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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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 東京・見てある記 ⑦

  <本日の主な訪問地>

  • 伝馬町牢屋敷跡
  • 大安楽寺
  • 長崎屋跡
  • 三浦按針屋敷跡
  • 日本橋
  • ヤン・ヨーステン碑
  • 勝・西郷会見の地碑
  • 芝口札の辻
  • 元和キリシタン遺跡碑
  • カトリック高輪教会

 元和の大殉教を偲んで

今日は何の日?

今日は12月4日。一年くらい前からこの日に歩いてみたいと思っていた道があります。

1623(元和9)年、処刑されることとなった江戸のキリシタン50名が刑場まで引き立てられていった殉教路。

この江戸における元和の大殉教は、旧暦の10月13日、つまり新暦の12月4日に起こったのです。

時代は違えど自分と同じ信仰を持った彼らの心情が、少しでもわかればと思い、祈りつつ進んでみたいと思います。道の始まりは伝馬町。日比谷線小伝馬町駅からです。


駅前の碑


碑文

駅前の解説板

伝馬町牢屋敷跡


伝馬町牢屋敷跡があったのは地下鉄駅からほど近い十思公園とその周辺。

牢屋敷はとても広いので周りも全部牢屋敷の敷地だった所ですが、公園以外はいろんな施設になっているので写真は控えました。

公園内には石町の鐘とここで亡くなった吉田松陰を悼む碑があります。キリシタンのことは触れられていませんね。一般罪人と思想犯を入れたと解されているようです。


十思公園

牢屋敷跡

解説板

牢屋敷の処刑所跡


牢屋敷内の処刑所として使われていた場所にあるのが、大安楽寺です。牢屋敷内で殉教したペトロ岐部が亡くなったのはここである可能性が高いです。

ペトロ岐部は元和の大殉教の際の殉教者ではありませんが、元和の大殉教の殉教者らと共に2008年に列福されています。

日本人で初めてエルサレムに巡礼した人物としても知られ、ローマで司祭になり、帰国を止められたにも関わらず、迫害の嵐の吹く日本に戻り殉教しました。


大安楽寺

刑場跡

解説板

牢屋敷遺構

 さあ殉教の道へ

殉教者たちが行った道


さあ殉教者たちの道をたどってみましょう。現在は都内ならどこにでもありそうなオフィス街の道。

彼らが行った道は現在もほぼ同じルートで残っています。江戸から東京へ変わっても、変わらずに使っているものがあるからたどりやすいです。

牢屋敷から出され、札の辻の処刑場までの道を歩んだ50名の内訳は、外国人宣教師2名と日本人信徒48名。このうち名前がわかっているのは以下の37名です。

元和の大殉教 江戸の殉教者


  •  ヨハネ原主水
  •  ジロラモ・デ・アンジェリス神父
  •  フランシスコ・ガルベス神父
  •  レオ竹屋権七
  •  カシヤ半三郎
  •  ヨハネ長左衛門
  •  シモン遠甫
  •  ペトロ庄三郎
  •  ヨハネ又左衛門
  •  ミカエル久左衛門
  •  ロレンソ小吉
  •  マチアス弥生左衛門
  •  ロレンソ角左衛門
  •  マチアス喜左衛門
  •  トマス与作
  •  ペトロ三太郎
  •  ペトロ佐左衛門
  •  マチアス関右衛門
  •  イグナチオ長右衛門
  •  シモン夢庵
  •  ロレンソ土井
  •  イサイ
  •  ボナベントゥラ久太夫
  •  ヨハネ新九郎
  •  ヒラリオ孫左衛門
  •  フランシスコ喜左衛門
  •  指物屋甚七郎
  •  ヨハネ長左衛門
  •  ロマン権右衛門
  •  マヌエル武右衛門
  •  ペトロ喜右衛門
  •  久三郎
  •  ペトロ長右衛門
  •  アンデレ理助
  •  ラファエル吉左衛門
  •  久七
  •  アントニオ

