本文へスキップ

キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

トップページ > 旅行記 > 涙で祈る、23区。⑥

 涙で祈る、23区。vol.6


   今日は千代田区スタートで新宿区をメインに回ります☆
   懐かしい土地を歩きながら、思い出ばかりに浸らずに
   「悔い改めるべきこと」を念頭にしっかりおいて行きたいと思います。
   主よ、共にしてください ( ̄(エ) ̄)ノ♪


上智大学


まずは四谷のイグナチオ教会へ。聖三木図書館に借りていた本を返し、聖堂でお祈りしてスタートです☆

上智大学の正門脇の植栽の中に、永井千本桜があるのを発見!

永井博士はクリスチャンのお医者さんで、物資の少ない戦時中にレントゲンを直視して患者を診察して病に冒されました。

長崎に原爆が落とされて愛する妻を失いながらも被爆者の手当てに奔走し、倒壊してしまった浦上天主堂の再建に力を注ぎました。やさしい言葉で原爆の恐ろしさ、平和の大切さを訴えた著作は有名で、長崎の浦上天主堂の近くには永井隆記念館(隠れキリシタンのリーダー宅跡地でもある)が建てられています。


クルトゥルハイム

来年は100周年!

永井千本桜

解説

今日は食べてから出陣


今日は早起きしたのでお昼も早めに☆
駅のベックスにはモーニング・セットしかないけど。

四谷から市ヶ谷まで歩こうと思っていますが、その間って学校とかはあるけど、飲食店はあまり見かけた記憶がないので。今日も一日歩くぞっ (* ̄0 ̄)/オゥ

四谷見附


さて駅前の交差点の辺りにあったのが、四谷見附の城門と櫓。石垣は四ッ谷駅の下に保存されているそうです。

堤のように見えるところは外堀の跡。電車が走っているのは外堀の中ということですね。

前々から四谷の殉教地を探しているのですが、最近ここかなと思っているのが、この城門の外。日本史選択でなかった私には、基本的なことが抜けているので、はっきりとしたことがわからないですけども。いつか判明するといいんですが... ( ̄∧ ̄)フムゥ


四谷見附の門跡

解説板

解説板

解説板

島崎藤村旧居跡


番町の道沿いに文人通りと名づけられた一角があります。明治から昭和にかけての時代に芸術家らが住んでいたからです。

この通りを歩いて最初に見つけたのが、島崎藤村旧居跡。藤村は明治学院に進学してクリスチャンになりましたが後に棄教。

自然主義文学の筆頭として挙げられていますが、キリスト教的な観点から見て、非常に気になる人物です。

ここで暮らしたのは亡くなる前の年までの6年間。キリスト教の信仰を捨ててから随分時間が経っています。でもこんなにすぐ近くに教会があるのに、どんな気持ちで眺めていたんでしょう。最晩年に再び主が呼んで下さっているのではあるまいか、罪を告白して救われたいとは思わなかったのでしょうか。


島崎藤村旧居跡

泉鏡花旧居跡

泉鏡花旧居跡

番町文人通り

有島三兄弟旧居跡


次に目に入って来たのが有島三兄弟旧居跡。お兄さんの有島武郎だけがクリスチャンです。しかし武郎は雑誌編集者の女性と不倫して自殺。

この人もキリスト教的な観点からすると、とても気になります。

すぐ近くには明治女学校の跡も。明治女学校は先進的な女子教育を目的として、木村熊二という牧師さんが創立した学校。校内では宗教的な儀式は行わない方針だったそうですが。

明治女学校とクリスチャン


クリスチャンでは先ほどの島崎藤村の他、北村透谷、津田梅子、若松賤子、荻野吟子らが教壇に立ち、植村正久、内村鑑三が講師を勤めた時期もありました。今から思うと、すごい顔ぶれですね。

ここに学校があったのは1892~1897年。藤村は1892年から英語科教師を勤めていましたが、翌年教え子と恋愛関係になり辞職。キリスト教の信仰も捨てました。1894年に復職。1899年に明治女学校の卒業生と結婚しました。

藤村にとって明治女学校は、自分の人生と切っても切れない関係だったはずです。藤村旧居跡からの近さを知り、「これって一体・・・?」と考え込んでしまいました。1905年に「破戒」を発表して絶賛されてからは文壇の注目株として歩んできたのから、住む家くらいある程度は自由にできただろうに、どうして苦い青春の蹉跌を思い起こさせるこの地を選んだのか。理解に苦しみます (+_+)


