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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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 涙で祈る、23区。vol.12



       今日は仙台から来たM子ちゃんと
       浅草の殉教地を探しに参ります!
       これで結論が出るといいな・・・と思いながら☆
    

       夕方までの短い時間だけど
       効率的かつ御心に従って回れますように ヽ( ´ ▽ ` )ノ


カトリック神田教会


まずは基本を押さえておこうということで、ザビエルの聖遺骨のあるカトリック神田教会へ☆

しかし・・・、本日はお休み!?

今日は月曜だけど祝日。だから開いてると思い込んでました。ごめんよ、M子ちゃん、リサーチ不足で ⊂((〃/⊥\.〃))⊃ワーン


カトリック神田教会

カトリック神田教会

カトリック神田教会

カトリック神田教会

甚内神社


気を取り直して(取り直せんっ;;)電車に乗って、甚内神社へ。この辺りに江戸時代、フランシスコ会の施療院があったと考えられています。

この施療院の噂を聞いた伊達政宗が、自分の「異国の侍女」の病気を治してくれるようにと連れて来て、癒やされたことからフランシスコ会の仙台での宣教が始まりました。

またキリシタン武将の原主水が、元家臣に密告されて逮捕されるまで働いていたのがこの施療院でした。

フランシスコ会の布教と修道院


カトリック修道会の一つフランシスコ会の江戸布教が始められたのは、1599年頃。ミカエル笹田ら4人の信徒が活動していました。1602年になってペトロ・バプチスタ・ポレス・イ・タマヨ神父、ホアン・デ・マドリッド神父、ルイス・ゴメス・パロミノ神父ペトロ・デ・ブルギヨス修道士の4人が江戸に来て、ロザリオの聖母修道院(八丁堀の辺りにあったとされる)を設立して本格的な布教を始めました。

1607年にアロンソ・ムーニヨス神父が書いた報告書には江戸の信者は60~70人で、教会の鐘が公然と鳴らされていると書かれています。1608年には浅草の鳥越村(甚内神社がある所)にもハンセン病患者の収容する施薬院が建てられました。

八丁堀の修道院は、1612年、道路拡張の名目で壊されましたが、こちらの施療院は残され、1613年にルイス・カブレラ・イ・ソテロ神父が付属の教会を建てました。しかしその直後江戸でキリシタン狩りが始まり、教会施設はすべて壊されてしまいました。

この時のキリシタン狩りにより、江戸市中で捕らえられたキリシタンは約1500人で、小伝馬町の牢へと送られました。その中に原主水やルイス・カブレラ・イ・ソテロ神父がいたわけですが、ソテロ神父は伊達正宗の取り成しによって釈放され、仙台へと向かいます。そして1613年10月、支倉常長を正使、ソテロ神父を副使とした仙台藩の慶長遣欧使節がメキシコへと出航することとなるのです。

歴史の流れとは本当に、どこでどうなっていくのか予想もできないものですね。今ここに立っている私にとっても驚きの展開なのに、その時代を生きた人たちにとってはどれほど見えにくく、先の読めない日々だったでしょうか。


甚内神社

甚内神社

甚内神社

カトリック浅草教会


ちょこっと歩いてカトリック浅草教会へ。やっぱ祈ろうと思いまして。

しかし、、、ここも今日はクローズだそうです。

月曜って教会休みって決まってるの!?