長崎屋跡


道の途中で長崎屋跡を見つけました。現在の新日本橋駅の出入口前にあたります。オランダ商館長が定宿にしていた所で、随行員にはシーボルトなどがいました。

オランダと通商していた時代は、同じ江戸でも元和からは時間が経っているので、ここが殉教路だということは知らなかったでしょう。

またオランダは新教徒の国で、旧教徒(つまりカトリック)とは何百年も戦争をしてきたので、カトリック信者には同情心はなかったと考えられます。


長崎屋跡

解説板

解説板

通りの向いから

江戸通り


伝馬町から処刑地である札の辻までの道は途中で一回曲がるだけのわかりやすい道です。

小伝馬町駅から江戸通りを日本橋方面に進み、長崎屋跡のある室町3丁目交差点を左折して、あとはひたすら中央通り(第一京浜)を道なりに進むだけ。

しかし今もそうですが、当時からかなり人通りが多く、江戸の目抜き通りといってもいいような所です。

市中引き回しというのは名誉を傷つけ尊厳を奪う付加刑であり、キリシタンの処刑は見せしめの意味が強かったのでこのようなコースが選ばれたのでしょう。

 日本橋に向って

日本橋方向へ


中央通をしばらく進むと徐々に買い物客の姿が多くなってきます。今日は土曜日。家族やカップルでおでかけなんでしょうか。

元和の大殉教の日なので、私と同じ事を考えて同じ道を歩こうとしている人がいるんじゃないかと、ちょっと期待してましたが、いなさそうです。そりゃそうですよね。日本ではクリスチャン人口が国民の1%に満たないのだとか。

また日本は世界で2番目に多い殉教者を出した国だというのに、その歴史を知らない人がほとんど。こういう大切なことは歴史として学校でも教えるべきだと思います。

三浦按針屋敷跡


日本橋に至る少し手前の小道に三浦按針屋敷跡があるので寄ってみました。

この三浦按針、徳川家康のブレーンとして働き、キリシタンの迫害も進言した一人です。三浦按針というのは日本名で、もともとはイギリス人。

乗っていたリーフデ号という船が難破して日本に来たわけですが、イギリスは新教徒の国。つまりキリシタンを嫌悪していたのです。

ヨーロッパでの新旧キリスト教の戦いが日本に持ち込まれ、純粋な信仰者たち血が流されることとなりました。神の下では一つにならねばなりません。


按針通り

店の脇にある

石碑

碑文

日本橋


三浦按針屋敷跡から5分で日本橋に到着。今も往来の激しい所ですが、当時から一等地だったんでしょうね。家康が按針を重んじていたことがわかります。

この橋の真ん中に書かれた「日本橋」の文字は最後の将軍徳川慶喜の筆によるもの。あまりアクのない字ですね。

日本橋のたもとには高札とさらし場がありましたが、高札の方は工事中で写真を取れませんでした。残念(>_<)


日本橋

デパート

さらし場だった所

高札場跡

 東京駅の八重洲口って…

ヤン・ヨーステン


中央通りを進んで行くと東京駅の八重洲口から延びる道と交差する地点があります。その交差点の中洲のような所にあるのがこの碑。

ヤン・ヨーステンの碑です。このオランダ人は三浦按針と一緒に日本に漂着した航海士で、家康に厚遇され日本人妻も娶りました。

しかし望郷の念やみがたくヨーロッパに戻ろうとしているうちに船が難破して亡くなりました。平戸で鬱々としたまま生涯を終えた三浦按針とは対照的な生き方です。

さてこのヤン・ヨーステンの屋敷があったことから「八重洲」の名がついたという説があります。「八重洲」がヨーロッパと関係があるとは不思議な縁ですね。


交差点の中洲

ヤン・ヨーステンの碑

解説文

碑文

銀座


銀座の歩行者天国の始まる辺りから一気に人が増え、クリスマス・カラーで彩られたショーウィンドウには華やかな世界が広がっています。ここが殉教の道だとは、知る人はいないでしょうね。

首に太い綱をかけ、それを後ろに回して両手を背中で縛られた50人の者たちは、牢から引き出されここを通って刑場に向って行きました。

2人の宣教師と原主水は馬に乗せられ(宣教師たちは大変衰弱しており、原主水は手足の腱を切られて歩けなかったため)、その他の者は徒歩でした。

銀座の街


大きな字で名前を書いた札を肩に掛け、馬に乗せられたデ・アンジェリス神父が一行の先頭で、その後にシモン遠甫、レオ武屋権七ら16人が続きました。

その次に同じく馬に乗せられ、肩から名前を書いた札を下げたガルベス神父と徒歩で引かれていく16人のキリシタンたち。

行列の最後尾は馬上の原主水と残りの信徒たちでした。誰も彼らに近づけないように刑吏たちに囲まれての物々しい大行列。この見せしめは、彼らにとっては天国への凱旋行列でした。

