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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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 きのくに日和 vol.2


   今日は若干忙しい日。
   朝大阪から和歌山へ移動して、レンタカーを借りたら市内を少し回り
   久しぶりに会う友人のお宅へ行って過ごします♪

   その後もし一緒に行けるようならそのご家族と、行けないなら自分たち2人で
   和歌山で行きたい所をできるだけ探して行こうと思っています。
   主のプログラムに沿った一日になりますように ъ( ゜ー^)





南海電鉄和歌山市駅


のんびり南海電鉄に乗って到着したのは和歌山市駅。実はここがすでに来たかった目的地だったりします。

「伝甫の長屋」とよばれる浦上キリシタン収容所があったのが、南海電鉄和歌山市駅の真下、改札口から加太・関空方面発着のホームにかけての一帯なのです。

ここは信徒たちを虐待をしていないと、巡察師に見せかけるために用意した住居だったので、ひどい収容所ではなかったわけですが。もしこの駅を使っていたら、電車に乗るたびにお祈りができますね。当時の様子と彼らのことを思うだけで、何かを感じられるような。


勝海舟寓居地


レンタカー屋さんで車を借りて市内へ!

一般の人も史跡として訪れるであろう、勝海舟寓居地へと参りました。碑の場所は杭ノ瀬質舗が場所を提供しているそうですが、なかなかいいことしてますね。

勝海舟は晩年宣教師と深い交流を持ち、自宅敷地に宣教師宅と教会を設けました。今でもそこが日本基督教団の教会になって残っています。

惜しいことに勝海舟自身は受洗していませんけども、本人としては半分クリスチャンのつもりだったのではないでしょうか。日本で亡くなった宣教師さんの墓碑にも字を刻んでいます。漢文聖書の言葉から「義人は信仰によって生きる」という意味のところを (*'▽'*)/


寄合橋


つづいて市堀川(元々はお城の周りに掘られた堀だった)にかかるいくつかの橋の中から、寄合橋へ。

この橋の東詰には昔火の見櫓と番所があり、西詰には高札場が設けられていました。北詰にある酒造会社の場所は藩校 学習館跡なのだとか。歴史がいっぱい詰まっているような場所ですね。

高札場というのはキリシタン禁制を貼り出したお上の掲示板なので、うれしい気持ちにはなりませんが、悔い改めという意味でも確認しに行くようにしているのです。藩校の学習館というのは五代藩主吉宗によって武士の子弟のために建てられ学校。やっぱり紀州藩といえば吉宗なんですね☆


寄合橋

寄合橋

寄合橋


日本基督教団 和歌山教会


それでは恒例の教会めぐりへ。日本基督教団 和歌山教会です。

和歌山のプロテスタントの歴史は1881年北米カンバーランド長老教会から派遣されたJ.B.ヘール宣教師から始まります。

1885年に市内十二番丁に仮会堂が設置され、2年後に七番丁に移って会堂が建設・献堂されました。

現在地に会堂が建てられたのが1951年で、現会堂が建てられたのが1981年。和歌山での伝道開始百年を記念して建てられました。和歌山のプロテスタントの歴史と共にあった教会ということができるでしょう。


日本の土となった宣教師たち


日本の土となった宣教師たち、J.B.ヘールとA.D.ヘールという兄弟のことは知らないでいてほしくありません。彼らの寛容で人格的な伝道は、神の愛を体現したものでした。少し長くなりますが書かせてください。

ジョン・バックスター・ヘール(J.B.ヘール)夫妻の乗った船が神戸に着いたのは1877年のこと。ジョンは神学生だった頃から日本に行くことを願っていました。卒業後に結婚しましたが、幸運なことに妻となった女性もまた同じくらい日本行きを望んでいました。

2人は「私たちの最も良き働き場所、死に場所として日本を与えてください。私たちを日本のものにしてください」と祈り、ついにその機会を得たのでした。


英語ができる日本語教師?


来日して大阪の居留地に居を構えたものの、日本語を教えてくれる人がいなくて大変苦労しました。当時英会話のできる日本人は大阪に2、3人しかいなかったのです。ところが英会話もろくにできない青年が、日本語教師を探しているという話を聞いて、少し英語ができると言って夫妻を訪ねてきました。名前は小幡駒蔵。和歌山県の田辺出身の男でした。

この青年が日本語教師となったせいで、ジョンも、少し遅れて宣教師として来日した兄のアレキサンダー・ダーハム・ヘール(A.D.ヘール)も、生涯上手な日本語を話せませんでした。神様のことはずっと「カメサマ」で通しましたし、来日して十数年経ってからもジョンは日本語で話したのに、相手は英語を話していると勘違いしていたという逸話が残っています。

しかし小幡は信仰を持ってクリスチャンになり、和歌山伝道の足がかりとなりました。当時外国人は怖がられ、居留地以外で自由に活動できませんでした。最初に借りた伝道所も小幡が人々を説き伏せ、ヘール兄弟を助けて交渉にあたり、やっとのことで小幡名義で借りたのです。


いつもにこにこ ヘール兄弟


兄アレキサンダー、弟ジョンのヘール兄弟は性格も顔立ちもよく似ていて、いつもにこにこしていて明るく品があり、ユーモアに溢れていたといいます。金銭的にはとても淡白だったので、妻たちは苦労をしましたが、この夫にして妻ありというほどに、笑顔を絶やさずに夫を支え、子供たちを育てました。

ヘール兄弟は大阪を拠点にして15年間心を一つにして宣教にあたり、外国人居留地が撤廃されると、兄アレキサンダーは大阪と三重、弟ジョンは和歌山と分かれて伝道するようになりました。

まもなく日清戦争が始まり、日本が不穏な空気に包まれても、兄弟はわらじばきで山奥の一寒村にも足を踏み入れていき、にこやかに人々に話しかけました。「私、顔は外国人、心は日本人」と言って――。


一人息子も宣教師となって来日!


