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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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サムライたちの遥かな祈り part3


 今日は山形市スタート☆

善龍寺


2日目のスタートはお膝元の山形市から。本日は総勢13名で回ります☆

私が行きたいと思っていた所が、集合場所のすぐそばにあることがわかり、みんなで朝日の中をてくてく。善龍寺に到着しました。

ここにキリシタンの墓がたくさんあると本に書いてあったので訪れてみたのですが、それらしきものは見当たりませんでした。昔の話なのかなぁ?

それにしても今日めぐるメンバー(全員クリスチャン)のほとんどが暮らしているこの町内に、昔もキリシタンが生活してたとは驚きです。不思議な縁を感じます♪


善龍寺

墓と書かれた墓

墓地の石造物

境内の石造物

盃山を見たくて


「盃山の麓にある馬見ヶ崎川の河原で昔キリシタンが斬首された」と伝えられているので、盃山を見たくて薬師公園に来てみました。

山形在住の人たちがよくバーベキューなどに利用する公園なのだとか。殉教地だと言ったらびっくりされました。

そうだよねぇ・・・普段自分たちが何気なく使っている場所でそんなことがあったなんて、信じられないよね。

この公園の横にあるのが盃山。道路で斜面が削られてしまっているので当時とは違っていそう。昔は川のすぐそばまで山が続いていたかもしれません。


薬師公園

斜面が削られた

盃山

馬見ヶ崎川原

反対側の河原


殉教地である馬見ヶ崎河原刑罰場についての他の記述を見ると、「城下の牢から2丁ほど北へ向った銅町の河原」とあります。

よくよく考えると川を渡る前の、より城に近い河原の方が見せしめとしての処刑が行われるにはふさわしいような気がします。

馬見ヶ崎川の反対岸に渡ってみると、草ぼうぼう。どこであったかは定かではないけれど、この川の岸辺であったことは確かなので、ここで祈って賛美歌を歌いました。


馬見ヶ崎川の橋

河原

草ぼうぼう

城への道

 門伝という地域

山形の空


出発する時東京では毎日30度を超えていたので、半袖しか持ってこなかったのですが、山形は朝晩冷え込んで大変な寒さ。みんな普通にコートを着ています( ̄◇ ̄;)

しかし今日は急に暖かくなって正に小春日和。天候で共にしてくださる主を感じたりして☆

さて次なる目的地は同じ山形市内の門伝という地域。ネットで見つけた「西山形の史跡案内」というページに書いてあったことを頼りに訪れます。このネット情報がガセでないことを祈りつつ、いざ出発♪


皆龍寺


訪れたのは皆龍寺。お彼岸なので墓参り客もちらほら。近づいて行くと、おおぅ、ちゃんと解説板がある!

読んでみると、ここは元々処刑場で、使われなくなったその跡地に皆龍寺が引っ越してきたのだとか。キリシタンのことは書かれていませんが、処刑場とお寺の関係がよくわかってグッドな説明です。

これがなかったら、お寺の境内でキリシタンを処刑したんだと勘違いしていたかもしれません;;
なるほど、処刑された者の中にキリシタンもいたということか。ふむふむ・・・( ̄∧ ̄)


皆龍寺境内


・・・ん!? 処刑された者の中にキリシタンもいたとなぜ言える? 

この辺りにキリシタンがいたのでなければこの推論、当てはまらなくない?

そう考えていると、マイ・ハズバンド(今日も別々の車)が渋い顔で寄って来て、「来る途中、向こうでキリシタン関係のもの見つけた」と囁きました。さすが気が利くねぇ♪ (なんで囁くのかわからんが・・・)


解説板

皆龍寺

本堂

境内

キリシタン地蔵


田んぼの中に伸びる一本の道。そのたもとには「キリシタン地蔵」の解説板が。

おお、これも「西山形の史跡案内」に書かれていました!