勝・西郷会見の地


新橋を通り抜け三田の辺りまで来たら、こんな碑を見つけました。勝・西郷会見の地碑です。

江戸城無血開城の話し合いはここで行われたのだとか。歴史の地なんですね。もっと感動していいところですが、足が痛んできてそれどころじゃありません。

昔から足の裏の皮を剥くというくせがあって、昨日は寝ながら剥き剥きしていたようで…。そんな程度のことで痛いとか思っている自分が情けなくも恥ずかしいです(>_<)



古地図

解説

様子

 芝口札の辻

札の辻の交差点


東海道の宿場の一つ品川宿で、彼らは火刑に処せられ殉教しました。当時ここは海に近く、潮の匂いのする場所でした。

街道の脇に小高くなった丘があり、キリシタンたちが到着すると、そこには街道に沿う形で50本の柱が建てられていました。

江戸の市に近い方に3本の柱は、他の柱から少し離れて建てられていました。先に日本人信徒47名を処刑し、その様子を2人の神父と原主水に見せ、殉教の覚悟を挫こうとしたのです。

刑場があった辺り


このキリシタン処刑は徳川家光の命により行われたもので、諸藩にもキリスト教禁令を徹底するため、参勤交代で江戸に来ていた諸大名たちも招集され、この様子を見ていました。

47名の信徒は足元の薪に火がつけられると、主の名を呼び祈りを捧げながら天に召されました。

彼らの火が燃え尽きて、命も絶えた後、3人は馬上から下ろされ柱に縛られました。デ・アンジェリス神父は江戸の市の方に向い短い祈りを捧げて亡くなりました。

札の辻の歩道橋から


原主水は火炎が猛威をふるって襲い掛かってきたとき、それを大切な物を抱きかかえるかのように炎に腕を回しました。そして柱と共に前に倒れ手足を大地に伸ばしたまま息絶えました。

ガルベス神父は柱に寄りかかったまま、死後もまっすぐに立っていました。彼らの以外は広々とした野辺に放置され、誰も近づけないように3日間の間兵卒たちに見張られていました。

これらのことは1623年のイエズス会日本年報に詳細に記されています。

芝口札の辻


ここで殉教したキリシタンは前出の50人だけではありません。その20日後にも、その家族24人が同じように市中引き回しの上殺され、同時にキリシタンを匿った者たち13人も処刑されたのです。
ここ江戸の芝口、札の辻であったキリシタン殉教で、記録に残っているのは以下の通りです。


  • 1623(元和9)年12月24日、先に殉教したキリシタンの妻子24人とキリシタンを匿った者13人が処刑されました。このうち6人が火刑、17人が斬首、2人が磔刑でした。
  • 1624(寛永元年)年6月12日、キリシタン18人が処刑されました。
  • 1630(寛永6年)年1月24日、キリシタン1人が鋸引きの刑で殺されました。
  • 1632(寛永8年)年1月13日、キリシタン7人が処刑されました。このうち6人が火刑、1人が斬首されました。
  • 1639(寛永15年)年1月6日、キリシタン20人が処刑されました。6人が磔刑で、14人が斬首でした。
  • 1640(寛永17年)年5月2日、フランシスコ会神父ベルナルド・デ・サン・ホセ・オゾリオ神父とフランシスコ・バラハス神父が火刑にかけられ殺されました。オゾリオ神父は山形県の寒河江で活動していた神父で、バラハス神父は「孫七郎」と名乗り岩手県の大籠で多くの人に宣教した人物です。



 元和キリシタン遺跡碑

元和キリシタン殉教碑



彼らのことを伝える碑が、札の辻のすぐそばにあります。
ガラス張りの威容を誇る住友不動産三田ツインビル西館。
その回りに広がる緑地公園の中に東京都指定の旧跡として保存されているのです。
処刑が行われて以降、この丘は長く不浄の地とされ空き地となっていました。

