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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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 風薫る5月に part2

萩の町

  <主な訪問地>

 憧れの萩!

路地に咲いていた花萩・津和野といえば、山陰・山陽の旅行では一番の目玉。
とても素敵なイメージがあります☆
修学旅行で行ったことのある夫から話を聞いて、
いっそう憧れを掻き立てられていた私。

今日は萩、明日は津和野と、憧れの2つの町を訪れます。
この2つの町はともに、キリシタンの殉教地でもあるのです。
感謝して足を踏み入れたいと思います。

札場跡

札場跡


新山口駅から萩行き直行バスに乗り、1時間半。萩バスセンターに到着しました。山口県は南北に縦断するのに、意外と時間がかかりません。

萩の中心地にあるバスセンターは、観光にとても便利。近くに札場跡があるはずだけど・・・と思って歩き始めると、バスセンターの裏手に発見!

札場跡がしっかりと再現されています。しかもこの復元物、かなり大きくてびっくりです。当時もこんなふうに威圧的な感じで聳えていたんでしょうね。

聳え立つ札場

聳え立つ高札場


高札場を再現したものを目にするのは初めてなので、「こんなに大きくて怖い感じだったのか」と、やっと感覚をつかむことができました。

このように掲げられたお触書の中に、キリシタン禁制に関するものもあったのですね。

自らの信仰を邪教とされ、信じれば処罰されるとされた者たちの心中はどんなに苦しいものだったでしょう。心の中まで制約された時代の恐ろしさを思います。

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巨大な札場
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当時を再現
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説明板
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説明板

萩カトリック教会

萩カトリック教会


札場の迫力に打ちのめされ、引き締まった気持ちで向かったのは萩カトリック教会。

この日は日曜日。さすがに礼拝中にお邪魔はできないと思い、外から見るだけに。学校などのある静かな住宅街にありますが、建物はかなり大きいです。

敷地も広く、以前使っていたと見受けられる旧聖堂もそのまま保存されているようでした。殉教の地に今も多くの信徒がいるのを見て、うれしかったです☆

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萩カトリック教会
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礼拝中のようでした
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中庭の聖母

 風情ある萩の町並み

萩のネコ

萩の町並み


山口に政庁が移るまで、長くお殿様が住んでいた萩は、城下町の歴史ある町並みが保存されていて、歩けば素敵な風景に出会えます。

小川にかかる古く小さな橋、往時の賑わいを髣髴とさせる豪勢な商家の棟。春の花を咲かせる路地。
中には「地震の時大丈夫かな?」と心配になるような家も^^;

憧れていたのとはちょっと違う、素朴な風情がたまらなく良いです♪

常念寺

常念寺


小さな道を行きつ戻りつして、たどり着いたのが常念寺。このお寺の門は、もと聚楽第の裏門だったのを毛利輝元が豊臣秀吉から拝領して移築されたのだとか。

京都から山口まで移築しようだなんて、今では考えられない発想ですが、それくらい名誉なことだったんでしょうか。

自分が建てた聚楽第を甥の豊臣秀次に与え、その後秀次を高野山に追放して自害を命じた秀吉。聚楽第の解体で出たそんないわくつきの物件をもらって喜ばなければならなかったとは、不自由なものです。

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常念寺
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常念寺表門
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門の軒
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説明板

 松蔭が涙した野山獄

野山獄跡

野山獄跡


常念寺からほど近い場所に、吉田松陰が入れられたことがある野山獄の跡があります。

松蔭は下級武士の家に生まれ、養子に出されましたが、養父となった叔父から厳しい英才教育を受け才能を開花。11才の時には藩主の前で学問を講義するほどでした。

この獄に入れられたのは、ペリーの黒船に乗ってアメリカに密航しようとして失敗したからです。

岩倉獄跡

岩倉獄跡


密航の計画は松蔭一人でなされたものではありませんでした。松蔭にとって初めての弟子であり、志をともにする金子重之助(重輔)も一緒に行動していました。

捕らえられ萩藩に送られた2人は、身分の違いで、松蔭は武士用の野山獄、金子は足軽と農民用の岩倉獄に入れられました。

岩倉獄の劣悪な環境で、入獄して間もなく金子は重い病気にかかりました。松蔭は食を断ち、金子に家族に会わせてほしいと訴えるも聞き入れられず、金子は獄で亡くなりました。