有島三兄弟旧居跡

明治女学校跡

明治女学校跡

番町文人通り

日本基督教団 番町教会


少し進むと日本基督教団の番町教会。四谷はカトリックが強い土地柄ですが、プロテスタントの教会もあるんですね。

今上智大学が建っている場所も、その前は日本正教(ロシア正教と同じ正教会)の教会堂が建っていたと、本で読んだことがあります☆


女子学院

与謝野晶子も住んでいた

与謝野晶子旧居跡

滝廉太郎居住地跡


番町文人通りの端っこ辺りにあるのが、滝廉太郎居住地跡。

今まで見てきたプレートがないので、何か括りが違うみたいですけど。

廉太郎はここから西へ100mほど行った所に1894~1901年まで住んでいたそうです。

滝廉太郎とキリスト教


15歳で東京音楽学校(今の東京藝術大学)に入学し、これを卒業、研究科に進んでドイツjに留学するまでの期間ですね。廉太郎はここに住んでいた1900年、洗礼を受けてクリスチャンになりました。1889年に創立された日本聖公会の教会、グレース・エピスコパル・チャーチ(博愛教会)に通っていたそうで、留学が控えていたからか、洗礼を受けた年の同じ月に堅信礼まで受けています。

留学のこともあったでしょうが、たぶん信仰が良かったからそのようなことが許されたのかと。グレース・エピスコパル・チャーチは今の英国大使館の裏辺りにあったみたいです。今日は行く時間ないけど、地図で見るとかなり近いですね。

廉太郎は留学先で病を得て帰国、1903年大分県の実家でこの世を去りました。享年23歳。駆け足の人生でしたが、廉太郎が作曲した「花」や「荒城の月」は不朽の名作として、今も人々の口を離れることはありません。


滝廉太郎居住地跡

滝廉太郎居住地跡

滝廉太郎居住地跡

滝廉太郎居住地跡

 てくてく市谷へと♪

東郷元帥記念公園


ローマ法王庁や女子大学をほほーと眺めながら東郷公園へ。東郷元帥が53年間過ごした屋敷跡なんだとか。

解説板によるとこの公園がある三番町に、国木田独歩も住んでいたことがあるらしいです。

それがどこなのか教えてほしいところですが ( ̄_J ̄)オシエテチョ


東郷元帥記念公園

東郷元帥記念公園

三番町

三番町

二七通り


ここまで結構な距離歩いてきたのは東郷元帥記念公園のためではありません!

「寝ても覚めてもキリシタン」の私がやって来たのは、「キリシタン灯籠」なる石造物を見るため☆

ふるーい本の中に、二七不動と呼ばれる祠(?)の所に「キリシタン灯籠」があると書いてあったものですから、それでとりあえず二七通りという名の通りに来てみたわけです。二七通りにあるから二七不動と呼ばれていたんじゃないかと見当をつけて。自分でもよくやるよなーと思いますが (T▽T)アハッ

キリシタン灯籠?


二七通りの両サイドを鋭い目で観察しながら往復してみましたら、ありましたよ、それらしき物が!

二七不動はもうないみたいですが、建設会社の敷地の植栽の中に灯籠が。

解説板などがないのでよくわかりませんが、これなら「キリシタン灯籠だ」って言う人がいそうな十文字。縦に二つ並んだ「十」の形が陽刻されています。よく「キリシタン灯籠」だと言われたりする織部灯籠ともまた全然違う形態ですが、これをキリシタンと関連付けて考える人がいてもおかしくないと思います。

真偽のほどは別として、「キリシタン」と名の付く(?)物に会えただけでも満足です☆

市ヶ谷駅


人の流れに着いて行くと市ヶ谷駅。昔受験の時に下り立ちました。夜着いたから心細かった思い出が。

私が泊まったキリスト教関係の施設を探してみましたが、見つかりませんでした。街が様変わりしていてどの辺だったかも定かではありません。

時の流れとは恐ろしいものです。人も物も、街さえも押し流していって戻らない。1年前の震災と津波の映像が頭をよぎりました。

ルーテル市ヶ谷教会


自分のゆかりの地を踏んでみようとして果たせず、仕方ないので教会めぐり。仕方ないなんて言っちゃいけませんが<(_ _)>

こちらはルーテル市ヶ谷教会。大きな建物で、いろんな教団機能が集められているようです。

ルーテル市ヶ谷教会

ルーテル市ヶ谷教会

ルーテル市ヶ谷教会

ルーテル市ヶ谷教会

日本基督教団 牛込払方町教会


前を歩いている人になんとなくついて行ったら、坂道を上って教会へ入って行きました (゜○゜)!