元和キリシタン遺跡の碑



処刑から150年経った1771年に智福寺が移ってきてようやくこの場所が使われるようになったのです。
1960年、東京都の教育委員会は智福寺境内に「元和キリシタン遺跡」の碑を建てました。
しかし、その後度重なる山崩れによって智福寺が移転。
このように整備されたのは最近のことです。


碑への道

キリシタン殉教碑

キリシタン遺跡

解説

江戸キリシタン巡礼ガイド


元和の大殉教の一つ(元和の大殉教とはここと京都、長崎で行われた三つの殉教を指す)、江戸のキリシタン殉教者の道をたどるショート・トリップはこれで終わりです。

キリシタン遺跡碑脇の散策路でひと休み。彼らの心に思いを馳せます。目に見えない神とその約束を信じて、己の命さえ顧みなかったとはどれほど勇敢だったことでしょうか。

参考にさせてもらった「江戸キリシタン巡礼ガイド」の冊子をめくると、彼らが語りかけてくるように感じました。彼ら自身が、今も非常に近くにいるような、そんな気さえしてきます。

彼らの祈りがこの地になされるよう、涙で祈らずにはいられませんでした。

 品川へ

品川まで


伝馬町の牢屋敷から殉教地である札の辻までは約8キロ。私の足で2時間くらいでした。

思ったよりも近かったというのが歩いてみた印象です。後ろ手に縛られ見世物となって蔑まれて歩んだわけではないので、彼らとは程遠い道程だったと思いますが。

まだ日も高いので、このまま品川駅まで歩き、そこからカトリック高輪教会まで歩こうと思います。

高輪教会には以前カトリックの人が建てたキリシタン顕彰碑があるし、前行った時に見損ねた資料室や殉教の様子を描いた絵があるはずなので。

品川駅


実際、そんなに疲れてもいなくて、それではどこか申し訳ないというか、自分にもっと辛さを味わわせたい気分なのです。

てくてく進むと、どこにどんな用事があるのか、たくさんの人でごった返す品川駅前に着きました。

実はこの辺りも殉教地。現在は埋め立てられて駅とかビルになってる辺りは江戸時代は海で、この海に付き立てた柱にキリシタンを縛り、潮の満ち引きで殺したのです。

いつかもう少し海の見える辺りに行って写真を撮り、海岸刑罰場と殉教者たちのことを書き残したいです。

カトリック高輪教会


柘榴(ざくろ)坂を上りきった所にある、カトリック高輪教会。ここまで来るのに元和キリシタン遺跡碑から40分ほどかかりました。

今度は意外と時間がかかったという印象です。お腹がすいてきたら疲れも急に襲ってきたので、かなり疲労困憊しておりますです。

しかし到着したのが教会なので、思う存分祈って主に向うことができるので幸いです。クリスマスのプレゼビオにも癒されます。


教会内部

プレゼビオ

教会の塔

塔の内部

江戸の大殉教を描いた絵


地下にあるクリプトと呼ばれる納骨堂の手前に江戸の大殉教の様子を描いた江副隆愛氏の絵があります。これはこれだけを見に来る価値がある絵だと思います。

もう一つの地下空間にはキリシタンに関する資料を集めた部屋がありますが、江戸のキリシタンと幕府の迫害についての展示と高札などがあるだけでした。

しかしこの教会がキリシタン殉教者を思う気持ちが様々に表れていて、感動を覚えます。


カトリック高輪教会

腕を広げるキリスト

江戸の殉教者顕彰碑

その裏面

江戸キリシタンを思い・・・


1623(元和9)年の今日、命でもって主を証した人々がここにいた――。

そのことがやっと身近に感じられるようになりました。ここを歩き、人々の罵声に祈りで応え、天への期待を最期まで持ち続けた彼らのことを、私は英雄だと思います。

力で敵を屈服させる英雄でなく、主の愛とはこれほどまでに真実で、確かなものだということを表した信仰の英雄。

今の時代、日本で殉教することはないけれど、神の愛のために「生きる」という殉教をしたいと思いました。殉教とは言わないかもしれないけど・・・。

今日も一日ありがとうございました <(_ _)>


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