結局兄は45年、弟は50年、2人は死ぬまで日本で宣教しました。アレキサンダーは日本に来るとき5歳の息子を連れてきましたが、14歳の時アメリカの学校に入るために離日しました。ジョンは2人の息子をアメリカに残して来ていて、離れ離れで暮しました。

ところが、1900年アレキサンダーのその一人息子ジョン・ユージン・ヘール(J.E.ヘール)が、宣教師となって日本に派遣されてきました。彼は子供の頃日本で過ごしていたので、父や叔父とは違いわずか半年で立派な日本語を話せるようになりました!

彼は三重県の津市を本拠地にして活動し、5年後に優秀な妻を迎えました。そこでヘール家の3夫婦は力を合わせ紀伊半島全域に渡って伝道を続けました。


6つの墓は今も日本に


しかし1911年、アレキサンダー夫妻は息子夫妻と軽井沢に行き過ごしていましたが、登山に行った息子J.E.ヘールは突然噴火した浅間山の噴石に当たって亡くなってしまいました。涙を流しながら「みこころであります」と語ったアレキサンダーは、数年後に妻も亡くしましたが、伝道への力を弱めることはありませんでした。

1923年、アレキサンダーは79歳でこの世を去り、1927年にジョンの夫人が、その翌年にはジョンが83歳で帰天しました。ジョンが病床にあったとき息子がアメリカから来て、アメリカに戻って療養するように話しましたが、「私はもうアメリカ人ではない。日本人なのだ」と答えたといいます。

若くして未亡人となったJ.E.ヘールの妻は夫の死後も日本に残り、4人の子供を育てながら、夫の遺志を継いで津の幼稚園や大阪の女学校で教え、宣教に尽くしました。そして1941年老衰のため日本で死去しました。

3組の夫婦、6つの墓は今も日本にあります。彼らが日本に注いでくれた神様の愛は今も消えずに残っているのではないでしょうか。


日本基督教団和歌山教会

日本基督教団和歌山教会

紀ノ川


道を間違えて紀ノ川を渡るはめに。どこに向う道なのか新参者にはわかりにくくて・・・(*ノ-;*)

しかし有名な紀ノ川をちゃんと見られてありがたや。この川を遡って浦上キリシタンは流されてきたんですね、紀州へと。

日本基督教団 丸の内教会


また日本基督教団の教会ですが、こちらは丸の内教会。八番丁にあります。

先ほどの教会とは徒歩15分くらいでしょうか。結構近い場所にあるのが不思議です。和歌山といえば高野山とかどちらかというと仏教が盛んなイメージがありますから。


日本基督教団丸の内教会

日本基督教団丸の内教会

長覚寺跡


さて今度は明治時代に流配になって当地に来た浦上キリシタン関係の場所に。

この駐車場になっている所が、浦上キリシタンが最初に収容された長覚寺があった場所です。

信徒たちは祈っていたでしょうね。見ず知らずの土地に流されてきて、心細い中で主だけを頼みにして・・・。


おのみなと幼稚園


長覚寺跡から2ブロック西に進んでおのみなと幼稚園へ。こちらはキリシタン時代教会があった場所の候補地の一つです。

今から400年ほど前のことですが、和歌山城主 浅野幸長はキリシタンを保護し、教会用地を与えるなどしました。

そこで宣教師が教会や施薬院を建てて活動していたのですが、その跡がどこかはっきりとわかっていないのです。それで候補地を挙げて実際に訪れて、行くだけ行ってみようということで、ここに来たわけです。しかし来てみたところで霊感がピーンとくるのでもなく・・・うーん、どうなんだろうなぁ?

カトリック大阪大司教区監修の本に、和歌山の教会は海善寺南部(そこにあるのがこの幼稚園)付近にあったと考えられていると書いてあったのですが、たぶんそれは宣教師が「背後に有名な寺がある」と書いていて、「浅野家文書」に海善寺の名がよく出てくるからだと思うのですが、有名なお寺は市内に他にもあるから、こことは限らないような気がするんですよねぇ (ーΩー )ウムー


海善寺

海善寺

海善寺

 それでは紀の川市へ♪

知人宅のハムスター


結論の出ないまま、そろそろ時間だということで紀の川市にあるYさんのお宅へゴー。2人のお嬢さんがかわいいです♪

市内を回ってきたことを話したら、なんと奥さんがおのみなと幼稚園の出身! この後行こうとしている所を言うと、ご夫婦が最初に所帯を持った町内だったりして、お互い「えーっ!?」みたいなことばかり。

それで是非一緒に行こうということになりました。土地勘がある方に同行してもらえると心強いし、何より御心を感じましたので。そぼ降る雨の中、2台の車に分乗していざ出陣 (/*⌒-⌒)oレッツゴー