導いてもらったようですね。日本基督教団の牛込払方町教会です。1877年創立の歴史ある教会で、日本で初めて牧師になった小川義綏(よしやす)がこの教会の初代牧師です。

またヘボンさんと共に聖書の翻訳に貢献した奥野昌綱師が、2代目牧師を務めました。確か有名なクリスチャンカップルが結婚式をしたのもこの教会だったと思います。誰だったかさっと思い出せませんけど・・・。

すごいですよね、開国後間もない時期に洗礼を受けるのは勇気がいることだったろうに、牧師になって宣教にあたるとは、想像を絶する苦労があったと思います。住宅街の真ん中にある民家のような、あまり大きくはない教会ですが、伝統が光っています☆


途中の坂

牛込払方町教会

牛込払方町教会

牛込払方町教会

市ヶ谷御門の辺り


昔は市ヶ谷にも市ヶ谷見附の御門と外堀とがあって、たぶん御門の横手には高札が掲げられていたんじゃないでしょうか。

それにしても江戸城の普請というのは大規模で徹底したものだったんですね。

完璧な都市計画を立て、それを大名に割り振って負担させることで造らせるだなんて、実に老獪な手段だと思います。

江戸歴史散歩コーナー


地下鉄駅に降りていってみたら、江戸歴史散歩コーナーと名づけられた常設展示が☆

江戸城の外堀の普請がどんな様子だったのか、遺構と解説板で懇切丁寧に教えてくれます。私にとってはちょうど知りたいことだったので、ビンゴ!って感じです。

ふむふむ大名の割り振りはこんなに細かく決められていたんですね。これでは手抜きはもちろん、技術や材料不足で見劣りしないよう、威信にかけてもいい物を造ろうとするでしょうね。つくづく老獪です。

老中とか幕府のブレーンがこういうこと考え出すんでしょうが、こんな隙のない都市計画を実行する幕府が、キリスト教禁令を全国に徹底したのだから、信徒が生き残れるはずがありません。「寝ても覚めても・・・」の私には、江戸時代にすごい物造ってたんだねーと、単純に喜んでいられないものがあります。


江戸歴史散歩コーナー

石垣

石組み

藩の割り振り

 早稲田へヾ(´▽`*)★

夏目漱石誕生の地


それでは我が懐かしの地、早稲田へ。駅から外に出て、坂道を登ろうとすると左手にあるのが、夏目漱石誕生の地碑。

今は牛丼屋さんの脇にあります。店舗の入れ替えが多いから、「こんなとこに牛丼屋できたんだ」と、そっちに目が行ってしまいます ( ̄▽ ̄)テヘ


夏目漱石誕生の地

夏目漱石誕生の地

夏目坂

穴八幡


交差点を渡って穴八幡へ。この辺りによく出没していた頃は、興味を引かれることもなく通り過ぎるだけでした。

流鏑馬をやってるんですね。そういえばお祭をやってるのを何回か見たことがありますね。

駅前のパン屋のおじさんが半被を着てたのだけ覚えてます。うーん、無知だったから、無知な通りに感じ、無知な通りに考えて暮してたんだなー (;´□`;)


流鏑馬

解説板

穴八幡の石造物

放生寺

早稲田奉仕園スコットホール


緩やかな坂を登って、早稲田奉仕園へ。

セミナーハウスや留学生寮があって、同じ敷地にAVACOキリスト教視聴覚センターなどがあります。

スコットホールは米国人のスコット夫人の寄付により建てられた教会堂。日本基督教団早稲田教会の礼拝に使われる他、結婚式、音楽コンサート、会議場、地域社会の集会場として使用されています。

建物はヴォーリズ建築事務所の設計原案に基づき、今井兼次(長崎の26聖人記念碑台座と聖フィリポ教会などを設計したクリスチャン)が設計を仕上げたもの。東京都の歴史的建造物に指定されています。

大隈重信と早稲田奉仕園


早稲田奉仕園は、1908年に米国バプテスト教会の宣教師であったH.B.ベニンホフ博士が、 早稲田大学の創始者大隈重信の依頼を受け、キリスト教主義の学生寮「友愛学舎」を開いたことに始まります。

大隈重信はクリスチャンではありませんでしたが、キリスト教の精神は取り入れるべきだと考えていたのかもしれません。開国後間もない時期にはプロテスタント宣教師フルベッキの門下生となり、外国の進んだ知識を学ぶ一方、聖書にも触れていました。フルベッキを開成学校(後の東京大学)の教師として推薦したのも重信でした。