獄の位置図

野山獄、岩倉獄の位置図


金子の死を聞き、松蔭は夜通しむせび泣いたといいます。金子は25才、松蔭は一つ年上の26才。日本のために海外に行って優れた技術を学ぼうとした若い志は、大きな代償を払う結果となりました。

その後松蔭は獄から出され、自宅謹慎を命じられます。松蔭が自宅で開いた私塾、それが松下村塾です。

一方アメリカまで乗せて行ってほしいと頼まれた側の、ペリーの思いはどうだったのか。密航者を受け入れることができなかったのは、幕府との交渉に支障が生じる恐れがあったからでした。

のちにペリーはこう記しています。
「この事件は、2人の日本人の激しい知識欲を示すものとして実に興味深かった。この2人の性格を見れば、日本の前途はなんと可能性を秘めていることか。なんと有望であることか」

密航は失敗し、金子は命を落としましたが、人々の心に何かを残したことが、その後の歴史に影響を与えて、流れを作り出していくのだと感じました。

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野山獄跡
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岩倉獄跡
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説明板
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金子重輔絶命の地碑

 御船倉跡から鶴江の渡しへ

旧萩藩御船倉跡


野山獄跡から北に進むと突如現れるのが、旧萩藩御船倉跡。以前は川に面していて、ここから船を出していたのだとか。

この建物、意外と大きくてびっくりです☆

藩って力があったんだなーと実感。
左の写真をポインタしていただくと、例によって153cmのネコ(私)が登場します♪

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御船倉跡
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ちょっと中が見える
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説明板
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周辺地図

鶴江の渡し

鶴江の渡し

御船倉跡から川岸に向かって行くとありました、鶴江の渡し!
ここは楽しみにしていた所の一つ。船頭さんが対岸まで無料で渡してくれるのだとか。
しかし人影が見えません・・・。

鶴江台をのぞみながら

対岸をのぞみながら


私「特別な日を除き年中無休って書いてあるよね? すみませーん!(対岸に手を振る)」
夫「あっ、これ見て。赤い布が巻いてある日は休みだって」

対岸の渡し場に結ばれた赤い布。すごくわかりにくいです・・・。てかGWだというのに臨時休業!?

対岸は鶴江台と呼ばれ、九州から流されて来た浦上キリシタンが上陸した場所なのです。十字架と記念碑が建てられているというので是非見に行きたかったのですが・・・。残念です;;

 松下村塾と長州ファイブ★

松下村塾への渋滞

松下村塾、松蔭神社への渋滞


嘆いていても仕方ないので、予定を変更してバス停「御船倉入口」から、循環バス「松蔭先生」に乗って松下村塾へ。

このバス、本数は少ないものの、100円でいろんな所に連れて行ってくれてかなり便利です。有名な観光地前の大渋滞もなんのその♪

貸し自転車で回ってる家族連れも多いけど、東西を制覇するのは相当体力いるだろうなぁ。

松下村塾

松下村塾


こちらが松下村塾。幕末から明治にかけての時代が注目されているせいか、結構な人混みです。

幽閉された吉田松陰が2年半の間開いた私塾が、明治維新の原動力となり、新政府の立役者ともなる若者を輩出したことは、確かにすごいことですね。

集まった若者たちも、わずか半径2キロほどの近所から集まった人たちだったというから驚きです。人間が何かを志し、やり遂げようとする力はものすごいものなのだと思い知らされます。

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松下村塾
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中の様子
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説明板
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ここで学んだ人々

幽囚室

幽囚室


松蔭が幽囚の身となって暮らした家も残されています。迫害を受けたことさえ、後には記念として残すようになるのだから、歴史は同時代だけで判断すると見誤りやすいということでしょう。

27才から2年半の間松下村塾で教えた松蔭は、その後再び捕らえられ、江戸小伝馬町にあった牢屋敷で命を閉じました。

享年30才。あまりにも熱く、駆け抜けるような生涯でした。自分のことより国のこと、公のことを考えて行動した人がいたことを、同じ日本人として誇りに思います。

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松蔭神社
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幽閉された家
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幽囚の間
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説明板

伊藤博文旧宅

伊藤博文旧宅


松下村塾から徒歩6分ほどの所にあるのが、伊藤博文の旧宅。隣には別邸が移築され、資料館として公開されています。

現在の山口県光市に生まれ、17才で松下村塾に入った伊藤博文は、倒幕運動に尽力し、明治憲法の起草に携わり、初代内閣総理大臣に就任した人物。

韓国の民族運動家安重根に暗殺されて亡くなりました。偉人と呼ばれる人は、功罪引き受けて生きていかなければならないものなのでしょうか。

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伊藤博文像
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年表
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旧宅
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中の様子
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別邸
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長州ファイブ
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説明板左
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説明板右

