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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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サムライたちの遥かな祈り part1


一路、山形へ!

山形に到着


ここ数年私の中で恒例となっているのが秋の東北ツアー。禁教下、日本の各地で住む所を追われたキリシタンたちが最後に向ったのが道の奥、東北(みちのく)だったのです。

命がけで信仰を守り抜こうとした者たちの、その心の奥にあったものを知りたくて、今回は山形に向いました。夜行バスで到着した朝の山形は、清冽な風の中。肌寒さのおかげで気持ちも引き締まるような☆

山形城三の丸跡


今回は仙台の友人に紹介してもらった山形在住のクリスチャンの人と回ります。

その人の教会の友だちも来るというので、総勢12名が今日のツアーメンバー。ほぼ全員初対面で、ほとんどが学生だとか。

今どきの学生が殉教地に興味を持ってくれるのか不安ですが、これも天の配剤。きっと楽しくなるでしょう♪ 迎えに来てもらうまでの間、泊まる予定のホテルの裏にある山形城三の丸跡を見学。市内のど真ん中に土塁が残されているのは貴重かと。


三の丸跡

三の丸跡

三の丸跡

三の丸跡

早速出発 o(゜▽゜ヽ)(/゜▽゜)o レッツゴー♪

赤湯の金山


一緒に回る人たちと挨拶を交わし、殉教に関して夫が少し話して早速出発。

大きめの車2台に分乗し、夫と私はそれぞれの車でナビることに。今日は夫婦バラ売りです☆

米沢への途上、赤湯という所に寄りたくてフルーツロードをひた走り、着いたのがここ(←)。赤湯金山の跡です。

え、何もないですって? ―― 確かに。おっしゃる通りでございます<(_ _)>

ここが目的地


こちらの車が止まると、後ろをついてきた車から「Uターンしますか?」との声が。どうやら道がわからなくなって止まったのだと思われたようです。

そうよねえ、ほとんど車の通らないであろう山中の一本道で、人気(ひとけ)さえないんだから。

しかし、キリシタンがいた所ってこんな感じの所が多いのです。なんせ禁教下で、キリシタンがいることが発覚したら藩としても大変なのだから、痕跡が残っている方がまれ、というか奇跡なのです。

ここが目的地ですから・・・


「えっと、あの、道間違えたんじゃなくて、ここが目的地なの。あはは(汗)」

爽やかな笑顔(のつもり)で、道の傍らに建てられた解説板を指さす私。

見落とさなかったことを自分でも褒めたいくらい小さな、「通行止め」の看板っぽい解説板。ここにこの辺りに金山があったことが書かれています。この解説板の地図が破れてなかったらもっと遺構を探せただろうにちょっと残念。でも感謝です。


金山跡

金山跡

金山跡

金山跡

次は・・・?

南陽市宮内


再び車に乗ってもうちょっと南下。南陽市宮内の中心部を目指します。

暮らしやすそうな住宅地では、小学校の建設が進んでいます。小春日和とはこのこと、といった感じの暖かさの中、到着したのはここ(←)。

え、また何もないですって? ありますよー、川が。この辺りが殉教地だったと考えられます。

吉野川と橋


寛永5(1629)年、宮内村周辺で改心(信仰を捨てること)をしなかったキリシタン5人が処刑されました。4人が磔刑で、1人の男の子が斬首。

殉教地である北条郷刑罰場の場所は、吉野川に沿った小滝街道の宿場町の宮内周辺と推察されています。なので宮内の中心部から近く吉野川にぶつかった所に来てみたのですが、、、「ここだ」とも「そうでない」とも言い難い感じです。

連れて来た私が確信が持てないのだから、連れて来られた皆の方はもっとでしょう。同行してもらったのが申し訳なくなってきちゃいました (;´д`)トホホ


吉野川

吉野川

吉野川

吉野川

赤湯から古墳へ

赤湯駅

全体的に開発中という感じの漂う赤湯という町。どうしてかなーと思っていたらその象徴ともいうべき赤湯駅が目に入ってきました。ここは山形新幹線の停車駅の一つ。

だだっ広い敷地に新しい駅舎。とってもモダンな建築で、空港のように見えるほど。いかにも「観光で町おこしがしたい!」って感じです。

先行投資として建てられたであろうこの駅ですが、人影はまばら。まだその意図は叶えられていないようです。金山と温泉で有名な所にこの駅舎はないだろうと、私などは思うのですが・・・。