そっか、キリシタンがいたんだね、この地域に☆

どう見ても私有地だけど、解説板が建てられてるくらいだからいいんだろうと解釈して、進んで参ります♪


キリシタン地蔵


巨木の足元に、守られるように置かれた門伝のキリシタン地蔵。とても小さくて古いもののようです。

顔を最大限近づけて見てみましたが、キリシタンを連想させる文様も印もナッシング。かなり磨耗してのっぺらぼうになっているので、それで文様が判別できないのか、それとも元から普通の石仏だったのか・・・。

私の考えでは後者のような気がします。これが「キリシタン地蔵」とよばれる所以は、形によるのでなく、経緯(いきさつ)によるのではないかと。


鶏放し飼い


つまり普通の石仏だけれども、キリシタンの家にあった、あるいはキリシタンが何かの象徴として大切にしていた等々の理由があって、「キリシタン地蔵」とよばれるようになったのではないかと思うのです。

「キリシタンに関係するものだ」と代々語り継がれてきたことは、文献の裏づけがなくても史料ということができます。

言い伝えを風化させず、お地蔵さんに覆屋を作って守ってきてくださった、この土地の持ち主さんに幸多からんことを!


解説板

巨木の足元

覆屋で守られた

キリシタン地蔵

富神山


皆龍寺からも見えた富神山(とがみやま)。このピラミッドのような山にもキリシタンと関係があるという伝承があります。

富神山山麓の集落「門伝」に住んでいた外国人宣教師が毎月十日に山頂で火を焚いた。村人はこれを見て毎月十日になったことを知ったことから「十日見山」→「とかみやま」になった――というもの。

また皆龍寺にも「宣教師がここで処刑された」という言い伝えがあります。外国人宣教師ではなく、信徒の中で使徒的働きをしていた者ではないかと思うのですが・・・。

この狭い範囲内にこんなにもキリシタン伝承があるということは、やはりキリシタンがいて、おそらく殉教したのだろうと、ここに来て感じました。


 出羽三山越えます!

山形自動車道


さてここからは日本海側へと向かいます。
え、「昼近いのに今から?」だって?
あはは、時間は神様任せ。気にしないの♪
みこころ通りに行くのが一番のスケジュールだもん。

というわけで、山形自動車道で一気に日本列島を横断中。出羽三山(たぶん)も越えます。山また山、そして山・・・。「山形」が「山の方」からきていることを実感^^;

同行者の被災地証明のおかげで高速料金無料なのは助かります。今年東北は受難の年だったけれど、山形はあまり被害はなかったようです。仙台の友人たちも山形に逃れてきて、そこから東京に避難したのだとか。あの震災についてはあまりに被害が甚大で、何と言っていいのかまだ言葉が見つかりません。


道路に鳥居!


途中で寄りたい所があったので、高速を下りて一般道へ。

しばらく進むと道路に巨大鳥居が聳えてて、びっくり!!

一つじゃなくて、又あるから、2度びっくり!

天下の公道なのに、鳥居をくぐらないと進めないなんて、いかがなもんでしょ?

神道勢力の強さを物語っていると思うし、同時に宗教的な無知をさらしていると思います。鳥居を誰もが喜ぶと思ったら大間違いだっ。ぷんぷん。


黄金堂


高速を下りてまで立ち寄りたかったのは、この黄金堂(こがねどう)。キリシタン殉教者ルイス甘糟の父、甘糟景継が修復したお堂です。

1594(文禄3)年、景継が酒田城主を務めていた時に修復したので、キリシタンになる前(受洗は1610年頃)なので嫡男であるルイス甘糟も訪れた可能性は大です。

すでに成年に達し、自分の意志で人生を歩んでいた彼の目に、ここはどんなふうに映ったのでしょうか。


本堂

ご本尊

神道系石像?

「釜の神」!?

 鶴岡ってステキ。。。(*゜∇゜)ノ~キラキラ☆

カトリック鶴岡教会


再び高速に乗ってばびっと到着したのが鶴岡の町。

青瓦の門の向こうに見えるのは・・・教会の尖塔!

結婚式場じゃないよね? 
都会で見かける教会っぽいのって大体そうだけど;;

近づいてみて感激。門の柱に「天主堂」って書いてあります v(≧∇≦)v


天主堂!