 夏みかんを横目に

萩の夏みかん

夏みかん


明治期に始まったという萩の夏みかん栽培。枝を押し下げるほどに実った夏みかんが、目に美味しいです♪
見ているだけで、すっきりとしたいい気分。

民家の夏みかんを横目に、再び「松蔭先生」に乗って向かったのは、萩市役所に近い中央公園。ここから歩いて観光します。

地元の人とバスに乗って揺られていくのは、なんともいえないいい感じ。日常のひとコマや地域ならではの会話などが耳に入ってくると、和みますなあ(o^-^o)

つつじ満開の中央公園

山形有朋像と中央公園


バス停「萩美術館前」で降り、中央公園に入って行くと、迎えてくれたのが山形有朋像。この人も長州なんですね。まるで偉人めぐりしているみたいです。

私の身長よりも高く盛り上がったつつじが満開で、広い公園にも負けない存在感。

とはいえ公園が目的ではなく、通過点。この先にあるお寺を目指します。ちょっと汗ばんできましたが o(゜ー゜o)。。。。てくてく

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萩美術館
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循環バス「晋作くん」
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山形有朋像
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長州藩医学館跡

伴天連墓

伴天連墓


中央公園の北に伸びる小道にある蓮池院。その境内には、伴天連の墓と伝えられる石を灯籠に仕立てたものがあります。

伴天連といっても、厳密な意味(伴天連とは外国人宣教師のこと)での伴天連ではなく、禁教時代の指導者(伝道師)のことで、この六角形の部分が墓だったということです。

萩市郊外にある紫福地域の石材で造られており、その地域は当時一村全体がキリシタンだったと伝えられ、今も多くのキリシタン遺物が残っています。

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蓮池寺
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伴天連墓
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ミサの手順?
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説明板

萩教会

日本基督教団 萩教会


蓮池院前の小道を抜けると、たくさんの観光客がそぞろ歩く萩の城下町に。土塀と旧家、そして夏みかんがいい雰囲気をかもし出しています。

その中にあるのが、日本基督教団の萩教会。日曜日なので結構中に人がいるように見えました。観光客が多く通る道沿いにあるので、教会に目を留めて見ていく人もいるのではないでしょうか。

そういう人たちの中の一人でも、地元に帰ってから教会を訪れるようになったらいいな☆

 城下町で明治維新の息吹を

木戸孝允旧宅

木戸孝允旧宅


GWの中日の上に好天に恵まれて、観光地に足を踏み入れるやいなや人混みに。ひっきりなしに出入りする観光客の合間を縫って、よくぞ撮れました左の写真!(緻密で忍耐強い夫が撮りました^^;)

木戸孝允は、明治政府のキリシタン弾圧を推し進め、浦上キリシタン処分のために長崎に行き、長崎府で最終会議をして、第一次として114人の流配を決めた人物。

流されたキリシタンたちが、生まれ故郷のこのすぐ近くで虐待され死んでいったことを、彼はどう思ったのでしょう。

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萩城城下町
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周辺地図
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木戸孝允誕生の地碑
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説明板

高杉晋作誕生の地

高杉晋作誕生地


木戸孝允誕生の地と目と鼻の先にあるのが、高杉晋作誕生の地。正にご近所さん (ノ゜⊿゜)ノ!!

駕籠かきの家に生まれて、内閣総理大臣までなった田中義一の誕生地もすぐそばです。萩の名産は夏みかんではなく、人ですね。

明治維新の息吹を感じさせる町だなと思いました。

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城下町の道
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観光客も多い
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倉も建つ
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夏みかん
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高杉晋作誕生地
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説明板
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田中義一誕生地
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説明板

 地味な所にも行きます。だって行きたいんだもの!

