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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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 涙で祈る、23区。vol.2



       今日は四谷散歩


     今日は四谷を散歩します☆
     ご存知ですか?
     江戸時代四谷にキリシタンが住んでいたのを。

                 そして四谷で
                 キリシタンが殉教したということを。

                 今は教会やミッション係の学校が林立する四谷に
                 どんな歴史があるのか、探ってみたいと思います♪

太宗寺


まずはてくてく歩いて太宗寺へ。
ここには「切支丹灯籠」とよばれる石造物があって、新宿区の登録有形文化財なのだとか。

道がわからなくて交番に寄り、すぐそこだよと言われ顔を上げると目の前にありました。

太宗寺は、宿場町 新宿を治めた内藤家の菩提寺で、境内はミニ博物館(?)だということです。


閻魔堂

解説板

境内マップ

江戸6大地蔵

地蔵像解説

ミニ博物館

内藤家解説

本堂

切支丹灯籠


「切支丹灯籠」とよばれる石造物は、新しくモダンな感じの庫裏の手前にありました☆

本物は台座だけで、上の火袋は後で復元して乗せられたものと書いてありますが、下の台座部分の方が新しく見えます。

説明版には「切支丹灯籠」と書き、どんなものであるか解説が書かれていますが、こんなふうに言い切っちゃっていいものかどうか・・・。

その上、「マリア観音とも呼ばれている」というのは明らかな間違い。私は「切支丹灯籠」なんていうものはないという考えで、現在では研究者たちもほぼそう考えているのですが、区で指定しちゃっていると、そういう誤謬も訂正できないものなんでしょうかね?

それでも私は「キリシタン」と名のつくものは、とりあえず見に行くというスタンスなので、見られて感謝なのですが♪


「切支丹灯籠」

「切支丹灯籠」

「切支丹灯籠」

「切支丹灯籠」解説

 夏目漱石が幼少期を過ごした

夏目漱石幼年期時代の住処


太宗寺から少しだけ歩いて夏目漱石が幼少期を過ごした所へ☆

漱石は末っ子だったため里子に出され、その養父の仕事の関係で、四谷新宿に住んでいたことがあるのです。たった2年ほどのことですが、少年の瞳に移った当時の風景は、「道草」などに描かれていて興味深いです。

現在はビルが建っていて、お店が営業中。ここで働いている人くらいは知っているのかな? 夏目漱石がここで暮していたことを。


漱石ゆかりの地

漱石ゆかりの地

漱石ゆかりの地

成覚寺


路地を通って大通りへ出て、成覚寺へ。
ここは投げ込み寺ともよばれたお寺。

宿場町というのは歓楽街にも通じ、飯盛り女といわれる娼婦たちがいました。現代は水商売に「就職」する女性たちもいますが、当時の実情は今でいう人身売買。

払いきれない借金を背負わされ、年季奉公するうちに、性病その他の病気で早死するという、正に救われない世界。

そんな女性たちが死んで、投げ込まれるようにして葬られたのがこの寺で、その数2千2百体。着物や装飾は一切剥ぎ取られて、下着一枚で俵に詰めて送り込まれたのだとか。同じ女性としては心が痛みます。


成覚寺

供養塔

解説

供養塔

旭地蔵

解説

恋川春町の墓

周辺地図

正受院


靖国通り沿いに正受院へ。
ここには奪衣婆という仏様(?)が祀られているという・・・。

毎度のことながら、何でも祀ってしまう日本人の宗教観に嘆息せずにはいられません;;

地獄への渡し守とされる奪衣婆の木像を、お堂まで建てて祀る必要があるのかと思いますし、拝めば咳止めのご利益があるというのもよくわかりませんし・・・( ̄Θ ̄;)


正受院

解説板

 中原中也と小林秀雄

花園アパートの跡地


さて一本中の道に入って花園アパートの跡地へ参りました。現在は公園で、サラリーマンとおぼしき人たち数名が休憩中。

ここにあったアパートに詩人の中原中也や評論家の小林秀雄が住んでいて、青山二郎の主催する文学サロン「青山学院」が開かれていました。

私は 中原中也も小林秀雄も尊敬していますが、一人の女性をめぐって2人が起こしたいざこざはほんとーにイヤ。そういう女性問題があったというだけで、詩も評論も読みたくなくなります。今はカラフルな遊具が楽しさを演出する児童公園ですが、人って本当に度しがたい(救いにくい)存在なんだなと感じます。