ああ、天主堂! そうなんです。ここ鶴岡はかつてキリシタンが多くいた町。どこにあったかは不明だけど、当時の教会=天主堂だってあったかと。

禁教下だったので、教会といっても熱心な信徒さんの家で、宣教師が巡回するときに泊まったりしてたんだと思います。

家の教会に通っていたキリシタンたちは、いつかちゃんとした天主堂を持ちたいと考えていたはず・・・。その夢が今こうして叶っているんだから、感激してしまいます。駆け出したい気持ちを抑えつつ、カトリック鶴岡教会の門の中へ。まずは聖堂で祈りたいです♪


瓦の向こうに教会

教会

尖塔


聖堂の内部


聖堂の中は明るい気に満ちた世界。

畳の信徒席に赤い絨毯、その先に祭壇があります。

祭壇上部のキリスト像が指さすのは自分の心臓(聖心)。

目を閉じて祈っても、瞼の裏に穏やかな光を感じます。

黒い聖母


左手の側廊に置かれているのは黒い聖母。

国の重要文化財に指定されたこの像を目当てに訪れる人も多いようです。

素朴な顔立ちはどこかアジアに通じるような気が。

初めて見たのに、どこか懐かしいような、不思議な印象です。


キリスト像

黒い聖母像

バラ窓

色付けガラス

教会の庭にて


中庭で聖堂をバックに記念撮影&しばし休憩。明るい日差しを浴びながら、こんなふうに楽しく恵みに満ちてずっと暮らしたいなと思ったりして (*゜∇゜)(~∇~o)

鶴岡やこれから訪れる酒田など庄内地方とよばれる地域は、多くのキリシタンがいた所。この地域の指導者はマテオ孫兵衛で、彼の家が宣教師の滞在場所でした。

1626(寛永3)年、ディエゴ・デ・サン・フランシスコ神父はベルナルド・デ・サン・ホセ・オゾリオ神父と同宿コスメを伴い赤川を遡って鶴ヶ岡城下へ来て、マテオ孫兵衛の家でミサを立てました。その後サン・フランシスコ神父は酒田に戻りましたが、オゾリオ神父と同宿コスメは残って約1年ほど鶴岡で布教をしたのです。


 殉教地や受難地も・・・

内川


鶴岡の町を流れる内川は赤川の支流。酒田と鶴岡を結ぶ内川乗船地は大泉橋の辺りにあり、1689(元禄2)年かの松尾芭蕉もここから乗船し酒田に向かいました。

この交通路を長崎から酒田の港に上陸した宣教師たちも利用したと考えられ、清水(鶴岡と酒田の中間にある)のキリシタン指導者ジョアンは船かきだったので、彼がその移動を手伝ったことは間違いありません。

夜陰に紛れて船から下りた宣教師たちは、ここからマテオ孫兵衛の家に向ったのでしょう。孫兵衛の家は今のカトリック鶴岡教会のようにステキではなかったでしょうが、信徒たちには希望の場所。切なる思いで通っていたのだと思います。


内川

解説板

明治期の写真

遺構と大泉橋

鶴岡城下の牢


鶴ヶ岡城下の牢は、内川の端にある下肴町の萱場にあったとされています。地図を見ると肴町は内川の東側、お城に近い方にあたります。

つまりこの遊歩道の辺り(←)。肴(さかな)町ということで、魚のオブジェなども歩道に設置されています。

1629(寛永6)年、鶴岡城下でキリシタン取締りがあり、30人がここにあった牢に入れられました。牢ではひどい拷問が行われ、ヤコボ六兵衛が死亡。この人は大山(鶴岡から少しいった所にある)地域のキリシタン指導者でした。


内川

大泉橋

橋の欄干

中心部への道

殉教地は今


鶴ヶ岡城下の処刑地は鶴ヶ岡髪谷地刑罰場といわれ、内川端の萱場牢から、荒町、般若町などを経て清川街道を江戸に向う途中の赤川の渡し場付近にあったとされています。

それを現代の地図で追ってみると、こちら(←)となるのですが、草ぼうぼう。男性の背丈まですっぽり隠れる一面の草地です。

殉教地は今も誰にも顧みられない場所となっているんですね。殺伐と荒涼、この2つの言葉に、「見捨てられた」を加えるとこんな感じになるのではないでしょうか。


河原で賛美


誰からともなく歌い始めた賛美歌。風に乗って岸辺に歌が流れていきます。自分の心を慰めるように歌いました。

「殉教って何なんだろう?」
殉教地めぐりをしてもう何年も経つのに、又そのことを思います。

同じものを信じてはいるけれど、私には到底彼らを真似する勇気はないし、今はそんな時代でもない。私に何ができるんだろう・・・。


赤川の岸辺


目を上げると、「澄んだ」という言葉では足りないほどの澄みきった青。この空全体が神様の瞳のようです。殉教者たちの魂は、あの空の向こう、ずっと遠くだけれど、すぐそばでもある天の世界にあるのですね。