春日神社

春日神社


観光客の群れから離れ、静かな小道を行くこと7分。春日神社に着きました。

ここは萩に流された浦上キリシタンのうち、改心者(棄教した者)が、棄教のしるしとして参拝した神社。境内はきれいに掃き清められています。

浦上キリシタンが流配された二つの地、萩と津和野には、大きな違いがあります。 津和野では改心者と不改心者(信仰を捨てない者)とが助け合ったのですが、萩ではそうしませんでした。

春日神社社殿

春日神社の社殿


萩の改心者の中には進んで神社に参り、全員が改心(棄教)すれば長崎に帰れると思って、迫害者に「こうすればよい」と入れ知恵した者もいました。

改心者には改心したくなくてもやむを得ない事情があって表面上転んだ人もいたでしょう。しかしどこまで落ちるかは自分次第じゃないでしょうか。

私は完璧な人間ではないけれど、完璧にできないからといって全部を捨てたりせず、しつこく粘り強い者になりたいです。

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春日神社の鳥居
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境内
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説明板
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咲いていた花

萩博物館

萩博物館


様々なことを考えながら春日神社から萩博物館へ。
博物館前には広大な駐車場と遊歩道が造られていて、最近拓かれた土地のように見えます。

しかしこのように整備されたのはここ数年のことで、江戸時代この辺り一帯には毛利家に伺候する武家屋敷が建ち並んでいました。

そしてこの萩博物館がある辺りに、殉教者であるメルキオール熊谷元直の屋敷があったと伝えられています。

萩博物館の白壁

萩博物館の白壁


熊谷元直は、毛利輝元の父親の代から仕えてきた重臣。輝元の失政で領地が大幅に減らされ、萩に移る時にも、藩主を見捨てずについてきました。

輝元にとってよき相談相手であり、又頼りになる重臣であったので、萩城下の最も良い地域に屋敷を建てることを許されたのです。

しかし輝元の政権が安定するにつれ、元直の信仰が邪魔に見えるようになりました。元直は熱心なキリシタンで、信仰を捨てることだけは絶対にしないと明言していたのです。

萩博物館東門

萩博物館の門


藩内にキリシタンがいると幕府に糾弾されることを恐れた輝元は、元直にとある汚職事件の責任を負わせて(元直は汚職をした訳でもなく、混乱を収拾しようと仲介役に立っただけ)、切腹を命じました。

輝元の言いがかりが自らの信仰によるものだと理解した元直は、キリシタンとして死ぬことを望み、切腹ではなく打ち首になることを願い出、そのようにされました。

ここは元直の屋敷跡であり、殉教の地でもあります。1605年の8月のことだったと宣教師の記録に残っています。

 天樹院を見て、やっとブレイク

天樹院入口

天樹院


ちょうどいいタイミングでバス停「萩博物館前」にやってきた循環バス「晋作くん」。赤いボディーの「晋作くん」に飛び乗って、向かったのは天樹院。

熊谷元直に切腹を命じた萩藩初代藩主毛利輝元の墓所です。現在はお寺はなく、墓所だけが保存されています。

輝元は元直だけでなく、元直の子や孫、娘婿の天野元信など、(自分と縁続きの者一人を除いて)元直の親族全員を処刑しました。

毛利輝元の墓

毛利輝元の墓


鬱蒼とした並木の奥にある輝元の墓所。お殿様の墓でもこんなものなのかと思ってしまうような、とても素っ気ない感じの墓です。

人は死んだらこんなにも何も残らないものかと、ちょっとショックなくらいです。見に来ている人も数人いましたが、どの人も「これだけ?」といった雰囲気。

どんなに偉くても、人は死んだら何も残らないのに、それでも生きているうちは日々何かに心を奪われて、やらなくていいことをし、罪を犯して生きてしまうものなのだなと、そんなことを思いました。

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天樹院について
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説明板
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墓所の鳥居
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輝元夫妻の墓

やっと昼ごはん ε=( ̄。 ̄;A フゥ…

時刻は1時半。今日も遅めのランチとなってしまいました;;
お土産屋さんの2階にある食券制の食堂で、値段が手ごろなのがうれしいです。
喉の痛みに加えて頭痛も発症していたので、栄養補給&疲労回復せねばなりませぬ。
海鮮丼 から揚げ定食


 「私って体力ないよなぁ。うちに帰ったら Wii fit しよう・・・」
 そんなことを考えながら無言で食べていると、箸を止めた夫がなぜか照れ笑い。
  
 夫「なんかさー、全然忘れてたなあって・・・」
 私「?」
 夫「覚えてるつもりだったんだけどねー」
 私「??」
 夫「全然来た覚えがないんだよね、萩」
 私「えっ!?」

 修学旅行で来たと言っていた萩だけど、来てみて全く覚えがないということに気づいたらしく。
 あの、私に「萩っていいよ」って言ってたのは・・・?
 とりあえず来れたんだから感謝ではあります ( ̄Θ ̄;) 。。。

 萩城跡へ!