花園アパート跡

花園アパート跡

花園アパート跡

長善寺


靖国通りを離れて、長善寺へ。道と道の中洲みたいな所にあるので、一方から入って他方に抜けて、「えっ、これでおしまい?」って感じです。

このお寺にあったのが、秀吉が大坂城に安置したとされる銅造の仏像。鉄砲の弾丸跡が8ヶ所があり、大坂の陣の様子を物語るものとされていましたが、現在はないそうです。

大坂城にあった秀吉の仏像、それも銘入りの素晴らしいものなら、城を訪れた高山右近や天正遣欧使節の少年たち、ヴァリニャーノやフロイスらイエズス会宣教師も見たことがあったかもしれませんね。


長善寺

長善寺

長善寺

 四谷大木戸の跡へ!

四谷大木戸跡碑


排気ガスぷんぷんの大通りに出て、四谷大木戸跡へ。ここですよ、ここ!本日前半のメインはっ。

何度も前を通って、「何かあるなー」と思いながら行過ぎておりましたが、今日はここが目的地に。要するに見逃していたんですよね、いろいろなものを・・・(/ー ̄;)

まずは大木戸跡の碑を見学(←)。碑の石は旧玉川上水の石樋をリサイクルしたもの。一見フツーに見えてしまうのが難点かと。

水道碑記

解説板

大木戸跡の石碑

水番所跡

四谷大木戸跡


ここに是非来たかったのは、キリシタン殉教地の候補の一つだから。

江戸時代に四谷でキリシタンが殉教したことは記録に残っているますが、それがどこで行われたのかよくわかっていないのです。

それで候補に挙げられるような場所をめぐっているのですが、私はここが殉教地ではないかと考えているのです。

四谷大木戸について


ここに四谷大木戸が設けられたのは1616(元和2)年。大坂夏の陣で豊臣氏が滅びた翌年で、豊臣残党の侵入を防ぐのが目的でした。当時江戸市中では番小屋や木戸が整備されて、悪人の取り締まりなどにあたっていました。そして江戸に入る街道の入口には大木戸を設け、「入り鉄砲、出女」を見張っていたのです。

木戸の両脇には石垣が築かれ、そこに高札が掲げられていました。四谷大木戸の場合は四谷側北部に番小屋があって、「さすまた・突棒・もじり」などを置いて役人が警備に従事し、通行人や馬の荷物を厳しく取り調べていました。

江戸時代の処刑場


江戸時代の処刑は見せしめのためでもあったので、主に街道沿いの人通りの多い場所で行われました。高札場の横に罪人をつないでおいて晒したり、処刑される人を固定して、通行人に竹鋸で首を斬らせることもありました。

人通りの多い街道の入口であり、高札場でもあったもこの場所は、見せしめのためのキリシタン処刑に適していたと考えます。また現在でこそビルに囲まれていますが、当時は南側に渋谷川の渓谷と森林があり、北側には饅頭谷と呼ばれる湿地帯が広がっていました。そういう一般に住むに適しない場所に、流れ者などが住んでいて、その中に御禁制のキリシタンもいたのではないかと思うのです。

すべては謎の謎。今となってはミステリーですが、候補地だけでも目にしておきたくて来てみました。来てみても何かがわかるというわけでもないのですが・・・o(゜^ ゜)ウミュ

斉藤茂吉終焉の地


道の合流点を右手に行くと、斉藤茂吉終焉の地です。

このビルのあたりがそうなんですが、何の面影もないというか、何というか、、、あまりに何の関係もない感じです。

斉藤茂吉はアララギ派の歌人で精神科医。長男斉藤茂太も次男北杜夫も精神科医で文筆家なので、血は争えないと言うべきか。

三人ともクリスチャンではありませんが、北杜夫は遠藤周作と終生の友で、対談集などを刊行しています。

笹寺


続いて笹寺へ。このお寺、本当の名前は長善寺。先ほどの長善寺と漢字も一緒です。

ここには徳川秀忠の念持仏がありますが、拝観することはできません。

時節柄か、大韓民国大使館の周辺であるこの辺りにはお巡りさんの姿が多く、なんとなく緊張します。

私もチェック対象だったようで、しばらく尾けられました。そんなに怪しく見えるかなぁ・・・?