「ステンドグラスが素敵なんだよー」とM子ちゃんを連れて来た私は面目丸つぶれです。元々面目なんてないという噂もありますが・・・(;´д`)トホホ


カトリック浅草教会

カトリック浅草教会

カトリック浅草教会

カトリック浅草教会

浅草・鳥越きりしたん殉教記念碑


それでもここには見せられるものがあるので、ちょっと安心です☆

それは教会裏のミニパークになった所に建てられている「浅草・鳥越きりしたん殉教記念碑」。

気持ちの込められた解説板もあります(殉教者は慶長年間の28名だけが記されていますが)。

良かった。やっと見せられるものに辿り着けて。デジカメを構えるM子ちゃんを満足げに眺める私なのでした ( ̄▽ ̄*)♪ホクホク


浅草・鳥越きりしたん殉教記念碑

浅草・鳥越きりしたん殉教記念碑

江戸通りと蔵前橋通りの交差点


さて殉教地めぐりに来てホクホクしててはいけません。それに碑がある所は碑が建てられている場所であって殉教地ではないのです。

殉教地である鳥越山刑罰場がどこにあったかというと、キリシタン研究者の高木一雄氏は「浅草橋3丁目周辺。江戸通りと蔵前橋通りが交差するあたり」としています。

つまりここ(←)! 荒川(隅田川)の近くで「山」というくらいだから小高くなった丘のような場所だったと考えられます。だから「天文台跡」の解説板のある、昔小高くなってたらしき所が私的にはアヤシイ(つまり処刑地だったんじゃないか)と思うんですが。

鳥越山刑罰場のキリシタン殉教者


鳥越山刑罰場のキリシタン殉教者は以下の通りです。

1613年8月16日、ヨハキム常珍八官、アントニオ与兵衛、ヨハネ門前稲之助、トマス神田喜兵衛、レオ大工、ミカエル笹田与右衛門、ルイス神田、ビセンチオ田辺ら8人が斬首。

1613年8月17日、マルコ喜左衛門、トマス喜右衛門、ヨハキム喜左衛門、シモン彦右衛門、アントニオ半三郎、ヤコボ栄蔵、レオ作内、ヨハネ保四郎、マルコ権助、ミカエル彌四郎、ヨハキム源助ら14人が斬首。

1613年9月19日、ヨハネ民牧、グレゴリオ、パウロ彌兵衛、某ら5人が斬首。

1615年4月22日、シモン佐兵衛、ヒエロニモの2人が斬首。

1616年2月4日、ルイスが斬首。

1617年3月8日、トマスが斬首。

1617年3月20日、フランシスコ、レオン、某の3人が斬首。

1619年7月19日、トマス小作、ペトロ有造の2人が斬首。

1619年12月1日、アンデレア村山東安と息子の秋安が斬首。

わかっているだけで38人が殉教しています。幕府の刑罰場がここにあったということもありますが、施療院のあった場所から近いので、そこに行っていたキリシタンへの見せしめという意味もあって、この場所で処刑することを相当としたのではないでしょうか。


天文台跡

天文台跡

天文台跡

早めのランチ☆


交差点にある「なか卯」で早めのランチ。次いつ休めるかわからないので、食べられる時に食べときます☆

牛丼プラスかけうどん!? 可愛い顔してがっつり食べるM子ちゃんに頼もしさを感じつつ、私も軽く胃を満たします。小食のふりをするわけなじゃいんですが、たくさん食べると胃が重くなって歩けないので (^^;)

そう、でも殉教地めぐりは体力も必須。心理的にもダメージ受けますからね。

 浅草の殉教地を求めて

スカイツリー


電車で浅草へと向い、そこから歩いて次なる殉教地へ。以前から「どこだろ?どこだろ」と探し続けている浅草山刑罰場ですが、そろそろ結論を出そうと思いまして。

今回殉教地めぐり友だちが来京したのを機に、「ここだろう!」という場所をもう決めちゃおうと思います。あ、もちろん私の中で、ですけどね。

江戸通りとの交差点


私が信頼する 高木一雄著「東京周辺キリシタン遺跡巡り」によると、浅草山刑罰場の位置は「浅草7丁目周辺。江戸通りと言問通りが交差するあたり」とあるので、つまりここ(←)!

猛スピードで車が行き交っている幅の広い道路です。最初はここかなーと思っていました。

隅田公園


しかし詳しく読むと、「聖天町西方寺の門前に近い今戸橋手前の東側にある長さ10間、幅2間の明地であった」「ちょうど1620年に荒川(隅田川)の水除けのために築かれた2本の堤の南側にある上り口でもあった」と書いてあります。