萩屋敷長屋

旧厚狭毛利家萩屋敷長屋


萩城跡に向かう前に立ち寄ったのは、旧厚狭(あき)毛利家の萩屋敷長屋。ここは萩城跡との共通入場券で入れます。

萩城跡の方は、跡というだけあって建物はないので、建物が再現されたこちらを見てから向かった方が、当時の様子を想像しやすいかもしれません。

昔この地域の門はこんな感じだったんですね。ちょっと刑場を思い出すようないかめしい雰囲気です。萩藩って質実剛健の気風あふれる藩だったのでしょうか。

萩城跡

萩城跡


お堀の向こうに小山のように見える萩城跡。今は石垣とわずかな遺構が残るのみです。往時はお殿様が住み、有力な家臣たちが行き来してたんでしょうね。

熊谷元直もその一人だったはずです。また元直が切腹を命じられる表面上の理由は、萩城の石垣建築に関する汚職の問題でした。

この汚職、石垣に詰める石を横領した人がいて、そのことを天野元信が見つけて、ちゃんと石を戻すように言ったところ、相手が逆ギレして天野元信を殺すと脅したことに端を発します。

遊覧船

お堀の遊覧船


有力武将が殺し合いをしては、藩の弱体化を招くと思った元直が、両者の仲裁に入ったのです。

しかし両者を宥め、落としどころを見つけるには時間がかかり、そのため石垣の完成が予定より2ヶ月遅れることとなったのでした。

そのことの責めを負わせるとして、毛利輝元は、仲裁に入っただけの熊谷元直と、汚職を正そうとした天野元信の一族を処刑。どう考えても、おかしいです。

理由をつけてキリシタンを処刑したことがはっきりとわかります。

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毛利輝元像
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輝元について
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萩城の説明板
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天守閣跡

お堀の鯉

お堀の鯉に餌をやる人々


緑のお堀に囲まれた萩城址は、観光案内でも定番の「絵になる風景」。鯉に餌をやる家族連れにも、和まされます。

しかし本来お城は軍事施設であり、政治的にも権謀術数渦巻く戦いの場。建物や石垣はそれを覆う包装紙なのです。

謀略の犠牲になったのはキリシタンだけではないけれど、ここで彼らが命が尽きるまで祈ったことが、この爽やかな「絵」の中に溶けているような気がします。

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石垣
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石垣と春の花
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防衛のための石段
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天守閣跡に立つ人々

 萩キリシタン殉教者記念公園

萩の町

公園までの道


今回は一番行きたかった場所が一番最後になってしまいました。萩最後の目的地は萩キリシタン殉教者記念公園。

流されてきた浦上キリシタンが閉じ込められ拷問を受けた屋敷の跡地が、殉教者記念公園となっているのです。そこには江戸時代に処刑された熊谷元直、天野元信らの碑も建てられています。

人気(ひとけ)のないひっそりとした道を行くと、歩くほどに時間をさかのぼっていくような、不思議な感覚に陥ります。

萩キリシタン殉教者記念公園入口

萩キリシタン殉教者記念公園


道が複雑で、おまけに案内標識がわかりにくかったので、結構迷って着きました。萩キリシタン殉教者記念公園。

白い十字架のついた門と、低い石垣。周りは夏みかん畑です。民家も所々あるものの、町外れの少し寂しい感じがする場所にあります。

キリシタンを閉じ込めるために、人目につきにくい場所を選んだんでしょうね。今もその雰囲気を感じられるのは、貴重なことかもしれません。
浦上キリシタンの碑

浦上キリシタンの記念碑


入口脇の小高い場所に熊谷元直と天野元信らの碑、公園の中央には浦上キリシタンの墓と記念碑が建てられています。

明治元年と翌年の2回に分けて、長崎の浦上から流されてきたキリシタンは300人。最初に来た66人の父兄らは、転ばないまま死亡した1人と逃亡者2人を除き全員棄教してしまいました。

翌年に来たその家族234人は、鶴江台に上陸し、ここにあった岩国屋敷で飢餓と拷問に苦しめられました。

ビリヨン神父が建てた碑

ビリヨン師が建てた碑


勘弁小屋に入れて20,30日もの間食べ物を与えなかったり、女性を裸にして寒空の下一週間放置したり、殴る蹴る打つはもちろんのこと、老人にまで鉄砲責めなどの責苦を与え続けました。

明治6年、ようやく長崎に帰れるようになりましたが、それまでに43人が死亡していました。最後まで棄教しなかったのは104人。数人の女性が気丈に頑張ったことが、全体を支える力となりました。