笹寺本堂

境内

解説板

本堂

 怒涛の寺巡りへ・・・

報恩寺


さてここからは怒涛の寺巡り。調べてみたら四谷は寺だらけでした。しかも由緒正しく、有名な人のお墓があったりして、一見の価値があるようなお寺ばかり。

なので今日は一気に回ってしまおうかと☆

まずは報恩寺。千葉氏ゆかりのお寺なので、原主水の本家の御先祖さまか親戚がいるんじゃなかなーと思って来てみましたが、解説板もなく、うむむ。

「来た」というだけになってしまいました。受験で日本史選択してたら、もうちょっと深い洞察ができたんでしょうか・・・。己の知識が圧倒的に足りないことを痛感 (=;ェ;=)


石造物

境内

須賀神社


続いて須賀神社。今の社殿は戦災後、昭和35年に再建されたものだとか。

拝殿には三十六歌仙の絵が掲げられており、新宿区の有形文化財に指定されているそうですが、ちらっと見た感じではよくわかりませんでした。

茅の輪くぐりの輪っか(たぶん)が、幼い頃を思い出させます♪

須賀神社

茅の輪

勝興寺と首斬り浅右衛門


次は必ず訪れたかった勝興寺。江戸時代、罪人の首を斬る役を、代々務めた山田浅右衛門(名前は世襲)のお墓があるお寺です。

「首斬り浅右衛門」と呼ばれた山田浅右衛門は、死体から取った肝などで丸薬を作って売ったなどという噂もあり、それらが入れられていた浅右衛門のタンスがこの寺に伝わっていたけれど、戦災で焼失したのだとか。

怪談というか伝説というか、話に尾ひれがついているのを削ぎとっても、タンスは見てみたかったな。小伝馬町の牢屋敷でキリシタンが処刑された後、彼らの体を斬ったのはこの「首斬り浅右衛門」だったので、そのことが現代でも感じられる物があれば、やはり目にしてみたいです。

キリシタンと「首斬り浅右衛門」


ただしこの寺に葬られている「首斬り浅右衛門」は六代目と七代目。キリシタンに関わったのは初代から三代目くらいまでだろうと思うので、彼らは殉教者と直接的な関係はありません。またキリシタンの場合、牢内で「穴吊り」などの拷問で死亡し、その後に刀の「ためし切り」用に体を切り刻まれたのですから、「首斬り浅右衛門」が殺したのでもないのです。

だから恨むわけでもないのですが、軽薄な言い方をするなら「興味深くて」来てみました。ペトロ岐部やジュアン山、セバスチャン・ビエイラ神父、ルイス・ゴメス・パロミノ神父らを「ためし切り」した者の子孫の墓に。来て見て、何かが変わるわけでもないのに、変かもしれませんが・・・。


勝興寺

首斬り浅右衛門の墓

浅右衛門の墓

浅右衛門の墓

西応寺と徳川家康


続いて西応寺。ここは徳川家康ゆかりの寺ということですが、葵の御紋がどーんという感じではないみたい。

家康の扇子と脇差が寺宝として残っているらしいですが、公開していないようですね。

遊行中の家康が草庵に立ち寄ったことから寺領をもらうようになったという寺院建立の経緯を知って、家康ってホント隙のない人だったんだなと思いました。

そうやって各地にネットワークを張り巡らせては、足を運んで情報収集していたんでしょう。
それでもって適度な運動にもなるので一石二鳥。抜け目なく慎重で、忍耐強い健康オタク。敵にしたくないタイプです。いや、敵になっちゃったんですけどね、キリシタンは。敵にされてしまったというか。