和歌山城


まずは和歌山城を遠望。入城する時間がなくて残念ですが。

徳川氏が入城する前の浅野幸長(よしなが)の時代には、キリシタン武士が出仕していました。豊後の大友旧臣であるビセンテ吉広、フランシスコ吉広、トマス入江らです。

城下には堺から移り住んだキリシタンたちもいました。堺は結構近いですからね。キリスト教徒が住みやすい環境を求めてやって来たのでしょう。


和歌山城主 浅野幸長


1605(慶長10)年頃、伏見の徳川家康を訪問した際に、浅野幸長は伏見にあったフランシスコ会の教会付属の施療院でアンドレス修道士から病気を治してもらいました。それがきっかけで交流が始まり、1年後にはソテロ神父に和歌山城下に教会と施療院を建てることを願い出ました。

その場所はムニヨス神父の報告書によると、「城の近くであり非常に高い場所で砂の多い所」で、また「町や川や海が見える場所であり、背後に有名な寺がある」と書かれています。それに「土地は殿が寄進してくれ、施療院は殿が自費を出してくれた」とあります。


「キリシタンの善き友」


浅野幸長は「キリシタンの善き友」と書かれています。保護しただけでなく、浅野幸長が受洗した可能性もありますが、はっきりとした記録が残っていないので何とも言えません(レオン・パジェスの「日本切支丹宗門史」には「1612年に紀伊国の大名が洗礼を受けた」とありますが、元の史料が何なのかと、これが浅野幸長だと断言できるのかが不明)。

これまでキリシタン研究はイエズス会の文献によるものが多く、フランシスコ会の布教地になった和歌山についてはあまり明らかになっていません。しかし今後どこかで新資料が発見されれば、詳らかにわかるようになるかもしれませんね。

ムニヨス神父とソテロ神父の報告書はロンドンの大英博物館にその写しが保存されており、1606~1607(慶長11~12)年の和歌山のキリシタンの様子を物語る貴重な資料となっています。


岡公園の顕彰碑


城の周りをぐるりと回ると、岡公園に徳川頼宣に仕えた朝鮮人儒学者 李真栄・李梅渓父子の顕彰碑が。

李真栄は文禄の役の際に浅野長政軍に捕縛されて大坂に強制連行され、結局帰国せずに日本に永住した人。息子の梅渓は正式に紀州藩士となったということです。

こんなところにも朝鮮出兵の痕跡が残っているなんて、それくらい大規模な侵略戦争だったということですね。殺された人だけでなく、人生を狂わされた人もたくさんいたんだろうと思います。


岡公園

岡公園

百間長屋跡

和歌山城石垣

和歌山大学付属小中学校


「岡公園」というくらいだから、やはりお城周辺は丘陵地帯だったんだなと思いながら、和歌山大学付属小中学校へ。

レトロな門構えが絵になる素敵な学校です、が!

ここが私が教会跡ではないかと考えている所で、同時にキリシタンの殉教地であろうと推測している場所です。まず教会跡として考えると、ムニヨス神父の記述にぴったりです。海善寺の辺りはお堀を越えて紀ノ川の側まで行くので、標高が高かったとは考えられません。城からも近いとは言いにくいですし。実際に来てみて、「こっちだろうな」という思いが強くなりました。


殉教地だったのか?


では殉教地だったのか?という点ですが、和歌山藩「牢番頭日記」によると、1639(寛永16)年頃、城下吹上峰でキリシタン80余人が処刑された、とあります。年代的にみて、島原の乱で全国的にキリシタン弾圧が強化されたことによるものでしょう。乱の鎮圧から1年以上経ってから処刑したのは、摘発により牢屋に入れた信徒たちに棄教を勧め、応じなかった者をまとめて処刑したのでしょうか。

殉教地を特定するのに手がかりとなるのは「城下吹上峰」という言葉だけです。しかし元々和歌山城自体が、「吹上峰」とよばれる小高い丘陵地に建てられたことがよく知られています。

なのでキリシタン処刑地は城の周囲であったことがわかります。そして城の南部に当たるこの辺りの住所が、実は「吹上」なのです。


和歌山大学付属小学校公式サイトによると・・・


和歌山大学附属小学校公式サイトの学校紹介には「伏虎山からながくのびる砂丘(附属小学校のある土地)を吹上の峯といい岡山といい奥山と言った。(中略)南は和歌浦の風光を眺め,西は紀淡海峡を経て遠く淡路島を望み,北は虎伏城(和歌山城)を仰ぎみ紀の川の流れを越えてはるか紀泉の連山に対する風光絶佳の土地である」と書かれています。

ムニヨス神父が書いた「城に近く高い場所で砂の多い所だった」「町や川や海が見える場所」「背後に有名な寺があった」の全ての点で一致します。つまりここは、元々教会だったのを破壊して、信徒を見せしめのために処刑した場所だと考えられるということです。

キリシタンの教会跡が殉教地でもあるということは、他の地域でも見られることです。城下の領民と摘発を逃れた信徒たちに衝撃を与え、キリスト教をおぞましく断罪に値するものであると印象づけるのに絶大な効果を上げたことでしょう。


殉教地とは何か


ただし・・・、殉教地かもしれないと聞いて不吉で気持ちが悪いと思う人に聞いて欲しいことがあります。それは彼らが恨みを飲んで死んだ人たちではないということです。江戸時代には多くのキリシタンが殉教しましたが、彼らは最期までその地の人々のために祈っていたと、目撃した人たちが記録しています。

子供ですら、自分を斬る役目の役人に対して「お役人様、私はあなたを恨みません」と言って、首を差し出したのです。彼らの真実な姿を見て、「この人たちをこのようにさせたものは一体何なんだろう」と、役人や牢の番人が伝道されたこともありました。