車窓から

ちなみにこの赤湯という町、新渡戸稲造も訪れたことがあります。よく当たる霊媒師さんがいて、その人に会いに来たのだとか。

クリスチャンの新渡戸稲造が、なんで霊媒師に会いたかったのかわかりませんが、きっと好奇心旺盛な人だったんでしょう。

アメリカ人の奥さんがキリスト教の中でも霊的なことに中心をおくクエーカー教徒だったことも関係があるかもしれません。

理論的に日本人のメンタリティを解き明かした「武士道」を著す一方で、人間の霊そのものにも関心を抱いていたということが興味深いです。

稲荷森古墳


どーんと青空に映える丸っこい塚。南陽市長岡に位置する古墳、稲荷森古墳です。

山形県では最大の前方後円墳で、日本海側にあるものとしては最北端に位置しているのだとか。

近くで古代置賜の郡役所(郡衙)跡が見つかっているので、この付近が置賜地方の中心地考えられています。

前方後円墳


一緒に車に乗っていた女の子が「ここ、遠足で来たことがある!」とうれしそうに声を上げました。

確かに遠足で来たら楽しそうな所です。お弁当広げて走り回りたいような♪

ようやく「来た」という感じのする場所に来られてほっとしました。今まであまりに何もない所ばかり行っちゃってたから ( ̄∇ ̄;)

ここ長岡の地名の由来は、三つの古墳だそうで、その一番北の古墳跡が南陽小学校、真ん中がここ稲荷森古墳。

南側を望む


そして三つのうち一番南側にあった古墳でキリシタンが処刑されたと言われています。

しかし下調べが十分でなかった私は、「古墳の南の丘が殉教地」と解釈していて、「前方後円墳」の「前方」を殉教地だと教えてしまいました。

一緒に回ってくれた皆さん、ごめんなちゃい<(_ _)>
この場を借りてお詫びをば・・・(ちゃんと謝れっ)

ヨハネ美濃の家族9人が処刑されたという殉教地はたぶんこの先に見える丘辺り・・・。
ちゃんと調べて、いつかリベンジだ!!


稲荷森古墳

稲荷森古墳

稲荷森古墳

稲荷森古墳

賛美♪


この時はここが殉教地だと思ってたので皆で賛美歌を歌おうということに。

南側を向いて歌ったので、方向だけは合ってます・・・。

歌い始めたら空が明るく晴れ渡ってきて、まるで神様が「よく来たね」と微笑んでくださっているよう。

私の勘違いで連れてきてしまったけれど、天は皆のことをかわいく思って暖かく包んでくれているように感じました ♪\(*^▽^*)/オーイエィ♪

米沢のキリシタン武士たち

米沢へ


古墳を後に、米沢に向います。今日のメインは米沢!
今回の旅行で一番行きたかった所が次の目的地、米沢の北山原殉教地です。

1601(慶長6)年、米沢三十万石の藩主となった上杉景勝は、多くの家臣らと共に米沢城に入りました。その1人が甘糟景継(清長とも)。上杉家譜代の重臣です。

景継の嫡男がキリシタン殉教者ルイス甘糟右衛門信綱(あまかす・うえもんのぶつな)で、彼が米沢でキリスト教を広める立役者となったのです。しかし徳川幕府の下ではキリスト教は御法度。棄教を迫られたルイス甘糟らは、命よりも信仰を選びました。

北山原殉教地


1629(寛永5)年1月12日、雪に覆われた米沢の北山原、糠山、花沢の3か所で、53人のキリシタンたちが処刑されました。

その3か所のうちルイス甘糟を始め最も多くの信徒が命を天に捧げたのがここ、北山原殉教地です。

身分の高い武士がその志のために死ぬだから敬うべきだと、役人は見物人に土下座をさせたと伝えられています。

188名の列福者のうちの53名


2008年に列福された188名のキリシタン殉教者の中で、最も多い53名がここ米沢で殉教しました。

無知な私は山形にキリシタンがたくさんいて、多くの殉教者を出したということを知りませんでした。

今回の調べてみただけでもざっと11ヶ所の殉教地が山形県内で見つかりました。当時のキリシタン人口も相当なものです。

しかもほとんどの人が禁教下で信じるようになったのです。つまり信仰イコール死、ということを覚悟の上で、それでも主を受け入れたということです。

ルイス甘糟の家にあったという石


よくぞそこまで・・・。明るい日差しの中にいるのに、すっと体の奥が寒くなるような気がしました。山形に来た意味がやっとわかりました。見るべきもの、感じるべきもの、悟るべきものがある。