地上につながれた私たちは、悲観することなく主を思い、この体で賛美し、生きて、その中で悟ったことでもって自分の内面を作っていけばそれでいい。いつか内面だけになって、肉体を捨てていく時に、そのように生きて良かったかどうか、答えが出るのだと思います。

ならば、「殉教って何なんだろう?」―― そう思いながら生きていくこと自体が、意味があることなのかもしれません。彼らのことが知りたい、主がどのように思ってらっしゃるのか悟りたい、その思いが私を動かす限り、祈りながら探していきたいと思います。

最後は晴れ渡った気持ちで、澄みきった空気を深呼吸しました☆


 宣教師が上陸した地、酒田へ!

亀ヶ崎城跡


鶴岡を後に、一路酒田へ! 
古くから庄内地方の中心地として栄えた酒田は、長崎からやって来た宣教師たちが上陸した地です。

酒田湊(みなと)の豪商36人衆の誰かが手引きしたのだと考えられており、酒田には武士階級の者たちにもキリシタンが多くいました。

酒田のキリシタン武士が出仕していた亀ヶ崎城は取り壊され、現在は酒田東高校という、地元で一番の進学校となっています。


天空にあるかのように見える校舎


今回の旅行で一番のサプライズは、同行者の中にこの酒田東高校の卒業生が2名も含まれていたこと。山形で見送ってくれた女の子も含めたら3名です。

キリシタンがいた所から、今も信じる者が出ている。これを偶然と片付けるのも手ですが・・・、私の勘が告げています。意味があると!!

校舎の窓が大空を映して、まるで天に引き上げられたかのように見えます。祈りが時を超えて実を結ぶことを、この目で見、感じることができました☆

これは現地の人たちと一緒にめぐってみなければ発見できない恵み。この生きた恵みを感じ取れるようにと、今回このように回るよう導いてくださったのですね。

感謝プラス感動。すべての栄光を主が受けてくださいますように♪


酒田東高校

亀ヶ崎城跡

亀ヶ崎城跡

亀ヶ崎城跡

亀ヶ崎城の城下町


この亀ヶ崎城はルイス甘糟の父が城主をしていたこともある城なので、ルイス甘糟もここにいたことがあったと考えられます。

しかし酒田といえど、禁教下に迫害がないはずがなく、キリシタンが入れられた牢も城下にありました。その位置は「亀ヶ崎城内(城内というのは誤訳で、正確には城下)の鍛冶小屋の牢」と書かれていますが、調べきれませんでした(>_<)

鶴岡の同じ時期にキリシタン捕縛が行われ、酒田では10人が入牢しています。


 奉行所と殉教地

酒田奉行所跡


迫害側の史跡として外せないのが奉行所と殉教地。

酒田町奉行所跡は、これまた高校になっていて酒田商業高校といいます。この高校と道を挟んだ隣の秋葉神社が跡地の建物です。

この周囲も昔からの城下町のようなので、牢屋もこちら側にあった可能性が高いと思いました。酒田という町はそれほど大きな町ではないのですが、港を中心とした産業と、観光とが共に成功しているようで、車通りもそぞろ歩く観光客もかなり多いです。

地元民がいて助かるのはこういう時。一通や駐車スペースの情報はもちろん、無駄のないルート選択で完璧なナビゲーションをしてくれます♪

これも本日の感謝リストに加えるとしましょう (o^-^o)ノ


酒田商業高校

高校前

城下町

高校の周囲

山居倉庫


殉教地である酒田刑罰場跡の推定地は現在の山居倉庫。倉庫というからてっきり港にずらっと殺風景な倉庫が並んでいるかと思いきや、この辺り一の観光地です (゜0゜)!

