こんな移動もできなかったはずだから、たぶん自分の地元でだけ生きていたかと。

信徒たちは広い世界についても、世の中がどうなっているのかもよく知らなかったかもしれません。それでも天を見上げながら、そこにある世界を見つめていたんだろうから、狭い世界で生きていたとはいいませんよね。

どこでどんなふうに生きるにしても、心だな、心。心の持ちようというか、有様というか・・・。


 掛川方面へ \(o ̄∇ ̄o)/

横須賀城跡


掛川に向いつつナビに表示される地図を見ていたら、「横須賀城跡」なるものが出てきました。

「静岡にも横須賀があるんだね。実は愛知県にもあるんだよ、知ってたー?」

そんな話をしていたら、行ってみたくなってきて、立ち寄ることに。時間あるし、ナビに出てるから迷うこともないし♪ 

横須賀城跡、広っ!


おっ、広い駐車場まで完備されてて意外と整ってるじゃんと思いながら、石段を上ると・・・。

えーっ!?

横須賀城、広っ!

こんなに広大でよく整備されてるとは思いませんでした。城マニアではない私には、「横須賀城」という名前さえ初見だったので。しかしこんなにすごいってことは、すごかったんでしょうね、城があった当時はもっと。

横須賀城とキリシタン


はっきり言ってここには偶然訪れたに過ぎないんですが、夫が早速調べて教えてくれた情報によると、横須賀城にはキリシタン城主がいたと、サイトに書いている人が複数いるそうな。「何ぃ?」と思って私も調べてみました。

その人の名は渡瀬繁詮(わたらせ しげあき)。第三代の横須賀城主です。千利休の弟子で高山右近と交流があったのですが、秀次事件に連座して改易された上、切腹を命じられて果てたのだとか。

撰要寺にあるキリシタン灯籠(元々これが見たくてこちらに来たのです)はこの人が所有していたもので、死に際し関係のあった撰要寺に寄進したのだというのが――、ざっと調べてまとめた情報です。

それで「千利休の弟子で高山右近と交流があった」ことと「撰要寺にあるキリシタン灯籠をこの人が寄進した」ことから、「渡瀬繁詮はキリシタンだったといわれ・・・」と書く人が出てきたようです。

渡瀬繁詮はキリシタンか?


しかし千利休の弟子で高山右近と交流があった人が皆キリシタンになっているわけではないですし、「キリシタン灯籠」なんていうものはない(毎回これ叫んでるけど、一度ちゃんと書かなきゃな;;)ので、その2つの理由を以ってしては「渡瀬繁詮がキリシタンだった」とは言うことはできません。

せめて「キリシタンだった可能性はある」と言いたいところですが、切腹してますからね。キリシタンは信仰を持っている限り自殺をしないのです。

また渡瀬繁詮が死去したのは1595年で、この頃秀吉の伴天連追放令は既に出されてましたが、秀吉はローマに行って帰ってきた天正遣欧使節の少年たちや宣教師にも会ったりしている頃なので、キリシタンでない振りをして切腹する必要もありません。

だから私が思いますに眉唾ですね、「渡瀬繁詮はキリシタンだった」説は。学術的に研究している人たちの本にも、キリシタンの城主としてこの人の名前は出てきませんから。でも、せっかくだから撰要寺の「キリシタン灯籠」は見に行こうと思いますけど☆


横須賀城古地図

本丸跡

天守台遺構

天守台礎石

本丸模型

歴代城主

城の歴史

城下を望む

妙龍寺


では次は妙龍寺へ。ここにはキリシタンの大迫害者井上政重の、父 清秀の墓があるということで。

だけど・・・、それらしいものが見つかりませんなぁ。「井」って書いた鬼瓦が置かれているから井上氏の菩提寺なのは間違いないと思うんだけど。

井上政重は歴史上の人物として、映画や小説にも出てくるから割と知られているけど、その父親の墓まで探して来る人はあまりいないのか(あまりじゃない?)、案内板などは全く出ていません (/_;)トホー

初代宗門改役 井上政重


初代宗門改役となって辣腕を振った井上政重は、井上清秀の四男として遠江国で生まれました。父 清秀が横須賀城主 大須賀忠政に仕えていたからです。父が死去した19歳のとき、四男だったこともあり江戸に出て住むようになりましたが、0~5歳までと16~19歳の間はここ横須賀城下にいたはずです(大須賀忠政は2回横須賀城主になっているので)。

いろんなことを見聞きし吸収する、多感な時期だったことを思うと、当地は井上政重の内面を形成した町だったといえるかもしれません。父親の墓にも参ったでしょうね、当然のことながら。