今は季節は秋だけど、殉教の日は冬。厳しい寒さの中、白い晴れ着に身を包んだキリシタン武士らが粛々と雪の上を歩んでここまで来て、最後の祈りを捧げたのだと思うと、言葉が出てきません。

そんな過酷な時代によくぞそこまで・・・。米沢にいたサムライたちの祈りが、今日私たちをここに呼び寄せたのだとはっきりと感じました。


北山原殉教地

解説板

列福された

当時の様子

キリスト像

甘糟屋敷の石

石の解説

六地蔵


 米沢の教会♪


米沢興譲教会


今日車を運転してくれているのは山形大の米沢キャンパスの学生。なのでここから先はナビる必要もありません。ああ、感謝。行くべき所に行けますように☆

カトリック米沢教会への道すがら米沢興譲教会を発見。ここの牧師さんは地元で有名な人で、クリスチャンでない人も話を聞きたがるとか。

地図で見ると市内にはいくつも教会があります。そこそこ大きな街だから当然なのかもしれませんが、山形って仏教や修験道のイメージ(出羽三山とか?)があるので意外なのです (*゜。゜)!!


米沢カトリック教会


ほどなくして米沢カトリック教会に到着。
せっかく米沢に来たのでこの地で祈ろうと思って立ち寄りました。
カトリックの教会はいつも開いていて自由に祈っていけるので、旅先でよく寄るのです♪

神父様!


聖堂で祈り写真を撮っていると、およっ、神父様登場。運転手の彼が司祭館をピンポンして案内を請うたようです (⌒▽⌒;)

ちょっと祈ってすぐ行くつもりでしたが、これも御心かと思い拝聴。キリシタンの話に続いて神父様がおっしゃっていたのは、信徒の高齢化と減少について。

「皆さんみたいな若い方がいるといいんですけどね」と。私たちだって毎年歳はとっていくのだから(あ、私は若いとは言えないし)、新しい人が来るようにがんばらねばです。


教会案内

聖堂内

宣教師の手紙

キリシタン遺物

ちょっと観光地へ


米沢城跡へ


優先順位的には殉教地だけ先に回ってしまいたいところですが、効率を考えて松ヶ岬公園へ。ここが米沢城跡で、本丸跡は上杉神社となっています。

何かのお祭をやっていて境内は出店が軒を連ね、人だらけ。「観光」って感じです。人は自分の心を楽しませたいと、こういう所を訪れるんでしょうね。

私はどちらかというと静かでじっくり見られる時に来てみたかったです。ここに藩主がいて、キリシタン武士たちも出仕していたはず。彼らの足音に耳を傾けてみたかったのですが。。。

上杉神社


上杉神社に祀られているのは上杉謙信。クリスチャンとしては、「だから人間は神として崇めちゃだめだってば、もぉ」と言いたくなります。

さてこの米沢城ゆかりのキリシタンは蒲生郷安とルイス甘糟。上杉家が来るまでは、米沢は蒲生家の領地だったので、蒲生氏郷が家臣の郷安を米沢城主として任命し、この地を治めさせたのです。

またルイス甘糟の父景綱は藩の重臣だったので、神社の幟(のぼり)に名前が書かれていたりするとか。このお祭のせいか幟はみかけませんでしたが (>_<、)


お堀

上杉謙信を祀ってる

伊達政宗誕生地

上杉鷹山

札の辻から殉教地巡りへ

札の辻


上杉神社の人だかりを抜けて、江戸時代の街道筋へ。
「この辺だったはずだけど・・・」と高札場のあった辺りを見ていると、「戦国の杜」と書かれた看板を発見。もしやと思い車を下りて駆け寄ると、おおぅ札の辻跡と書かれてるではないですかっ!