駐車待ちが出るほどの車、アイス片手に歩く家族連れ。ここで「殉教地だよ」と教えて、「殉教地!?」と叫ばれたら、たまったもんじゃないので人混みを避けてと・・・。

「えっ、処刑場!?」
ちょっと脇に寄って話したのですが、声の方が大きくて意味無し・・・ ( ̄Д ̄;;


刑罰場の跡地


そう、どんなに観光地化されてても、たくさんの人が笑顔で通り過ぎて行ってても、どこかそんな感じが残っているから不思議です。

だからといって不吉だとか呪われてるとかは思いませんし、跡地を有効利用するのもいいと思うので、観光地化されても反発はしません。

ただ歴史を封印するのはよくないですよね。人は過去から学ばねばならないのです。無辜の人々を信仰のゆえに殺したことを忘れてしまうことは、現代と未来の不幸につながっていると思います。

苔に覆われた石垣が、昔ここに何かがあったことを示しています。大体私も初めて知ったことなので、人を責められません。もっともっと知っていきたいです。


酒田刑罰場は

奉行所から

新井田川を挟んだ

小川の傍らにあった

現在は

観光名所だが

昔の石垣と

巨樹が残る

 ああ、日和山 ъ( ゜ー^)♪

日和山へ


せっかく日本海側まで来たし、もう少し酒田湊の雰囲気を味わいたくて、港の見える場所に行ってみたいとわがまま言ってみました。

地元民2名の協議により、日和山公園へ☆
ここも名所なのか、マンホールに描かれています。刑場以外の観光地にも行ってみるのもいいですね。
それ以外は高校二つ行っただけだし... ( ̄ー ̄;


灯台


少し急な階段を上ると、素晴らしい眺望が!
酒田に来たら、是非ここにお越しやす(?)という感じです♪

港全体を見渡せるこの日和山は、かつて灯台があった山。昔から港に入る船の安全を守ってきたのでしょう。

ならば宣教師の手引きをしたキリシタンたちもここから沖の船を捜したりしていたはず。ここもキリシタンゆかりの地だということに気づきました☆


ハレルヤ!


「ハレルヤー!」
仲良く並んで港に向って叫ぶ低い声。男性たちです。

当時のキリシタンも、宣教師の乗る船がいつ来るかと、こんなふうに待っていたかもしれません。

彼らの後姿に、キリシタンの青年たちの姿が重なります。。。サムライや農民や商人もいて、職人もいたでしょうね。天国から微笑んで見ていてくれたらうれしいです♪


船!


公園の中には当時を再現した船もあります☆

2分の1の縮小版ではあるものの、日本海を航行していた様子が目に浮かんでくるよう。

空想だけでもしばらく遊んでいられますo(*^▽^*)o



河村瑞賢像

公園内の文学碑

海運で結ばれた町

そして歌う!


そして最後にやっぱり歌いました。
港の見える丘で、海と空に向って。それぞれの思いでもって。

酒田では10名の殉教者。2名は火焙りで8名は斬首。

鶴岡から酒田までの間にある旧大山城下と旧尾浦城下でもキリシタンが処刑されています。

信じて、愛して、祈って・・・。殉教が理想ではないけれど、そのように「生きられた」ことは幸せだと思います。


酒田の空


私も、自分の命でできるだけ、信じて愛して祈って、「生きて」いきたいです。

たぶんそれは、私の力では難しいと思うので、やはり主の加護を願う外ありません。

お粗末な私の人生の中で唯一よくやったことは、信仰を持てたこと。目に見えない存在の価値を最上位に置けたことです。

愚かで視野の狭い私が小さなつまづきでその灯りを落とさぬよう、今日のこの心をいつまでも忘れないでいたいです (*゜。゜)m。★.::・'゜☆カミサマ...


 そして新庄へ w( ̄▽ ̄;)w!!

新庄へ!


