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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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 きのくに日和 vol.1

 本日の主な訪問地


 伊勢上野城
 円光寺


    春は名のみの風の寒さや――。
    そんな歌を思い出しながら、新幹線で大阪に降り立ち
    近鉄の特急で三重にやって参りました。今日は母のお墓参り。

    母が亡くなった10年前には元気だった伯父伯母たちも
    鬼籍に入ったり、体が不自由になって老人福祉施設に入ったりで
    今では一緒にお墓へ行ける人も少なくなりました。
    そんなわけでお墓参りまでの少しの時間、津の北にある河芸(かわげ)を回ってみます★



伊勢上野城の天守台跡


三重県は毎年訪れるので、割と行き尽くした感があるのですが、伊勢上野城は行けてなかったので、津駅で電車を降りてレンタカーで向いました。

天守台跡に建つ展望台の2階が資料館になっているということで見たかったのですが、何と臨時閉館。そんなことHPに載ってなかったのに・・・。嫌われてるみたいです(>_<)

展望台より


気を取り直して、よいせよいせと3階に上り、あまり高いとは言えない展望階へと到着。本丸を見下ろしました。

見晴らしがいいとはいえませんが、当時のお城もそんなに高くはなかったでしょうから、城主が眺めた光景をそのまま見ていると思えば良いのかも☆

昔はもっと近くまで海が迫っていたみたいですけどね。

展望台

展望階

展望台より

展望台より

本丸跡


織田信長の妹お市の方とその娘である浅井三姉妹は、信長に攻められて小谷城が落ちた際に、叔父である織田信包(のぶかね)を頼ってこの城に身を寄せました。

敵に回ったからといって、妹の嫁ぎ先を攻め滅ぼした信長の神経を理解することは、私には到底無理。

お市の方も三姉妹もまだ小谷城に残っていて、殺される危険性は十分あったのに。むしろ妻子を生き延びるようにさせた浅井長政の優しさの方に、軍配を上げたいくらいです。

しかしそういう優しさや人間性が、あの時代には仇になったのかもしれません。その後もそのスタイルを変更することなく、「魔王」信長は天下統一に王手をかけました。芝生の敷かれた長閑な本丸跡で、ここに逃れて来た人たちの心情を思います。平和な世に住む私には想像しても限界があるでしょうけど...(・ε・)

キリシタン大名を輩出した京極家


あ、そうそう、ここに来たかったのは、浅井三姉妹の次女お初が後にキリシタンになったからです。京極家に嫁いだお初は、姑の勧めで洗礼を受け、同じくキリシタンとなった夫 京極高次と共に、他の親戚の伝道もしました。京極高次と弟の京極高知(たかとも)はキリシタン大名なのです。

これらの人たちが皆キリシタンになったのは、お初の姑 京極マリアの存在が大きいのですが、この人は実は浅井長政の妹。だから生まれてから嫁ぐまでは小谷城に住んでいた訳で。浅井家を滅ぼした織田家には思うところがあったでしょうが、浅井長政の娘たちには同情的だったのでしょう。

嫁いできたお初にはよくしてあげたのではないでしょうか。お初と京極高次は従兄妹同士ということになりますね。


お江がいた

上野城跡解説

二ノ丸跡

伊勢上野城跡解説

お江ゆかりの寺!?


伊勢上野城跡を見終えて、大通りに出ようとすると、「江姫ゆかりの寺」の看板が!

何年か前に江姫(お初の妹。2代将軍 徳川秀忠の正室)がNHK大河ドラマの主人公になったから、それ関係の史跡が整備されたんでしょうね。

整備されたならそれに乗っかっていきましょう。お江ゆかりの寺ならお初だって関係している可能性がありますから♪


分部氏の墓


境内に入ると、特にお江をフューチャーしている感じではなく、目立つのは分部氏のお墓4基。

分部光嘉は織田信包配下の武将で伊勢上野藩初代藩主。伊勢上野城を築き城代となった人です。

織田信包が近江に改易になると、光嘉が城主に任ぜられましたが、光嘉の養嗣子光信は近江の大溝藩へ移封となったため、上野城は廃城となったのです。

浅井三姉妹が上野城に来たのは、分部光嘉が城代をしていたときなので、会ってますね。織田信包の姪御さんたちだということで、大切にお世話したのではないでしょうか。


分部氏の墓

分部氏の墓

円光寺解説

境内

山門


そんなことを考えていると、分部氏の家紋入りの半被を着た男性に話しかけられました。

ご住職かと思いきや、ボランティアガイドさんのようで、案内してくれるということです。

今日はあまりいろんな所を訪れる予定ではないので、渡りに舟でございます(使い方合ってますか?)。はれるやー ( v ̄▽ ̄)