札の辻跡


米沢の札の辻は見ておきたかったので、こんな風に再現してくれてありがとう♪(#^ー゜)vって感じです。

江戸時代幕府や藩のお触れ書きを掲示していた高札場は、人通りの多い街道の十字路に建てられているので、その場所のことを札の辻とよんでいました。

高札場にはキリシタン禁令の高札が掛けられていたのですが、米沢の高札は他とは違っていました。

米沢藩はキリシタンが多かったので、キリシタンを摘発して処刑していたら藩の生産活動に支障をきたすということで、キリシタンであることを申し出て棄教するならお咎めなしという法令が発布されていたのです。全国でも珍しいこのお触れ。それだけキリシタンが栄えていたという証です☆


高札場跡

解説板

現在の様子

現在の道

極楽寺


札の辻のすぐ近くにあるのが極楽寺。近くといってもこの辺りは道が入り組んでてわかりにくいです。城の防御も兼ねてお寺の町を作ったのかもしれません。

さてここ極楽寺は殉教地。1654(承応2)年、山浦玄蕃(猪熊光則とも名乗りました)がこの寺の境内で斬首されました。

たぶん公家でキリシタンで殉教者となったのは、この人だけだと思います。しかも藩主上杉定勝とは従兄弟同士。転べばお咎めなしの米沢藩なので、信仰さえ捨てれば何の不自由もなく暮らせたことでしょう。

公家というと弱々しいイメージがありますが、こんな人物もいたんですね。山浦玄蕃と共に2人のキリシタンも斬首されています。


山浦玄蕃供養塔

山浦玄蕃

上杉家側室の廟所

廟所説明

花沢の殉教地


続いて訪れたのも殉教地。花沢の殉教地とよばれる所です。ここ大満虚空蔵尊の敷地は、1629(寛永5)年に殉教した53名のうちの3名が処刑された場所ではないかと考えられています。3名は一つの家族で、棄教をすすめられても拒んだ者たちでした。

大満虚空蔵尊境内


「うわぁ・・・」
と声を上げて絶句する男子学生。

それが大げさでも何でもないことを私も感じました。ふっと日差しが翳ると、頭上の木々がざわめき始め、足元に冷気が流れました。

どこかから誰かに見られているような、妙な感覚。殉教だけでなくその他の理由による処刑も行われていたのかもしれない――そんなことを思いながら、早々と車に戻りました。


境内

境内の銅像

石造物

前の敷地

 糠山の殉教地での出会い

南原小学校


次なる目的地も殉教地。米沢の市街地を抜けて郊外に向います。途中で米沢駅と山形大学を車窓から見て、大学には後で寄ってみたいなと思いました。

なんせ今日の同行者12名のうち2名がここの現役学生。「行ってみなさい」という主のみこころを感じるのです。

彼らの日頃暮らすエリアを越えてしばらく行くと、南原小学校に到着。新しくて明るい雰囲気の学校です。

殉教地はいずこ?


目指す目的地はこの小学校に東側道路をはさんだ向かい側で、かつ常慶院に接している場所なので、ここ(←)なのですが、何と言うか、ただの畑? 

いや、畑というより空き地ですな。うーむ、何か残ってないのかなぁ・・・。カメラを持ってキョロキョロしていると、草の間に人影発見! 常慶院のご住職が草取りをしていらっしゃるようです。

キリシタンのことなんて聞いていいかしらんと思いつつ尋ねてみると、「こちらですよ」とご住職自ら案内してくれることに。感謝なのです (^人^ (^人^ ) 

糠山の殉教地


ここが糠山の殉教地。並んでいるのは首を切られたキリシタンたちの墓です。ちょうどこのように並んで座り斬首されたのだとご住職が教えてくれました。草に埋もれた石の一つ一つに彼らの姿が重なって見えてくるような気がします。

住職さんに案内してもらい


ここを訪れるのは私たちだけではないらしく、2008年の列福以来たくさんの人が来ているとのことでした。それで住職さんもすぐに合点がいって案内を買って出てくれたんですね。

シスターばかり200人(だったかな?)もバス何台かで来たこともあったとか。

ここ糠山で殉教したのは7名。糠山の信徒は4家族13名でしたが、6名の男性は北山原まで行って殉教。北山原まで行くことのできない女子ども7名が、武家(飯田邸)屋敷の庭で斬首されたのです。

十字架が刻んである?