時刻は16時を回り、距離を考えると「後は帰るだけ」なのですが、ここからもうひと踏ん張りしたくなるのが、私の習い性。

運転手さんと同行者の皆々様にはとんだ迷惑をおかけしてしまうのですが、どうかご容赦を <(_ _)>ペコ

一度来ると感動するし、一方で見落としもあったことに気づくので、二重の意味で「またすぐ来たい!!」と思うのですが、全国に行きたい場所もあり、時間の制約もあるので、まず簡単には行けないというのが実情。なので一度行った時に頑張ってしまうのです。

それでもって今から向うのが新庄 (*゜v゜*)ウフ
ちなみにこの橋(←)の下を流れているのが最上川。庄内最上地方を回りながら、キリシタンと宣教師がこの川を使って行き来していたのだとわかりました。


新庄城跡


夕陽が落ちる少し前に到着したのは新庄城跡。お城はもうなく最上公園と名を変え、中には神社が鎮座しています。

新庄藩には藩士の中にもキリシタンが人いたので、彼らはこの城に出仕していたと考えられます。ここにもキリシタンのサムライがいたのですね。

その中の1人、新庄藩士綱木左源太盛之は1645(正保2)年、キリシタンだとして江戸送りになりましたが、12年後に許されて戻ってきています。


新庄城の堀


江戸送りになった者が生きて帰って来るなどということは、当時まずなかったことで、もちろん棄教すれば帰ることも可能ですが、言っても棄教しないからこそ江戸に送られたのですから、それもまずない訳です。

綱木盛之が戻って来られたのは、人の命を助けた功績によるもの。明暦の大火で江戸が燃え、小伝馬町の牢が焼け落ちて浅草に避難する際に、囚人一同を引率し、全員を仮牢ができるまで指導監督したのだとか。


新庄城の土塁


自分も囚人だったのに、よくそこまでできたなあと思う一方で、信仰があるから、やらずにはいられなかったのだろうと思います。

命を愛する主のことを思ったら、自分が犠牲になってできることなら、そうしようと決心するだろうと。

また自分を江戸に送られた、主の御意志を感じたのではないでしょうか。問いかけてきたことに答えが与えられた瞬間だったかもしれません。新庄にそんなキリシタンのサムライがいたことを、誇りに思います。私は山形の出身じゃないけど、日本人として。


石垣

絵図

戸澤神社

お堀

 もう帰りましょう...(; ̄ー ̄)

暮れてゆく空


暮れゆく空は息を飲む美しさ。まるで神様の見せるショーのよう。

このショーが新庄城跡を出るとすぐに始まったので、あの城跡は日を止めてギリギリ見せてくださったのねと感謝☆

そして・・・もう絶対に帰る時刻なのですが、ここで又ほんの少しのお願いを。「新庄藩の飛び地、昔の北口村も殉教地なので行きたいな。ほら、同じ藩だからきっと近くにあると思うの」

運転手と同行者の皆様、重ね重ねスミマセン。さて、その結果がどうなったかというと・・・(下に続く)


北口代官所跡


同じ藩でも飛び地なので遠いのなんのって。真っ暗になってようやく着きました。

写真を撮るとこのように(←)。何か写るはずのないものでも写ってないかしら・・・って感じの怖い写真。

写真だけでなく、そのもの自体怖いです、夜の建物って。しかも周りに人気(ひとけ)はなく、夏だったら肝試しにぴったりかも(やらないけど;;)。

みんな、怖いトコに連れてきてごめんねヾ(^-^;)ゴメリンコ
え、許してくれるの? ありがとー♪(言ってないし...)


河北町役場


昔北口代官所があった所は、現在の河北町役場。

役場には遊具のある公園や児童動物園も隣接していて、昼間に来たらとっても良さそうな所(普通、昼間に来る)。

1636(寛永10)年、北口代官所で10名のキリシタンが処刑されました。新庄城から離れているため、北口代官が当地にて「成敗」したと記録されています。

「成敗」という表現は、キリシタンは悪人で、正義によって裁かれるべきだということを前提としたもの。そんなふうに考えられていたんですね。


河北町役場の敷地

児童動物園

休み石

石の解説板

一日を終えて・・・

                                       
朝から晩までキリシタンの足跡を求めて     殉教地をめぐった一日。

スケジュールなどでは計画することのできない
旅程を組んでくださった主に感謝します。

ホテルに着いても興奮が冷めなくて
寝付けないかと思ったけれど
・・・すぐ寝付けました...ヾ(@゜▽゜@)ノヤッパノーテンキ?

この二日間に思いをめぐらすのは
帰りのバスに持ち越して今日はオヤスミナサイ。

ここまで読んでくださって
ありがとうございます ( ̄(エ) ̄)ノ” ++了└|力"├♪++



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