教会堂の扉は開いているようなので、とりあえず中に入ってみましょうか☆


周辺

周辺

入口

敷地

教会内


泣けますねぇ、わんわんと。次々と頭に浮かぶのは、自分の犯してきた言葉と行いの間違いの数々。

自分自身のこと、私が関わったいろんな人々のこと。主を知らずにいた過去、天を誤解したこと、私が悪かったこと、いい気になっていたこと、融和できない性格・・・罪罪罪です。

悔い改めて許してもらえるかもわからないけれど、悔い改めずにはいられません。人が真に良心に立ち返ったら、誰でも泣いて悔い改めるしかないのではないでしょうか。


教会内

AVACO

学生寮など

周辺

戸山公園


道を渡って戸山公園にも立ち寄りました。ここは江戸時代、尾張藩主徳川家の下屋敷だった所。

江戸藩邸の下屋敷は主に庭園など別邸としての役割が大きかったようで、ここにも庭園が造られ箱根の山などが小さく再現されていました。

尾張の徳川家もキリシタン迫害ではほめられたもんじゃありません。藩の処刑場では2~3千人のキリシタンが殉教したといわれています。ここに来ることがあった頃に、もっとわかって悔い改めていればよかったんですが。


戸山公園

戸山公園

戸山公園

周辺

 嗚呼、早稲田・・・!

文学部キャンパス


道を引き返しつつ早稲田の文学部キャンパスへ。工事中であちこちにフェンスが建てられています。

中庭には昔と同じベンチ。リニューアルされてない箇所にやすらぎを感じます♪

最新のビルに建て替えられていくのは、老朽化や耐震性の観点からやむを得ないことですが、どこか曖昧さを排除して、管理社会に組み込まれていくような感じを受けます。

自由な校風が阻害されない形で、ハイテクビル化が進んでいくといいですね☆


文学部キャンパス

文学部キャンパス

文学部キャンパス

巨大クレーン

大隈重信像


本部キャンパスに移動して、大隈重信像を見上げます。

隣には8号館。こんなリノベの仕方があったのね、という感じです。

元々の雰囲気を壊さずに、最新の建物に生まれ変わっています☆

隣には旧図書館、工事フェンスの先(本部キャンパスも大々的に工事中)には演劇博物館も見えますが、どちらも今井兼次らにより設計されました。今井兼次は日本にガウディを紹介した人物でもあり、ガウディ洋式を取り入れた建築も多く手がけていますが、この頃は若干控えめに取り入れていたんですね。


8号館

8号館

旧図書館

演劇博物館

大隈講堂


旧図書館前のベンチに座って眺める大隈講堂は最高です。日本人が富士山を愛で、何度見ても見飽きないように、これも絶景という言葉に値するのではないかと♪ あ、言い遅れましたが、ワタクシ早稲田の卒業生です。この思い入れからして、もうバレてるかもしれませんが ヾ(●´▽`●)ノ


大隈講堂前

カフェテリアへ

大隈庭園

大隈庭園

神田川


商店街を抜け、都電早稲田駅方面へ。そこから狭い道に入って神田川沿いを歩きます。

桜の季節は気が狂うほどキレイですが、今は枝だけですね。それでもよく見ると枝先には固い蕾がついていて、春の訪れを人知れず準備しているのがわかります。

今は冬でもまた春が来るのだから、サクラサケ!ですね♪


周辺

周辺

周辺

周辺

 キリシタンと高田馬場

おやつの時間♪


馴染み深い町を、マスクで涙を隠しながら歩いていたら、早稲田だけで8kmも歩いてました。

思い出と共に悔い改めることが噴出してくるので、申し訳なさと情けなさで・・・。こんなんじゃイカン、落ち込んで何もできなくなる、ということで・・・食べましょう!

おやつの時間ですが、食事もします♪

高田馬場跡


お寿司屋さんの所に設置された「高田馬場跡」のプレート。昔ここに馬が走っていたとか決闘があったなんて、今ではちょっと信じられない感じです (^。^;)

高田馬場のどの辺りだったかは定かではありませんが、キリシタンの女性が暮していたこともあります。

昔高田馬場に徳川忠輝(家康の6男で越後高田城主)の館があり、忠輝の生母と忠輝夫人が住んでいました。

この忠輝夫人は伊達政宗の娘でキリシタンだったと伝えられているのです。徳川幕府が確固たるものになるにつれ、キリスト教禁令は覆るべくもないものとなっていったので、どこかの時点で信仰を捨てるか、捨てたように振舞うしかなくなっていったでしょうけれど。切ないですね。