まず案内してくれたのが、山門。火除けのお守りとして取り付けられるのはシャチホコが多いのだけれど、ここではシャチホコ形の波だそうな(ページトップの写真)。表側の鬼瓦には牡丹の瓦があしらわれています(↓)。どちらも珍しいということです。ちょっと雅やかな女性的な感じがするのは、そういうディテールのためなんですね☆

円光寺由来


元々このお寺は天皇の勅願寺として建てられたお寺で、足利家からも帰依され御教書を受けたということです。当地に移ってきたのは16世紀末。分部氏が城を建てて、この寺を菩提寺にしたときからで、百石の寺領を与えられたのだとか。

だから檀家さんによって支えられるシステムのお寺とはちょっと違います。もちろん分部氏を大檀那と考えることもできますが、後には分部氏が移封されていなくなり、藩から寺領をもらっていますから。

うーん、お寺の経営システムとかあまり考えたことなかったな。成り立ちや何かも気にしたことなかったし・・・。どこかを訪れるたびにいろいろ勉強になります ( ̄^ ̄ゞ マナマネバー


山門

牡丹

牡丹

秋には紅葉が美しい

円光寺本堂


本堂の内部には展示スペースが設けられていて、大河ドラマ関係のポスター等も飾られています。

聞けば、上野城跡にある資料室の展示はこちらと同じなのだとか。

資料室は開いてなかったけれど、ここで解説付きで見せてもらえるように主が計らって下さったのかもと思いました♪
お茶まで淹れてもらって恐縮です。


内部の展示

内部の展示

内部の展示

内部の展示

当時の物


たぶん城跡の資料室にはないだろうなと思ったのが、当時の品々。陣笠とか漆塗りでかなり立派なんですけど、それなりに役職のある人がかぶっていたんじゃないでしょうかね。

ドラマ見て訪れた人たちがかぶって記念撮影していたらしいですけど・・・。「これ、当時実際に使ってた物ですか?」と夫が何度も訊いてました。。(^。^;)


お初はここに?


私の最大の関心事は、お初はここに来たのかということだったので、ガイドさんに尋ねてみました。そうしたら、「当時この寺は城内にありました」とだけ答えてくれました。史料がなくては来たとも来なかったとも言い難いのでしょうね。

しかし「来なかったかもしれない」というのでは、お江人気にあやかろうにもあやかれないし、「江姫ゆかりの寺」という看板に偽りありということになってしまい都合が悪いのかもしれません。

私としては来たと思うんですけどね。娘さんたちは若かったから好奇心もあっただろうし、3人だったからそれなりに大胆になれたりして、城内ならば見て回ったでしょう。昔若い娘だった者として、そう感じます☆


家康書状(複製)

秀吉朱印状(複製)

当時の物

当時の物

紀州藩だった!


はっ!と気づいたのは、こちら(←)の展示物を見たとき。そっか、ここ河芸(かわげ)町は紀州藩だったんだ!

三重県の津は藤堂家が治めていたけれど、それ以外の所は紀州藩の領地。紀州というと和歌山のイメージだけど、この辺りや白子は飛び地だったんですね。

だから紀州藩の藩祖徳川頼宣に関するものもあります。頼宣自身がこちらに何度も来ていた様子が窺えますし。分部氏が移っていってからは紀州藩が寺領を与えて存続させたのだから、大檀那が紀州徳川家になったと言っても過言ではないわけで。

明日は和歌山の方に行くのですが、この旅程は一つの流れでつながっていたのだと気づきました。これも天の配剤か? 答えは明日わかるのかもしれません。和歌山行きを楽しみにしてきたつもりだれど、何だかより一層楽しみになってきました (*゜v゜*)♪


徳川家の位牌?

分部氏の位牌?

上野城跡図

地獄絵図






         用事があって来ると・・・


        用事があって来ると、なかなかモチベーションが上がりません。
        どうしても来たくて来たのではないし、本来の用事もあるし。
        特に墓参だと、来年もまた来られると考えてしまうので。

        しかしそれは違うんだろうなということを今日感じました。
        私が生きる限られた時間の中で、今日は今日だけ。
        ならば今日の御心を探さなければならないはずです。

        心のベルトを締め直して、紀ノ国を旅したいと思います♪










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