キリスト教では、殉教とは命を持って主を証することであるとされています。殉教者とはつまり証人(あかしびと)。目には見えないけれど神様がいて、救い主は確かに一人一人を愛しているという、その愛の証人なのです。

人が死んだ所だからと思わずに、祈りが込められた場所だと認識していただければと思います。


和歌山大学付属小中学校

和歌山大学付属小中学校

遅めのランチを取りながら


地元のスーパーに寄って買い物をして、駐車場に停めた車内で遅めのランチを♪ 気を遣わない感じがいいです☆

Y家の御主人(Yさん)が同じ車に乗ってナビをしてくれていたのですが、「昔はすぐそこまで海だったんですよー」と、まるでその時代から生きてる人みたいに話す口調が面白くて、ツボにはまりました (〃^∇^)o


大泉寺


それでは再び史跡めぐりへ!
浅野幸長が葬られた大泉寺に来てみましたが、墓地にそれらしきお墓がありません。

Yさんがお寺の方に尋ねてくれたところ、浅野家が広島に移っていったので、お墓もそちらに移されたのだということでした。

ちなみにこの寺の住所も和歌山市吹上。付属小中学校の所に昔教会があったとして、その教会がお城に向って建てられていたとしたら、この寺は背後にあたる場所にあります。城主が葬られたことからして、当時かなりの名刹だったことがうかがえるので、「背後に有名な寺がある」という点でも一致します


門前の高校は・・・


帰り際に門前にある学校を見ていたら、Y家の奥さんが「ここ、私の出身校です」と! 私たちが行きたかった所が、その地域に住んでいるクリスチャンの方のゆかりの地であることは、ままあることで、これを偶然と考えちゃいけない気がしていたのですが、今回も、という感じ。

桐蔭高校は県下随一の進学校だそうで、すごいなと思いますが、驚いたのは、去年大阪で泊めてもらった家の女の子(お祖母さんの代からのクリスチャン)もこの学校の出身だと聞いて。偶然、重なり過ぎですよね (^。^;)


桐蔭高校

桐蔭高校

禅林寺


「今日、雨こんなに降るって言ってたっけ?」と言いながら、水溜りをさけつつ禅林寺へ。

浦上キリシタン記念碑があるお寺です。境内には「キリシタン灯籠」と呼ぶ人もいる織部型灯籠もあるようです。

和歌山には明治時代、キリスト教徒だという理由で検挙された長崎の信徒(主に浦上村の者たちだったので、彼らのことを浦上キリシタンという)が281名も流されて来て、牢屋生活をしました。そしてたった数年間でそのうちの94名が死亡。

彼らの亡骸は市内各所の寺に埋葬されたのですが、ここも信徒の埋葬地の一つだったことから、後に記念碑が建てられました。浦上キリシタンが流配されたのは、名古屋から西の20藩22ヶ所だったのですが、その中で和歌山藩は33.8%という諸藩で最も高い死亡率を示しています。


禅林寺

禅林寺

禅林寺

禅林寺解説板

浦上キリシタン記念碑


浦上キリシタンの記念碑は墓地の一番奥に建てられていました。

すぐ近くには墓石の間に織部型灯籠も。

「キリシタン灯籠」と呼ぶ人もいるので、浦上キリシタンの埋葬地に誰かが供養のために建てたのかと思いきや、そうではないということが、前出のカトリック大阪大司教区監修の本に書かれていました。先祖供養と祟りの話の延長で拝まれるようになったようです。やっぱりキリシタンとは関係ない気がするなぁ。。


浦上キリシタン記念碑


浦上キリシタン記念碑には、赤い十字架の上に「信仰光」という文字、その下に信徒の名前と経緯が刻まれています。亡くなった人を40人としているところが疑問ですが、碑が建てられたのが昭和2年とあるので、その頃にはまだ検証や研究が進んでおらず全容がつかめてなかったのかもしれません。

この碑を建てたのは奈良教会の主任司祭を務めたビリオン神父と和歌山教会の主任司祭となったグリナン神父。ビリオン神父は長崎から流配者たちが船に乗せられて行くのを見届けた人で、幸いにもその人たちをほとんど記憶していました。

それで彼らが解放された時には一緒に涙して喜び、このことが長く覚えられるようにと「鮮血遺書」を著し、顕彰活動をしたのです。各地の流配地に建立された「信仰光」碑はビリオン神父の努力の賜物。これがなかったら、人々はもっと早く浦上キリシタンのことを忘れてしまったでしょう。


浦上キリシタン記念碑

墓域の奥にある

織部型灯籠

織部型灯籠

来迎寺


寒いので次に参ります。太田八丁の近くにある玄通寺を目指していたら、隣のお寺に解説板があるのを発見!

読んでみると、ここが太田城の本丸跡だと書かれています。また日本三大水攻めの合戦の舞台となったとも。

すごいですね、知らなくて来たのに、歴史的に重要な所に来られて感謝です。


太田城の戦いとキリシタン


秀吉とこの地の領主 太田左近が争った、太田城の戦いがあったのは1585(天正13)年のこと。なので秀吉の作戦に黒田官兵衛が絡んでいた可能性は十分あります。その3年前に行われた備中高松城の水攻めも黒田官兵衛が献策して成功させたものなのですから。黒田官兵衛はキリシタンなので、ゆかりの地に来られてうれしいです。

また籠城戦となった際、窮地に陥った太田左近を説得し、左近ら53人の中心人物の首と引き換えに戦を終わらせ、他の人々を助命するという案を承諾させた2人の武将、蜂須賀正勝と前野長康はそれぞれキリシタンと関係がありました。

元々この2人は幼馴染で、一緒に秀吉に仕官するようになったのですが、前野長康はキリシタンで、蜂須賀正勝は息子がキリシタンになりました。前野長康は棄教したと言われていますが・・・。


さらに!