明治24年、ビリヨン神父が岩国屋敷のあった場所の裏手に地所を求め、建てたのがこの記念碑です。

神父は浦上キリシタンが船に乗せられて行くのを、長崎で涙を流して見送った人で、信徒達が自由になった後その功績を称え、犠牲者の冥福を祈って、各地に記念の十字架を建てました。

碑の土台には、岩国屋敷の石が使われています。

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熊谷元直について
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熊谷元直の碑
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天野元信の碑
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碑の横の墓碑
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浦上キリシタンについて
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碑と土台
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浦上キリシタンの墓
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キリシタン墓

十字架と青い空

十字架と萩の青空


十字架の向こうには、あまりにも青く、澄んだ空。主を信じた人々の、一点の曇りもない心のようです。

今日行きたかった場所はここで終わりなので、心ゆくまで祈ることにしました。

殉教の地を訪れるたび、「私がその時代に生まれてたらちゃんと信仰を守れたかな・・・」と思ってきましたが、そういう考えがどんどん遠のいていくように感じました。

今の時代に生きる者として、彼らのように生きていけばいいのだと。殉教の精神で「生きる」ことが、私にとって大切なことなんだと思いました。

 キリシタンに思いを馳せながら

清水屋敷の跡

清水屋敷の跡


萩キリシタン殉教者記念公園の左手は深野町公園、右手は一面の夏みかん畑です。

岩国屋敷の隣は、棄教者が住む清水屋敷があったということなので調べてみたら、このみかん畑の方が清水屋敷の跡地でした。肉体の地獄と、心の地獄が隣合っていたんですね。

前の道をまっすぐ行くとミドリヤファームがあり、道の反対側にあるバス停「ミドリヤファーム入口」から「晋作くん」に乗ることができます。

大通り沿いには殉教者記念公園への標識も出ているので、このバス停から目指せば迷わずに行くことができそうです。

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深野町公園
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夏みかん畑
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ミドリヤファーム
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殉教者公園への標識

新山口駅

新山口駅

萩バスセンターからバスに乗り、夕闇迫る新山口駅に到着。行きも帰りも口を開けて寝ていたためか、強烈に喉が痛いです。

「海沿いなのに萩って乾燥してたねー」などと言いながら、ホテルの部屋で案内を見ていると、「加湿器無料貸し出し有」の文字が。ありがたやー☆

今回の旅行、山口までの往復を新幹線、こちらでの移動を周遊券としたのですが、これが大正解でした。

周遊券は5300円もしますが、5日間使える上に萩行きのバスとかにも乗れ、更に新幹線の往復乗車券が割引に。長めに滞在する人にはおすすめです♪

ホテルでご飯。楽でいいっ!!

たくさん歩き回って疲れきっていたので、ホテルの一階にあるレストラン「さくら」で夕飯を。
定食が750円だなんて、ホテル内なのにリーズナブルでございます。
部屋からスリッパで行けるなんて、とっても楽チン。しかも美味しいです。

まだちょっとしか体験していないけど、山口ってサービス業の質が高いような気がします。
言葉や対応は都会っぽいのに、人の当たりがとても柔らか。こういう県民性なんでしょうか?
まだ二日目だけど、かなり好きです、山口。今までノーチェックでごめんなさい^^;
キリシタンのことを調べたくて来たけど、その地域の良さも感じさせてくださっているようです♪
ベーコン山芋炒め定食 かつおのたたき定食

今日も感謝!


加湿器をセッティングして、夫は一階の大浴場(男性用しかない@@;)へ。
私は部屋で足湯☆ 蒸気が喉にうれしいです。

萩で1個70円で買った夏みかん今まで素敵だなと憧れていた萩の町に、
一番思い出深くなるように訪れさせてもらったのだと
感謝しないではいられません。

行きたい所にぱっと行ける現代ですが、
自分にとって一番いい時に行かせてもらえることが
幸いなことなのだと思いました。

最後まで何も言ってなかったので、
夫はやっぱり萩に来たことがなかったのかな?
それとも全く記憶がないだけ??

中高生時代の修学旅行もいいけれど
大人になってからの修学旅行もいいかもしれません。
神さまが見せてくださる人・事・物を
大切に思いながら巡る修学旅行。

この年になっても発見と悟り、恵みがあることは
本当に幸せなことだと思います。
今日も一日感謝で! オ(o・0・o)ヤ(o・ェ・o)ス(o-ェ-o)ミィ(o_ _)o.zZ・・・・

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