西応寺

剣術師のお墓解説

門扉に紋

戒行寺と鬼平


次なる戒行寺は、「鬼平犯科帳」の長谷川平蔵のお墓があるお寺。今はお墓は杉並の方に移って、供養碑だけがあります。

「鬼平」の略語は知っているけれど、池波正太郎の小説もドラマも見たことのない私にとっては、どうにもリアクションが取りにくいです。

じゃあなぜ来たかというと・・・、有名だから? いえいえ、それだけではありません。うすーい縁ながらキリシタンとも関係が。

「火付盗賊改め」として名を馳せた平蔵は、京都町奉行にまで出世するのですが、この京都町奉行は昔京都でキリシタンが殉教したときの執行係。平蔵がその役を仰せつかったのは、時代が約150年下ってからの話なので、やはり関連性は希薄ではありますが。

でも見られて良かったです。将来「鬼平」ファンに会ったときの話のタネにします。後世のファンが建てたとおぼしき供養碑が、結構立派だったよーなんて。しかし、、、ならば小説とかでヒーローとして取り上げられることって、すごく意味があることなのかも。私に文才があったらなぁ ...(ー'`ー;)ブンサイカモン!


戒行寺

戒行寺

「鬼平」供養碑

門に紋

宗福寺


お次は宗福寺。このお寺には徳川家康が持っていた大黒天像がありましたが、戦災で焼失して今はないそうな。

名刀を作った刀工、源清麿のお墓があって、新宿区の指定文化財となっていますが、本物のお墓はたぶん、、見られないのかな? 後で作ったっぽいお墓が、門前にあります。

源清麿は酒が原因で体を壊し、42歳で自刃。そのことは説明板に書かれていません。


宗福寺

説明板

源清麿の墓

源清麿の墓

 まだまだ続く寺巡り・・・

若葉湯


まだまだ続くお墓巡りですが、ふと横手を見るとお風呂屋さんが。ひとっ風呂浴びていきたいです♪

この辺りは坂道の多い、小道の入り組んだ町で、昔ながらの情緒と都会のサバサバした様子が入り混じった雰囲気。

どう認識していいのか、一筋縄ではいかない感じがしていましたが、こんな銭湯があるのを見ると、「やっぱり昔から人が生活してきた土地なんだな」とほっとする気がしたりして・・・(# ̄∇ ̄#)フロズキー・・・

西念寺と服部半蔵


続いて西念寺へ。服部半蔵のお墓があります・・・っていうか、この寺を開基したのが半蔵その人です。寺宝として半蔵の槍が残っているとか。

半蔵は徳川家康の家臣で、家康の嫡男信康の自害に立会い、介錯を行った人物。そのことが重く心にのしかかり、出家して草庵を開いたとされています。

また家康の生涯で最大の危機とされる「伊賀越えの危難」の際、家康は半蔵一門の警固で岡崎まで帰り着くことができました。この功績で認められた半蔵は遠江国で8千石をもらい、家康の江戸入府に従って江戸に来て、半蔵門外に居を構えました。これが「半蔵門」の地名の由来です。

徳川家康の人生に深く関わった者として、そして家康に自分の人生を大きく左右された者として、服部半蔵という人のことをもっと知りたくなりました。


服部半蔵の墓

説明板

西念寺

西念寺墓地

山田わか旧居


西念寺横丁の突当り西側(←たぶんここ)は、山田わかが夫と共に住んでいた場所。一時期多摩霊園にあったお墓も、現在は西念寺にあるそうですが、墓地は広いので見つけるのは難しそう。。