住職の話によると、墓石にはキリシタンだということで十字架が刻んであるとのことでした。よく見ると確かに丸に十字が刻まれているようです。

7つの墓碑を一つ一つ見ていくと、赤い丸が刻まれたものも。キリシタンは「サンタマリヤ」を意味して丸を墓碑に刻んだという人もいますが、学術的な裏付けはなされていません。

住職が立ち去った後で賛美歌を歌ったら、彼らが聞いているような感じがしました。時を超えて「会う」ことができるのだと、ここに来て知ることができました。


常慶院

7つの墓碑

十字架

赤い丸

 山大よ、永遠なれ

山形大学米沢キャンパス


郊外から再び米沢の中心地へ。回りたいルートを全く邪魔せずに寄ることができました。山形大学米沢キャンパス☆ この素人目にも重要文化財とわかる立派な校舎は、米沢駅の駅舎のデザインにも用いられているそうな (・0・。)ホホーッ

車止めの柵に12羽の鳥


構内の一隅に集まるにはもってこいの場所があったので、みんなで祈りのひと時を持ちました。ほんとに有難いことです。初対面なのに共に祈れるなんて。なんかちょっと感動。隠れて泣きます (/ー ̄;)...

山形大工学部の学生は一年次だけ山形市の本部キャンパスにいて、その後米沢に移るのだとか。最初聞いたときは「非効率だなぁ」と思ったけれど、山形全体を引き上げるには、これが一番なのかもしれません。

帰ろうとしてふと見ると、車止めの柵に12羽の小鳥が。今日訪れた人数と同じです。偶然でもいいっ。この日を祝福する天のプレゼントだと思って感謝しよう♪


山大校舎

歴史的建造物

石碑

解説碑

迫害者と殉教者

林泉寺


ここからは歴史上の人物たちのお墓をめぐります。最初は林泉寺。

山大米沢キャンパスからほど近いこの寺に眠るのは米沢藩主の実母や側室と直江兼続などの重臣たち。米沢屈指の観光名所となっています。

ルイス甘糟の父、甘糟景継の墓もあるそうな。早速中へ進んでみましょう☆

甘糟景継の墓


本堂脇の墓域に入り辺りを見回すと、ありました!甘糟景継の墓。

格子窓付きの石の家のような特徴あるお墓で、中に万年塔か五輪塔のようなものが入っています。正確にはこれが墓碑なのかな?

甘糟景継は酒田城を始め数々のお城の城代にもなった上杉景勝の重臣。彼の嫡男がこの地にキリスト教を広めたというのは、本当に画期的なことだったのだと思います。

ちなみにこの甘糟景継は自殺したのだと伝えられています。キリシタンではなかったんですね。


林泉寺解説板

直江兼続夫妻の墓

甘糟景継の墓

甘糟景継の解説板

馬場町


林泉寺からルイス甘糟の屋敷跡までの道で通りかかったのが馬場ノ町通り。現在の住所は城南一丁目となっているようです。

この馬場ノ町通りにあったと推測される馬場町に住んでいたのがキリシタン殉教者西堀式部。彼もまた身分あるサムライでした。

ここからルイス甘糟の屋敷までは遠くありません。この辺りをキリシタンたちが行き来していた道のでしょう。何を考えて暮らしていたのか・・・。殉教の覚悟を胸に主を思って歩いていたのでしょうか。


馬場ノ町通り

現在の様子

現在の様子

現在の様子

ルイス甘糟の屋敷跡


城下を流れる堀立川を渡った所にあるのがキリシタン殉教者ルイス甘糟の屋敷跡。
今はお不動さんのお堂が建てられています。
殉教前に住んでいた屋敷と考えられているので、ここから雪を踏みしめて北山原に向ったのですね。

ルイス甘糟右衛門屋敷跡


ルイス甘糟は登城していない時にはしばしばキリスト教の教義を部下や家族にしていたようで、その話を人々は「殿談義」とよび喜んで聞いていたとか。

米沢には宣教師は常駐していなかったので、ルイス甘糟は信徒でありながら使徒的役割をも果たしていました。

ルイス甘糟は江戸でルイス・ソテロ神父から洗礼を受けたので、神父は仙台へ行く途中にルイス甘糟を訪ね、その屋敷に泊まったと記録されています。

ルイス・ソテロ神父というのは支倉常長をメキシコ経由でローマに連れて行った人物。そんな人がここに泊まっていたかもしれないなんて、ロマンですねえ・・・っていうか、もっと注目してもいいような...(*゜o゜)/ネェネェ


川と屋敷跡

お不動さん

解説板

無足橋

上杉家廟所


それにしても歴史が詰まっている街です、米沢は。そして市民が歴史を大切にしている様子も窺えます。ルイス甘糟屋敷跡の解説にもキリシタンのことがちゃんと書いてあったし。