家に帰って調べてみると、この戦のことをフロイスが書き記していて(実際に見たのではなく、聞いた情報をイエズス会の報告書に記した)、そこには衝撃の事実が! この水攻めのときに、小西行長が海上から船で城を攻撃し、それが降伏の原因となったと書かれているではありませんかっ(このことで衝撃を受けるのは私だけ?)。

小西行長もキリシタンで、黒田官兵衛同様、後にキリシタン大名になった人物です(この頃はまだ2人とも城主レベル)。小西行長は堺の商家の出で、瀬戸内海をを航行する商船やそれを保護する護衛船に人脈があったので、水軍を任せられたのです。

私が関心を持っているキリシタンの名前がたくさん出てきてびっくりです。予期せぬ僥倖とでも言いましょうか。今は水攻めされて落城した跡とは到底思えないくらい地面ばっかりで、ここからは海も川も見えませんけど・・・ヽ(~~~ )ノハテ?



太田城跡

太田城跡

太田城跡解説

玄通寺(銀杏寺)


それではお隣の玄通寺へ。銀杏の巨樹があるため銀杏寺とも呼ばれています。

太田城は来迎寺と玄通寺を中心に東西250m、南北200mに及び、周囲に深い堀をめぐらし、東に大門を持っていたとされるので、ここも思いっきり城跡ですね。

だからキリシタンゆかりの場所といえるわけですが、同時にそれから約300年後のキリシタン、浦上村の信徒にもゆかりの場所となりました。昔は城で、それから300年経ったときには寺でしたが。


玄通寺に葬られた浦上キリシタン


劣悪な環境だったため多くの死亡者を出した太田八丁(信徒が入れられた牢。馬小屋だった)はこの寺の近くにあったので、亡くなった浦上キリシタンはこの寺に埋葬されました。洪水の時に信徒が一時的に避難したのもここだったと考えられています。

埋葬されたといっても、墓など望むべくもない状態でした。牢内で死人が出ると「(役人に金で雇われた)乞食が四斗樽に体の半分をつっこんで担ぎ出していった」と、生き残った信徒が証言しているくらいですから。

当時は死者がどこに葬られたかも、牢に監禁されている信徒たちには確かめる手段がなく、せめて肉親の埋葬先を知りたいと思って役人に尋ねてみても「最も多く葬ったのは銀杏寺」という情報しか得られませんでした。

だからもしかしたら、この銀杏の巨樹がなければ、浦上キリシタンが最も多く埋葬された寺の名前も知られないままだったかもしれません。

「和歌山市指定保存緑」と書かれたこの木の樹齢がどのくらいなのか、素人目には判別できませんが、もしかしたらもしかしたら、前野長康らキリシタンの姿を見ていた木かもしれませんね☆


玄通寺

玄通寺の銀杏

玄通寺の銀杏

玄通寺の銀杏

太田八丁


続いて昔、「太田八丁」と呼ばれていた地区へ。現在「太田」という住所は残っていますが、「太田八丁」という住所はなく、「太田八丁自治会館」にだけ名前を留めています。

信徒たちが入れられた牢である馬小屋が、この地区のどこにあったかは、残念なことにわかっていません。

黙って私が立っていると、「あのぅ、そこ私たち住んでました。あそこの公園で子供を遊ばせたりして」と奥さんが、「今も地域の活動をボランティアでしているんです」とYさんが、それぞれ話してくれました。

今から450年前のキリシタン時代と、開国期の150年前に来た浦上キリシタンと現代とが、一つの流れでつながったように感じた瞬間でした。人の思いを記憶する機能が空間にあるとしたら、時を超えて響き合うことだってあるでしょうね。

そんな機能はないんだとしても、思いはどこかに宿っていて、何かをきっかけとして今生きている人を呼ぶということがあるのではないでしょうか。誰かの呼ぶ声を、どこかで聞いているから、その場所に向うんじゃないかと思うのです。今日もその声に従って・・・かもしれません。


馬小屋の信徒たち


太田八丁にあった馬小屋に入れられた浦上キリシタンがどんな生活を強いられたかは、浦川和三郎神父が信徒たちに聞き取り調査をして書いた「旅の話」に詳しいです。ここで「旅」とは政府による流配のことを指します。少し長いですが引用します。

「苦役に耐えない老幼とか病弱の者とかは馬小屋に打ち込まれた。(中略)室内には蚊帳なく、灯火なく、ふとんもない。着のみ着のまま、暑い夏も寒い冬も過ごさねばならぬ。食物といえば塩水に浸かって腐り果てた南京米二合五杓が一人前一日分で、副食物は梅干し一個か塩一つかみかである。しかしその腐れ米二合五杓も、決してそのまま信徒の口に入るのではない。

当時馬小屋の付近に大勢の乞食が徘徊していたので、役人らはこれを捉えて信徒の賄方を命じた。すると彼らは一人前二合五杓の飯を炊いて先ず自分らがたらふく食い、食い余しに水を汲み入れ、大きな棒で混ぜかえす。米の粒さえ見つからぬ位に摺り潰してから桶に入れて馬小屋に抱え込み、『さあ粥が出来たぞ。来て喰いはたがれ』と言うのであった。(中略)