さて、一般にはあまり知られていないこの「山田わか」という女性は、明治から昭和にかけて生きたクリスチャンで、平塚らいてうの主宰する「青鞜」の一員だった人。

山田わかの人生


山田わかはあまりに劇的な人生を歩んだ人なので詳述は難しく、カンタンな図でご紹介します。

明治12年、神奈川で生まれる。成績は良かったが進学させてもらえず、16歳で最初の結婚。
  ↓
実家の経済状態が悪くなったので、折り合いの悪かった婚家を飛び出し横浜へ。ひと儲けしようとする。
  ↓
横浜で出会った女性に騙され、一攫千金を狙って渡米。しかし売春婦として売り飛ばされる。
  ↓
シアトルの娼館にいたが、日本人の若い新聞記者に出会って、その助けで脱出。サンフランシスコへ。
  ↓
娼婦救済施設に逃げ込んだわかは、新聞記者との連絡を絶つ。絶望した新聞記者は自殺。
  ↓
わか、山田英語塾で勉強し、教師の山田嘉吉と結婚。
  ↓
夫婦で日本に帰国して、四谷伊賀町に住む。
  ↓
大正2年、山田嘉吉の門下生、大杉栄の紹介で平塚らいてうに会い「青鞜」に参加。
  ↓
母子寮や保育園の建設売春婦更正事業に活躍し、昭和32年永眠。

私自身、人様の生き様をどうこう言えるような生き方はできていませんが、前半生に関しては、、、こうなるしかなかったのかなーと思ってしまいます。

それを生かして後半生で多くの人の人生相談に乗ったんだから、すごいと思うし、優等生的な生き方をした人にはわからないような心の奥底の話までできたのも、素晴らしいと思いますけど・・・。
人生というのは最後の結果だけにあるんでしょうか「(´へ`;?

日本基督教団四谷新生教会


山田わか夫妻や平塚らいてうが暮していたところから少し行って、四谷新生教会へ。

今日初めての教会です。四谷駅周辺にはキリスト教系の学校とかが多いのに、この辺りはまたお寺ばかりで、またちょっと違うんですね。


教会案内

愛染院


それでもってまたお寺めぐりへ。今度は愛染院です。

ここには江戸時代の盲目の国学者、塙保己一と、内藤新宿を開いた高松喜六のお墓があるそうですが、どれかわかりませんでした。

境内が広くて墓地も良く整っています。時勢に乗りながら伝統や歴史を残すのは、結構骨が折れるんだろうなと思ったり。。


愛染院案内

愛染院

史跡としてのお墓

墓地

東福院


そして東福院へ。豆腐地蔵というお地蔵さんがあって、昔悪徳業者の豆腐屋(!?)を懲らしめたそうですが、どれかなーという感じ。公開してないのかもしれませんね。

墓地の販売などをしているようで、キレイなパンフが門に張ってあり、お寺の建物も新しく立派です。

豆腐地蔵のおかげなのかわかりませんが、経営は安定しているようです。




参道

東福院坂

日宗寺


次は日宗寺。新村出のお墓があるということですが、墓域がどこかもわかりません。

都市化と地価高騰で、お墓だけどこかに移っちゃったんでしょうか?

新村出は「広辞苑」の編者で文化勲章受章者。こういう人をよく「国語の神様」とか呼んじゃいますが、神様じゃないですよねー(-""-;)

日宗寺

日宗寺本堂


祥山寺


続いて祥山寺へ。お寺巡りのラストです!

この寺は土地柄から、伊賀衆の菩提寺となり、「忍者の寺」ともよばれることがあるとか。

そう本には書いてありますが、どうでしょうね、静かなお寺といった感じです。そんな呼ばれ方をしていたことさえ、時の流れの中に消え去ってしまっているように思います。

境内の仏像

墓域

参道

前の道は大通りへ続く

 新宿歴史博物館へ☆

レジ・サニー


坂を上り下りして踏破した、本日の寺巡りはこれにて終了。前回入り損ねた新宿歴史博物館へ参ります。

この博物館の前にあるマンションの下には、平安時代の墓地があるそうな!

マンションの名前はレジ・サニー。遺跡はマンションの建設中に見つかったんでしょうか? 現在は埋め戻されているのか、レジ・サニーは健在です。

マンション

平安時代の墓地跡

新宿区立新宿歴史博物館


それでは念願の博物館へ☆
しかし入館する前に周りをチェック。なんとこの博物館が建っている所自体が、三栄町遺跡という史跡地なのです。

発掘調査によって明らかになったのは、縄文から江戸時代までここに人が住み、生活してきたということ。

江戸時代には伊賀衆に与えられた土地だったので、彼らが使った生活道具や、廃棄物処理の土坑、井戸などの遺構が数多く発見されました。そんな場所が今は歴史博物館となっているなんて、何か不思議な気が (・-・*)ヌフ♪