高田馬場跡

周辺

周辺

周辺

再び本部キャンパス


歩き回って相当疲れてますが、こういう思い出が多いヘビーな町は一気に攻めろということで、鶴巻町方向へと向かいます。

今度は本部キャンパスを通り抜け、大隈重信を背後からパチリ。

思い出や自分のことなどより、もっと大きな歴史の流れに目を向けねばっ。それでこそワセジョ(早稲田の女性)です☆


8号館

相馬御風の碑

大隈講堂

学生会館

 この際だからカテドラルまで歩きましょう(o ̄へ ̄)o

ガウディ風の建物


正門から東に伸びる大通りを進むと、左手にガウディ風の建物が。謎めいてますが今日はスルー。

鶴巻湯の近くのこの辺(下の真ん中の写真)が、太平洋戦争被爆第一号の町です。

戦争の惨禍は今では全く感じられませんが、こういうことも覚えておかなければなりません。


謎のガウディ風建物

太平洋戦争被爆第一号

鶴巻湯

済松寺


真っ直ぐな道をひたすら歩いて済松寺へ。門はあるけど境内に入るにはぐるりと回らないとダメなよう。

もう一歩も歩きたくないところですが・・・、行きましょう。この際だから。

この済松寺のある土地には2人のキリシタンが深く関係しています。名前はフルゲンショ大友義延と祖心尼。当人同士の接点はありませんでしたが。

フルゲンショ大友義延と祖心尼


フルゲンショ大友義延は1577年、豊後(今の大分県)の府内城主コンスタンチヌ大友義統の長男として生まれ、1587年頃洗礼を受けました。しかし1593年、父の失領により加藤清正に預けられ、その後家康に牢人衆として召抱えられ、ここに住まいました。1600年に秀忠に従って戦地にも赴き、1612年、36歳の生涯を閉じました。

熱烈な日蓮宗信者加藤清正の元で棄教せられ、徳川家に仕えて生き延びたと考えるべきでしょうね。自分の意志で信仰を選ぶことなど、常人には不可能な時代だったのだから。

大友屋敷跡に1646年に済松寺を開いたのが祖心尼。キリシタン大名牧村利貞の娘だったので、幼い頃はキリシタンだったと考えられます。牧村利貞は朝鮮出兵に参加して戦死したので、家族たちは生きていくための道を選び、祖心尼は仏門に入ってお寺を開山するまでになったのでしょう。

両人ともキリスト教に触れたのは子供時代(現代ならば)だったので、あまり深い信仰を持ってなかった可能性があります。しかし一方で、子供時代に触れたものには忘れられない何かがあるとも言え、もしかしたら密かに心中では唯一なる神様を思っていたかもしれません。


済松寺

済松寺

済松寺

葵の御紋

由比正雪旧居跡


もうほんっとに足が棒ですが、疲れて若干ハイになってきました。とことん疲れてやろうじゃないか、みたいな。

江戸川橋駅方面に向う途中にあるのが、由比正雪旧居跡。デザイナーズ・マンションというんでしょうか、おしゃれな建物が建ってて解説板などはありませんけど、たぶんこの辺りでした。

由比正雪は幕府転覆を企んだ大悪人で妖術を使うとかナントカ、そんな小説かドラマがあったような。「由比正雪」や「伴天連」などは、後世の人たちによって脚色され、妖術使いのように怪しげに祭り上げられてしまった典型的なアイコンです。


渡邊坂

測量年金会館

解説

周辺マップ

橋を渡るともうすぐ・・・


江戸川橋の交差点と橋を渡ると、東京カテドラル カトリック関口教会までもう少し。もう少しの距離なのですが、坂道なので意外と進まず、息が切れます。

ひきずるような足の運びで、我ながら老婆みたい ( p_q)
しかし教会の尖塔と十字架が見えてくると、「あっ♪」と走り出したくなります。

カトリック関口教会


ここに来るといつも青空。教会の建物と一緒に見て、空がこんなにきれいな色をしていたんだと気づかされます。神様もこんな透き通った瞳で、地上の私たちを見つめてくれているんでしょうか。聖堂が閉まるまでわずかな時間しかなかったので、少ししか祈れませんでしたが、満足です☆


十字架

カトリック関口教会

カトリック関口教会

街路樹



  人は死ぬ。


 人は死ぬ。
 霊界がないのだとしたら
 あの多くの人々はどこに行ったというんだろう。
 津波に飲み込まれていった人も、歴史の波に流された人も。

 人生は短い。
 永遠の世界への旅支度をする時間くらいしかない。
 旅支度を長くする人も短くする人もいるけれど
 期限があることには変わりがないのだから。

 虚しいものに心を奪われている暇はない。
 人がわかってくれるかどうかも関係がない。
 私に許された時間で、私の仕事をやろう――。そう思いました☆彡





                                          NEXT >>