するってーと、今でいう墨田公園の辺りってことになるんですよね。


東京大空襲の慰霊碑

東京大空襲の慰霊碑

今戸橋


隅田川から吉原への水路であった山谷堀は埋められてしまいましたが、かかっていた橋は少し残っているので、ラッキーにも今戸橋は現在もあります☆

地図と見比べながら地形を想像し、あちこち指さす私たち。
「今戸橋がここで、手前の東側っていうと・・・」

台東スポーツセンター


そうしていて、2人ともぽかんと口を開けてしまいました。

「あれって、よく来た体育館だよね?」
「うんうん」

M子ちゃんが東京にいた頃、一緒にバレーをした体育館が、そこにありました。驚きです。呆気に取られるというか・・・。

殉教地は隅田公園の台東区側。現在では地形も変わってピンポイントで場所を特定することはできませんが、その中(あるいはすぐそば)によく来た体育館がありました。

意味があるのかないのかわからない(普通に考えればただの偶然)けれど、個人的には何かを感じるべきじゃないかという気がします。

「自分が」キリシタンや殉教地に関心を持っている、と思ってきましたが、どこからか霊感を受けていたのか・・・(゜0゜)?


 地下鉄で有楽町へ☆

地下鉄の父


では地下鉄に乗って有楽町へと向かいましょう☆

駅構内を歩いていると「地下鉄の父」なる人の像が。知りませんでした。お父さんがいたとは。

都市のインフラにもまた歴史があり、人々の情熱が込められているんですね。


地下鉄の父

織田有楽斎屋敷跡


駅の出口を上ったところにあるのが銀座阪急モザイク。今は改装中のようですが、ここがキリシタン大名 織田有楽斎(おだ・うらくさい)の屋敷跡です。

織田有楽斎は織田信長の弟で、利休十哲にも数えられる茶人。有楽町駅の「有楽」も有楽斎の邸宅があったことから付けられました。

さてこの織田有楽斎が、霊名ジョアンを持つキリシタンだったと、今ではwikipediaにも出ていますが、これは確認された事実ではありません。一つの説というべきだと私は思います。

織田有楽斎はキリシタン?


なぜなら数十年前まで織田有楽斎がキリシタンだとする人はヨハネス・ラウレス師1人きりだったのですから。ヨハネス・ラウレスは上智大学の教授をしていた神父さんで、キリシタン史の黎明期の研究者。しかし宣教師の書いたものから類推して織田有楽斎がキリシタンだと主張しただけで、明確に書かれた史料は何一つ見つかっていません。

キリシタン研究者の結城了悟師(スペイン人で日本に帰化した。長崎26聖人記念館の元館長)や、松田毅一(南蛮史料によるキリシタン研究で著作がある。フロイスの「日本史」を川崎桃太と共に完訳した)は、有楽斎がキリシタンではなかったとしています。

史料が必ずしも史実とはいえず、有楽斎がキリシタンでなかったという史料もありません。私は「キリシタン」と名がつけば見に行く、キリシタンと関係があるというだけでも足を運ぶというスタンスなので、とりあえず「キリシタンだったかもなー」と思って来てみましたけども。改装中のデパートを見ても、何もわかりませんね (^。^;)


数奇屋橋公園

数奇屋橋公園

数奇屋橋公園

泰明小学校


続いて泰明小学校へ。島崎藤村と北村透谷が卒業した学校で、校門脇にもそのことが解説板と碑で説明されています。

北村透谷は数寄屋橋の「すきや」を「透谷」と当て字して、「とうこく」と読ませてペンネームに使ったのですから、この地に愛着があったのかと。

だけどこのお2人、両人ともクリスチャンになったのですが、島崎藤村はミッション系大学の校歌まで作ったのに後年棄教。

北村透谷はクリスチャン女性と大恋愛の末、教会で結婚式を挙げて夫婦となるのですが、その愛の巣で自殺。キリスト教徒は自ら命を絶ってはいけないのに・・・。

2人の行った道を思うと、「すごい人を輩出したのねー」と有り難がる気分にはなれません。素敵な校舎で、門が特にいいですけどね☆


校舎と門

解説板

藤村・透谷記念碑

記念碑解説

南町奉行所の遺構


駅構内へと下りて行くと、南町奉行所の遺構がベンチとして据えられています。

お疲れのサラリーマンがいつも目をつむって座っていて写真を撮り損ねるのですが、今日は幸運にも空いてます♪

この南町奉行所に勤めていた原胤昭(はら・たねあき)が、明治になってキリスト教の洗礼を受けて活躍したのは昨日話したとおり。

今の女子学院の前身となる学校の一つ、原女学校を設立したのも原胤昭です。また開国後日本で最初に日本人主催で行われたクリスマス会も、この人が開いたとされ、これは外国の文献にも載っています。