さて今度はそのルイス甘糟らの処刑命令を出した藩主の墓所へ向かいます。上杉家廟所は別名、御廟所(ごびょうしょ)ともよばれ、多くの観光客が訪れる所。

上杉謙信の墓を真ん中に、初代藩主景勝、二代定勝ら歴代藩主の墓が並んでいます。

上杉定勝の墓


米沢での宣教は、日本各地で迫害が起こっていた1614(慶長19)年~1629(寛永6)年の15年間に行われ、城下に住むキリシタンは1000人を超えていました。

仏教が盛んな土地柄で、しかも一時期を除けば宣教師も住んでいなかったにも関わらず、これほどまでに信徒が増えたのは、ルイス甘糟を中心とするサムライたちが家臣や知行地の農民にも福音を伝えたから。

初代藩主上杉景勝の存命中にはキリシタンを擁護しましたが、跡を継いだ息子定勝の代になると、もはや幕府の圧力を抗することはできず、処刑を命じました。


上杉謙信廟所

左右が景勝、定勝

歴代藩主の墓

解説板

法音寺


歴史を見守ってきたであろう上杉家廟所の杉木立を抜けて参道へ。右手にあるのは上杉家の菩提寺法音寺です。

御廟所に比べるとこじんまりとした印象ですが、寺格は高いようです。門前に解説板も建てられています。

ここに立ち寄ったのはキリシタンで公家で殉教者でもある山浦玄蕃の息子が玄蕃の処刑後入った寺だから。命を長らえるためには、キリシタン宗を棄てたという証明のために仏門に入るしかなかったのでしょうね。


法音寺

解説板

門前の石仏

境内の解説板

 米沢のしめくくり

藩牢の跡


米沢で絶対に訪れたいと思っていた所は網羅できたので、そろそろ米沢めぐりを締めくくらねばなりません。

そうこう言っているうちに着いたのが米沢藩の牢、元籠町牢の跡です。現在は拘置所になっています。

1629(寛永6)年の殉教の際は、逃亡の恐れもなく武士の家柄の者も多かったので自宅から殉教地まで連行されたのですが、その後の迫害で捕らえられたキリシタンは藩の牢に入れられました。

わざわざ東京から来て米沢拘置所の写真を撮って帰る者も珍しいと思いますが、パチリ。あまりたむろしてても何なので早々に引き上げます (;´д`)

米沢城の遺構と公園


米沢最後の訪問地は粡町(あらまち)公園。一見何の変哲もない児童公園ですが、その一角は米沢城三の丸の遺構。直江兼続が築いたとされる土塁です。しかしそれが目当てで訪れたのではありません。

粡町公園


私たちが来たのはキリシタンに関係する場所だから。

「ここは昔キリシタンがね・・・」
と話しかけながら振り向くと誰もおらず、みんな児童公園の遊具に夢中でした ヽ(TдT)ノアゥゥ…

子どもの憧れ、大きな滑り台。ブランコにシーソー。うーん、楽しそうだねって、コラ!(思わずノリツッコミ)

若いって恐れを知らぬことなのね(しみじみ)。彼らが一通り遊び終わるまで待ってみました。現代の信仰者たちはとってもかわいいのです☆

晒し場だった?


若者「ここって何ですか?」
私 「殉教者たちの首が晒(さら)された晒し場だよ」
若者「晒し場!?」

大きな声で聞き返す若者。住宅街だからあまり大声で「晒し場」とか言わないようにしようね。さっき拘置所の前でも「牢屋!?」って言ってたけど・・・(;^_^A

北山原で処刑されたキリシタンの首は、見せしめのために「最上街道沿いの長町と越後街道沿いの粡町」に晒されたことがわかっています。

つまりこの辺りで道に接した小高い場所(よく見えるから)だったのではないかというのが私の見立て。粡町公園がその場所だという意味ではありません。

小高い場所に建つ五穀稲荷


公園の丘に建つ五穀稲荷。ここから公園側には滑り台で下りることができ、反対側には道を見下ろすことができます。

ここであったかは定かではありませんが、このような場所だったのではないかと考えられます。

遊具で遊ぶ現代の信徒たちを見ながら、昔のキリシタンたちもこんなふうに無邪気で、かわいらしかったのかなと思いました。

人は必ず死ぬことが生まれたときから決まっていますが、その行き先が天国であるときに、本当の無邪気さを持つことができるのかもしれません。


粡町公園

土塁と竹

石碑

公園敷地

滑り台

五穀稲荷解説

道を見下ろす

丘の上

 白鷹町へ

白鷹町


太陽は西に傾き、次第に夕暮れの風景に。あと何ヶ所か回りたいと欲張って、白鷹町に向かいます。

昔この白鷹町にもキリシタンが住んでいて、畑の中から小さな十字架が見つかったりしているそう。この「小さな」というところに心を惹かれるのでございます☆

禁制下に立派な十字架など望むべくもなく、信徒たちは隠し持てるサイズの十字架を握り締めて密かに主に祈りを捧げていたのではないでしょうか。そんな「小さな」ところにこそ真実さがあるように思えてならないのです。