歴史博物館敷地

歴史博物館敷地

歴史博物館敷地

歴史博物館敷地

新宿の模型


中に入ってみて釘付けになったのは、江戸時代の内藤新宿のミニチュア。今日私が歩いた所が俯瞰できます。

気になったのは高札場の位置。おっと、太宗寺の前にも高札場があるじゃないですか。さてはあの交番が高札場跡かっ。写真撮ってくれば良かった;;

高木一雄著「東京周辺キリシタン遺跡巡り」では、四谷の殉教地を四谷2丁目当たりとしているけれど、そうだとすればさっき大通りから曲がったあの辺り。でも高札場や河原がないのにどこでどうやって処刑したんだろう?
・・・等々、ものすごくマニアックなことを考えながら、模型に見入ってしまいました。

マニアックな観点で見ると・・・


江戸時代は四谷に崖やら滝やらがあったと安本直弘著「四谷散歩」には書かれているし、新宿に近い四谷大木戸の南側は渋谷川に続く渓谷と森林、北側は饅頭谷という湿地帯だったというから、都会とはいえ今とはまったく趣が違っていたと思うんですが、ミニチュアには反映されていないのかも。

迫害を避けて流れて来たんであろうキリシタンがどこに住んでいたかも、捕らえられたキリシタンの殉教地がどこであるかも、今回のリサーチでは候補地を挙げるのみに留まってしまいました。もっと勉強しなきゃなぁ・・・ってか、何を調べたらわかるんだろー。。(T▽T)尸~~ヘルプミー!


四谷大木戸辺り

太宗寺の前にも高札場

現在との対比図

模型の見方

模型

模型

高札場

高札場の絵

文化住宅


充実しているのは、昭和の始めから半ばくらいまでの展示品。

文化住宅というものが再現されていますが、昔のドラマのセットみたいで、安っぽい感じが良いです(褒めてます^^;)。

全体的にサザエさんっぽくて、自分が体験したわけでもないのに、懐かしさを感じるって、どういうことなんでしょうね。日本人だからでしょうか。



生活用品

路面電車

調度品

ロビーからの景色

ロマンスカーの座席がソファ

博物館の敷地

博物館の敷地

福羽美静の碑


博物館を出て駅に行くと、地下鉄駅の入口に福羽美静の碑を発見!!

昔置かれていただけで現在はないと思っていましたが、こんな場所にぽつんと置かれていたんですね。

福羽美静は津和野で浦上キリシタンの説諭にあたった人物。明治初期の国学者で、天皇中心の国体の推進に努めました。ちなみに新宿御苑は、子供のなかった福羽美静が養子にした福羽逸人が整備したもの。

2人ともこの辺りに住んでいたようです。碑には福羽美静が桜を詠んだ歌が刻まれています。


福羽美静の碑

碑文

福羽美静の名

四谷駅

ミッション系の学校


上智大学やミッション系の女子高、カトリック修道会の建物が立ち並ぶ四谷を散歩して、歴史の流れを体感できました。

ちょうど新宿方面から四谷に向っての道程がキリスト教の歩みを見せてくれているようです。

キリシタン禁制から黙許、カトリックの再布教と教育事業の成果へと・・・。ローマ教皇の上智大訪問は、その集大成に位置づけられるかもしれませんね。






      過去から現在、そして未来へと・・・


       過去から現在、そして未来へと、私たちは命をリレーしいていくのだから
       歴史に興味を持つのは、人間として当然のことで
       昨今の歴史ブームと「歴女(れきじょ。歴史にハマる若い女性)」の出現は
       とても人間らしい現象なのではないかと、私は思います。

       しかし興味やブームに抜け落ちてしまいがちなのは
       ではこれから私たちは何を遺していくんだろうかという観点。
       キリシタンの潜伏、殉教、浦上キリシタン、カトリック再布教、教皇来日
       それらの歴史が重なったこの地に、未来への種をしっかり蒔いていきたいです。
       更に高い次元を目指して、現在の限界を突破して――。

      自分の次元も上げたいと、切実に思うようになりました ...[†]m( ̄0  ̄〃)


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