また明治期に東西のクリスチャンが集まって熱く語り合ったことがあったのですが、その時親睦会が行われたのも原胤昭の家でした。

キリスト教を取り締まる奉行所に勤めていた人物が、クリスチャンの筆頭となって走るようになるのですから、痛快ではないですか。天晴れですよねっ ヽ(‘ ∇‘ )ノ♪


南町奉行所の遺構

南町奉行所の遺構

南町奉行所の遺構

 切支丹屋敷へも参ります!

切支丹屋敷跡


最後の目的地は切支丹屋敷跡。ここはやっぱり押さえておきたいということで。茗荷谷駅で降りてテクテク。

今日は迷わずに着きましたが、昨日と違う道を通ったら、高層マンション建設反対のポスターやらがものすごい勢いで張られていて驚きました。

切支丹屋敷跡


中には「切支丹屋敷という貴重な史跡を守るために」高層マンションは絶対反対だと書いてあるものも。価値をわかってくれるのはうれしいですけどね。

建設するほうも史跡公園を造ると書いてあったりで、私の小さな頭ではよくわかりません。一番いいようにしてくださいと大きな頭の神様に祈っておきました。


切支丹屋敷跡

切支丹屋敷跡

切支丹坂

蛙坂


切支丹屋敷跡へとも行けるこの蛙坂は、復(かえる)坂ともいい、切支丹坂とも通じていて、切支丹屋敷を守る武士たちが組屋敷へと戻る道だったのだとか。

この道を通って行ったんですね。キリシタンを幽閉し、場合によっては処刑した役人たちが。

その人たちも命令されてやったことで、お役目は絶対だったんでしょうけど、暗い気持ち、やるせない気持ちでこの坂を下りたことがなかったでしょうか。想像しかできませんが、あったんじゃないですかね。たぶん。


蛙坂

蛙坂

東京農業大学開校の地


M子ちゃんが飯田橋で用事があるというので、そこまで移動して時間調整することに。

出口を上ると、「東京農業大学開校の地」碑がありました。

今では農業ができる雰囲気ではなくなってますが、昔は(といっても江戸じゃなく明治ですが)、農耕できる環境だったんですかね?

東京は昔から人が集まる都会ではあったけれど、現代とは全く違う風景だったのかも。ほんの少し前までは。

日本が開国して明治になって約150年。近代国家になったのはつい最近です。圧倒的な力で、人が街がどんどん変えられていった150年なんですね。


東京農業大学開校の地

東京農業大学開校の地

中村屋

ご飯を食べながら語らって♪


M子ちゃんと歩いているときに、「涙で祈る、23区。①」で一緒に回ったM代からメールがあり、3人で食事をすることに。

同じような所を訪れているので、話題には事欠かず、3人ともクリスチャンなのでそれぞれ感じること悟ることがあって、語り尽きません。感謝ですね、気持ちを分かち合えるとは♪


   日本の近代化とこれから


   急速に行われた日本の近代化と経済発展。
   デフレの世の中になって、それがちょっと一服した感があります。
   「カネで何でも買える」と言ったIT社長は塀の中。
   最近は海外旅行やショッピングより、町歩き、身近な場所の歴史散策が流行っているとか。

                  「お金がないから、ただでできる遊びが流行する」と
                  揶揄する向きもあるようですが、そうでしょうか?
                  人間はそんなにバカではないと思います。

                  息せき切って走ってきた経済成長の時代から
                  ふと我にかえって、立ち止まり
                  どこかに置き忘れたものを探そうとして
                  歴史に関心が向っているのではないかと、私は思います。

         もしそうだとすれば、これからに希望を持つことができます。
         歴史の中には知恵があり、教訓があり、天の込めた愛があると思うから。
         その宝を手に入れる、デフレ時代としたいものです。。ヽ(*⌒∇⌒*)ノ




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