今一つ困るのは水の不足だ。十日も二十日も一滴の水すら支給してくれない、男子は竹を樋にして天水を引き喉を湿したものだが、女子の方ではそんな知恵も出ず、ただ焼くが如き渇に苦しむのみであった。(注:牢内は男女別になっていた。中略)

毎日毎日腐米の粥を啜らされたために、多くは下痢症に罹り、二、三日もするとむしろは一杯汚れに汚れて寝る所すら残らなくなる。ことに九月か十月かに洪水が出て、八丁川の土手が崩壊し、馬小屋は五尺ばかりも水に浸かり、船で往来されるくらいになった。信徒をば付近の寺に避難させた。

いること四日でようやく水が退いたかと思うと、そのじめじめした乾きもしない土の上にムシロを敷いて信徒を追い込んだ。たちまち熱病が流行した。喉は焼くが如く渇く、『水を飲ませて下さい』と嘆願しても『何や、水はないわ』とはねつけられる。(中略)

死ぬ者は皆『水を一杯!御飯を一口!』と言いながら最後の息を引き取ったものである。(中略)埋葬係は例の乞食連だ。桶が小さくて死骸は胸から上を出している。敷いていた便だらけのムシロを被せてこれを引き括る。ひどい奴になると棒の先で頭を打ち叩いて平くなし、エッシャ、エッシャと担ぎ出す。(中略)

一度死骸を運べば銭三百文づつもらえるので、彼らは死者の一人でも多からんことを願い、二、三日間も死者がないからと、『今日は誰も死にくらさぬか』と外からドラ声をあげる。塩をやると死なないそうだからというので、わざと塩を副えずに水粥ばかりを持ってくることさえあった。(中略)

馬小屋に入ったのは明治三年六月で、翌年の正月十六日まで八ヶ月の間に死者が八十七名の多きに及んだ。一日に三人死んだ日があった――」


諸外国の非難と「巡視概略」


当時を思うと言葉になりません。その後キリスト教徒に対する虐待行為を指摘する諸外国からの非難を受けて、明治政府は各流配地に巡察使を派遣して調査させました。それで「巡視概略」という報告書が作成されたのですが、その記述は実際と大きな隔たりがあります。

馬小屋でのわずか半年間に八十余人もの死者を出し、多いときには一日に五人もの幼子を含む死者が、一杯の水さえ与えられず「ミズ、ミズ」と言いながら死んでいったその馬小屋が「救育所」と報告されているのです。

悲しみを超えて憤りさえ感じます。きっと神様もそうだったのではないでしょうか。


太田八丁自治会館

太田八丁地区

太田八丁地区

シオン教会


Yさんご家族と次の目的地まで一緒に行きましょうということになり、花山温泉の方までやって来ました。

温泉町への入口辺りに単立の大きな教会があったので、思わずパチリ。市内中心部からは離れているけれど、鉄筋コンクリート造りの立派な教会です。人も多そうですね☆


花山温泉横の花山丘陵内


そして花山温泉横の道を登って花山丘陵内にある墓地へ。探しているのは深堀きくさんの墓ですが、山全体が墓苑のようで、どこから探していいのか見当がつきません。

しかし何か不思議に心が動き、「紀」氏の墓があるという一角にまっすぐ向い、閉じられていた門扉を押してみたら開いたので、中に入って見回しました。


深堀きくの墓


すると本で見たことのある深堀きくさんの墓が、視線の先にあるではありませんか。

でもまさかこんなに早く見つかるはずがないよなと思いながら向おうとすると、私を追い越してYさんが墓石に近づいて行き、「あ、これです!」と声を上げました。えっ、やっぱりそうなの w(*゜o゜*)w!?

広い墓地で空振りを一回もせずにこの墓を見つけ出すなんていう技は、やはり「誰かの呼ぶ声」なしにはできなかったかと思います。私が「すごい、どうしてわかったんですか?」とYさんに訊くと、横にある石の形が本で見たの同じだったからということでした。

そしてお墓の後ろの木を指さして、「それに、夏になるとよくこの木のところにカブトムシを捕りに来てたんです。樹液が豊富なので・・・」と。それも「誰かの呼ぶ声」の変形パターンでしょうか。。♪


息子が建てた深堀きくの墓


この墓を建てたのは深堀きくの息子さん。摩滅してよく見えませんが、表には「明治四年七月十七日深堀きく」と、他の面には「明治十六年未三月」「長崎縣元原郷浦上村 深堀善次郎」と、また台座には「為母建立」と刻まれています。

改心者だったことに加え、巡察使が巡視した後なので、かなり自由が与えられていたはずです。それでおそらく善次郎は母の埋葬にも立ち会うことができ、その場所を記憶していたのでしょう。浦上村に帰って11年経ってから再び母の埋葬地を訪れ、墓を建てたのではないかと考えられています。


改心組の母子


この母子は改心組(棄教した人たちのグループ)でした。しかし改心組だからと蔑むことはできません。子供が飢えに苦しんで死ぬかもしれないというのに、母親がそれを手をこまぬいて見ていることができるでしょうか。

「神様はちゃんとわかってくれる」と思ったかもしれません。表面的な改心さえすればいいと、役人たちも説得しました。それに先祖代々7代の間は隠れキリシタンとして、つまり表向きは仏教徒として暮してきたのです。神様に憐れみを乞いながら、毎年正月には踏絵を踏んで・・・。