後に大目付に就任し、キリシタン検挙で名を挙げて宗門改役を兼帯するようになってからは加増され、1万石の大名格になったので、人の目から見れば大出世したわけで。

キリシタン拷問で名を挙げて


だから「父ちゃん、俺出世したよー」と、墓前に報告してほくそ笑んでいたのではないかと(私の勝手な想像)。お寺の住職を始め、昔の知り合いなんかにもいい顔してみせたり(更に想像)。

しかしその一方の手で、幕府から拝領した屋敷地にキリシタンを入れる牢屋敷(切支丹屋敷)を造って、宣教師を「女蔵」に入れて女性と同棲させ転ばそうとしていたのだから悪辣です。

キリシタンが天晴れな殉教を遂げては、かえって残った信徒たちを励ますことになるからと、「殺す」のではなく「転ばせる」方向に転換したのは、この井上政重のアイデア。

それで死なせないで死ぬほどの苦しみを与え続ける拷問が考案されました。それが穴吊り。よくも人間がこんなことを考えついたものだと、キリシタン時代の拷問をみると心の底が寒くなります。


妙龍寺

妙龍寺

妙龍寺

鬼瓦

本源寺


夫「違うよー。井上清秀の墓は本源寺にあるんだって」

夫の渡すスマホを見てみると、本源寺に井上正就(まさなり。清秀の三男)の墓があり、その傍らに清秀の墓があると書いてあります!

うそっ。じゃあそのお寺に行ってみなくちゃ。・・・ということで本源寺に。妙龍寺の近所にあります。

それにしてもスマホって便利ですね。その場で調べて間違いを修正できるので、二度手間になることがないようにしてくれます ( ̄(エ) ̄)ノ” アリガタヤー

井上氏の墓塔


門前や境内の至る所に「無断で入ったら竹泥棒とみなす」みたいなことが貼り紙されているので、庫裏のチャイムを鳴らして住職に来意を告げて墓域へ。

解説板を読んでびっくり。井上正就(井上政重の8歳年上の兄)は大変なことになっていました!

お兄さんはお兄さんで出世して、1622年には5万2500石の横須賀藩主となり、老中にもなったのですが、1628年に縁談の仲人をしていたのにそれが破談になったため、逆恨みされて江戸城内で斬り殺されています。

家督は嫡男 正利が継ぎ、父の菩提を弔うために本源寺に墓を建立したそうです。そしてその右横にあるのが清秀のだということなので・・・、正就死去の際にこちらに移したんでしょうか? じゃあ井上政重はこちらにも来ていたでしょうね。政重は1661年まで生きていますから。

島原の乱第二次追討使につながっていた!


スマホでもうちょい調べていたら、驚くべきことを発見。井上正就の娘が松平信綱(将軍家光のブレーンでとても賢いので「知恵伊豆」と呼ばれた)の正室になっています!

「知恵伊豆」(ちえいづ。「知恵が出る」というのと松平信綱の官職名「伊豆守」を掛けている)こと松平信綱は、板倉重昌を総大将とした追討軍が苦戦しているので、家光に命じられて島原に向った第二次追討軍の総大将。

第二次の追討使が送られたと聞き、面目をつぶされたと感じた板倉重昌は、松平信綱が到着するまでに原城を落とそうと無理な突撃をして、銃弾を受けて死んだのです。

この島原の乱で井上政重は手腕を発揮し、一揆後の処理にも立ち会いました。それで家光への覚えが目出度くなり異例の出世をしたといっても過言ではありません。しかし井上政重と松平信綱がこんなに近しい親戚(政重の姪が信綱の妻)だったとは知りませんでした。

あまり本とかにも書いてないような? 本には書いてあるのに私が見落としてただけかなぁ(それはよくある)。。ともかくいろいろと発見のある訪問となりました。感謝です☆


本源寺解説板

本源寺本堂

井上氏の墓塔

井上正就の墓

撰要寺


そして掛川を目的地とした最大の理由である撰要寺へ。

ここまででかなりのことを教えてもらい、「キリシタン灯籠」とかもうどうでもいいような気もしてきましたが ヾ(- -;)オイオイ

山門は横須賀城の門が移築されたものなのだとか。では中へ☆

「キリシタン灯籠」


こちらが件の「キリシタン灯籠」。明らかに竿部分と火袋が新しくて、レプリカですね。

本物をどこかに大切に保存してあるなら、天辺だけ古いのを載せないでしょうから、無くなってしまったんですかね (・・。)?