称名寺


訪れたのは称名寺。白鷹町の古刹です。ここの本堂に近辺の畑から見つかった十字架が展示されているのだと何かの本に書かれていました。

しかし時間が遅くなってしまったせいか、本堂はクローズ。周囲の建物に声をかけてみましたが誰もいないようでした。ちょっと残念 (〒_〒)ぅぅ...

でもお寺の解説板にはちゃんとキリシタンや十字架のことが書かれていました。その現場に来られただけでも感謝なのです。


解説板

境内マップ

石仏

宝筺印塔

切支丹屋敷やーい


国道287号線を北上しながらキリシタンの痕跡を探します。確かこの道の佐野原地区に切支丹屋敷跡の標柱が建てられていると、これまた何かの本で読んだのです。

しかし本の情報が今もその通りであるかはわからないので、なくてもドンマイの精神でいかねばなりませぬ。

切支丹屋敷やーい。あるならこの目に留まっておくれ ( 」´0`)」ォーィ

切支丹屋敷跡!!



佐野原地区を過ぎようとする直前、左手に白い看板発見。
見間違いだろうと思いつつ、それでも確認だけでもしようと1人車を下りました。
走って戻って行って見ると、なななな、なんと!

「切支丹屋敷跡」の文字がっ!!

畑の中にある切支丹屋敷跡


私の興奮ぶりを見て、もう一台の車も停まって怪訝そうに下りてきました。そして看板を見て唖然。え、ここですか!?みたいな。

周りは見渡す限り山と畑。外灯さえなく、日が暮れたら真っ暗闇になるであろう、この山間部。

「史跡」とは書いてあるものの、その「跡」って何を指しておっしゃっているんでしょう?という感じで、「跡」らしきものはありません。この看板(こういうのを標柱というのか!)以外は。

なぜかこの標柱が貴重に思えて、みんな写真をじゃんじゃん撮ってました ( ̄∇ ̄;)

暮れゆく空


今は小松菜畑となっている「切支丹屋敷跡」

この標柱のおかげで見つけられたし、これがあるからキリシタンがいたということを後々までも伝えていけるのだと思います。

標柱を建ててくれた白鷹町教育委員会様、ありがとうございます☆

どんな人が住んでいたんでしょうね。当時は家族みんなで信仰を持つことが多かったから、キリシタン・ファミリーだったのかも。わずかだけれど彼らの足跡に触れられたことに、見えない御手を感じます。。。


切支丹屋敷跡

ここにいたんだね

天を見上げて

祈りながら

 本日最後の目的地は・・・

寒河江


白鷹町で終わってもよかったのですが、お願いして寒河江まで行ってもらいました<(_ _)>

本日最後の目的地は、やはり殉教地です。

1629(寛永6)年10月26日。この地域で宣教師の宿主となっていたディエゴ清一の一家7人が処刑されました。ディエゴとその父レオンは火焙りで、その他の女子どもは斬首でした。

寒河江刑罰城跡は六十里街道沿いの寒河江川の河畔だっただろうと推測されていますが、正確な位置はわかりません。


下を流れる

寒河江川

キリシタンは

ここでも祈った

ハードな一日を終えて


すっかり暗くなった山形の街に戻り  
みんなで熱く祈って一日を終えました。

ハードな一日だったけれど
何日分もの感動がもらえました。

今日は主の中にある喜びを
いろんな意味で感じることができました。

夫婦2人で回るのだっていいけれど
その土地の信仰者と行くと
また違ったものが見えてきます。

過去から現在へのつながりというか・・・
みこころって深いなあと(当然だけど^^;)感じるのです。

明日がまた佳き日となることを祈って
今日も感謝で ヾ(´○` )お♪( ´▽`)や♪(´ε` )す♪( ´θ`)ノみなさい♪


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