だからそれと同様にして命を保って、またいいときが来れば信仰を明らかにしようと思っていたのかもしれないです。だけどきくさんは改心組のまま死んでしまいました。墓は長崎のある西に向って建てられています。


深堀きくの墓

深堀きくの墓

紀氏の墓

入口の門扉

 海南市へと向かいます☆

和歌山市を立って海南市へ


Y家の皆さんにここまで同行してくれたことのお礼を言い、再会を約束してお別れしました。

聞けばYさんの出身地は鶴島(岡山県に流された浦上キリシタンの強制労働地)への船が出る日生(ひなせ)なのだとか。

完璧に私が行きたかった所で、ビンゴです。最後の最後になって、また偶然で片付けられないことを発見してしまいました。すべてをご存知で導かれる神様ってすごいです (*ToT*)†アーメン

そして高速に乗って一気に海南市へ! 意外と近いんですね。こちら(↑)は海南市役所。この辺り一帯が日方(ひかた)の開拓地でした。市役所だけでなく、市民会館、市立高校、カトリック教会などの敷地も全部範囲内です。随分と広かったということですね。来てみて実感できました。


日方の開拓地とは


日方の開拓地とは、日方川の河口を埋め立ててできた造成地。明治初頭ここはまだ塩浜で、陸地にする工事が続けられていました。そこに投入されたのが囚人、そして配流されてきた浦上キリシタンでした。

15歳以上の男女で労働に耐えられる者がここに送られ強制労働をさせられ、それ以外の者は太田八丁の馬小屋に閉じ込められたのです。

ここで労働した後、浦上村に戻った女性の証言を集めた「サダの覚書」によると、信徒たちの宿舎は「鼻下(ハナシタ)」という所にあったとありますが、それがどこであったかはわかっていません。逃亡防止のために眉を剃り落とされた等、ここでも信じられないような非人道的取り扱いを受けています。


「旅の話」に書かれた様子


「旅の話」にはこのように書かれています。

「工事はすこぶる大規模で、藩の懲役人がこれに当たっていたのである。よって双方の鑑別が付き易いために、囚徒の首には鉄環を嵌めた。信徒は鉄環こそ嵌められなかったが、同じ渋染の服を着せられ、眉を剃り落とされ、十字架の付いた笠を被らされた」

「男子は未明から日没まで、雨が降ろうと雪が舞おうと、毎日毎日塩水に漬かって働かねばならぬ。衣服は塩に濡れ、手足は泥に塗れて塩浜から帰ると、そのまま杉の丸太の頑丈な格子をめぐらした牢獄に追い込み、外からガチンと錠前をおろしてしまう。女子は牢獄付近の露天に出て縄をなわされ、わらじやモッコを作らさせられた」

「日方の苦役は辛かった。しかし食物がどうにかこうにか辛抱のされるだけはあったので、皆よく信仰を維持した。改心はただ一人しかいなかった――」

市役所周辺の地面は、キリシタンが信仰のゆえに労役を忍び、それによって作られた開拓地だったんですね。


日方の開拓地跡

日方の開拓地跡

カトリック海南教会


日方の開拓地跡には現在2つの教会が建てられています。

カトリック海南教会と日本基督教団の愛隣教会です。これらの教会があることは、ここで労働を強いられた人々の祈りの証なのかもしれません。

カトリック教会ではしっかり信徒さんたちにそのことを教えていることでしょうね。


日本基督教団 愛隣教会


日本基督教団 愛隣教会にも来てみました。建物の外観が新しいので歴史の浅い教会に見えますが、実は和歌山市の教会より前の創立です。

それは和歌山県内でのプロテスタント宣教によって初めて伝道されたのが、日方の人たちだったからです。

宣べ伝えたのも洗礼を授けたのも、J.B.ヘール。クリスチャンとなったのは蔭山清義と奈古英太郎。和歌山県伝道の初穂です(田辺出身の小幡駒蔵は大阪で伝道されたので)。


和歌山県のプロテスタント史


彼らの受洗の翌年である1884年4月にこちらの教会は創立されました。その時の名前は日方橋中愛隣教会でしたが。続いて新宮教会、那賀教会が設立され、1885年になると和歌山教会、田辺教会が建てられるようになりました。

そもそも和歌山県でのプロテスタント宣教は、1881年11月の和歌山市富士屋旅館での伝道会に始まり、次いで小幡の故郷田辺、その後各地を巡回しながら種を蒔いていくようになったのです。それなのに和歌山市でも地縁のある田辺でもなく、日方で最初の受洗者が出たのは・・・偶然でしょうか?


カトリック・プロテスタントという枠を超えて・・・


カトリック、プロテスタントという枠を超えて、天が働きかけられて結んだ実であるように思えてなりません。もちろん1881年は明治14年で、浦上キリシタンが去ってから8年ほどしか経っていないので、受洗者たちが彼らの姿を目撃し、それでキリスト教というものに関心を持った可能性はあります。

しかし数年前まではお上の禁制だった宗教を、自分の信仰として受け入れていくというのは、常識的に考えても難しいことだと言わざるを得ません。

つまり浦上キリシタンを「見た」という直接的な「見える原因」より、天の働きという、その人にしか感知できない「目には見えない原因」に拠るところが大きいのではないかと、私は思うのです (*゜▽゜)チガウカナー?