ちなみにこのお寺には横須賀城主だった大須賀家の墓所があります。井上政重の父が仕えた大須賀忠政はここに眠っているんですね。そっか大須賀忠政が千葉の久留里藩に移封され戻って来るまでの期間に、城主を務めたのが渡瀬繁詮だったわけか。

この灯籠が渡瀬繁詮のものだったなら、茶室の庭に置いていたのかもしれませんね。千利休の弟子ならば古田織部とも知り合いだった可能性は十分あるので、織部灯籠を持っていてもおかしくありません。

これを「キリシタン灯籠」とは言わないと私は考えているけれど、このおかげで渡瀬繁詮という人物を知ることができたのは良かったです☆

秀次事件に連座して切腹した人の中には元キリシタンもいる(前野長康という人)ので、たぶん一緒に自害したんじゃないかと・・・。変転の多い時代に命を賭けて生きていった人たちを思い、しばし瞑目を。


撰要寺解説板

撰要寺

「キリシタン灯籠」

城主大須賀家の墓所

カトリック掛川教会


それでは掛川市の中心部へと参ります。ナビにセットしたのはカトリック掛川教会。

以前来た時には工事中で隣の幼稚園しか見られませんでしたが、無事完成したようでおめでとうございます♪

白亜のモダンな外観ですね。駐車場がすごく広いのは、車で来る人が多いからでしょうか。

日本基督教団 掛川教会


次は日本基督教団 掛川教会。前回は更地になっていて、片鱗も窺うことができませんでしたが、目出度く落成。

こちらも真っ白な壁が青空に映えています。

耐震とかの問題で、全国的に立替が進んでいるのかもしれませんね。


掛川城


掛川城を横目に市内を走り抜けて、掛川を後にします☆

掛川って、人がまあまあ住んでるまあまあ大きな街ってイメージしかありませんでしたが、歴史を紐解くと、いろんな発見がある所なんですね。

短い時間だけどしっかり回れて良かったー ヾ(´▽`*)ゝ

 島田に寄って藤枝へ (○⌒∇⌒○)

カトリック島田教会


続いては島田市です。でも島田市は今井信郎関係で田舎の方(田園というべきか?)は回ったので、市の中心部にある教会だけ。

まずはカトリック島田教会。建物は数十年は経っていそうな感じですが、それが温かみを醸し出しているような。

信徒さんたちもそれを気に入っているんでしょうね♪

日本福音ルーテル 栄光教会


日本基督教団の教会に向っていたら、偶然日本福音ルーテルの教会の前を通ることになったので思わずパチリ。

藤枝牧師館在住の女性の牧師さんが、藤枝・焼津・島田の栄光教会の主任牧師だそうです。

女性の牧師さんも増えてきているんですね☆

日本基督教団 島田教会


そして日本基督教団 島田教会へ。

いつ建てられたかわかりませんが、新しくて、ちょっとクリニックとかが入っているビルのようです。

でもビルみたいに丈夫なら安心ですし、清潔感が感じられていいですね。

藤枝市の清水寺


さて本日のラストは藤枝市の清水寺。なぜここになったかというと・・・、ワタクシの勘違いで、でございます<(_ _)>アヤマルー

家康がしばしば詣でたという音羽山清水寺(静岡市にある)を、ここだと思い込んで来てしまったわけでして。

その間違いに気づくまで写真を撮りまくっていた夫が、後でぶーぶー言っておりました。そしてこんなことも。「賽銭投げて御神酒(おみき)飲んで、おみくじ引いて帰るのを、信仰とは言わないよなー」と。

眺望よし☆


同感です。初詣とかは「神様」とはいうけど一種の年中行事ですね。幸いを願って行う伝統的な習わしというか。

「神様」が関わっているけど「信仰」とは言わない、少し変わったワールドなのかもしれません。

日本人よ、幸いを願うなら、「信仰」にももう少し目を向けられよ。――そんなことを思いつつ、今日の〆は欄干から望む空と街ということで。一日無事に過ごせて感謝です (○゜ε^○)


駕籠

境内

境内

解説板


   外的な知識と内的な知識


     キリシタンの足跡をたどるようになって7年目。
     最初の頃読んだ本に「井上政重は蒲生氏郷の元家臣でキリシタンだった」と
     よく書いてあって、私もそれを鵜呑みにして旅行記にもそう書いていましたが、
     最近出された本にはそんなこと一切書かれていません。
     研究が進んで誤謬が正され、知識が進歩したんでしょうね。

     しかしこの知識というものですが、
     このような外的な知識は進歩すれば、それが蓄積され
     次の世代はそれを土台として、更に上へと知識を積み上げていけばいいのですが
     心に関する内的な知識はそんな調子にはいきません。

     誰かが深く悟りそれを内的知識として持ったとして
     それが他の人に伝達されたんだとしても、すぐに同様の段階に上がれるのではありません。
     学ぶことはできたとしても、自分自身の悟りにするには努力が必要なのです。
     聖書で学んだ心の知識を自分のものにするために、もがいていかなきゃな (* ̄0 ̄*)ノ



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