 では和歌山市に戻りますヽ( ´ ▽ ` )ノ

韓国系の教会


では再び和歌山市へ。レンタカーを返して電車で大阪まで戻って新幹線に乗らなければなりませんので、あまり余裕はないのです (;^_^A

カトリック教会だけは行きたいなーと思い向っていると、十字架が見えたので停車してパチリ。「日韓 和歌山第一教会」とあるので、韓国系の教会のようです。かわいらしい感じがする教会ですね☆


カトリック屋形町教会


そしてカトリック屋形町教会へ♪

カトリック教会は扉が開いていて、中でお祈りできる所が多いのでうれしいです。

今日一日、たった数時間ではあるけれど、いろんなものを見せてくださり、感じるようにして下さったので、とても長い旅をしたような気がします。

数百年前から現代まで続く、長くて深い経緯を思うと自然と涙が流れます。今生きている人たちが責任を持って歴史を勝利で飾らなければいけないよな、などと、知らない人が聞いたら意味不明なことを真剣に思いながら。

ただ神様がこの地を見ながらもどかしく思ってらっしゃるようにも感じました。何とかして復興させていかなければならないんだろうけど、今私にできることは祈ることだけだから、お祈りだけでも残していこうと思います☆

マリア像と石造物


庭にはマリア像と、「キリシタン灯籠」とよぶ人もいる織部型灯籠。

織部型灯籠の考案者とされる古田織部はキリシタンではないから、この灯籠がキリシタンの崇拝対象になっていたと私は考えませんが、竿部分に刻まれているのがマリア像だ宣教師像だという人たちがいます。

それでこのように教会に置かれていることが多々あります。最近はこの型の灯籠を「キリシタン灯籠」とよぶ人はごく少数になってきている(学術的な世界ではそう主張する人はいない)ので、カトリック教会でもそれは十分わかっているのだと思います。

しかしそれでも、少しでも「キリシタン」を想起させるものを置いて、この地がキリシタンゆかりの地であることを伝えていこうとしているのでしょう。

キリシタンを保護した城主がいて、領内には教会や施療院が建てられ、宣教師が行き来した町。そして禁教の世になったときには、多くの殉教者が自らの命で主を証していった町――。

和歌山のアイデンティティーの一つとして、是非このことはこれからも示していってほしいです。


カトリック屋形町教会

カトリック屋形町教会

カトリック屋形町教会

織部型灯籠

崇賢寺


あともう少し時間があるので、崇賢寺に来てみました。浦上キリシタンが埋葬されたとされる寺です。

西村良次著の「宣教事始」にそう書かれているのですが、「旅の話」等にはこの寺の名前が出てこないので、何を根拠にそういっているのか、若干疑問なんですけど・・・。

もし葬られているとしたら墓地の無縁仏の所だろうと思いますが、古い墓石が倒れる危険があるとかで墓地は立ち入り禁止となっています。塀越しに見ると草ぼうぼうで、夜にここらを歩くのはかなり怖いだろうなと...(。≧O≦)ノニゲマス


後で調べたら!


本当にここに葬られたかはっきりしないので、とりあえず写真だけ撮ってきましたが、家に帰って調べてみたら、この大きな五輪塔の一つが安藤直次の墓石でした。安藤直次は幼少期から徳川家康に仕えた武将で、徳川二十八神将にも挙げられる人。

アンチ家康の私にとっては、二十八神将だろうが何だろうが知りまへん!というスタンスでしたが、キリスト教禁令が出されたとき、この人が老中を務めていたと知ってびっくり。一応引退したことにして駿府で大御所政治を行っていた家康の側で、老中職にあったのだから、確実に評定(この場合は最高権力者の会議のこと)に参加してますよね。

つまりキリシタン迫害の片棒を担いだ人物だということです。こんな所に眠っているとは。田辺藩主となったからですね(お墓は出身地の岡崎にもある)。だけど禁教令が解かれるとすぐに、田辺の一青年が大阪の宣教師を訪ねて、和歌山県人としては最初のプロテスタント受洗者になったのだから・・・何かそれも不思議なめぐり合わせのような気がします☆


岡田屋敷跡


ラストは岡田屋敷跡。浦上キリシタンの男性たちが収容された屋敷の跡地で、現在は駐車場になっています。

1871(明治4)年、政府から命を受けた巡察使が、浦上キリシタンを預かっている藩を回るという通達を受けて、和歌山藩では慌てました。

そこで大量の死者を出した太田八丁の馬小屋では到底巡視に耐えられないだろうと苦慮した藩では、急遽何ヶ所かの見栄えのいい収容所を用意して、信徒たちを移動させました。 それが和歌山市駅の所にあった「伝甫の長屋」とこちらで、「伝甫の長屋」には女性たちが収容されました。

それでも巡視の後には諸外国の抗議に配慮して、居住条件を更に改善するようになったのです。こちらでも人道的に問題があるとされたのなら、それ以前はどうだったでしょう。

最後まで不改心を貫いて(信仰を守って)、生きていた人たちはここと和歌山市駅にいたんですね。すごい勝利者たちだと思います。私は名前も顔も知らないけれど、きっとその人たちのことは天が覚えていらっしゃることでしょう☆


岡田屋敷跡

岡田屋敷跡

岡田屋敷跡





           前を歩んだ人たちのことを


         日本で信仰の自由が認められるまでには、
         最後の条件を立てるような、最後の迫害がありました。
         そして殉教者たちの姿も。
         日本各地にその記憶が刻まれています。

         私はその土台の上に生まれたので何の苦労も知らないけれど
         前を歩んだ人たちのことを、知る努力をしていこうと思います。
         それが今を生きる上でも大きな力になるように感じるから。

         行き損ねた所もたくさんあるので、また行きたいな、和歌山♪










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